太田述正コラム#13814(2023.10.27)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その23)>(2024.1.22公開)

「・・・前49<年>に即位した元帝は儒教に夢中になった。
 官僚は儒教の経義に基いて政策を論議し、・・・前40<年>に儒教の経義に合致しない郡国廟が廃止される。・・・
郡国廟は、劉邦が父のため各郡国に太上皇廟を建てたことに始まる。
 皇帝の父を臣下に祭祀させることは、『論語』為政篇に、「自分の先祖の霊でもないのに祭るのは諂うことである」とあるように、儒教としては違礼となる。
 だが、儒教は国教ではなかったので、恵帝のときに劉邦を祀る太祖廟が、景帝のときに文帝を祀る太宗廟が、宣帝のときに武帝を祀る世宗廟が設置される。
 元帝のときには、68の郡国に167の郡国廟が存在していた。
これに加えて、首都の長安と近郊には、高祖から宣帝にいたる宗廟が9ヵ所、墓陵にはそれぞれ寝殿[正殿]と便殿[別殿]が存在した。・・・
 <さて、>董仲舒の天人相関説により、天と天子との関係が明確にされるにつれ、皇帝と天子という君主に対する二つの称号の使い分けが、意識されるようになっていった。
 始皇帝が制作した「皇帝」号は、本来は国家の創始者が武力により中国を統一した、すなわち権力により国内の臣下・万民を従わせた、という性質を持つ称号である。・・・
 これに対して、天との関係において、人々の支配者となるための称号が「天子<(注68)>」である。・・・

 (注68)「天(至上神、上帝)の命を受けた子として・・・天帝に代わって・・・国土と民を保有し、治める者の意。この観念が成立したのは・・・西・・・周代であり、金文史料からも確認できるとおり、周王はまた天子として天の権威のもとに君臨した。秦帝国が成立すると、この号は捨てられ、これを超越する神格化された君主としての皇帝の称号が始皇帝によって創案採用された。漢代になると儒家の思想が息を吹き返し、皇帝と並ぶ正号として天子の号が復活した。「皇帝」が地上における唯一の現実的支配者を意味したのに対し、「天子」は天との関係において機能する称号であり、この号は、上帝を中心とする天地の神々を祀(まつ)る場合に用いられ、また天命を受けた者(の1人)として、外国の君主との交渉のときに採用された。また、天と君主との間は君臣関係として制度化されており、したがって天子の号は「天の子」という家族主義的関係を、すでに意味していない。こうした天子の制度と思想とは、以降の歴代の王朝に受け継がれていく。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E5%AD%90-102318
 「王号・天子号とは別に、周王にはさらに「天王」という称号が用いられることがあった。」
https://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?research/shirakawa/file/no06_02.pdf

 <そして、>儒教を起源とする「天子」号は、「皇帝」号よりも上位の概念となった。

⇒「注68」に照らすと、この著者の「儒教を起源とする」というくだりは誤りと言うべきでしょう。(太田)

 また、天は異民族にも共通するものであるため、天子という称号を使えば、匈奴の単于<(注69)>[天に支配を認められた君主]とも敵国[匹敵する国、対等な国]として外交関係を結ぶことができる。

 (注69)「匈奴の最高権力者の称号・・・で,撐犂孤塗(とうりこと)単于の略称。・・・。匈奴遊牧国家の事実上の創始者である冒頓(冒頓単于)のときから用いられ,その地位は部族連合体である匈奴の中核部族の攣鞮(れんてい)氏(虚連題氏)に独占された。単于の継承は先代の単于の遺言で決まる場合が多かったが,各部族集団の首長による合同会議で承認を受ける必要があった。その語源,語義については,《漢書》に〈単于は広大の貌〉と注することから,モンゴル語で非常に広大を意味するdeng ughu(現tong aghuu)にあてる説や,ギリシア語文献の音写から同じくモンゴル語の〈広いdelgüü〉に関連づける説など数種あるが,いずれも憶測の域を出ない。・・・
 撐犂が「天(テングリ)」を意味することは明らかだが孤塗は・・・子<とも言われるものの、>・・・定説がな<い。>・・・
 そののち、鮮卑、氐(てい)、羌(きょう)などの国家でも用いられたが、5世紀の柔然以後、モンゴル高原の遊牧国家の君主はハガン(可汗)と称するに至った。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%98%E4%BA%8E-88002

⇒著者は、「トルコ族やモンゴル族は,その族祖が天から遣わされ(高車,突厥),天の定命によって生まれた狼であり(モンゴル),また光に感じて生まれた天の子である(モンゴル)と信じていた。そして彼らの王は,匈奴が王たる単于を撐犂孤塗(とうりこと)単于(撐犂=tngri,孤塗=子,単于=広大)つまり大天子と称していたことに示されるように,天の子であり,シャーマンであると信じられていた。彼らはシャマニズム崇拝者として,天に対する強い尊崇の念を抱いていたために,彼らや彼らの王を天とかかわらせることによって神聖化し権威づけたのである。」(上掲)という説に拠っているわけです。(太田)

 国内は皇帝、国外は天子という明確な使い分けが、ここに見られる。
 ただし、天子という称号は、「天命が続く限り」という条件のもとで使用される。
 この称号には革命が内包されるのである。
 天命が尽きれば、国家は継続できない。」(113~116)

(続く)