太田述正コラム#13888(2023.12.3)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その17)>(2024.2.28公開)

「・・・およそ太宗は早くから道教に心を寄せ、道士たちとの交際も密であった。・・・
 宋代の道教は太宗に始まるといわれる。
 ことに晩年になると、さらに信仰はあつくなり、侍臣に語る言葉にも『老子』の引用が多くなっている。
 それは対契丹戦争のたび重なる敗北による精神的打撃が大きく影響していたのであろう。
 燕雲奪回を断念せざるをえなくなり、史籍にも「兵を厭う」と明記するごとく、厭戦的な気分におちいっていった太宗は、いよいよ「夫れ佳(た)だ兵なる者は凶器なり」と説き、清静無為の政治をすすめる黄老の道に心を引かれたのであった。
 そしてこの宮廷の道教尊崇の風潮はつぎの真宗にひきつがれ、北宋道教の極盛期を生み出すことになる。<(注101)>・・・

 (注101)「宋の太祖趙匡胤は幼児と未亡人の手から天下を奪ったので、道士の符命によって自分を真命天子として神聖化しなければならなかった。兄の位を継いだ宋の太宗趙匡義は、玉皇大帝を輔佐する臣下「詡聖」が現れたという神話によって平定した社会に「燭影斧声」の私議を作り出す必要があった。宋の真宗趙恒(998~1023年在位)は符籙道派を非常に信奉した。彼は遼国の軍を恐れて自発的に貨幣を納めて和平を結んだが、後にこのことを深く恥じた。また、遼国の君主や家臣がかねてより天を恐れ神を敬っていることを知り、道教を利用して天書を捏造し 封禅を行い「四海を鎮めて服し、戎狄[異民族]に誇示した」。大臣の王欽若は宋の真宗に、人為的な吉祥も本物の吉祥と変わりはないという 考えを語った。そこで真宗は、真夜中に神人が現れ天書三篇を降ろすことを彼に告知したと偽った。その後、王欽若が武術の軽功や法術のできる道士たちを使って、承天門の屋根の上に黄色の絹織物をなびかせると、真宗は天書が降りる吉兆であると思い込んだ。宋の真宗は天書を得ると、年号を大中祥符と改め(1008年)、天地を祭ること告げ、遼国に家臣を遣わし祭りを助けることを要請し、一切を顧みないで祝賀した。初めの成果が上がったのを見て、宋の真宗や王欽若の臣下たちは、人々が注目する中で2度の天書下降事件を画策し、4月には皇宮に天書を降らし、6月には泰山に天書を降らした。10月になると、宋の真宗は天書を奉じて多くの家臣を引き連れて泰山に行幸し、大規模な封禅の 儀式を行った。宋の真宗は漢の武帝の封禅を模倣しただけではない。唐の高祖が老子を祖先として敬ったことも模倣し、黄帝を趙氏の始祖として尊んだ。・・・1012年・・・には、宋の真宗は夢の中で玉皇大帝の命令を受けたと称して趙玄朗という道教の神仙を自分の祖先とし て作り出した。また盛んに道教の宮観を建て、道観の中に趙玄朗像(趙玄朗は軒轅黄帝の化身であるという)を作り、天書や聖祖の降臨した期日をすべて祝日に定めた。これ以降、全国で熱狂的に道教が崇められるようになった。宋以前にも玉皇は道教で尊ばれた神だったが、その地位はまだ三清の下だった。宋代には玉帝の上に尊号が贈られ、「昊天玉皇大帝」と呼ばれた。彼は黄帝(軒轅氏)であり、趙氏の聖祖でもあると 言われるようになったので、玉皇大帝の地位は突出した。
 宋の真宗は在位中に、たびたび辟穀服気養生などで有名な道士と面会し恩賞を与えた。彼は陳摶の弟子の張無夢も呼び寄せて面会した。張無夢は《老子》・《荘子》・《易》に精通し、内丹術を会得していて、《還無篇》を著した。その弟子の陳景元も道術を会得していた。真宗は信州竜虎山の道士張正随も呼び寄せて接見し、「虚静先生」という号を送り、上清観を建て田地を賜った。・・・1015年・・・に第24代天師張正随が道教の最高位に就くと、正一派道教は次第に盛んになっていった。宋の真宗は、王欽若に道教経典を校正することを命じ、 張君房を主任として《道蔵》を編纂させ、・・・1019年・・・には《大宋天宮宝蔵》計4565巻が編集された。また張君房はその要点を 《雲笈七籤》にまとめた。これは道教史の上で重要な事跡である。宋の徽宗の時代になると、・・・1113年・・・に《万寿道蔵》も編纂され、計540函、5482巻が、鏤版で刊行された。
 宋の徽宗趙佶(1110~1125年在位)は、歴史的に有名な道教好きな皇帝で、自身が道教を信奉して全国の教主を兼任し、自ら教主道君皇帝と号した。彼は何度も命令を出して有名な道士を捜させた。茅山第25代宗師の劉混康・泰州の道士徐神翁(名は守信という)・王老 志と王仔昔・林霊素・張虚白・王文卿・竜虎山第30代天師張継先などは、宋の徽宗から特別な処遇を受けた。林霊素はもともと雷法を伝える神霄派の道士だった。彼は、宋の徽宗が上帝の長子の神霄玉清王の生まれ変わりであり、彼がひいきにする奸臣の蔡京・童貫ももとは仙伯・仙吏で、愛する妃の劉氏は九華玉真安妃の生まれ変わりであり、自分も本来は仙卿であるという作り話を説いた。宋の徽宗はそれを聞くと大変喜 び、林霊素にそのことを公言させた。それで林霊素や宋の徽宗のひいきにする臣下・寵愛する妃は天の神が凡人の世界に下ったものであるということになり、道教は自然に国教となった。
 宋の徽宗の道教に対する信奉は歴代の皇帝と異なり、彼は道教の教主という立場で道教を管理したのである。彼は全国に道観を建てるように命じ、道教の神仙の号や祝日を増やし、道士を育成し、道学制度や道学博士を作った。また、テストの成績によって授けた道官(元士・高 士・上士・方士・居士などの呼び名があった)は、朝廷の五品から九品の官位に相当した。また彼は、詔を下して郡県の役人に各宮観の道士を客としてと面会させ、それによって道士の社会的地位を引き上げた。最高位の道官は「金門羽客」と呼ばれ、金牌を帯びて内裏に出入りすることができた。宋の徽宗は《道徳経》を注釈し、太学・辟雍に《黄帝内経》・《道徳経》・《荘子》・《列子》を研究する博士を置き、儒学と道学の制度を一つにして儒学と道学のどちらにも通じた人を育成し官吏にした。宋の徽宗は道教の階級制度を設置し、《道史》・《道典》・《仙 史》を編集する組織を作り、道経・道法を作り、歩虚詞・青詞なども作った。また宋の徽宗は仏教を弾圧し、寺院の田地を取り上げ、無理やり和尚を道士にさせた。仏を大覚金仙、僧を徳士、寺院を宮観と呼ばせ道教的な呼び名に換えてしまった。仏教徒は手っ取り早く寺院の中に三 清・孔子や玉帝の神像を供えたが、しかし釈迦牟尼を真ん中に置くことや、それによって水陸の道場で祈禳を行い三教をごっちゃにすること は、徽宗によって禁止させられた。宋の徽宗は唐の玄宗が道教を崇めたやり方を模倣していた。しかし、唐の玄宗が国力が強く社会の安定していた時に道教を崇めたのに対し、宋の徽宗の場合は国力が弱く社会の不安定な時に道教を崇めたので、その結果は唐代の安史の乱よりひどい状態になった。金の軍隊が首都に攻め込んできた時、道士の郭京らが斎醮や六甲神術によってこれに立ち向かったが効果はなく、宋の徽宗は道袍 [道士の着る服]を着た格好で金に捕らえられた。」(胡孚琛「道教と仙学」(の邦訳)より)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-6.htm

 太宗こそ独裁君主と呼ぶにふさわしい皇帝であった。
 太宗によって、宋朝より清朝まで数百年にわたる君主独裁体制がきずかれたが、彼は制度上のそれをつくりあげたばかりでなく、その体制を動かす独裁君主の実像をもつくり出したのであった。」(199、203)

⇒燭影斧声の話
https://baike.baidu.com/item/%E7%83%9B%E5%BD%B1%E6%96%A7%E5%A3%B0/9678651
は意味不明ですが、著者とは違って、太宗が宋の早期滅亡を不可避にした、との私の考えは変わりません。
 独裁君主制に軍事軽視に道教狂い、と来たのですからね。
 徽宗が、なんと道教教主になってしまった挙句、自らの奢侈目的で専制を極端化させ、かつ、他国(金)頼みで弱兵を遼攻撃に向かわせて大やけどをし、宋の事実上の最後の皇帝という汚名を被る羽目になる種をまいたのは太宗その人でしょう。(太田)

(完)