太田述正コラム#13794(2023.10.17)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その13)>(2024.1.12公開)

 「さらに、周辺諸国の王権が、中国から冊封[王などに封建されること]を受け、自己の周囲の競争勢力に対する自らの正統性の保障とする際には、冊封の条件として「正朔<(注33)>を奉ずる」[中国の天子が定めた元号と暦法を用いる]ことが求められた。・・・

 (注33)「1 《「正」は年の初め、「朔」は月の初めの意》正月朔日。1月1日。元日。2 暦のこと。3 《古代中国で、天子が代わると暦を改めたところから》天子の統治。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E6%9C%94-545078#

 こうして元号は、天子が時を支配するだけではなく、それを用いる空間をも支配することの表現となった。・・・
 ここに漢は、「漢家」を超えて一つの「天下」の支配者となり、時空を支配する天子を戴く「漢帝国」へと変貌したのである。
 武帝は、元号の制定により時空を支配するだけでなく、皇帝の支配が一人ひとりに直接及ぶことを目指した。
 始皇帝も理想とした、こうした支配を個別人身的支配と呼ぶ。・・・
 そのための政策の一つが、二十等爵<(注34)>制・・・である。・・・

 (注34)「秦・漢代に行われていた爵制。・・・
 爵を得ることで得られる特権として、封邑(領地)<(民爵の場合は田宅支給)>・<特別な時のみ行われる>免役・罪の減免などが挙げられる。・・・
 この爵制に含まれる爵位は以下の二十等である。・・・このうち8位の公乗が庶民および下級の吏に与えられる上限であり、ここまでを民爵・吏爵という。9位の五大夫以上は官秩六百石以上の官にならないと与えられず、これを官爵という。

公士 上造 簪裊 不更 大夫 官大夫 公大夫 公乗
五大夫 左庶長 右庶長 左更 中更 右更 少上造 大良造(大上造) 駟車庶長 大庶長 関内侯 列侯

 ・・・売爵などで喪失しない限り、誰でも爵を所有していた。爵の上下による実利の差異はあったが、大したものではなかった。・・・
 賤民(商人・奴婢・罪人など)は対象外である。・・・
 一般庶民が爵を得る機会としては・・・国家慶事に際しての賜爵が最も多く、皇帝即位・立皇太子・立后・改元などに際して良民男子に対して1ないし2級の爵が一律に与えられた。漢代では高祖が関中を陥落させて社稷を建てた紀元前205年に民に爵一級を賜った事例から始まり、後漢の献帝が・・・215<年>に新たに皇后を立てた時に爵一級を賜った事例までその総数は90(王莽によるものも含む)になる。
 爵は累積していき、順次上の位階へと登っていく。庶民および下級の吏が登れるのは8位の公乗までであり、ここまでを民爵・吏爵という。公乗を既に持っている者が爵を受けたときには子や兄弟に分けることが出来る。9位の五大夫以上は官秩六百石以上の官にならないと与えられず、これを官爵という。
 民衆同士での売買爵は本来禁じられた行為であり、貧困に苦しむ民を救うために許可された行為であった。上述のとおり賤民は爵の対象外であるので、奴婢になったり、罪を犯した場合は爵も剥奪される。つまり爵を失うということは賤民に身を落とすことと同じと認識されており、当時売爵が子を売ることと同じくらいの深刻さで受け止められていた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E7%AD%89%E7%88%B5

 周の・・・公・侯・伯・子・男の五等爵・・・<と>同様に、秦の軍功爵制も、・・・軍功を挙げた特定の人だけに与えられるものであった。
 これに対して、漢の二十等爵制は、すべての人々を対象とする。・・・

⇒このくだりの叙述は、「注34」のそれと背馳しています。
 著者は、二十等爵制が、秦以来であるかどうかは別にして、少なくとも武帝より前から存在したとされている以上、自説をもう少し丁寧に説明すべきでした。(太田)

 こうして天子を頂点とする一つの爵制的秩序の中に、天子も諸侯王も官僚も庶民も含まれることになった。
 ただし、庶民<の諸爵位>と官僚<の諸爵位>の間には、官僚にならなければ超えられない壁がある。
 また、官僚と<二十等爵の>列侯の間、そして劉氏でなければ就くことのできない<超二十等爵の>諸侯王と・・・列侯王の間、そして何よりも、凡百の存在の上に唯一無二の公権力として君臨する天子と諸侯王の間にも、超えられない壁がある。・・・
 漢帝国は、法律や閨閥といった権力により一方的に支配を行うだけではなく、民爵の賜与という恩恵を与えることを通じて生じる権威により、自発的な服従を促すことによって、個別的人身的支配を実現しようとしたのである。
 武帝期に完成した個別人身的支配により、氏族制の解体は完了する。・・・」(59~62)

⇒ここ、著者は舌足らずですが、「春秋時代までの邑(村落)は基本的に同一氏族が共同生活を営む場であった。その内部での秩序としてあるのは歯位(年齢)による秩序である。この伝統的な秩序は父老と呼ばれる纏め役とそれに従う子弟と呼ばれる者たちがある。これらの秩序は邑の中心に作られる社にて執り行われる宴会によって保たれる。この時代の宴会は席次や料理の分配などに綿密に気を配る必要があり、それにより秩序を保っていたのである。陳平が幹事役を務めて名を上げたという宴会もまたこのような意味を持ったものであった。これが戦国時代ごろより邑の中に別の氏族が混在するようになり、歯位の秩序は次第にその力を失い始めていた。また情勢の変化により新しい邑も多数誕生しており、この中には当然旧来の歯位の秩序は存在しなかった。これに対して爵制による秩序は、数年毎に一律に賜爵が行われるのであるから自然年齢の高い者ほど爵も高い傾向にある。つまり爵制の秩序は歯位の秩序と対立するものではなく、力を失いつつあった歯位の秩序を補完・補強するものであった。・・・歯位と爵制の秩序の最も大きな違いは皇帝がその秩序の中に含まれるということである。歯位の秩序はその邑内部にて完結しており、外部との関係性は無い。爵制の秩序は爵を発する皇帝と爵を受け取る民とがそれぞれ一対一で結びついており、邑の内部秩序を内包する形で皇帝を頂点とした国家的秩序が形成されているのである。」(上掲)という意味であれば、ある程度首肯できます。(太田) 

(続く)