太田述正コラム#13812(2023.10.26)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その22)>(2024.1.21公開)

 「・・・董仲舒は、儒教を国教化できなかったが、・・・司馬遷によれば、雨を降らせたり、止まらせたりすることはできた。
 それは、董仲舒が、「春秋災異の変」によって、陰陽の変調する理由を考えたことによる。
 「春秋災異の変」とは、『春秋』の242年間の記録により、いかなる災異が起きたときに、どのような異変が起こったのかを陰陽説に基づいて考えることである。
 災異とは、自然界における洪水・旱魃・日食・地震・彗星・隕石や霜・雹、蝗害や寒暑の変調などの異変現象である。
 これらが起きたとき、政治はほぼ乱れていた。
 『春秋』そのものが混乱期を描いているためである。
 『春秋』の記録に基づき、自然界と政治混乱との対応関係、たとえば皇后の一族[陰の属性]が政治を専らにしているため、地震[陰の属性]が起きた、というような対応の経験則をまとめあげたものが、陰陽思想<(注67)>に基づく災異説である。・・・

 (注67)「原初は混沌(カオス)の状態であると考え、この混沌の中から澄んだ明白な気、すなわち陽の気が上昇して天となり、濁った暗黒の気、すなわち陰の気が下降して地となった。この二気の働きによって万物の事象を理解し、また将来までも予測しようというのが陰陽思想である。
 能動的な性質、受動的な性質に分類する。具体的には、陽・光・明・剛・火・夏・昼・動物・男、陰・闇・暗・柔・水・冬・夜・植物・女などに分けられる。これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ない。森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、相反する陽と陰の二気によって消長盛衰し、陽と陰の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。
 陰陽二元論は、この世のものを善一元化のために善と悪に分ける善悪二元論とは異なる。陽は善ではなく、陰は悪ではない。陽は陰が、陰は陽があってはじめて一つの要素となりえる。あくまで森羅万象を構成する要素に過ぎない。<支那>の戦国時代末期に五行思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行思想となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD

 今の地震予知でも、かつて起きた地震の記録をきわめて重視する。
 経験則は意外と科学的で規則性を持つ。
 ただ、そこに、天人相関論がなければ、政治と地震が結びつくことはない。
 君主が天の意志に反する行為をすれば、天はまず災異を降して譴責する。
 それでも改めなければ、天はその国を滅ぼすという災異説には、董仲舒の天人相関論が必要であった。
 その際、災異と天人相関とを結ぶものが、陰陽説である。
 自然だけではなく人間にも陰陽の気があり、人間界の陰陽が乱れると、自然界の陰陽に感応して、その正常な活動を妨げる。
 たとえば、陰の属性を持つ女性が政治に関わると長雨などの陰の災異が起こる。
 董仲舒は、長雨の際、そうした陰が強くなりすぎる要素を減らすことで、雨を止ませることができた。

⇒「董仲舒は・・・雨を降らせたり、・・・止まらせたりすることができた。」筈がないのですから、このような、著者の筆致にはひかざるえません。(太田)

 災異説の有用性は、それだけに止まらない。
 起きた災異、たとえば国家の創始者を祀った廟[高廟]に災異があった場合、臣下が君主に対して国家の危機を指摘することができた。
 天人相関論は、災異を天譴[天のいましめ]と捉えることで、悪政を改め災異を消すように、皇帝に上奏できるのである。
 こうして儒教は、政治に対して物を言う手段を得た。・・・
 しかも、災異説は、易や五行思想と結びつくことで予占[予言]を行うことができる。

⇒「できた」、「できる」、という筆致は、誤解を呼びそうではあるけれど、間違いとまでは言えません。(太田)

 242年間の災異とそれに対応する政治事象を記している『春秋』に、いま起こっている災異を当てはめて考えることで、災異が何を意味するかを解釈する際に、法則性を見出し得るのである。

⇒『春秋』が「法則性を見出し得る」ように書かれているとは言えるのかもしれませんが、それが一般化できるような著者の筆致には再びひかざるをえません。(太田)

 しかも、それは国家の滅亡や皇帝の交代といった国家規模の重要な問題を予占することになる。
 このため・・・董仲舒・・・の後学たちは災異説に基づく予占により、政治権力と密接に関わっていく。」(97~98)

(続く)