太田述正コラム#13846(2023.11.12)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その39)>(2024.2.7公開)

 「・・・許劭は、後に蜀漢に仕えた従弟の許靖<(注117)>(きょせい)と一緒に人物評価を行い、月ごとに人物評価の品題(人々を品する<ランクづける>際の題<(評価基準)>)を変えた。

 (注117)?~222年。「若くして従弟の許劭とともに、人物評価について高い評判を得ていたが、許劭とは仲が悪かった。・・・
 曹操が派遣した使者の張翔は、許靖を強引に招聘しようとしたため許靖に忌避され、腹いせに許靖の出した手紙を全て捨てた。
 その後、劉璋に招聘されて巴郡・広漢郡の太守に任命された。許靖は治中従事の王商を「中原に生まれていれば王朗に勝っただろう」と称え、これを聞いた劉璋は彼を蜀郡太守に任命した。劉表配下の宋忠は親交のあった王商へ手紙を送り、許靖の教えを請うよう勧めている。・・・211年・・・、王商が死去すると許靖が後任の蜀郡太守となった。
 同年、曹操は皇子の劉熙を済陰王に、劉懿を山陽王に、劉敦を東海王に立てた。それを聞いた許靖は「老子には『何かを縮めようとするならば、必ずそれを一度大きくし、何かを奪い取ろうとするならば、必ず一度それを与える』とある。これは曹操のことであろう」とその簒奪を予見した。
 ・・・214年・・・、劉備は劉璋を攻めて成都を包囲した。許靖は劉璋を見捨て成都を脱出しようとしたが、発覚し捕らえられた。劉璋は許靖を咎めず、処刑しなかった。劉備が益州を支配すると、劉備は許靖を嫌い任用しようとしなかった。しかし、法正は「虚名とはいえ許靖の名は天下に知れ渡っており、許靖を礼遇しないのであれば、多くの人は公(劉備)が君子を軽んじていると思うでしょう」と説いたので、許靖は左将軍長史に任じられた・・・。
 劉備が漢中王になった際は鎮軍将軍の職にあり、王になるよう推挙した群臣の中に名を連ねている・・・。後に太傅となった。・・・
 楊戯の『季漢輔臣賛』では、許司徒(許靖)は昭烈皇帝(劉備)、諸葛丞相(諸葛亮)に次いで3番目に記載され、関雲長(関羽)・張益徳(張飛)よりも上であることから、許靖は非常に高い評価を受けていることがわかる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E9%9D%96
 「劉璋<(162?~219年)は、>・・・若い時に長兄・・・や次兄・・・と共に、奉車都尉として長安の献帝の近侍として仕えていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%92%8B
 「前漢の魯恭王であった劉余(景帝の第4子)の末裔に当たる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%84%89

 このため、「月旦評」[月の一日に行われる人物評価]という言葉が生まれた。・・・
 許劭は、宦官の養子の子である曹操を卑しみ、なかなか評価をしようとしない。
 そこで、曹操は腕力に訴え許劭を脅したので、許劭は仕方なく、「君は治世の能臣、乱世の奸雄である」と、後世に有名となる標語を述べた。
 曹操は大喜びで帰ったという。
 ここで注目すべきは、曹操が標語の内容を喜んだのではない、ということである。
 著名な「名士」許劭から人物評価を受けたという事実、それにより「名士」の仲間社会に参入する資格を得たことを喜んだのである。・・・

⇒許劭もまた、軍司令官に任命される前に軍事に係る教育訓練を受けた形跡が見られないのが気になります。
 いずれにせよ、許劭など、手相見に毛が生えた程度のハッタリで人物評価をした人物のように私には見えます。(太田)

 許劭の評価により、曹操は、覇権のスタートラインに立つことができたのである。
 ここには、後漢「儒教国家」の影響力はすでにない。・・・
後漢の寛治をそのまま継続しようとした袁紹<(注118)>を打倒した曹操は、法刑を重視する猛政など革新的な政治を行い、漢帝国とは異なる制度により、中国の再統一を目指していく。」(234、248)

 (注118)えんしょう(?~202年)。「袁氏は4代にわたり三公を輩出した名門で、国内には袁氏の恩顧を受けた門生や故吏(こり)があふれていた。霊帝の死後、宦官を排除しようとした外戚の何進(かしん)が、逆に謀殺されると、従弟の袁術とともに宦官2000人を皆殺しにした。董卓(とうたく)が献帝を擁して実権を奪うと、渤海太守に遠ざけられた。山東の豪族を組織し、董卓征伐の盟主となり、董卓を首都洛陽から長安に逃走させた。帝室の一族で幽州牧の劉虞(りゅうぐ)を皇帝にしようとしたが、劉虞に拒否された。袁紹は、河北に割拠していた公孫瓚(こうそんさん)を滅ぼして勢力を拡大し、山東、河北の4州を領し、烏丸(うがん)の精兵を収めて有力な軍閥となった。さらに献帝を迎え入れて力を増した曹操と対抗したが、河南省中牟(ちゅうぼう)県にある黄河の渡し場官渡(かんと)の戦いで大敗した(200)。袁紹の死後、袁尚が継いだが、内紛のため袁氏はほどなく滅亡した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A2%81%E7%B4%B9-38169
 「献帝<(181~234年)は、>・・・姓名は劉協(りゅうきょう)。189年4月、父霊帝が死ぬと、少帝劉辯(りゅうべん)が即位した。9月洛陽に入った董卓(とうたく)は少帝を廃して、陳留王劉協を帝位につけた。袁紹らが董卓討伐の兵をあげると、翌年董卓は帝を伴って長安に遷都した。しかし董卓は王允(おういん)、呂布(りょふ)に殺され(192)、王允も李傕(りかく)に殺され、帝は李傕に追われて洛陽に帰った(196)。当時洛陽は荒廃の極にあり、同年曹操はその本拠地許(河南省許昌県西南)に帝を迎えた。その後、曹操は次々と群雄を倒して強大となり、魏公、魏王となって実権を振るい、伏皇后を殺して己の娘を皇后とするなどしたが、最後まで臣下の地位にとどまった。曹操が死ぬと(220)、その子曹丕は帝を廃位して自らが帝位についたため、後漢王朝は滅んだ。」
https://kotobank.jp/word/%E7%8C%AE%E5%B8%9D-1163939

⇒同じ話ばかりで恐縮ながら、「軍閥」になった袁紹もまた、軍事に係る教育訓練を受けた形跡は見られません。(太田)

(続く)