太田述正コラム#13706(2023.9.3)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その23)>(2023.11.29公開)

 「・・・憲宗は全国の藩鎮の軍政改革にふみきった。
 もともと、節度使はいくつかの州を領有し、節度使がいる州(会府)の軍とそれ以外の州においた軍の指揮権を統括していた。
 そのため、節度使の軍事権は強大なものだった。
 憲宗は、節度使の軍事権を会府の軍隊のみに限定し、その他の州の軍は、その州の長官に指揮させた。
 つまり、節度使が直接指揮できる兵力を減らしたのだった。
 また、あらたに任命する節度使には文官をあてて任期を短くし、また、つねに宦官を監軍使として藩鎮におくりこんで、直接、皇帝に藩鎮の情勢を報告させるルートを確立した。・・・
憲宗のあとは、三男・・・がついだ。
 廟号を穆宗<(ぼくそう)(注50)>(在位820~824年)という。・・・

 (注50)795~824年。「820年・・・に父帝が宦官の王守澄によって殺害されると、王守澄によって皇帝に擁立された。史書によれば主体性に欠け、享楽に耽る生活を送っていた。このため穆宗の代に宦官による専横がさらに顕著化し、牛李の党争と呼ばれる官僚らの派閥闘争が激化した。自らの長命のために道士が勧めた金丹による中毒により、30歳にして崩御した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%AE%97_(%E5%94%90)

わずか4年の穆宗の治世であったが、その間におこなわれた長慶の会盟<(注51)>、そして三国会盟<(注52)>が、その後の東ユーラシアの歴史にあたえた影響は大きなものだった。」(247~249、255)

 (注51)「長慶会盟(ちょうけいかいめい)は、821年・・・に<支那>の唐朝とチベットの吐蕃の間に結ばれた会盟。会盟の内容から甥舅和盟とも証される。・・・
 823年・・・、唐蕃両国は会盟の内容、参加使節名及びその経緯を刻字した石碑を、唐蕃国境の日月山(ニンダーラ、グング・メル山)、そして両国の都城である長安とラサ(邏些)の3箇所に設置された。長安及び日月山の石碑は失われたが、邏些に設置されたものは現在のチベット自治区ラサ市大昭寺に現存している(唐蕃会盟碑)。
 碑文では、<漢>語では「大唐」「大蕃」、チベット語では「大中国(rgya chen po)」「大チベット(bod chen po)」等と明記され、両国が対等の立場で和平条約を締結し、国境について合意した旨が記されている。あるいは{<漢>語では「和同為一家」、チベット語ではとし<ママ(太田)>、}<漢>語では「社稷を一にせんと商議し(商議、社稷如一)」チベット語では、「国政を一つにしようと相談し(chab srid gcIg du mol nas)」、今後については、「蕃漢二國」すなわち「チベットと<支那>の二国(bod rgya gnyis)」が、相互に国境を犯すことなく、また兵を用いないことが強調されている。・・・」
 チベット亡命政権情報国際関係省の訳文では、
チベットおよび唐は、現在の国境を遵守すべし。国境の東はすべて大唐帝国に、西は大チベット帝国に帰す。これより後、いずれの国も兵を挙げて隣地を侵してはならない。
とある。
 中華人民共和国はこの条文の解釈を以下のように解釈し、チベット併合の根拠にしている。
 チベット人と漢人は、双方の皇室による通婚と同盟を通し、政治面では友好的な姻戚関係を固め、経済・文化の面でも緊密な関係を結び、統一国家建設にむけて堅固な基盤を築いた。
 このような<支那>側の解釈に対して、チベット亡命政府などは、まったくのでたらめであるとして反発し、唐と吐蕃は、それぞれ別の国として記載されていることを強調している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%85%B6%E4%BC%9A%E7%9B%9F
 (注52)「山口瑞鳳やハンガリーのJ・セルブらは1980年代にこの長慶会盟締結のときに、ウイグル帝国とチベット帝国との間にも講和が結ばれたとする仮説を提唱した。その後、森安孝夫がパリで敦煌文書の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言を発見した。また<支那>の李正宇がサンクトペテルブルクで敦煌文書断片Dx.1462から同様の内容の記録を発見し、三国会盟が締結されていたことが明らかになってきている。
 これらの研究を総合すると、820年代当時の唐・チベット・ウイグルの国境は、清水県の秦州や天水と、原州をむすぶ南北の線が、唐とチベットの国境線であった。また、東西に走るゴビ砂漠が、ウイグルとチベットとの国境であった。
 なお、ゴビ=アルタイ東南部のセブレイに、ウイグル語、ソグド語、漢文の三言語で記されたセブレイ碑文が現存しているが、森安は、このセブレイ碑文を、ウイグル側が三国会盟を記念して、建立したとしている。」(上掲)
 山口瑞鳳(1926~2023年)は、東大文(印哲)卒、仏留、東洋文庫を経て、東大博士(文学)、同大文助教授、教授、名誉教授、名大教授、退職。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%91%9E%E9%B3%B3
 森安孝夫(1948年~)は、東大文(東洋史)卒、同大院博士課程単位修得退学、金沢大文助教授、阪大文助教授、同大博士(文学)、同大教授、名誉教授、近大特任教授、神戸市外大客員教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%AE%89%E5%AD%9D%E5%A4%AB

⇒この三国会盟は、地理的に、概ね、吐蕃を間に挟んで成立したと見られることから、恐らく、「、ソンツェン・ガンポ、ティソン・デツェンとともに「チベットの<仏教>護教王」と呼ばれる」ところの、「吐蕃の王」の「ティツク・デツェン<(802~841年。在位:815~836年)>」のイニシアティヴで締結されたものと思われます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3 (「」内)
 唐は弱体化していたので渡りに船とこの話に乗ったのに対し、ウイグルは、「西域を巡って吐蕃と数十年に渡る戦いを繰り広げた。この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的に回鶻(ウイグル)軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利し<、>トルファン盆地とタリム盆地<・・の真ん中の砂漠地帯を自然国境として>北部が回鶻(ウイグル)の領国となっ<てい>た」ことと、「懐信可汗(在位:795年 – 805年)の代にマニ教が国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生し<てい>た」こと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB
そのマニ教が、「マニ教はゾロアスター教を母体にユダヤ教の預言者の概念を取り入れ、ザラスシュトラ・釈迦・イエスを預言者の後継と解釈。マニ自身も自らを天使から啓示を受けた最後の預言者(「預言者の印璽」)と位置づけた(後述)。そのほかにグノーシス主義の影響を受けた。ゾロアスター教の影響から善悪二元論を採ったが、享楽的なイラン文化と一線を画す仏教的な禁欲主義が特徴である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99
と、仏教と親和性があったこと、から、この話に乗った、のではないでしょうか。
 しかし、そんなティツク・デツェンが、「大論(宰相)バー・ギャルトレらに絞殺され、その兄弟<の>ラン・ダルマ王が即位する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3 前掲
という最期を遂げたことが如実に示しているように、吐蕃の内政は、唐同様、修羅そのものであり続けていたようであり、こんな会盟が成立したのは、歴史の気まぐれ程度に受け止めて置いた方がよさそうです。(太田) 
 
(続く)