太田述正コラム#13870(2023.11.24)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その8)>(2024.2.19公開)

 「・・・<また、>節度使の権力をおさえるために・・・かれらがにぎっている行政権をとりあげ<た。>・・・
 太祖は州県の長官には、中央政府の職員の肩書を持つ文官を、任期を限って派遣し、その職務を処理させた。
 これを知州<(注21)>、正式には知某州軍州事と称した。・・・

 (注21)「州の長官を知州と呼ぶようになったのは宋代からで,宋が藩鎮跋扈の弊を除くため,これまで節度使が支配していた州に,中央から文官を権知州事として派遣したのがその始りである。」
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 また県の長官は中央官が派遣された場合に知県<(注22)>といった。

 (注22)「県<の>長官は・・・漢の半ば以後,唐までは県令に統一され,隋・唐時代,県が7等級に分けられると,その位階にも差等が生じた。宋以後君主独裁制の発達とともに,〈天子に代わって県を知(しろしめ)す(権知県事)〉を略した知県の名が成立。武官など特殊な場合に県令が使われることになる。」
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 州には知州のほかに、通判<(注23)>(つうはん)という次官を派遣して知州を・・・監督・・・制肘させた。・・・

 (注23)「宋初に藩鎮[・・節度使の別名・・]専政の余弊を一掃して中央集権を行うべく創置された。正しくは通判某州軍州事といい管内勧農使を兼ねる。兵・民・財・司法等1州の公事を州長官と均理して長官一人の専決を許さず,公事はすべて長官,通判両人の署名を得て決定施行されることになっていた。また通判は州の公事を朝廷に直奏することができた。設置の初めは監州と称し目付役的性格が強かったが,しだいに副官化し明・清にうけつがれた。」
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https://kotobank.jp/word/%E8%97%A9%E9%8E%AE-118356 ([]内)

 また節度使が勝手に人選していた州の属官も、すべて朝廷が直接に任命して、その人事権を中央に収回したのである。
 藩鎮をおさえるもう一つの施策は、・・・財政の権を中央に集中することであった。・・・
 太祖は、・・・専売益金や消費税通行税などを徴収する場院<(注24)>(じょういん)・・・の担当官には中央から派遣した文官をあてて、藩鎮の不正を防止し、また諸州に命じて、毎年の租税や専売益金などのうち、州に必要な最小限の経費、官僚の俸給、軍隊の給与などだけを除いて、その他・・・はすべて中央に送納することに定めた。

 (注24)ネット上での調査では不詳。。

 そのうえ、要地に転運使<(注25)>という財政監督官を派遣して地方財政に目を光らせた。・・・

 (注25)「隋代大運河の開通に伴い,江南の物資と中原の国都を結ぶ漕運が重要になり,その統轄責任者として8世紀半ば転運使が作られた。唐の転運使は漕運を中心とした全国の運輸のほか,塩鉄などの財政も兼務したが,宋になると,新しい大区画の路(ろ)の長官として,・・・漕運だけでなく,官僚の監察,刑獄,常平のことも司り,絶大な権力をもつようになった。しかしのちになって提点刑獄公事,提挙常平使・・・が分離独立するようになって,権限は縮小された。」
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 また藩鎮の司法権を回収した。
 五代では、各州の裁判所に州院と馬歩院とがあり、前者はもともと州に置かれて民事をつかさどり、後者は藩鎮直属のいわば軍事裁判所であった。
 藩鎮の権力が強くなると、これが各州に置かれ、部下の将士を裁判官に任命し、民事・軍事の別なく、一州の司法権を掌握した。
 裁判にあたる武人は、しばしば人命を軽視し、無実なのに勝手に死刑にして、朝廷に処刑の報告をせず、朝廷の方もそれを問おうとはしなかった。
 そこで、・・・太祖は諸州に司法参軍<(注26)>を置いて一州の裁判を担当させ、のちにはさらに司寇参軍<(注27)>を増設して、裁判担当官を増し、その事務を分掌させた。

 (注26)「<支那>でいう獄は服役者の収容所でなく,臨時に容疑者をとめおく拘置所であり,州には必ず複数の獄があるのは,もし知州がある獄官の囚人に対する処置が不適当と認めたときに,他の獄に身柄を移して尋問をやり直させるためである。したがって獄の管理官にも司理参軍,判官,推官など系列の異なった官が置かれる。獄において行うのは事実審理だけであり,それが終われば書類が知州の下なる司法参軍の法司にまわされる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B8%E7%90%86%E5%8F%82%E8%BB%8D-1342110
 (注27)ネット上での調査では不詳。。

 また死刑に該当する罪人が出た場合は、中央に報告してその再審を経なければならないことにし、地方官が勝手に死刑を執行できないように改めた。」(109~110)

⇒太祖自身が官僚として悪い意味で優秀だったのか、悪い意味で優秀な助言者たる官僚(達)がいて彼(ら)を重用したのか、は分かりませんが、宋の行政・司法制度は精緻ではあれ、複雑過ぎる感が否めません。
 宮崎市定も、「宋代の地方制度は中央の官制と同様に複雑を極めたものであった。」としています
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249071/1/shirin_036_2_101.pdf
ね。(太田)

(続く)