太田述正コラム#13828(2023.11.3)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その30)>(2024.1.29公開)

 「・・・光武帝は、緯書を整理して後漢の正統性を示すものだけを天下に広め、自らが認める讖緯思想を含んだ儒教を漢の統治を支える唯一の正統思想として尊重した。
 功臣だけではなく、豪族にも郷挙里選<(注93)>(きょうきょりせん)という官僚登用制度の運用により、漢を正統視する儒教を学ばせたのである。

 (注93)「漢代に行われた官吏登用法の一つ。「郷より挙げ、里から選ぶ」の意。地方から人格、能力とも優れた者を有力者に推薦させて、これを官吏として採用する方式。在野の人士を抜擢することは、必要に応じて行われていたが、これが制度化され、地方官を通して、毎年、一定人員を推薦させることになったのは、武帝による「孝廉科(こうれんか)」の設置に始まる。儒家の理念に沿うものとして後漢期に盛んとなり、後の九品中正法(きゅうひんちゅうせいほう)に受け継がれたが、官吏の登用を地方の豪族層の裁量にゆだねるという道を開いた。」
https://kotobank.jp/word/%E9%83%B7%E6%8C%99%E9%87%8C%E9%81%B8-478005

 この結果、後漢では、太学に五経博士が置かれるなど制度的に儒教が尊重されるだけでなく、官僚にも豪族にも儒教が浸透し、国家を正統化する理論を備えた儒教が統治の場でも用いられる「儒教国家」が形成されていく。
 後世の儒者、たとえば明清の考証学者たちが、後漢を儒教に基づいて統治された理想的な国家と考え、光武帝を高く評価するのは、このためである。・・・
 後漢を建国した光武帝は、一度滅びた漢を復興し、功臣を殺さず、軍備を縮小し、200年の太平の礎を築いた名君であるばかりでなく、三国志の英雄たちに大きな影響を与え続けた。
 理想の君主だったのである。・・・
 光武帝を嗣いだ明帝<(注94)>・・・は、内政では父の「吏治(りち)」[法刑に基づく支配]を継承する一方で、外政では光武帝の消極策を改め、前漢の武帝以来となる西域への積極的な進出を再開した。

 (注94)「明帝の治世は、<父の>光武帝<、子の>章帝と並び、約200年続いた後漢朝では安定した全盛期を現出した。馬皇后(光武帝配下の武将馬援の娘)は陰皇后とともに賢夫人とされ、自制によって外戚勢力が抑制されていたことがその理由として考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
 「明帝の時代に仏教が正式に伝来したと伝えられるが、詳細は不明である。仏教伝来伝説は白馬寺の創建と『四十二章経』の伝来に関する伝承となっている。また異母兄[・・母は許美人・・]の楚王劉英による「黄老とともに浮屠(仏陀)を崇拝した」という事跡に関する記述が、『後漢書』顕宗孝明帝紀第二の本伝に見えている。」(上掲)
 「劉英の動向を見ると、黄老と浮屠とを同列に扱い、仏陀を神として祭祀していたことが記されている。このことは、現世利益的な信仰形態であったことを物語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E8%8B%B1_(%E5%BE%8C%E6%BC%A2) ([]内も)

 その中心となったものが班超<(注95)>である。」(178~180)

 (注93)32~102年。「『漢書(かんじょ)』の著者班固は兄、班昭は妹である。・・・
 73年、竇固(とうこ)の北匈奴遠征に従軍し軍功をあげ、さらに鄯善(ぜんぜん)(チャルクリク)に使いし、不利な状況で「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と少数の兵を励まし、ついにこれを服属させた。以後30余年、西域で活躍し、カスピ海以東の鄯善、于闐(うてん)(ホータン)、亀茲(きじ)(クチャ)など50余国のオアシス諸国家を服属させ、西域都護となり、定遠侯に封ぜられた。さらに部下の甘英を西方に遣わし大秦(たいしん)国との国交を試みた。102年、老齢による彼の上願と、妹昭の感動的な上書により帰国が実現するが、1か月後に病没。彼の尽力した西域経営は子、班勇に受け継がれたが、その後は人材なく、西域諸国の離反が相次いだ。」
https://kotobank.jp/word/%E7%8F%AD%E8%B6%85-118348

⇒班固、班超の父の班彪(3~54年)には武官歴が全くなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E5%BD%AA
にもかかわらず、つまりは武官教育訓練を受けた形跡がないのに、班超は武官として登用され、彼の兄の班固も、同様であり、しかも、『漢書』を概成するという大事業を成し遂げた後、「母の喪のために官を辞したが、永元元年(89年)に竇憲に従って匈奴と戦った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E5%9B%BA
というのですから、明帝、すなわち、後漢、においても武官の養成制度が存在せず、武官としての登用が恣意的に行われていた感が否めません。(太田)

(続く)