太田述正コラム#13848(2023.11.13)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その40)>(2024.2.8公開)

「一方、劉備を補佐する蜀漢の諸葛亮は、法を厳しく運用するなど、曹操に似た革新的な政策をあくまで漢と儒教の範囲内で施行し、漢を再建することにより中国の再統一を目指した。
 隋唐帝国(581~618年、618~907年)は、曹操の革新政治を継承して中国を再統一する。・・・

⇒曹操の父の曹嵩(そうすう。?~194年)は、「宦官に賄賂を贈って」ではあれど、太尉(前出(注60))に就いており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E5%B5%A9
その翌年には辞任している
https://hajimete-sangokushi.com/2020/09/21/sousu/
ところ、その目的は曹嵩が軍事が趣味であったので、宮中にある太尉だけが閲覧できる資料や書物を読むためだったのではないか、その父の背中を見て曹操も軍事についても若い時から密かに勉強していたのではないか、と、私は想像を逞しくしています。
 そんな曹嵩は、息子の曹操が軍事を含めた天才的な能力の持ち主であることに、恐らくは気付くことがついにないまま、悲劇的な最期を遂げることになります(上掲)。(太田)

曹操の軍事的基盤である青州兵は、青州黄巾<(注119)>の信仰と集団を維持することを許し、曹操直属の兵戸[税の代わりに兵役を負担]として再編したのである。・・・

 (注119)「『太平清領書』は太平道が教典とした書物であり、于吉が曲陽の泉水のほとりで得た神書と伝えられる。既に失われた書だが、その内容は道教の一切経とされる『道蔵』の『太平経』へ引き継がれたと考えられている。・・・ 
 太平道(たいへいどう)は、後漢末の華北一帯で民衆に信仰された道教の一派。『太平清領書』を教典とし、教団組織は張角が創始した。教団そのものは黄巾の乱を起こしたのち、張角らの死を以て消滅した。・・・
 太平道と五斗米道には共通点が多い。具体的には、類似した教義を持つこと、宗教が基盤となる社会を目指したこと、成立・活動時期が重なること、が挙げられる。両者間で何らかの交渉があったと考えるのが自然だが、それを示す史料は見つかっていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E9%81%93
 「後漢代後半、豪族の大土地所有の進展につれて、多数の農民が土地を失って没落した。また外戚、宦官、党人官僚三つどもえの政争によって中央政府の機能は低下し、洪水や干魃や流行病がしきりに発生した。・・・
 窮迫した農民は豪族に隷属し,あるいは流亡化して華北には膨大な没落農民・流民が発生した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%BB%84%E5%B7%BE%E3%81%AE%E4%B9%B1-61839
 「黄巾の乱・・・は、後漢末期の184年・・・に・・・太平道の信者が教祖の張角・・『太平清領書』に基づく道教的な悔過による治病を行った。・・を指導者として起こした組織的な農民反乱である。
 目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いたことからこの名がついた。・・・
 この反乱は後漢の衰退を招き、劉備の蜀、曹操の魏、孫権の呉が鼎立した三国時代に移る一つの契機となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B7%BE%E3%81%AE%E4%B9%B1

 諸葛亮のように異民族を軍に編入することは、漢の常套手段であった。
 これに対して、宗教反乱を許して、その宗教を維持させたまま軍に編成することは、曹操の独創である。
 儒教以外の宗教を保護していくことは、儒教への挑戦と言ってよい。
 やがて道教の源流の一つとなる五斗米道は、曹操を「真人」[儒教でいう聖人]と位置づけ、その即位を勧進することで権力に接近していく。
 北魏における道教、隋における仏教の先駆をここに見ることができよう。」(248~249)

⇒後漢は、宗教としての儒教を国家宗教にしていた、と見るべきであり、著者は、それを言うなら、後漢における儒教は、魏における大平道/五斗米道、北魏における道教、隋における仏教の先駆となった、的なように記すべきでした。(太田)

(続く)