太田述正コラム#13796(2023.10.18)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その14)>(2024.1.13公開)


[武帝の匈奴攻略]

 「武帝(在位:前141年 – 前87年)が即位すると・・・匈奴<に対して>・・・攻勢に転じ、・・・前127年・・・になって・・・衛青<(注35)>率いる漢軍に敗北し、河南の地を喪失した。

 (注35)?~BC106年。「身分は相当低かったものの、姉の衛子夫が武帝の寵姫<・・後に皇后・・>となったことや騎射の名手であったことなどから、引き立てられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E9%9D%92

 ・・・前121年・・・、匈奴・・・は・・・霍去病<(注36)>率いる1万騎の漢軍に敗北。

 (注36)かくきょへい(BC140~BC117年)。「母は衛少児(衛子夫・衛青の姉)。異母弟は・・・武帝後の政治を取り仕切った霍光。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8D%E5%8E%BB%E7%97%85

 続いて匈奴が割拠する祁連山も霍去病と・・・公孫敖<(注37)>の攻撃を受けた。これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、・・・漢に寝返<る者達も出>てしまった。

 (注37)こうそんごう(?~?年)。「衛青の友人となり、衛青が捕らえられて殺されそうになるところを救った。そこから公孫敖は重用されるようにな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%AB%E6%95%96

 さらに・・・前119年・・・、伊稚斜単于(在位:前126年 – 前114年)は衛青と霍去病の侵攻に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維単于(在位:前114年 – 前105年)の代に至っては漢から人質が要求されるようになった。
 ・・・前102年・・・、漢の李広利<(注38)>は2度目の大宛遠征で大宛を降した。

 (注38)?~BC88年。「若い頃の李広利は、元来無頼として定職に就かない勝手気ままな人物であったが、紀元前104年・・・、武帝は寵愛している李夫人(李広利の妹)のために、李広利を<登用した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%BA%83%E5%88%A9

 これにより、漢の西域への支配力が拡大し、匈奴の西域に対する支配力は低下していくことになる。
 その後も匈奴は漢と戦闘を交え、漢の李陵<(注39)>と李広利を捕らえるも、国力で勝る漢との差は次第に開いていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4

 (注39)?~BC74年。「祖父の李広は文帝・景帝・武帝に仕えた悲運の将軍として知られた人物であり、父の李当戸は武帝の寵臣・・・を殴打した剛直の士であった。・・・
 李陵が・・・善戦する<も>・・・匈奴に降伏したとの報告を聞いた武帝は激怒し<たところ、>・・・司馬遷だけが李陵の勇戦と無実を訴えたが、武帝は・・・司馬遷を投獄し、後に宮刑に処した。・・・
 李陵の才能と人柄を気に入った且鞮侯単于<(在位:前102 – 前96)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%94%E9%9E%AE%E4%BE%AF >
は李陵に部下になるように勧めるが李陵は断っていた。しばらくしてから武帝は後悔し、李陵の残部に褒美を与え、公孫敖に命じて李陵を迎える。しかしこの計画は失敗した。逆に公孫敖は匈奴の捕虜から「李将軍」が匈奴に漢の軍略を教えていることを聞いた。武帝は激怒し、李陵の妻子をはじめ、母・兄と兄の一家らは謀叛の罪により連座して死刑となった。・・・
 かつて匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫く頑な態度を取ったのが、かつて李陵とともに侍中として武帝の側仕えをした蘇武であった。李陵は節を全うしようとする蘇武を陰から助けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%99%B5

⇒衛青、霍去病、李行利、については、武帝が皇后や夫人の身内の者を抜擢したわけであり、また、公孫敖は衛青の引きで登用されたわけであるところ、これらは、武帝がついに武官を養成するシステムを構築しなかったことを示しており、このことは、霍光のような文官についても言えそうであるところ、(これも問題はあったけれど)科挙制度が構築されることになる文官についてはともかくとして、前者は、漢及びそれ以降の支那の諸王朝のアキレス腱となった、と、私は考えている。(太田)

(続く)