太田述正コラム#13806(2023.10.23)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その19)>(2024.1.18公開)

 「・・・前101<年>、匈奴との戦いを再開するに当たり、・・・武帝<は>詔<を発し、>公羊学の「春秋の義」[<すなわち、>『春秋』の「人として守るべき正しい道」
https://kotobank.jp/word/%E7%BE%A9-49809
<、>]を踏まえ、匈奴の討伐を正統化している。・・・
 匈奴の侵攻に苦しむ前漢前半期の国際関係の現実が、激しい攘夷思想と・・・徹底した復讐・・・の是認という公羊伝の特徴に反映しているのである。・・・
 『春秋公羊伝』<魯の>荘公<(注55)>4年の条は、斉の襄公が紀を滅ぼしたことを9世前の斉侯<(哀公)>のために仇を報いたものと肯定し<(注56)>、百世の仇であっても復讐すべきである、と春秋の義を示している。・・・

 (注55)荘公(そうこう)(魯)(在位:BC693~BC662年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%85%AC_(%E9%AD%AF)
 その「夫人<の>・・・哀姜<(あいきょう)は、>・・・斉<の>・・・襄公<の子。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%80%E5%A7%9C
 (参考)荘公(斉)(在位:BC553~BC548年)。「蟷螂の斧<の挿話:>ある日、荘公は馬車で狩りに出かけた。道に一匹の虫がいて、前足をふりあげ、馬車の車輪に向かってきた。荘公は「これは、何という虫か」と御者に尋ねた。御者は「これは、蟷螂(とうろう。カマキリ)という者ですが、自分の力のほどを考えず、進むことのみ知って、退くことを知りませぬ」。荘公はそれを聞いて「これがもし人間なら、天下の武勇の者であるだろう」と言い、わざわざ車の向きを変えさせ、道のカマキリをよけて通った。国君である彼が、その勇気に敬意を払って一匹の虫に道を譲ったこの話が世に伝わると、命を投げ出して仕える主君を知ったとばかり、天下の勇者が続々と荘公のもとに集まってきた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%85%AC%E5%85%89
 (注56)「哀公 (斉)<(?~BC863年)は、>・・・紀侯の讒言により周の夷王によって釜茹での刑(烹)に処せられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%80%E5%85%AC_(%E6%96%89)
 「斉<の>・・・襄公<(じょうこう。?~BC686年)>7年(前691年)秋、紀季(紀侯の末弟)が紀から分かれて酅(けい)を斉に献上し、斉の属国となった。襄公8年(前690年)夏、斉が紀を攻撃し、紀侯が国を棄てて去ったため、紀は斉に併合された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%84%E5%85%AC_(%E6%96%89)

 換言すれば、そのような特徴を持つ経典を作り上げることにより、儒教は国家の政策を正統化して自らの教えを広めようとした。
 武帝もまた、公羊伝を論拠とする国政の正統性を詔に述べることで、自らの政策に広い支持を得ようとしたのである。・・・

⇒董仲舒は、御用学者の典型と言うべきでしょうか。(太田)

 司馬遷<(注57)>は、歴史の叙述方法を師の董仲舒の春秋学より学んだ。・・・

 (注57)BC145/135?~BC87/86年?。「周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。・・・
 父から「第二の孔子たれ」と厳命された司馬遷は、既に若い頃から儒教の教育を受け、その影響を強く受けた。具体的には、『史記』において人物や出来事の判断基準に、多く孔子の言葉を導入している。これらは、『春秋』『礼記』『論語』から出典不明なものまでを含め、何かしらの論評において「孔子はこう言った」と引用したり、または自らが意見を述べる形式で孔子の著作から言論を襲用している形で書かれたりしている。特に司馬遷は、孔子思想において六芸(「詩」「書」「礼」「楽」「易」「春秋」に大別する文化的伝統)を重視し、孔子の言を借りて六芸こそが人を正しく導くと述べ、これらを歴史的事象や人物を評価する基準に用いた。
 そして司馬遷と孔子の間には、「利を求めず、時流に迎合しない」という共通の性質が見て取れる。・・・
 しかし、必ずしもその論を無批判で受け入れたわけではない。『史記』は孔子が『春秋』を書いた際に基準とした大義名分に則らず、事実を重視する態度を貫いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7
 「父の意を継ぎ太史令となり,《史記》の編纂(へんさん)に着手。前98年,匈奴の捕虜となった李陵を弁護して武帝の怒りを買い,宮刑を受けた。刑後,宦官として中書令(天子の秘書長)となり,全精根を傾けて《史記》を完成。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7-74715

 <すなわち、>『史記』<(注58)>は、単に史実を記録した訳ではない。

 (注58)「司馬談は、武帝による儒教の官学化以前の人物であり、道家思想が盛んな気風の中で学問を受け、楊何に師事して『易』を修めた経験もあった。彼の「六家要旨」では、道家思想を最も高く評価しており、これを中心に諸学の統一を図ろうと考えていたことが分かる。司馬遷が『史記』を著す意図の一つには、この父の考えを継ぐこともあった。『史記』は、道家思想を基調とする諸学の統合を史書の形式で実現するという一面を有していた。
 こうした背景のもと、『史記』列伝の冒頭の「伯夷列伝」で、司馬遷は「天道是か非か」という問いを発している。・・・
 また、司馬遷は歴史の実態に即して記述することを重んじている。例えば、項羽は皇帝や君主ではなく、またその覇権も五年に過ぎなかったため無視できる存在であったが、秦の始皇帝から漢の高祖に至る実権の流れを説明するためには必要であり、「本紀」の一つに立てられている。また、皇帝である恵帝を本紀から外し、その間に実権を握っていた呂后のために「呂后本紀」を立てたのも同じ例である。
 叙述の対象は王侯が中心であるものの、民間の人物を取り上げた「游侠列伝」や「貨殖列伝」、暗殺者の伝記である「刺客列伝」など、権力から距離を置いた人物についての記述も多い。また、武帝の外戚の間での醜い争いを描いた「魏其武安侯列伝」や、男色やおべっかで富貴を得た者たちの「佞幸列伝」、法律に威をかざし人を嬲った「酷吏列伝」、逆に法律に照らし合わせて正しく人を導いた「循吏列伝」など、安易な英雄中心の歴史観に偏らない多様な視点も保たれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98

 司馬遷の『史記』執筆の思想的な背景は春秋公羊学にあり、その執筆目的は、春秋の筆法により武帝を批判することにあった。
 それにより、漢帝国のあるべき姿を示そうとしたのである。
 それが司馬遷の「国かたち」を問うた結果であった。
 それほどまでに匈奴との抗争により、漢の財政は破綻していたのである。」(77~78、84、86)

⇒司馬遷のウィキペディア(「注57」)と史記のウィキペディア(「注58」)の間には、司馬遷の思想について、儒家か道家か、という評価の違いがあり、著者は、前者乗りであるわけですが、私自身は、仮置きですが、後者乗りです。(太田)

(続く)