太田述正コラム#13896(2023.12.8)
<母のことなど(その3)>(2024.3.3公開)


[大久保利春氏]

 気になって、大久保利春氏の経歴を良く読んでみました。
 同氏のウィキペディアによると、「1938年(昭和13年)東北帝国大学法科を卒業後、三和銀行に入行。戦後の1949年(昭和24年)、日本海商事の代表取締役に就任し、朝鮮戦争のあいだ、児玉誉士夫設立の東京レアメタルの輸送部門を請け負っていた。1961年(昭和36年)、日本海外貿易の経営者として外国為替及び外国貿易管理法違反により有罪判決を受けた。1976年(昭和51年)のロッキード事件に際し、2月17日、第77回国会に証人として招致されたが、そのときには丸紅の専務であった。」
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E6%98%A5 >

とあり、氏が丸紅に入ったのは戦後であると思われ、そうであれば、生一伯父が丸紅に入社したのは確かだとしても、大久保氏が丸紅同期だったという話には疑問が生じます。 

 私が母からよく聞かされていたのは、29歳で結核で亡くなったこの伯父の選挙応援演説の素晴らしさであり、常に大勢の聴衆が集まり、拍手喝采だったそうです。
 結核の療養を実家で始めたこの伯父の看病をしたのは、もっぱら、件の従姉の母親(末子)と私の母であり、伯父が亡くなった後、末子伯母は自殺未遂を起こしたそうです。
 私の母も、この伯父、若くして亡くなるようなことがなければ、きっとやり手の政治家になっていただろうと言っていましたね。
 さて、この看病の結果、末子伯母はかからなかったけれど、母は結核がうつってしまい、当然結婚するどころではなく、東京の当時の国立中野療養所で療養することになるのです。
 この前の従姉からの話では、私の母と元大名家の藤堂家の人との結婚話がそのため破談になったとのこと。
 藤堂家と言えば、スタンフォード時代の友人である中川八洋(コラム#省略)の当時の奥さんが藤堂家のお姫様という触れ込みでした。
 藤堂家たって色々あるんでしょうが、彼女は、そう言われれば、誰しも否定しがたい、気品ある清楚な美人でした。
 で、話を戻すと、当時、結核には治療薬がなく、基本、滋養のあるものを食べて療養するしかなかったところ、主治医が当時の最新の治療法である、胸郭形成術(注3)を母に試みてくれたおかげで、結核を克服することができたのです。

 (注3)気胸療法の一種。「罹患肺直上の肋骨を数本切除する・・・肺虚脱療法<。>・・・胸郭の変形と晩期の呼吸機能障害<を伴う。>」
https://www.teramoto.or.jp/teramoto_hp/kousin/sinryou/gazoushindan/case/case16/index.html

 とはいえ、この相当乱暴な治療法の影響で健康体とは必ずしも言えなくなった母は、勤めに出ることも結婚することも諦めていたそうです。
 そんなところへ、父、太田重信が、支那から復員して、四日市の小学校時代に同級生だった母がまだ独身であることを知り、求婚して2人が結婚します。
 父は、一度、事実婚ですが、結婚写真が残る結婚をしたことがあって2度目の結婚でしたし、女の噂の絶えない人物でしたが、母は完全に結婚を諦めていたので、後々まで父には感謝していましたね。

(続く)