太田述正コラム#13790(2023.10.15)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その11)>(2024.1.10公開)

 「・・・呉楚七国の乱<(注26)>の後も、郡国制は存続したが、諸侯王は直接領地を統治できなくなった。・・・

 (注26)「文帝から景帝に代替わりしてからは、景帝は最側近の御史大夫となった鼂錯の言を入れ、・・・諸侯王の力を押さえ込むため、些細な罪など口実を設けては領地を次々に削り始めた。・・・
 呉王劉濞は紀元前154年に、呉にも領土削減の命令が届いたことをきっかけとして、反乱に踏み切った。これに楚・趙など六王が同調して反乱に加わった。呉も合わせて七国となったため、この反乱は後に「呉楚七国の乱」と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%A5%9A%E4%B8%83%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1
 鼂錯(=晁錯=ちょうそ。?~BC154年)。「反乱軍は晁錯のことを「君側の奸」とし、これを倒して朝廷を清めるとの名目を立てていた。君側の奸とは、君主の側で君主を思うままに操り、悪政を行わせる奸臣という意味であり、この時に限らず、反乱軍が直接君主を非難したくない時に何度となく使われる論法であり、名目以上の意味はなかった。しかしこれを、袁盎<(えんおう)>に付け込まれることになった。
 袁盎は景帝に直接面会し、反乱軍を抑える策があると言い、晁錯を含めた朝臣全てを下がらせてから奏上した。・・・袁盎のいう策とは、反乱軍が君側の奸と称している晁錯を殺せば、反乱軍の名目がなくなるというものである。景帝もそれほど事がうまくいくと思ったわけではないが、一つの方策ではあると考えてそれを許可した。・・・
 晁錯を死に至らしめた袁盎ものちに、梁王劉武(景帝の同母弟)が帝位を継ぐことを止めさせることを景帝に強く諫言したために、劉武の恨みを買って、刺客に暗殺された。・・・
 呉楚七国の乱は、晁錯の死でも収まらなかったが、周亜夫の活躍などにより3ヶ月で鎮圧され、その後は晁錯が志向したように、諸侯王の権力は大幅に削られていった。・・・
・皇帝や実権者の個性に大きく振り回される政治
・外戚と宦官の専横
・抑商政策による経済の衰退に起因する財政悪化
・密告社会化による法への不信と、理不尽にも罪に落とされた者たちによる匪賊の形成
といった前漢の衰退原因は、晁錯により作られたという見方もできる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%81%E9%8C%AF

 王国は、中央から派遣される相が、郡に派遣される守と同じように直接支配することになり、諸侯王は単に領地から上がる租税を受け取るだけの存在となった。
 ここに郡国制は、事実上の郡県制へと移行したのである。
 反乱の中心勢力となった呉・楚は、かつて中華を統一した秦を滅ぼした旧楚国に当たる。
 その勢力に、旧秦を郡県制で統治していた「漢家」が、勝利をおさめた。
 これは、文帝の寛容な統治で「漢家」の国力が回復したこと、および景帝の諸侯王の勢力削減策により、諸王侯の権力が弱体化していたことの証である。・・・
 こうして「漢家」の支配体制、すなわち旧秦の中央集権的な支配が中国全土に拡大していくことになり、氏族制の残存する地域は減少していくのである。・・・

⇒漢家についてはそう言えても、一般的にそう言えるかどうかは別問題であり、著者は舌足らずの感があります。(太田)

 武帝<(注27)>は・・・即位当初は、竇太皇太后に権力を掌握されていた。・・・

 (注27)劉徹(BC156~BC87年。皇帝:BC141~BC87年)。「景帝の九男。・・・武帝の在位は54年に及ぶ。<支那>歴代皇帝でこれを上回るのは清の康熙帝・乾隆帝の62年と60年の二例のみである。・・・また「秦皇漢武」といい、秦の始皇帝との共通する部分が多いと評される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
 生母の王皇后は槐里で、秦時代の首都の咸陽の近く。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%BC%A2%E6%99%AF%E5%B8%9D)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%B9%B3%E5%B8%82

 <彼女>が崩御する・・・前135<年、>・・・親政を開始した・・・武帝は、<その翌年、>・・・匈奴との戦争<を>始<め>た。

⇒旧秦地区出身の皇后によって育てられ、黄老思想にハマっていた摂政の皇太后を疎ましく思っていたらしい、武帝、が、いかなる思想を身に付けることになったか、ですね。(太田)

 そうした中、武帝は、・・・呉楚七国の乱を機に弱体化していた諸侯王の領土削減に手をつける。・・・
 推恩の制と酎金律(ちゅうきんりつ)<だ。>
 前127<年の>・・・推恩の制<の>・・・「推恩」とは、本来領土の継承権を持たない諸侯王の嫡子以外の子弟にも、「親親の恩」を推すことを許す、という意味である。
 すなわち、諸侯王の国を嫡長子だけではなく、多くの子で分割相続することを許したのである。・・・
 <その結果、>諸侯王の子弟は、多く一段格下の列侯となり、それぞれの領地を縮小させたのである。」(54~57)

(続く)