太田述正コラム#13808(2023.10.24)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その20)>(2024.1.19公開)

 「匈奴をはじめとする外征に要した莫大な軍事費により破綻した財政の再建のため、武帝は農業<の>振興<、>・・・均輸法<・>・・・平準法<や、>・・・塩・鉄・酒の専売<を行った。>・・・
 これらの経済政策のなかでは、農民保護の側面を持たない塩・鉄・酒専売[酒はやがて廃止]が最も施行しやすかった。
 ただし、これは悪税であったため、貧富の差を拡大させ<た>。
 それにより、豪族と呼ばれる大土地所有者が大きな力を持つに至った。
 こうして武帝の治世末期には、民は疲弊し、各地で農民反乱が起こった。
 ・・・前91<年>、貧富の差の拡大に起因する社会不安と、武帝の老いを要因とする宮廷内の権力争いは、巫蠱の獄<(注59)>を惹き起こす。・・・

 (注59)[巫蠱の禍(ふこのか)]=巫蠱の乱。「木製の人形を地中に埋め、巫(みこ)によってこれに呪いをかけ、目的とする人物の寿命を縮めようとする邪術を巫蠱という。衛(えい)皇后の子の拠(きょ)(諡(おくりな)は戻(れい)太子)は皇太子にたてられて以来二十数年が過ぎた。このころになると衛氏一族の統領、大将軍衛青もすでに亡く、その勢力に影がさし始めていた。武帝と皇太子の間柄も順調ではなかった。従前から皇太子と反目していた直指繍衣使者(ちょくししゅういししゃ)(三輔の監察官)の江充(こうじゅう)は、66歳の武帝の衰えと身の保全を考え、紀元前91年7月、皇太子が武帝を呪詛していると上奏した。当時、病を得て甘泉(かんせん)宮に避暑中の武帝がこの告訴を受けて皇太子宮の地下を掘らせたところ、針の突き刺してある人形が6個発見された。江充の策略である。もはや戦うのみと断じた皇太子は先手を打って江充を斬り、未央(びおう)宮を占領。武帝もただちに長安城内建章宮に帰り、両軍は5日間にわたって戦った。死者は数万に及んだ。皇太子は敗れ、20日ほどのち、湖(こ)県(陝西省)の民家に隠れているのが発見され、2人の王子ともども縊死したとも討ち死にしたともいわれる。乱後まもなく皇太子の冤罪を知った武帝は、江充の遺族を族滅するとともに、湖県に思子(しし)宮を建てて自らの過ちを悔い嘆いた。武帝の後半期は巫蠱の災いが多いが、これら事件の背景には、儒教思想家の董仲舒らにみられる「災異説」や武帝の神仙趣味など、神秘的な傾向を示す当時の時代思潮の存在があった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%AB%E8%A0%B1%E3%81%AE%E4%B9%B1-124287
 「三輔(さんぽ)は前漢の首都圏である長安周辺(関中)の称。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%94
 「呂思勉は事件の記述に胡巫(胡の巫)が現れることを根拠として、巫蠱は<支那>に元来あったものではなく匈奴などの外国からもたらされたのではないかとする。匈奴には敵軍の通り道に牛や羊を埋めて呪詛する習慣があったといい、この事件で行われた偶人(木製の人形)を地中に埋めるという手法がそれと関係する可能性はある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E8%A0%B1%E3%81%AE%E7%A6%8D ([]内も)

⇒江充もまた、「堂々とした風采、奇抜な格好をして<いたので、武帝が>注目<し>」て登用したものであり、つくづく、武帝の人を見る目のなさに呆れます。(太田)

前87<年>に、武帝が崩御した。
 わずか8歳で即位した昭帝[武帝の末子・・・]を支えて、大司馬<(注60)>・大将軍<(注61)>の霍光<(注62)>が政権を掌握する」(86~88、90)

 (注60)「主に軍事を取り仕切り、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職が設けられる場合もあった。
 春秋戦国時代では、兵馬(軍事)を司る省の長だったようである。
 秦代には太尉と呼ばれていた武官の職である。
 前漢では、三公(三つの最高官職の内の一つ)の中の一つであった。・・・
 紀元前189<年>・・・に周勃が太尉となったのが漢での最初である。武帝の・・・紀元前139<年>に田蚡が免官されて以後は太尉は置かれず、事実上の廃止となる。武帝の・・・紀元前119年<年>に大将軍衛青と驃騎将軍霍去病を並立させるため、初めて大司馬が霍去病に与えられ、将軍号に冠した。宣帝の地節2年(紀元前68年)に、大司馬・大将軍霍光が亡くなると、宣帝はその子の霍禹を単に大司馬とし、将軍号を削って兵権を奪った。この時のみ大司馬には兵権が無かった。その後も三公での順位や将軍号の有無の変遷があったが、大司馬の職位は続いた。
 新の王莽を打倒した更始帝も大司馬を置き、劉秀は当初、兼務の行大司馬として河北に渡った。劉秀が皇帝に即位すると、また大司馬を置き、呉漢が任じられた。
 後漢の・・・51<年>に太尉に置き換わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%B8%E9%A6%AC
(注61)「楚漢戦争期の韓信以降は、匈奴が侵攻して来た際や反乱鎮圧に際してといった非常時に、臨時に政府要人が軍の総帥として任命されることが多かったようである。
 武帝による積極的な対外政策が開始されると、常置の官職となった。この時期の大将軍として、対匈奴戦争で大きな功績を挙げた衛青が知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
 (注62)かくこう(?~BC68年)。「武帝の皇后の衛子夫の甥にあたる名将霍去病の異母弟という縁で出仕し、武帝の信任が厚く霍去病の死後も順調に出世した。・・・紀元前87<年>に武帝が亡くなるとき、まだ8歳の幼い皇帝昭帝の補佐が出来る人物は霍光以外に居ないと思い、霍光を大司馬大将軍に任じて金日磾・上官桀と共にこれを補佐させた。
 しかし、のちに霍光と上官桀は対立するようになった。上官桀は昭帝の兄であるのに帝位につけなかったことを恨みに思っていた燕王劉旦、霍光と財政政策などで対立していた桑弘羊らと謀を巡らせて、昭帝に霍光を廃することを讒言したが、昭帝は取り合わなかった。そのため兵を伏せ、霍光を討ち昭帝を廃する企てを起こしたが、事は露見、燕王劉旦は自殺し、上官桀らは誅殺された。上官桀の一族で生き残ったのは皇后上官氏(母が霍光の娘)のみであった。
 昭帝が成人してからも霍光への信任は厚く、治世13年の間すべて政治を霍光に取り仕切らせた。
 ・・・紀元前74<年>、子のないまま昭帝が亡くなると、霍光は武帝の孫で昭帝の甥にあたる昌邑王劉賀を帝位につけた。しかし行いが酷いとしてわずか27日で廃し、代わりに武帝の曾孫の劉病已(宣帝)が帝位についた。霍光は引き続き大司馬大将軍として漢の政治を一任されていたが、・・・紀元前68<年>に亡くなった。
 武帝亡き後の漢の政治を速やかにまとめた霍光の功績は大であったが、彼自身はひたすら身を慎み、僭越な振る舞いや専横を避け、徒に目だって身を滅ぼすことはなかった。しかし一族は霍光の威勢を恃んで傲慢であり、宣帝の皇后の許平君を毒殺して代わりに一族の娘を皇后に立てるなど、暴慢な振る舞いが目立った。彼らは霍光ほどの人望も無かったことから、霍光亡きあとは宣帝に実権を奪われた上、最後には謀反を計画したため、宣帝の勅命により子の霍禹は腰斬に処され、その生母や姉妹など一族皆殺しに処された(上官皇后はこのときも無事に済んだ)。
 霍光によって擁立された宣帝は、即位当初に霍光に政権を委ねる旨の詔を発したが、その際に用いられた文言「関(あずかり)り白(もう)す」が、日本の実質上の宰相であった関白の名の由来とされる。また、関白の異名として「博陸」とも称するが、これは霍光が博陸侯であったことに由来している。
 初代関白である藤原基経は、陽成天皇を廃して皇族の長老の光孝天皇を擁立した。『神皇正統記』ではこの行動を昌邑王劉賀を廃して宣帝を迎えた霍光のそれに擬えて、讃えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8D%E5%85%89
 「西嶋定生は、・・・劉賀の家臣がことごとく処罰されていることや処刑される際に「やるべきことをやらなかったためにかえってやられてしまった」と嘆いた者がいたことなどから、実権を握っている霍光らを排除して劉賀の権力を確立する計画があったと推定した上で、しかしその計画が霍光らに露見し、彼らによる逆クーデターという事態になったのではないかと推定している(この事件で「劉賀を日頃諫めていた」として許された劉賀の家臣、郎中令の龔遂と中尉の王吉と学問の師の王式らが密告者だと疑われている)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E8%B3%80

⇒霍光はネポティズムに基づき武帝によって登用されたところ、たまたま、その結果がうまくいったという例ですね。
 霍光は、武官にして幼帝時に臣下の筆頭だったわけで、この頃に関してだけ(?)は、支那が、後の日本における武家諸政権を先取りしたかのごとき政治形態をとっていた、ということになりそうです。
 それにしても、日本での「大将軍」や「関白」といった職位名がいかなる意味で支那由来なのか、興味深いものがあります。(太田)

(続く)