太田述正コラム#13810(2023.10.25)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その21)>(2024.1.20公開)

 「・・・漢の経済政策を掌握する御史大夫の桑弘羊に、官僚登用制度で察挙されたばかりの賢良・文学<(注63)>たちが対等に議論をするのは、不自然である。

(注63)「漢代の官吏登用の推薦科目。文帝2(前178)年と同 15年に賢良,方正の士の推挙が始められたが,文学についても同じ頃始められたようである。これは諸侯王や中央,地方の長官に対して,賢良,方正,文学に該当する有能者を推薦させる制度<だった。>」
https://kotobank.jp/word/%E8%B3%A2%E8%89%AF%E3%83%BB%E6%96%B9%E6%AD%A3%E3%83%BB%E6%96%87%E5%AD%A6-61151

 西嶋定生<(コラム#11697)>は、賢良・文学の背後に居た内朝[皇帝の側近官]の権力者霍光と、外朝<(注64)>の権力者桑弘羊とが、政権の帰趨をかけて経済政策を争ったものと塩鉄論争を捉える。

 (注64)「<支那>では,宮廷というのは帝王の居処のことであり,宮庭とも書かれ,〈朝廷〉〈宮闕(きゆうけつ)〉あるいは単に〈朝〉〈闕〉といわれ,しばしば商品交易の場である〈市〉と対して呼ばれた。《周礼(しゆらい)》考工記によれば,国都を造営する際には,中央に王宮をおき,東に宗廟,西に社稷(しやしよく),前方つまり南に〈朝〉,後方つまり北に〈市〉を設けたし,《周礼》全体の記述からみると,天子には三朝があったことになり,路門より内側を天子の日常起居する場所である燕朝といい,路門外,応門内を天子が毎日臨御して政事をみる場所たる治朝といい,応門外,皋門(こうもん)内を朝士が政事をつかさどる場所たる外朝といったとされ,全体を内朝と外朝とに二大別するときは燕朝と治朝をあわせて内朝といったのである。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%96%E6%9C%9D-457996
 「社稷<は、>・・・<支那>古来の国家的祭祀(さいし)。天の祭り(郊)、祖先の祭り(宗廟)に対し、社稷は土地、農業の祭りとして尊ばれてきた。土地神である社に、穀物神の后稷(こうしょく)が配祀されたことから社稷の語が生じた。社の祭祀は殷代には「土」と記されており、本来は各部族集団の祭りであったらしいが、のちには農村共同体の祭祀となり、社は庶民集団(邑(ゆう))の単位としても用いられた(書社)。一方、礼の制度によると、社は天子、諸侯、貴族や民間でも祭られるようになっており、とくに諸侯の国都に置かれた社は国人の集合場所でもあり、ここで祈雨などの農業儀礼のほか、国政や軍事の儀式、あるいは裁判なども行われたという。この社は国社とよばれ、諸侯の人民支配のシンボルとなっていった。社稷=国家とする考えはここから生じたものである。戦国時代以降、天地人の思想が形成され、社稷は地神として祭られ、漢代からは長く天子の行うもっとも重要な祭祀となった。これに対し民間の社は私社として禁止されたが、しかし、村落の祭りとしてあとまで続けられた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E7%A8%B7-75970

 そのとおりであろう。・・・
 日原利国<(注65)>によれば、『塩鉄論』<(コラム#11536)>における賢良・文学の主張は、基本的に儒教の春秋公羊学の立場に一致し、政策担当者の法家主義に対抗するものであるという。
 董仲舒の関与が『漢書』に記される理由である。・・・

 (注65)ひばらとしくに(1927~1984年)。京大文(支那哲学)卒、同大院博士課程満期終了退学、愛知学芸大講師、助教授、阪大文助教授、教授、阪大博士(文学)、京大文教授兼任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8E%9F%E5%88%A9%E5%9B%BD

 賢良・文学たちは、農業を「本」、商業を「末」とする儒教の立場から、「塩鉄・酒榷<(注66)>[酒の専売]・均輸」という国家による経済統制は、「民と利を争う」ことであり、農業を衰退させるため、中止すべきである、と主張した。
 (注66)「<支那>では漢代以後,専売を榷(かく)の字であらわす,榷茶,榷塩,榷酒(酤(こ))などはすべて,茶,塩,酒の専売のことである。榷の原義は堅い丸木橋で,一人一方通行,つまり利益独占を意味する。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A6%B7-1287970

 昭帝は、・・・酒の専売<だけ>を止めることとした。・・・
 塩・鉄の専売は、儒者の主張が国政に反映し始めた第11代の元帝期になって、ようやく廃止<される>。・・・
 しかし、・・・塩・鉄の専売は、・・・わずか4年足らず<で>・・・復活された。
 ・・・その廃止は財政に直接悪影響を与えたためである。」(91~93)

⇒漢において、上部構造がいかに重要な役割を果たしたか、が、分かります。(太田)

(続く)