太田述正コラム#13714(2023.9.7)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その27)>(2023.12.3公開)

 「・・・李克用は・・・契丹族の中で頭角をあらわしつつあった耶律阿保機<(注65)>と・・・雲州の会盟・・・をむすび、ともに朱全忠を攻撃しようとした・・・。・・・

 (注65)856~908年。「遼の建国者。・・・遊牧民と定住民を別の機構で統治する二重統治体制を作り、遊牧所領内にも多くの都市を建設した。また、遊牧国家でありながら農耕国家の機構を取り入れ、漢人を積極登用し、匈奴以来の遊牧国家機構をより強固なものとした。
 また、文化面では、漢文化を積極的に吸収し、920年には大小2種からなる契丹民族独自の文字「契丹文字」を制定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B6%E5%BE%8B%E9%98%BF%E4%BF%9D%E6%A9%9F

 李克用は、亡くなるまで、あくまでも唐の臣下の立場を崩さなかった。・・・
 <そ>のあとをついだ息子の李存勗<(注66)>(りそんきょく)も、・・・唐の・・・「天祐」の元号をつかいつづけた。・・・

 (注66)885~926年。「923・・・年に唐の副都であった洛陽で皇帝に即位した李存勗(荘宗)は、国号を「唐」と定めた。・・・後世の史家は唐と区分するため、一般に「後唐」と呼び習わしている。・・・
 父に劣らぬ猛将として活躍した。軍事面では李存勗は朱全忠亡き後の後梁を滅ぼし、さらに前蜀を支配下に置くなど、一時は五代でも屈指の大勢力を築き上げるが、政治家としての実力が皆無でその悪政により家臣の離反を招き、最後は自滅的な非業の最期を遂げた。・・・
 女子<に、>北宋の<太祖の>孝章皇后の祖母<がいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AD%98%E5%8B%97

 「五代」諸王朝のうち、<最初の>後梁とその他の・・・後唐・後晋・後漢・後周の・・・四王朝とには、大きなちがいがある。
 それは、<この四王朝>の建国者が、すべて沙陀の出身、あるいは沙陀軍団に所属していた、つまり沙陀化していた武人だったということである。・・・

⇒五胡十六国時代の始まりから五代十国時代の終り(304~906年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
までは騎馬遊牧民系諸王朝が時代の主導権を握っていた時代だということになりますが、考えてみると、宋(北宋)の時代だって、「五代十国時代の後晋によって遼に割譲された燕雲十六州」を宋はついに回復できなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%B6%E6%B7%B5%E3%81%AE%E7%9B%9F
のですから、北宋の時代も、そしてもちろん、金に支那本土の北部を奪われていた南宋の時代にも、元の時代にも、騎馬遊牧民系諸王朝が主導権を握っていたと言えるのであって、そうではなかったのは、明の時代(1368~1644年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E
の300年弱だけだった、ということに・・。
 漢人(漢人化した騎馬遊牧民を含む)は、なんと、惰弱であることでしょうか。(太田)

 <もう一つ、>非常に興味深い事実が<あ>・・・る。
 後梁、前蜀、楚、閩、南漢の王家の出自が、河南出身の農民やアウトロー、私塩の密売人などであったことである。・・・
 唐末の河南<等>に、・・・唐朝<による>・・・経済的搾取による民衆や兵士たちの不満・・・分子が存在し、その一方が「黄巣」となって反唐朝的動きをしめし、かたやもう一方は、「黄巣」と対峙するという形であらわれ、南中国の各地に勢力圏をつくりあげることに成功する。
 このような観点から見なおすと、「五代十国」というのは、北中国を支配した沙陀王朝と、南中国の各地に割拠した、唐末に河南<等>の民衆や軍人たちから生まれた王権、という二極構造になっているという見方もできるかもしれない。・・・」(330~331、333、336~337)

(続く)