太田述正コラム#13818(2023.10.29)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その25)>(2024.1.24公開)

「経書の「経」は縦糸、すなわち人として生きる筋道という意味である。
これに対して「緯」は横糸を指す。
 すなわち緯書は、縦糸と横糸をあわせて初めて布になるように、経書を補うために孔子が著し、儒教の全体を明らかにしようとした書物という意味である。
 もちろん、緯書は、実在の孔子とは無関係に、権力に接近するために、主として成帝期から哀帝期ごろの公羊学派が創作した偽書と考えられている。
 緯書のなかには、経書を解説するだけのものもある。
 自らの経書の解釈を権威づけるため、それを緯書に仕立てたのである。
 だが、緯書の多くは讖[未来記]、すなわち予占的な要素を含み、孔子は漢の成立を祝福していた、というような過去から未来への予言を記したものも多かった。
 そうした緯書により表現される考え方を讖緯思想と呼ぶ。
 讖緯思想により、孔子は未来をも見通す神と位置づけられ、儒教は宗教的な側面を強くしていく。
 さらに緯書には、漢の暦数は尽きたので、天命を再び受ける必要があると漢の再受命を説くものも多い。
 緯書が作られた背景には、漢の社会不安があった。
 病気がちの元帝のもと、宦官の石顕<(注73)>(せきけん)が次第に権力を掌握していったのである。

 (注73)?~?年。「宣帝は・・・宦官を重用し、宦官の弘恭を中書令、石顕を中書僕射とした。・・・元帝が即位して数年で弘恭が死ぬと、石顕が中書令になった。・・・
 元帝の晩年、定陶王劉康が寵愛を受け皇太子の地位を脅かしたが、石顕は皇太子を支持した。しかしその皇太子(成帝)が即位すると、石顕を長信中太僕に左遷し、数カ月後には丞相匡衡らが石顕の旧悪を告発した。石顕や牢梁・陳順らの一党は罷免され、石顕は妻子と共に故郷に戻る道中で憂いのあまり食を取らず死亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%A1%95

 去勢された男子である宦官が、漢で権力を握ることの始まりである。
 さらに、王政君<(注74)>が皇后になると、徐々に外戚として王氏の力が強まっていく。・・・

 (注74)BC71~AD13年。「前漢の元帝(劉奭)の皇后で、成帝(劉驁)の生母。・・・新王朝を建国した王莽の伯母(父方のおば)にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%90%9B

 成帝を嗣いで即位した哀帝<(注75)>は、・・・成帝期における外戚王氏の専横を嫌<い、>・・・武帝や宣帝を手本として皇帝の権力を強めようとした。・・・

 (注75)劉欣(BC25~BC1年。皇帝:BC7~BC1年)。「元帝の側室の<子に>あたる父の定陶恭王劉康と丁姫の間に生まれる。・・・前8年・・・、劉欣が18歳になると、・・・子がな<かった>・・・成帝は劉欣を皇太子に立てる事とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%80%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)

 哀帝が、寵愛して政治を委ねたものは、董賢<(注75)>(とうけん)である。・・・

 (注75)BC23~BC1年。「その眉目秀麗なる容姿から前漢の哀帝の寵愛を受けた官人。哀帝の死後は権勢を失い自殺に追い込まれた。・・・
 男色の別称のひとつとなった「断袖」(だんしゅう)の故事の由来となった人物でもある。・・・
 前4年・・・頃、哀帝は董賢が家に帰るのをいやがり、詔を行い、董賢の妻を殿中に入れるようにして、董賢の宿舎に泊まれるようにした。哀帝は、董賢の妹を皇后に次ぐ地位にあたる(側室の筆頭である)昭儀とした。董賢夫妻と董昭儀(董賢の妹)は朝夕に宮廷に出入りし、哀帝の左右に、はべるようになった。・・・
 哀帝が、麒麟殿で酒宴を行った時、董恭・董賢父子ら親族も宴会に参加した。この時酩酊していた哀帝は、董賢に対し笑って「私は、堯が舜に禅譲したことに見習おうと思うが、どうじゃ?」と語り掛けた。しかしこれを見た王閎は「天下は高皇帝(劉邦)のものであり、陛下(哀帝)が有しているわけではありません。陛下は宗廟を受け継がれ、ご子孫にいつまでも継がれるべきです。統治の業はとても重いのです。天子が、亡国の戯言を申してはなりません」と哀帝を諫めた。哀帝は黙り、不機嫌となり、左右はみな恐れた。そこで、王閎は宴会から、追い出され、二度と宴会に呼ばれることはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E8%B3%A2

⇒元帝期の佞臣で宦官の石顕、も、哀帝期の佞臣の寵「男妃」の董賢、も、どちらも妻がいた・・石顕の場合は子までいた・・というのが傑作ですね。(太田)

 王閎<(注75)↑(注76)>は硬骨漢であった。

 (注76)おうこう(?~?年)。「新の皇帝王莽の従兄弟。・・・
 哀帝が崩御すると、哀帝は璽綬を臣下の董賢に授けている。これを知った王閎は、太皇太后王政君の後ろ盾を得て董賢から璽綬を奪還し、その後、董賢ら哀帝の側近を排斥する上で貢献した。
 しかし、王莽は王閎を良く思わず、王莽が新を建国すると、王閎は東郡太守として左遷されてしまう。また、王閎は王莽から誅殺されることを恐れ、常に毒薬を携帯していた。更始元年(23年)王莽が滅亡したが、改朝換代の混乱期にありながらも、王閎は自身の手腕で東郡の30数万戸を良く保全している。そして王閎は、東郡一郡を献上して更始帝に降伏した。
 王閎は更始帝の下でも琅邪太守に任命されたが、派遣先に割拠していた当時の群雄の一人である張歩がこれを拒否した。王閎も檄を発して贛楡など6県を掌握し、しばらくの間、張歩と激しく争った。
 しかし、梁王劉永が張歩を配下に取り込むと、劣勢を悟った王閎は張歩と交渉を行う。対面の際に張歩は「私に何の咎があって、攻撃してきたのか」と責めたが、王閎は「太守は朝命を奉るものであり、私は賊(張歩を指す)を攻撃しただけです」と答えた。張歩は王閎の正論を認め、謝罪して歓待し、郡事を司らせ、実質幕僚として遇した。
 ・・・27年・・・、劉永が戦死すると、張歩は劉永の子の劉紆を天子として擁立し、自身は定漢公と号して、百官を置く計画を立てた。しかし王閎は、劉永が更始帝を奉ずる故に山東が帰順したが、その子を尊んで天子とすれば衆民は疑念を持つかも知れず、また斉の民は謀り多い(故にますます疑うでしょう)、と諌めたため、張歩はこれを取りやめている。・・・
 ただし、更始政権滅亡前後には劉永もすでに天子を称しており、本来は劉紆がそれを後継するのは当然のはずである。可能性としては、劉紆には劉永ほどの人望はなく求心力が望めない、と判断されたこと等が考えられる。・・・
 ・・・29年・・・、平寿に追い詰められた張歩が漢に降ると、王閎も劇(張歩の本拠地)を訪れて漢軍に降った。その後の王閎の動向は不明である。
 なお、後に光武帝は詔して「(王)閎は善を修め謹直で、兵乱の時も、民・役人も閎の首だけは争い取らなかった。閎の子を役人に補す」と、その子を600石以上の役人にしたが、その子は在職中に亡くなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E9%96%8E

 王氏一族でありながら、漢の簒奪を目指す王莽を嫌い、王莽が漢を簒奪すると東郡太守に左遷される。
 王莽の滅亡後は、東郡を維持し、やがて漢の復興を目指した更始帝に、最後は光武帝劉秀に帰順する。」(120~121、129、131)

⇒王閎は、時勢に流されるだけだった王政君と漢を簒奪した王莽、による王一族の汚名を若干なりとも雪ぐことができたわけです。
 ちなみに、王一族は、戦国時代の斉(田斉)の王族、更に遡れば西周・春秋時代の陳公の流れです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%A6%81 ←王禁(王政君の父、王莽の祖父)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%AE%89 ←田安(楚漢戦争期の済北王)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%96%89 ←斉(田斉)(戦国時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3_(%E6%98%A5%E7%A7%8B) ←陳(西周・春秋時代)
 王閎の生涯から、名家出身者の矜持が見て取れます。(太田)

(続く)