太田述正コラム#13824(2023.11.1)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その28)>(2024.1.27公開)

 「・・・王莽の政策は、儒教の理想時代である周の制度を『周礼』<(注85)>を典拠に復興しようとするもので、・・・それなりの正統性を持っていた。

 (注85)しゅらい。「『周礼』は偽書の疑いがあり、紀元前11世紀に周公旦が作ったとも、前漢代に劉歆が作ったともされる。また現代の研究の進展により戦国時代末期に成立したとの見方が示されている。・・・
 また周礼の「周」とは西周ではなく、戦国時代の周国を意味していると考えられる。・・・
 内容としては、周王朝の「礼」、すなわち文物・習俗・政治制度、特に官位制度について記されており、戦国時代以降の儒者にとって理想的な制度とみなされた。ただし、考古学調査によって得られた金文資料や他の先秦文献に記された制度とは、食い違いを見せている。・・・
 『周礼』の書名は本来『周官』であり、六経のひとつである「礼」とは関係なかったと考えられる。前漢の武帝のときに河間献王が入手した。
 新の王莽のとき始めて経典に加えられ、劉歆が『周礼』に書名を改めたという。しかし、冬官篇が欠けていたので、そのかわりに『考工記』を収録した。あるいは河間献王のときにすでに『考工記』で補ってあったともいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%A4%BC

 しかし、・・・王田制<(注86)>は、土地を給付される農民には歓迎されたが、大土地を所有する豪族の利益を損ない、大きな反発を受けた。

 (注86)「周代の「井田(せいでん)制」を模したもの。(井田制は、あくまで伝説上の制度。実際には、どこまで施行されたか不明。)
 井田制では、一定面積の田を、九つに等分する。中央に一つ、その周りに八つ。前者は公田であり、共同で耕作し、収穫物を租税とする。後者はそれぞれ、一家族に与える。(田地の面積は平等で、あとは努力次第。)
 一方、王田制では、八等分する。当面、公田の設置はしない。(そこまでするのは、急過ぎると思ったのだろう。)
 儒教の理念では、「人は身分ごと、平等であるべき」とされる。王莽は豪族と、一般農民の格差を減らそうとした。豪族も民の一種であり、身分的には、普通の農民と変わらない。(また、豪族の強大化は、実際過度な状態であり、前漢の後期から社会問題であった。)
 豪族は多数の家族を含有し、王田制施行後も、自ずと多くの土地を有する。しかし、上限は設定される。
 王莽は更に、奴婢の解放令を出す。(奴婢は主に、豪族が私有。)また、人身売買により(新たに)奴婢を作ることも禁じた。・・・
 施行から三年後、王莽は妥協する。まず、王田の売買を許可。(つまり、豪族の自由な活動を、ある程度許した。)更に、人身売買を許可。(奴婢の存在を容認した。)
 失敗の原因は、第一に豪族の反発。地方官は彼等を制御できず、時に癒着し、改革は上手く進まず。
 また、他にも、重要な原因が存在する。王莽は王田制以外にも、多くの変革を同時に実行。王莽が即位して以来、官は次第に政務を処理し切れず、行政全体が乱れていったという。王莽は、理想の制度を思い描く反面、運営面を軽視していた。
 更に、運悪く、天災(黄河の氾濫)が発生。(王田制施行から二年後。)恐らく、これにより、農政の混乱は決定的となった。」
https://jkkmemstw.com/index-zen/zen-sin-ou/

 また外交政策でも、儒教の華夷思想に基づき、匈奴や高句麗に渡していた王の印象を取りあげ<(注87)>、「降奴服于<(注88)>」「下句麗侯」という称号を押しつけたので、かれらの怒りを買い、離反を招いた。

 (注87)「「侯」に格下げした。これは、儒教の世界観に基づく。即ち、「<支那>の王朝は天命を受けており、他の諸国は格下でなければならない」というもの。(「王」自体、「皇帝」の下なのだが、王莽は更に下げた。)」(上掲)
 (注88)「匈奴単于<を>「降奴服于」と改称<し>た」
http://www.project-imagine.org/mujins/sanguo/appointments.html

 しかも一つの改革が行き詰まると、直ちに別のものに改めるなど、立法に一貫性を欠いたため、混乱を大きくし、不信感を強くした。
 こうして赤眉の乱を契機として、各地の豪族たちが蜂起し、新は建国後わずか15年で滅亡したのである。」(169~170<(注89)>)

 (注89)せきびのらん。「新末の大農民反乱。眉を赤く塗ったためにこの名がある。『周礼』などに範をとった極端に復古的な王莽の政治は,豪族層の利害に反し,農民の生活をも混乱に陥れた。このため建国後各地に反乱が続出した。なかでも・・・17・・・年琅邪(ろうや),海曲(山東省日照県)で・・・呂母(りょぼ)という女性が、県の長官に殺された自分の息子の復讐のために徒党を組んで起こした・・・呂母の乱は,翌年莒県に挙兵した樊崇(はんすう)らと合流して十数万の大集団となり,王莽打倒を旗印とした。同じ頃南陽の豪族集団も挙兵し,・・・23・・・年には更始帝劉玄を立て,翌年長安を占領した。長安占領の前年王莽が殺されると,赤眉は目標を失い,一時更始帝にくだったが,たちまち離反し,更始帝打倒を掲げて長安に攻め入った。ときにその勢 100万と号し,少年劉盆子を立てて天子とした。しかし長安は豪族軍に包囲されて食糧難に陥り,略奪を事としたために住民の反感を招き,ついに故郷の山東に帰らざるをえなくなった。その帰途,劉秀(→光武帝)の迎撃にあって降伏し(27),首領たちは洛陽に田宅を与えられ,樊崇はのちに殺された。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E7%9C%89%E3%81%AE%E4%B9%B1-86922

⇒新は、王莽を教祖とする、復古主義カルトが政権を簒奪してできたもの、と言って良さそうですね。

(続く)