太田述正コラム#13758(2023.9.29)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その20)>(2023.12.26公開)

 「・・・突厥第二帝国に取って替わったウイグル帝国は、740年代から840年までの約100年間、漠北に覇を唱えるのである。
 <その>第二代・・・可汗・・・の治世中の757年、セレンゲ河<(注46)>畔にソグド人と漢人を駆使してバイバリク城を築かせた・・・。

 (注46)ロシアではセレンガ河。「モンゴルと,ロシアの東シベリアを流れる川。・・・モンゴルでは最大の河川。・・・モンゴル北西部のハンガイ山脈から流れ出るイデル,チョロート,デルゲルムルンの各川がムルン南東で合流してセレンゲ川となり,東流,北東流したのちオルホン川を合せてロシアのブリヤート共和国に入り北流,ウランウデ付近で北西に流れを変えてバイカル湖に注ぐ。全長約 1000km (うちロシア領内を流れるのは約 400km) 。流域面積 44万 7000km2。河口に面積約 700km2の三角州が発達。 11月初旬~4月下旬は結氷。河口から約 880km上流まで航行可能。国境に近いモンゴルのスヘバートルまでは定期航路がある。流域ではコムギ栽培が盛ん。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%AC%E5%B7%9D-87921

 バイバリクとはウイグル語で「裕福な都城」という意味であり、漢籍では「富貴城」と伝えられており、これは遊牧ウイグル人のためではなく、外来のソグド人や漢人たちを住まわせるものであった。
 ウイグル帝国がかつての柔然・高車や第一・第二突厥と同じく、初めからソグド人の経済的・外交的手腕を利用していたことが容易に推測され・・・るのである。
 ただしここでも、ウイグルがモンゴル草原の中に都市を建設させたことと、遊牧文化に誇りを持つウイグル人自身の「定着化」とか「文明化」とは截然と区別すべきであることに注意していただきたい。
 さて、古代ウイグルが果たした歴史的役割として一般に最もよく知られているのは、唐代史を前記(初唐・盛唐)と後期(中唐・晩唐)に分ける分水嶺となった安史の乱の鎮圧にめざましい活躍をみせ、唐の延命に大きな功績を残したことと、マニ教を国教化したことの2点であろう。・・・

⇒ウイグル文字(注47)も挙げて欲しかったところです。(太田)

 (注47)「起源はローマ字アルファベットと同じく,シナイ文字から出ているが,直接にはネストリウス派キリスト教会が用いた,シリア文字の変形のソグド文字がもとである。 11世紀初めに契丹 (きったん) 人が外モンゴルを征服して可敦城に鎮州建安軍を建てると,隊商貿易に伴ってソグド文字が北アジアに伝わり,ウイグル文字となった。・・・
 資料として多く残っているのは、9世紀以降に中央アジアに移住したウイグル人が書き残したマニ教、ネストリウス派キリスト教や、とくに仏教の教典、そのほか各種の経済証文、契約書、公文書、手紙などである。・・・
 右からの横書きであったが,13世紀初めにモンゴル人がこれを採用して・・・左から<の>・・・縦書きに改め,モンゴル文字とな<り、>・・・草書体が盛んに使われるようになった。・・・
現在でも中国の内モンゴル自治区では使われている。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB%E6%96%87%E5%AD%97-33370
 「1599年満州人がこれをさらに採用し,1632年改良を加えて満州文字となった。・・・
 [モンゴル国内でのモンゴル語表記にはキリル文字を使用しているが、モンゴル国会は2020年3月18日、2025年までにモンゴル文字表記の併用を推進し、最終的にモンゴル文字への移行を目指す方針を決めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD
 「チンギス=ハンがナイマン王を従えたとき、捕虜とした臣下のウイグル人から、ウイグル文字を学び、モンゴル文字を制定したといわれている。・・・
 フビライ=ハンは1269年に公文書用としてチベット系のパスパ文字(パクパ文字)を制定したが、一般には普及せず、元の滅亡と共に忘れ去られた。
 モンゴル文字はその後もモンゴル語を表記する文字として使われ続けた 。20世紀に入り、1924年に外モンゴルにモンゴル人民共和国が成立(世界で2番目の社会主義国だった)した後、ソ連の影響が強まり1942年にモンゴル文字が廃止され、ロシア語のキリル文字が使われることとなった。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0403-001_3.html

 ソグド人の宗教は、紀元前後からイスラム化以前まで、ずっとゾロアスター教であった・・・のであるから、東ウイグルに入っていったソグド人だけが十中八九までマニ教徒であったとみなすのはきわめて不自然である。・・・
 この問題は、家畜の解体を常とする遊牧民族であるウイグル人が、仏教以上に徹底的に殺生を戒めるマニ教<(注48)>に改宗し得た理由とともに、いまだ学問上の謎として残されている。」(290~291)

 (注48)「仏教における出家信者・僧侶に相当するのが義者(エレクトゥス electus, 「選ばれた者」)であり、聖職者として五戒(「真実」「非殺生・非暴力」「貞潔」「菜食」「清貧」)を守り、厳しい修道に励むことを期待された。肉食は心と言葉の清浄さを保つために禁止され、飲酒も禁じられた。また、殺生に関して、動物を殺めることや、植物の根を抜くことも禁じられた。そして、メロン・キュウリなどの透き通った野菜やブドウなどの果物は光の要素を多く含んでおり、聖職者はこれらをできるだけ多く食べ、光の要素を開放しなければならないとされた。・・・
 俗人よりなる聴問者(聴聞者、アウディトゥス auditus )は、比較的緩やかな生活を許され、十戒を守ることを期待された。十戒はユダヤ教の「モーセの十戒」に似ており、俗人はそれほど強く戒律を守ることは求められなかった。聴問者は結婚して子をもうけることが許され、生産活動に従事して聖職者たちを支えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99

⇒「1240年、チベットはモンゴル帝国の侵攻を受けたが、当時ツァン地方を中心に一大勢力を持っていたサキャ派はモンゴルの懐柔を得ることに成功し、チベットの自治支配権を得た。さらに、クビライが即位すると、座主サキャ・パンディタの甥パクパは元朝の帝師として篤く遇されたが、・・・この時代に、チベット仏教はモンゴル諸部族に広く浸透した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
と、その好戦性が最高潮に達していた時に、元のモンゴル人は殺生戒がある仏教徒になったのですから、教義を聖職者と非聖職者とで切り分ける等によって、ソグド人非聖職者達だって何の問題もなくマニ教徒になれたのだと思います。
 また、東ウイグル人だけがソロアスター教からマニ教に切り換えたのは、マニ教が「マニ教はゾロアスター教を母体にユダヤ教の預言者の概念を取り入れ、ザラスシュトラ・釈迦・イエスを預言者の後継と解釈<し、>マニ自身も自らを天使から啓示を受けた最後の預言者(「預言者の印璽」)と位置づけ<、>・・・。そのほかにグノーシス主義の影響を受け<、>・・・<そ>の教団は伝道先でキリスト教や仏教を名のることで巧みに教線を伸ばした・・・折衷主義<的宗教>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99
であったところ、東ウイグル人地域は、当時、仏教が盛んだったので、彼らは、ゾロアスター教よりも仏教と親和性の高い、というか、仏教からの風当たりの弱い、マニ教に乗り換えたのではないでしょうか。(太田) 

(続く)