太田述正コラム#13904(2023.12.12)
<母のことなど(その7)>(2024.3.7公開)


[母の結核など]

 件の従姉は、このシリーズを読んでいない。
 彼女、そもそも、パソコンも持っていないし、そもそも私のコラムに関心を持っていない。
 そんな彼女との間で、彼女が私の父母の誕生日を聞いてきて以来、Lineでのやりとりが断続的に続いているのだが、母は、私の母方の祖母である石垣貞(さだ。三河の庄屋の養女だった由)の異父妹の息子である春日井氏宅に下宿して名古屋で勤めに出ていたのだそうな。
 だから、母が生一伯父の看病をしたのがいつの時期だったのかはともかくとして、それは(この従姉の母親であるところの)当時ずっと実家住まいだった末子伯母(1909(明治42)年生まれ)が実家で伯父の看病をした期間よりはるかに短かったはずであることから、母の結核は伯父から移ったもの、とは必ずしも断定できないのではないか、とのこと。
 そういえば、名古屋で勤めていた、という話を母から聞いたことがあったような・・。
 とにかく、母は、結核にかかったせいで、二度と勤めに出ることができなくなったことを大変残念に思っていて、私に対して、共稼ぎの奥さんをもらうように言い聞かせ続けた。
 このこともあって、私は、その通りの結婚をしたのだが、私の根本的な誤解は、働いている女性は、みんな、母と同じように、働くことそのものに生きがいを見出している人であると思い込んでいたことだ。
 そんな私が、それは間違いだったことに気付かされた時は既に遅かった。

 母は私の妻と世界観が合わないこともあって苦しむ羽目になったし、私の妻との離婚が確定的になったのも私の収入が一時殆どなくなったためだった・・妻は、自分から自分がいつでも好きな時に専業主婦になることができる権利を奪うのかと私を詰った・・のだが、これはまた別の話だ。

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 この家で、私の、芝生と犬・・マリという名前でした・・とヤマハのアップライト・ピアノ付の生活が始まります。
 ピアノ到着時には、近所の人達が大勢集まったという話も前に書いたと思います。(コラム#省略)
 当時はクラシック音楽狂であった父によって、アテネ学院という看板を出していた、女性の上村(うえむら)先生・・ご主人は漢人でした・・について、私がピアノをやらされ始めると、それまで、既に私にいろはやアルファベットを教え込んでいた母は、自身は音楽に関心がなく、しかも音痴だったにもかかわらず、今度は私にピアノの練習を毎日2時間ずつやらせ始め、おかげで、私はめきめき上達しました。
 この中島町の家に住んでいたのは、私が8歳になった直後までの4年弱なのですが、稲場町の時とは違って、事件は起きませんでした。
 家の向かいの石屋さんの石材置き場で遊んでいて、足の親指の爪を剥がしたことくらいです。

(続く)