太田述正コラム#13858(2023.11.18)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その2)>(2024.2.13公開)

「・・・科挙<では、>・・・依然として従来の貴族階級の子弟が合格者のほとんどを占め、官界を牛耳っていた。
 彼等は毛並みのよさを誇ってみずからを清流と号し、出自の卑しいものを濁流とよんで軽蔑した。
 そうなると、すぐれた才能を持ちながら、家柄がよくないばかりに、下積みの境遇に甘んじなければならない一般知識人の不満はつのる一方で、「清流」の高級官僚に対してはげしい憎しみをいだくこととなった。
 かの黄巣<(注1)>(こうそう)も科挙の落第生であった。

 (注1)835~884年(唐末)。「曹州冤句県(現在の山東省菏沢市牡丹区)の出身。若い頃は騎射を良くし任侠を好んでいた。一方で学問に励み、何度か進士に挙げられるたが科挙には落第して、塩賊(私塩の密売人)となった。
 ・・・874年・・・、同じく塩賊だった王仙芝が数千の衆をもって挙兵すると、黄巣も数千の衆を率いて、これに参加し、やがて反乱軍の中心人物の一人になっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B7%A3

 当時、中央官界に進出する望みを断たれたこのような知識人の多くは、地方の軍閥に身を寄せ、参謀や書記官として働きの場を見出していた。
 ・・・李振<(注2)>(りしん)・・・もその一人であった。

 (注2)?~923年。「西州(現在の新疆ウイグル自治区トルファン市高昌区)の出身。・・・唐の潞州節度使李抱真の曾孫である。祖父と父は、いずれも郡太守であった。
 李振は、唐に仕え、金吾将軍から台州刺史となった。浙東において盗賊に会い、刺史の任に耐えることができなくなったため、西に帰る途中で汴に至ったところ、朱全忠は、李振の才が非凡であると見て、召し出して従事とした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%8C%AF_(%E4%BA%94%E4%BB%A3)

 彼等は武人の力によって貴族独占の現体制が打ち壊されるのを期待した。
 「清流を濁流にしよう」というのは、当時の知識人の共通の願いであったと思われる。
 「白馬の禍」<(注3)>は彼らの憤懣の表出であり、700年に及ぶ貴族社会の終焉を告げる事件であった。

 (注3)「905年・・・7月5日、朱全忠は、腹心の李振の煽動によって、滑州の白馬駅(現在の河南省安陽市滑県の境)において、[唐朝の・・・裴枢ら30余人]の「衣冠清流」と呼ばれる官僚を一度に殺害し、死体を黄河に遺棄した。歴史上、これを「白馬の禍」という。
 李振は、咸通・乾符年間に、何度も科挙に落第しており、門閥を激しく憎んでいた。後に、李振は、朱全忠に対し、「このような輩は清流だと自称していたが、黄河に身を投げたので永遠に濁流となってしまった」と述べた。朱全忠は、これを聞いて笑ったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A6%AC%E3%81%AE%E7%A6%8D
 本書12頁([]内)

 <それ>から2年たった907年4月、朱全忠<(注4)>は唐朝最後の皇帝昭宣帝から位を譲られる形式(禅譲)をとって皇帝位に即いた。

 (注4)852~912年。「諱は初め温(おん)であったが、黄巣の乱の際の戦功で唐より全忠(ぜんちゅう)の名が下賜された。その後、唐を滅ぼして、後梁を建国し、自ら皇帝に即位して晃(こう)と名を改めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%A8%E5%BF%A0

 後梁の太祖である。・・・
 この時期を五代と名づけるが、一王朝は長いもので10数年、短いのは後漢の4年にすぎず、支配領域は最大でも中国の半分にとどまった。・・・
 内藤湖南(虎次郎1862~1934)博士の『支那近世史』第三章は「五代の奇局」と題されているが、まことにこの時期は、半世紀ものあいだ戦争の絶えることがなかった、中国では数少ない乱世であった。」(12~13)

⇒上部構造の話が出て来ないのは、この本の執筆時期が古くマルクス主義史観の呪縛がまだあったからなのか、それとも、残された史料に偏りがあって上部構造に言及したものが少ないのか、はたまた、この時代の支那では実際に上部構造が背後に退いていたのか、知りたいところです。(太田)

(続く)