太田述正コラム#13862(2023.11.20)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その4)>(2024.2.15公開)

 「・・・前朝否定の方向を強く打ち出した後梁と対照的であったのは、後梁を滅ぼして、五代第二の王朝を建てた李存勗<(注6)>(りそんきょく)の後唐<(注7)>であった。・・・

 (注6)885~926年。「五代後唐の初代皇帝。廟号は荘宗。後梁の太祖朱全忠の宿敵であった李克用の嫡男で、父に劣らぬ猛将として活躍した。軍事面では李存勗は朱全忠亡き後の後梁を滅ぼし、さらに前蜀を支配下に置くなど、一時は五代でも屈指の大勢力を築き上げるが、政治家としての実力が皆無でその悪政により家臣の離反を招き、最後は自滅的な非業の最期を遂げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AD%98%E5%8B%97
 (注7)923~936年。「唐末の混乱期に、突厥沙陀部族出身の李克用が河東節度使として晋陽(太原)に駐屯し、山西地方に打ち立てた軍閥(晋国。後世には前晋とも呼ばれる)がその前身である。
 李克用は895年唐の朝廷から晋王の位を授けられたが、朱全忠との勢力争いに敗れた。朱全忠が唐を滅ぼして「後梁」を建てると、李克用はこれを認めず後梁と戦った。
 李克用の死後、子の李存勗が晋王を継ぐと後梁の内紛もあって晋が優勢となり、力を得た李存勗は923年皇帝を名乗って「後唐」を建てた。
 この時、李存勗が国名に唐を号したのは、祖父の李国昌(朱邪赤心)がかつて唐の朝廷(懿宗)から反乱鎮圧の功により国姓李を賜っていたからである。
 こうして、後唐は唐の後継を自認し、同年に後梁を滅ぼして中国北部の大部分を制圧し、洛陽に都を移した。
 後梁に形式的に臣従し、王に封じられていた南方の諸国(十国)は、後梁の滅亡により後唐へ使者を派遣した。このときに使者を派遣しなかった四川地方の前蜀は、925年に李存勗(荘宗)により攻められて滅ぼされた。
 四川征服後、後唐の初代皇帝の李存勗(荘宗)は次第に驕慢となり奢侈に走り、さらには朱全忠が廃止した唐の遺習、軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させるなどして将士の信頼を失った。
 926年、地方の反乱がおきて、皇帝の李存勗(荘宗)は部下によって殺された。
 その後、李克用の養子の李嗣源(明宗)は、各地の反乱を収拾させると自ら後唐の2代皇帝になった。李嗣源(明宗)は宰相馮道を登用し、政治の建て直しを進めた明宗の治世は比較的平穏に過ぎたが、その晩年、再び帝位をめぐる混乱が起こった。
 933年、明宗(李嗣源)が病床に倒れると、秦王李従栄が簒奪を企てて殺され、明宗の死後、李従厚(閔帝)が後を継いで3代皇帝になった。
 しかし、この動きに、明宗の養子の李従珂が反対し、李従珂が鳳翔で挙兵すると、李従厚(閔帝)はその軍勢に対抗することができず、洛陽を脱出して衛州に逃れた。
 こうして、明宗の養子の李従珂が、次の後唐の皇帝になる流れができあがった。
 しかし、李従珂と共に明宗(李嗣源)の古くからの腹心で、明宗(李嗣源)の女婿でもある石敬瑭は、李従珂が4代皇帝に即位すると晋陽で後唐に対する反乱を起こした。この時、石敬瑭は北の契丹(遼)に援軍を要請して、石敬瑭は自ら帝位について「後晋」を建てた(936年)。
 936年、後晋軍は李従珂を戦いで破り、後唐を滅ぼした。(後唐の滅亡)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%94%90

 石敬瑭<(注8)>は後晋<(注9)>を建国した(高祖)。

 (注8)せきけいとう(892~942年)。「祖先は沙陀より太原に移住したと言われている。石氏はタシュケントを出自とするいわゆるソグド姓で、ソグド系突厥と呼ばれる唐朝後半期から東突厥のもとで突厥から文化的及び血縁的に大きな影響を受けたソグド人の家系に属するとされる。父の石紹雍(臬捩鶏)は沙陀族長李克用の率いる軍閥に従って転戦した功により、洺州刺史に任命されている。
 石敬瑭は幼少の頃に李嗣源(後唐の明宗)に認められ、その娘婿となった。・・・
 石敬瑭は自分の勢力の安定のために燕雲十六州を異民族である契丹に割譲し、さらに臣従したことから、後世、特に民族主義の高まった近代の<支那>では、石敬瑭という人物を漢奸の典型として、南宋の秦檜などとともに非難されることが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%95%AC%E7%91%AD
 (注9)936~946年。「後晋はその正統性を唐朝の復活であることとして後梁と異なり洛陽を都としたが、後梁が都を経済、物流の要衝で財政の観点から重要な拠点である開封を都としたこと[15]と同様に、経済的要請から937年4月に後晋は都を開封とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%99%8B

⇒ソグド系突厥人の石敬瑭が「漢」奸とはこれいかに?
 東北工程を推進する現在の中共当局は、遼も支那史に含めている筈であり、恐らく、このような石敬瑭観からは解放されていることでしょう。(太田)

 さらに後晋は高祖の武将劉知遠<(注10)>(りゅうちえん)(後漢の高祖)に滅ぼされて後漢<(注11)>となり、3年後にはこの王朝も軍隊に擁立された武将郭威(後周の太祖)に倒された。

 (注10)895~948年。「テュルク系突厥沙陀部出身。父の劉琠は、晋(後の後唐)の李克用の列校をつとめた。
 劉知遠は、はじめ後唐の明宗に仕え、その後は後晋の高祖石敬瑭に仕えた。・・・
 石敬瑭が契丹に燕雲十六州を割譲しようとしたときは、劉知遠は強く反対したが、容れられなかった。
 出帝のとき、後晋は契丹(遼)による侵攻を受けたが、劉知遠は軍を出さなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%9F%A5%E9%81%A0
 (注11)947~950年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2_(%E4%BA%94%E4%BB%A3)

 このように後唐ののちもめまぐるしい政権の交替がみられたが、各王朝の建設者はいずれも後唐の武将であった。
 いうなれば、後唐以後の3王朝の交替は後唐軍団つまり山西軍閥内での下剋上にすぎない。・・・
 したがって、五代とはいっても後梁を除いて他は同系列の王朝であった。
 後梁だけが異質の王朝、山西軍閥に対する河南軍閥の政権であった。」(29、36~37)

⇒山西軍閥や河南軍閥など、寡聞にして知りません。
 そもそも、「軍閥とは、・・・中華民国の成立後1916年~1928年に内戦状態が継続した時代<において、>・・・各地方に割拠し、ある程度の地域を実効支配する、複数の勢力(派閥)のこと」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%96%A5
であり、五代十国時代に安易に転用して欲しくありません。(太田)

(続く)