太田述正コラム#13788(2023.10.14)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その10)>(2024.1.9公開)

「・・・1973年に長沙馬王堆から出土した帛書<(注21)>には、2種類の『老子』に加え、黄帝の名のもとに思想を語る「黄帝四経」<(注22)>と総称される4篇の書籍が記されており、黄老思想<(注23)>の内容が明らかになった。

 (注21)「帛書(はくしょ)は、古代中国などで製作された帛と呼ばれた絹布に書かれた書。絹布に書かれた文字、及び、絹布の両方を指し、文字のみを指す場合は「帛書文字」、書写材料として見た下地については「帛(はく)」、若しくは「絹帛(けんはく)」という。絹帛は「細かく織った絹」を指す。
 文字ではなく、図が描かれたものは帛画とされ、厳密には区別されるが、稀に一部の帛画も帛書と表記する例も見受けられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9B%E6%9B%B8
 (注22)「主な内容は道家と法家が混ざった政治哲学・法哲学(黄老思想・刑名思想・道法思想)だが、墨家的な尚同尚賢思想、兵家思想、数術的な陰陽刑徳思想、天人相関思想、道や天に関する宇宙論、黄帝とその臣下や蚩尤に関する<支那>神話の要素も含む。
 本書は題名通り黄帝に仮託されている。実際の作者は不詳で、成立年代・成立地域についても諸説ある。・・・
 1973年出土の馬王堆帛書は、約30篇の多分野の書物からなる。その中には2つの『老子』異本があり、「老子甲本」「老子乙本」と命名された。「老子甲本」の後には『五行』『九主(伊尹九主)』『明君』『徳聖』の4篇があり、「老子甲本巻後古佚書」と総称された。一方「老子乙本」の前には『経法』『経(十六経・十大経)』『称』『道原』の4篇があり、「老子乙本巻前古佚書」と総称された。
 当時の学者・唐蘭は、この「老子乙本巻前古佚書」を『漢書』芸文志の「黄帝四経四篇」と同定した。この同定は当時から異論もあるが、主流の説となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B8%9D%E5%9B%9B%E7%B5%8C
 (注23)「戦国時代末期から漢代初期に流行した、道家または法家・雑家の政治思想である。黄老の学、黄老の術、黄老道ともいう。黄帝と老子に仮託されることからこのように称される。・・・
 黄老思想は前漢前期に流行し、曹参<(前出)>・汲黯・田叔らによって伝えられた。とりわけ、文帝の妻の竇太后が黄老の書を好み、子の景帝・孫の武帝の治世初期まで黄老思想にもとづく政治が敷かれた。その間の時代は「文景の治」と呼ばれる黄金時代と重なる。
 しかしその後、竇太后の死を契機として黄老思想の支持勢力は衰退し、公孫弘に代表される儒者にとって代わられた。ただし、『老子』はその後も重んじられ続け、劉向や馬融による注釈や『易』との接近を経て、後漢末期から三国時代には初期道教と玄学の経典になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E8%80%81%E6%80%9D%E6%83%B3
 「竇皇后(とうこうごう)は、・・・清河郡観津県の人。・・・
 元は呂后の侍女であり、竇姫と呼ばれた。呂后より他の四人とともに代王劉恒に下賜した。 代国に到着した竇姫が劉恒の寵愛を独占し、二男一女を産んだ。
 前180年に呂后が死去すると、呂氏の乱を経て劉恒(文帝)が新皇帝として擁立されることとなった。文帝の嫡出の皇子4人が早世したため、前179年に竇姫所生の劉啓(後の景帝)を皇太子に立てた。やがて竇姫も皇后となった。・・・
 前157年に文帝が崩じて景帝の即位に伴って皇太后となった。・・・
 前141年に景帝が崩じて武帝が即位すると、太皇太后となった。即位当初の武帝が幼少のため、竇太皇太后が実権を握っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%87%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%BC%A2%E6%96%87%E5%B8%9D)
 「灌津県(かんしん-けん)は、・・・現在の衡水市武邑県東部に相当する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%8C%E6%B4%A5%E7%9C%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A1%E6%B0%B4%E5%B8%82 ←衡水市武邑県

⇒竇皇后は、広義の楚の出身ではないけれど、典型的楚人であると私が見ているところの、夫の文帝(注24)、によって感化されたのでしょう。

 (注24)「文帝の基本的な政治姿勢は、高祖以来の政策を継承するもので、民力の休養と農村の活性化にあった。そのため、大規模工事は急を要するものを除き停止している。宮中で楼閣を設けようという計画が出された際にも、その経費が中流家庭10戸の資産に相当すると知って中止を命じたり、自らの陵墓を高祖や恵帝に比べて小規模なものとしている。また、文帝の在位期間は減税が数度実施され、一切の田租が免除された年もあった(ただし他の税や労役については実施されていたと考えられる)。法制度の改革では、斬首・去勢を除く肉刑の廃止を行っている。
 生母である薄氏に対しては孝行を尽くし、自ら毒味役を務めたりと孝行な皇帝であるとして、後世二十四孝に数えられた。文帝は薄氏を尊重し、冤罪により周勃が逮捕された際に薄氏から叱責を受けると周勃の釈放を命じたり、臣下の諫言にもかかわらず計画していた匈奴との戦争を薄氏の説得により中止している。
 自らの擁立者でもあり、同時に政敵でもあった諸侯王に対しては穏便に接し、本来ならば無嗣断絶になる場合、また謀反を起こして廃立される場合にも、皇帝の恩恵という名目でその血縁者を求め、領地を分割させて諸侯の地位を保全させる努力を払っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)

 「黄帝四経」は、これを法家の著作と位置づける研究もあるほど、法と刑とを重視する。
 ただし、法の権威の源を「道」に求め、法を自然法的に考えて実定法に限定しないことや、「道」には実態がなく無形であるが、「万物」が発生する源であるといった道家の思想が含まれることに注目すると、法家の著作とすることは難しい。・・・
 司馬遷は、『史記』において、老子韓非列伝として老子と韓非を同じ伝に立てる。
 そして、その中に、荘子[道家]・申不害<(注25)>[法家]の伝記を附す。

 (注25)しんふがい(?~BC337年)。「申不害は身分は低かったがその才能を見込まれて師匠に推挙され、<韓の>昭侯に拝謁した。昭侯は弱国である韓をよく治めるための方法を問うた。すると申不害は「君たるものよく為さじ、よく知らず」と答えた。
 法を整備し公平な論功行賞を行えば国は自然に治まると説いたのである。こうして、昭侯は申不害を宰相にした。
 韓は戦国七雄のうち最弱国で、常に隣国の魏と秦に怯えていた。だが、申不害が宰相の間は国勢は安定し、領土も少しずつ拡張した。
 申不害の法律至上主義の考え方は韓非に継承された。その思想は始皇帝によって国政に用いられ、秦は大陸を統一した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E4%B8%8D%E5%AE%B3

 道家と法家とは、伝を同じくすべき同系統の思想と把握されていたのである。
 司馬遷は、韓非の学問について、「刑名・法術の学を好んだが、そもそもの根本は黄老思想に帰一する」と総括している。

⇒申不害や韓非子もまた、韓という、百越(越族)と華夏民族との境界地域の諸国・・広義の楚・・、の人間として、韓の最大の「敵国」たる秦を念頭におきつつ、戦国時代にふさわしい、しかし楚的な思想を確立しようとした結果が法家の思想だった、と、総括すればよさそうですね。(太田)

 司馬遷の生きた前漢の武帝期には、法家と道家を折衷した黄老思想が、いまだ国家の中心的な思想であった。
 その一方で、儒家の台頭も、この時期には始まっている。
 黄老思想は、前漢初期の現実を強く反映したものであった。
 その現実は、匈奴の脅威と諸侯王の存在による皇帝権力の未確立とまとめられる。
 秦の滅亡後、楚漢の争っている間、かつて秦の蒙恬に討たれ、オルドス・・・から駆逐されていた匈奴は、勢力を盛り返していた。
 また、郡国制下の諸侯王は、強大な権力を持ち、漢帝国は、唯一無二の公権力ではなく、数多の諸侯国の中で最大のものに過ぎなかった。
 こうした前漢初期の現実が、他者と争わず、ありのままの現実を受け入れる黄老思想を為政者に受容させた。
 「黄帝四経」には、道家の見地から法家の政治を基礎づける道家・法家の折衷思想が記され、文帝が好んだ、無為でありながら法律も尊重する政治を正統化する。
 黄老思想により前漢は、戦乱による人々の疲弊や強力な諸侯王と匈奴の存在という、急激な改革を回避すべき状況を「無為」として正統化し、国力の回復に努めたのである。
 黄老思想は、疲弊した前漢初期の国家と社会に休息をもたらす有益な思想なのであった。」(47~49)

⇒同感です。(太田)

(続く)