太田述正コラム#14163(2024.4.20)
<皆さんとディスカッション(続x5871)/支那とインドの、ということは事実上全世界の、日本文明化の可能性について>

<太田>

 安倍問題/防衛費増。↓

 なし。

 ウクライナ問題。↓

 <やったーx2。↓>
  ・・・Kyrylo Budanov, chief of the HUR, said that Ukraine’s soldiers “waited for a long time” tracking the supersonic warplane, which was reportedly shot down roughly 300 kilometers from the Ukrainian border and crashed in Russia’s Stavropol region.・・・
https://www.newsweek.com/ukraine-spent-week-planning-ambus-russian-bomber-1892355
 Atop Russian colonel has been killed in Ukraine’s occupied eastern Luhansk region after Kyiv’s forces fired two long-range Storm Shadow missiles in the region, striking military headquarters, according to local media reports.
Colonel Pavel Alexandrovich Kropotov, 45, commander of Russia’s 59th Guards Communications Brigade, was killed in Luhansk on April 13,・・・
https://www.newsweek.com/russian-officer-killed-ukraine-storm-shadow-luhansk-1892242
 <遅いぞー、バーカ。↓>
 Ukraine weapons package ‘ready to go’ once aid bill clears Congress–It will take the Pentagon less than a week to deliver some weapons to Ukrainian units who have been forced to ration artillery and air defense rounds, officials say・・・
https://www.washingtonpost.com/national-security/2024/04/19/ukraine-us-weapons-house-aid-bill/
 Bipartisan House coalition advances Ukraine aid・・・
https://www.washingtonpost.com/politics/2024/04/19/israel-ukraine-aid-house-speaker-mike-johnson/

 ガザ戦争。↓

 <ミサイルも発射されたこと、ドローンはイラン国内から発射されたらしいものが中心だったこと、しかも、(ミサイルで?)核開発施設の防空システムの一部をピンポイントで破壊したこと、から、イラン政府は狼狽の極だろな。ようやく腑に落ちたよ。↓>
 Israel had vowed retaliation for Iran’s attack last weekend, but the strikes reported overnight were limited, and Iran downplayed them.・・・
 Israel used both missiles fired from warplanes and drones in the strike・・・
 ・・・the attack had been carried out only by small drones, possibly launched from inside Iran, and that radar systems had not detected unidentified aircraft entering Iranian airspace. They said that a separate group of small drones was shot down in the region of Tabriz, roughly 500 miles north of Isfahan.・・・
 Satellite imagery shows that a precision attack damaged an air defense system at an Iranian base.・・・
https://www.nytimes.com/live/2024/04/18/world/israel-iran-gaza-war-news/satellite-imagery-shows-that-a-precision-attack-damaged-an-air-defense-system-at-an-iranian-base
 <要するにこういうこと。↓>
 Israel’s Strike on Iran: A Limited Attack but a Potentially Big Signal–Israel hit a strategic city with carefully measured force, but made the point that it could strike at a center of Iran’s nuclear program.・・・
https://www.nytimes.com/2024/04/19/us/politics/israel-iran-analysis.html

 それでは、その他の国内記事の紹介です。↓

 なし!

 日・文カルト問題。↓

 <韓国にも野蛮人じゃないヒトがいるにはいるのね。↓>
 「・・・改革新党から比例当選したチョン・ハラム氏・・・は・・・SNSで「成人が、成人だけ入れる空間で、公演あるいはフェスティバル形式の文化を享有することの何が問題なのか」とした上で「フェスティバルが開催できなかったことの影響を懸念している。公権力による自由の侵害、事前検閲が広がらないか心配だ」と指摘した。
 チョン氏はさらに「文化コンテンツのパワーは多様性や自律性から出るものだ。(そのためある人が個人的に)『私が気分を害するから』という理由で特定のコンテンツそのものを禁じることはできない。各コンテンツがうまくいくかどうかはその市場で国民の好みと選択により自然に決まってくる。そのため支援はしても干渉はすべきでない」と訴えた。・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2024/04/20/2024042080008.html

 結婚率の低下じゃなく、少子化の理由を論じなさい!↓

 「・・・結婚しなくなったのは、スマホとゲームがあるからなのだ。「ハレ」のエンターテイメント財と違って、費用は予算に応じて調節できる。日常的な「ケ」のエンタメ財の登場、発展、成熟、社会的受容により、世の中にあふれるエンタメ消費財が、結婚という「財」の代替的手段として選ばれるようになったために、21世紀の婚姻率は低下したのである。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/74c90892a49520509fda61e9b42f2246a645aa0f

 ドンファンなら知ってるが・・。↓

 「・・・マルファン症候群とは、生まれつき全身の結合組織が弱くなる遺伝性疾患のことだ。結合組織とは、さまざまな器官を結びつけて支持する組織の総称である。全身の至るところに結合組織は存在するため、マルファン症候群では全身に多様な症状を引き起こす。血管の壁を構成する組織が弱いため、大動脈瘤や大動脈解離を生じやすい。目のレンズ(水晶体)を支持する組織も弱く、視力の低下も起こりやすい。フランスの小児科医アントワーヌ・マルファンは、一八九六年、四肢や手足の指が異常に長い五歳の女児に関する最初の症例報告を行った。この特徴的な手足の症状は「クモ指症」と呼ばれ、マルファン症候群に特有の骨格の異常が原因だ。高身長で手足が長いという身体的特徴は、スポーツの世界で大きなアドバンテージだ。だが激しい運動中に血圧が乱高下すると、心血管系には大きなストレスになってしまう。常人をはるかに上回る手指の長さは、楽器を演奏する音楽家にとっても大きな強みになる。例えば、フランツ・リストの編曲した『パガニーニによる超絶技巧練習曲』で知られる作曲家、バイオリニストのニコロ・パガニーニはマルファン症候群だったとされる(3)。また、同じくマルファン症候群とされるセルゲイ・ラフマニノフは二メートルを超える長身で、その長い手指は、片手で「ド」から一オクターブ上の「ソ」まで届くほどだったという。ラフマニノフもまた、数々の難曲で知られる作曲家である。ともすれば死のリスクを背負いながら、それと引き換えに得た先天的な身体的特徴が音楽史に残る名作を生んだのである。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b65866a0fd6c88a07f34ffba33b427a2b9e868ce

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <人民網より。
 ご愛顧に深謝。↓>
 「スタジオジブリの没入型アート展示会 世界に先駆け上海で開幕・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2024/0419/c94475-20159001.html
 <次に、レコードチャイナより。↓>
 「メーデー5連休に海外旅行が人気、日本や韓国が中心・・・携程網・・・」

https://www.recordchina.co.jp/b932147-s6-c20-d0189.html

 一人題名のない音楽会です。
 Fischerが続いていますが、比較的最近の庄司紗矢香のヴァイオリン演奏動画を新に「発見」したので、お送りします。

 Schumann Violin Concerto D Minor(Postscript)(注) 指揮:Constantinos Carydis オケ:Frankfurt Radio Symphony 32.37分
https://www.youtube.com/watch?v=7GfFiWeQ7yg

(注)「1937年にベルリンの図書館で・・・ヨーゼフ・ヨアヒム・・・の蔵書から発見されるまで日の目を見ることはなかった。世界初演はナチス・ドイツの宣伝省主導で、同年11月26日にゲオルク・クーレンカンプの独奏、カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の共演で行われ、同時に全世界に向けてエジプトや日本まで聴こえる短波放送で流された。しかしこのときの演奏は、クーレンカンプ曰く「シューマンの自筆譜のままでは演奏不可能」として、自身が大幅に書き換えた版によるものであった。実際にクーレンカンプが言うように演奏不可能な箇所はあるが、クーレンカンプの改訂は演奏不可能な箇所を修正するだけではとどまらないものとなっていた。また、パウル・ヒンデミットもこの改訂にかかわった(ノルベルト・ホルニック)。翌12月にセントルイスでアメリカ初演を行ったユーディ・メニューインが「自分こそが真の初演者」と宣言するほどであった。・・・
 日本初演は1938年12月14日、新交響楽団第198回定期公演にて。ウィリー・フライのヴァイオリン、ヨーゼフ・ローゼンシュトックの指揮による。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3)

–支那とインドの、ということは事実上全世界の、日本文明化の可能性について–

I  始めに


[普通人について]

II 支那篇

1 孔子学院・・序に代えて

[大同思想について]
一 大同思想
二 参考
 (一)兼愛交利
 (二)貴己論・小国寡民・君臣並耕
  ア 貴己論
  イ 小国寡民

  ウ 君臣並耕


[漢人文明の前身たる長江文明]
一 序
二 楚
三 墨子

四 総括


[支那の非仁政史–社会福祉の貧困]

2 孔子の実像
 (1)仁

 (2)武

[戦争–国家の起源論再訪]

 (3)礼

[一族郎党について]


[楽について]


[女性について]

 (4)徳

3 孔子が仁を「発見」できたわけ

 (1)殷人たる孔子

[夏について]

 (2)建国後の殷

 (3)建国前の殷人

[周について]


[孔子と商業]


[支那の天下統一直前は近代だがその後は前近代]
一 天下統一直前–近代
 (一)高度な兵器
 (二)無宗教
二 停滞–前近代
 (一)停滞は事実
 (二)停滞理由
  ア 帝国病

  イ その原因

4 孔子の「後継」史
 (1)序に代えて–改めて孔子(BC552/551~BC479年)について
 (2)孟子(BC372?~BC289?年)
  ア 仁を巡って
  (ア)全般
  (イ)孔子からの前進・・民本主義
  (ウ)孔子からの後退・・階層的人間観
  イ 軍事
 (3)荀子(BC298/313~BC238)
  ア 始めに

  イ 孔子がほほ笑むであろう部分

[墨家の思想再訪]


[韓非子]

  ウ 孔子が眉を顰めるであろう部分
  エ 爾後の支那における荀子評価
 (4)儒教
  ア 孔子の考えの矮小化による原初的儒教の成立

  イ 秦始皇帝による原初的儒教の弾圧

[邑社会・個別人身的社会から一族郎党社会へ]
一 歯位・爵制の廃止

二 豪族の出現

  ウ 前漢高祖による軍事軽視政策の確立

[軍事軽視政策の帰結]
一 序
二 弱体な軍事力
三 武力なき豪族
四 都市化の阻害
五 把握人口の停滞
六 中国武術の誕生

七 現在は?

  エ 前漢武帝による原初的儒教の復権
  オ 新・王莽による原初儒教の儒教化とその国家イデオロギー化への着手
  カ 後漢光武帝による儒教の概成とその国家イデオロギー化
  キ 後漢章帝による儒教の完成と儒教を国家イデオロギーとする漢人文明の完成

  ク 唐の韓愈による荀子の排斥

[新羅における文明の乗り換え再訪]

 (5)程明道(程顥(ていこう))(1032~1085年)
(6)朱熹(朱子。1130~1200年)
 (7)王陽明(1472~1529年)
  ア 仁を巡って
  イ 軍事を巡って
 (6)李卓吾(李贄(りし))(1527~1602年)

(7)結論

[枢軸の時代再訪]
一 序
二 孔子/孫武 
三 イエス
 (一)前史1(ユダヤ教)
 (二)前史2(古典ギリシャ)
(参考1)ユートピア
 (三)ナザレのイエス
四 法華経
 (一)前史1(釈迦)
 (二)前史2(法華経編纂者達)
(参考2)ゾロアスター教・原始共産制 
  A ゾロアスター教

  B 原始共産制


[十七条憲法再訪]


[尊王攘夷と大義名分論]


[前漢人諸文明と漢人文明]
一 前漢人文明諸文明
 (一)遼河文明
 (二)黄河文明(付:中原文明(華夏文明))
 (三)長江文明(日本との関係)

二 漢人文明

5 エピローグ

III 特別編–赤穂事件と漢学

1 序
2 山鹿素行・荻生徂徠・熊沢蕃山
 (1)山鹿素行(1622~1685年)
 (2)荻生徂徠(1666~1728年)

 (3)熊沢蕃山(1619~1691年)

[心学]

3 赤穂事件関係各藩について
 (1)吉良方の津軽藩
 (2)吉良方の平戸藩
  ア 始めに代えて
  イ 松浦鎮信(1549~1614年)
  ウ 松浦隆信(1592~1637年)
  エ 松浦重信(鎮信)(1622~1703年)

  オ 松浦清(静山)(1760~1841年)

[嵯峨家再訪]

4 吉良方の上杉藩のその後
 (1)上杉富子(1643~1704年)

 (2)上杉綱憲(1663~1704年)

[吉田松陰の米沢行]

 (3)上杉治憲(鷹山)(1751~1822年)
  ア その生涯

  イ 鷹山と儒教

[林羅山の矮小性]

 (4)上杉斉憲(なりのり。1820~1889年)

[千坂高雅の先祖の、赤穂事件、上杉鷹山との関わり]
一 赤穂事件との「関わり」

二 上杉鷹山との関わり

5 浪士方の浅野氏のその後
 (1)赤穂浅野氏
 (2)広島浅野氏(浅野本家)

 (3)頼山陽(1781~1832年)

[黄檗宗]


[本居宣長]

6 エピローグ

I  始めに

 カイロ時代に、私は、現地のイギリス系の小学校の同級生等から、何度か、日本ってどんな国なのか、と、問われて、その都度答えに窮してしまい、弱ったものだ。
 当時の自分ごときですら、エジプトとは、とか、イスラム世界とは、とか、イギリスとは、とか、イスラエルとは、とかには、それなりに答えられそうだったというのに・・。
 そんな私が、帰国してから『菊と刀』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E3%81%A8%E5%88%80
を読んだのは、一体、いつのことだっただろうか。
 対照的な二つの要素からなる日本、と著者のルース・ベネディクトの言うのは腑に落ちたけれど、今度は、この二つの要素の歴史的起源が、当時の私には皆目見当がつかず、いわば冒頭に紹介した問いかけが二倍の問いかけに変わっただけで、依然として(どちらにも)私が答えられない状態が続いた。
 そんな私が、大学を出て防衛庁(当時)に入った時に、「刀」の要素が防衛庁/自衛隊の中においてさえ既に急速に失われつつあることを発見して愕然とし、ひょっとして、「菊」の方とは違って「刀」の方は日本にとってはとってつけたようなもの、メッキのようなもの、だったのではないか、という素朴な疑問が生まれた。
 この疑問への私なりの仮説的な解答が、「聖徳太子コンセンサス」(コラム#省略)・・「刀」の要素は上から人為的に創造された(ので捨て去ったり消え去ったりするのも簡単だった)!・・だったわけだが、疑問を抱いてから、その時までだけで実に数十年が経過していた。
 その上で、今度は、「菊」の要素が、厩戸皇子当時に日本列島に存在していたことは実は奇跡に近かったこと、更には、この、「菊」と「刀」からなる日本文明が、戦後、やはり、上からのイニシアティヴでもって人為的に「刀」の要素が抑圧され捨て去られてしまった結果、日本文明が崩壊するに至り、今や、日本列島は、プロト日本文明の時代・・「菊」だけの時代・・へと回帰してしまったことに気付いたというわけだ。
 そこで、今回は、日本においては失われてしまったところの、この日本文明が、世界のどこかで復活する可能性があるか否かを追究してみることにした。
 今回は、その第一弾だ。
 第二弾をご披露できる時まで私の命があるかどうかは微妙だが・・。


[普通人について]

 私の、「縄文人」、「弥生人」、「縄文的弥生人」、「弥生的縄文人」、という用語は、「プロト日本文明」における日本の縄文文化の担い手であった歴史上の縄文人、と、弥生文化の担い手であった歴史上の弥生人、にヒントを得て、作り、用いてきたものであり、私の「縄文人」/「弥生人」≠縄文人/弥生人、であることに、くれぐれも注意していただきたい。
 「プロト日本文明」や「日本文明」・・後者はハンチントンも用いている(典拠省略)・・も含め、これらの諸用語についての説明は、ここでは改めて行わない・・但し、「縄文人」は(同じく私が作った用語である)「人間主義(じんかんしゅぎ)」人であること、や、その「縄文人」の一番簡単な見分け方は健常者たる清潔魔であること、を銘記して欲しい・・けれど、やはり私が作り、昨年使い始めたばかりの用語である「普通人」については、馴染みがない人の方が多いと思うので、ここで、これまで私の行ってきた説明を振り返っておきたい。
 以下、「」なしの縄文人、弥生人、は、断りがない限り、私の用語たる縄文人、弥生人のことであるのでご注意。↓

 「私<が自らを>縄文人だと言ったことがあるとすれば、それは一種の比喩として<です>。
 何せ、自衛隊の部隊視察の際に拳銃の試射を勧められ、その重さに驚き、かつ、緊張して体が強張り、震えが止まらず、支えるように銃床にあてた左手の掌を切って出血しながらようやくのことで射撃した、という柔弱ぶりですから、少なくとも私は縄文的弥生人じゃあありませんからね。
 かといって、縄文人でもありません。
 <現時点においては、>ごく少数の縄文的弥生人以外の日本人は、基本縄文人だ、というのが私の主張ですが、他方、(これは初めて言いますが、)世界の大部分の人は、多数の普通人か少数の弥生人かのどっちかである、と私は考えているところ、そんな私は、例外的な日本人であって、普通人<もどきで>ある、と、自認しています。
 どうして、<本来は縄文人であった>私が普通人<もどき>なんぞになったかですが、小学生時代の4年弱をカイロで過ごしたためです。
 要するに、小学校のクラスメート達が一部の弥生人を除き普通人ばかりだったので、彼等との交流を通じて私も普通人色に染まってしまった、ということです。
 もう一つ言えるのは、私の、クラスメートたる、普通人が帯びていた弥生性、と、弥生性の塊のような弥生人、との交流を通じて、私が弥生性の何たるか<も>分かる人間に・・・なった<の>です。
 (スエズ戦争
https://www.y-history.net/appendix/wh1603-010.html
を、<私が>爆撃/砲撃音と戦時の雰囲気の形で「経験」したことも与ってますね。)
 私は、<縄文人や>弥生人<についての>評論家である、と、言ってもよろしいかと。・・・
 さて、コロナ時のマスク着用、や、自転車使用時のヘルメット着用は、どちらも罰則をともなわない公的規範です。
 また、普通人の行動基準は、基本、損得勘定です。
 ですから、<私は、>スーパー等に入れてもらいたいからマスクをするし、2か所のスーパーを毎回利用するところ、着脱を何度もするのは面倒くさいので路上でもしている、また、自転車で事故ってけがをした場合、ヘルメットをしてないと保険金や相手からもらう賠償金を減らされる恐れがあるのでヘルメットをする、という、ただそれだけのことです。
 (コロナに係る公的規範がもはや存在しない以上、私がマスクをしないのは当然です。)」(コラム#13903)
 「本来の意味の個人主義(/indivitualism=資本主義/capitalism)は、アングロサクソン文明の最もユニークな特徴であり、親とか子とか家とか氏族といったものに基本的に拘ることなくあらゆる意思決定を自由に行うことができる、という、ある意味、異常な主義です。(コラム#省略)
 そうである以上、集団主義は個人主義の対置概念としては必ずしも適しておらず、従って、集団主義の対置概念として、この前、私は初めて非集団主義、という言葉を用いたところです。
 この非集団主義性において、日本の縄文人は米国人一般よりも強いことが明らかになっています。(コラム#省略) 
 このことから、私は、非集団主義性世界一を競っているのが、アングロサクソン(個人主義人)と縄文人である、と考えるに至っています。
 そして、前者は人間主義的者であり、後者は人間主義者です。
 但し、アングロサクソンは、有事においては集団主義者へと変身を遂げるのに対し、縄文人には平時と有事を区別する観念、というか、有事概念、を持ち合わせていません。
 また、弥生人の典型として私のイメージにあるのは、一つは<かつての騎馬>遊牧民であり、もう一つは<かつての>ゲルマン人です。(コラム#省略)
 私は、アングロサクソンの、平時の人間主義的な個人主義、有事の非人間主義の集団主義、なる二面性は、前者はケルト系の多数派の影響力がリードし、後者はゲルマン系の少数派の影響力がリードすることによって形成された、と、見ています。
 普通人は、アングロサクソンでも弥生人でも縄文人・・弥生的縄文人を含むが、弥生的縄文人は、弥生人を演ずる縄文人<のことだ>・・でもない人々であるところ、・・・弥生人も縄文人も普通人も、いずれも個人主義者ではありません。」(コラム#13947)
 「孔子の<言う>君子<(後出)>は私の言う縄文人(人間主義者)、小人は私の言う普通人、である、と言うのが私の考えなのです。」(コラム#14160)
 「支那における、洋務運動/中体西用、も、変法運動/戊戌の変法、も、また、日本における明治維新/和魂洋才、も、俯瞰的に見れば、大同小異<であるにもかかわらず>、前者が失敗し、後者が成功した、のは、「中体」が、私の言う普通人文明支那亜種だったのに対し、「和魂」が、私の言う日本文明(縄文的弥生人・縄文人複合文明)だったところにある、と、私は考えるに至っています。
 つまり、弥生人的2文明からなる西欧勢力・・これにやがて<表見的には>日本も加わる・・の東漸に対し、弥生人抜きの前者は対処できず、後者は対処できた、と。
 (弥生人的2文明とは、取り敢えずは、縄文的弥生人文明のアングロサクソン文明、と、弥生人が普通人を率いる欧州文明、である、と、申し上げておきましょう・・・。)」(コラム#14128(未公開))

⇒省エネ「普通人」紹介で失礼したが、さっそくマクロ的に「普通人」を使わせてもらえば、さしずめ、今回の「講演」の肝は、(日本文明は、日本の12世紀以降における支那の江南由来の渡来人系の弥生的縄文人が縄文的弥生人を創出して土着の縄文人を統治した文明であったのに対し、)漢人文明は、支那のBC3世紀以降における、当初は江南系の弥生的縄文人、後には、弥生的縄文人化した弥生人や普通人、が、当初は主として中原の、後には様々な支那の地域の、普通人、を統治した文明だった、といったところになりそうだ。

 もう一つ、今度はミクロ的な使い方をさせてもらえれば、支那において、戦国時代に普通人の思想を明文化したのが(老子と道教とのリンチピンとでも形容すべきところの)楊朱<(後出)>(BC370?~BC319?)(コラム#14142)、と、言えそうだ。(太田)

II 支那篇

1 孔子学院・・序に代えて

 そういうわけで、支那の日本文明化の可能性について模索しよう。
 そのためには、いの一番に、孔子の評価をしなければならないところ、流れた12月のオフ会の直前の段階で、まだ私は、孔子の仁が人間主義に背馳する差別的なものなのかそうではないのかを決めかねていた。
 そんな私が、差別的なものであるはずがない、という結論を下したのは今年の1月下旬にもなってからだった。
 決め手になったのは、一つには、中共発の孔子学院のことを思い出し、そんなネーミングの公的施設が世界中に設置される運びになったということは、孔子に対するあらゆる批判に完璧な反論を中共当局が行えると考えたからに違いないと想像できたこと、と、二つには、TV映画シリーズの『始皇帝天下統一』と『孫子兵法』の鑑賞を通じて春秋時代末/戦国時代の支那がいかに近代的な社会であったかをビジュアルに感じ取ることができ、現在でも通用する近代的な戦略論を展開した孫武と同時代人であった倫理学者の孔子だって現在でも通用する近代的な倫理学説を展開しなかった、と考える方がおかしい、と思ったことだ。
 そこで、まず、孔子学院について、同学院生誕の前後を含めて取り上げよう。
 孔子学院なるネーミングは、明らかにドイツのゲーテ・インスティチュートを意識したものだと思われるが、ゲーテも孔子(Confucius)も世界の大方の人なら知っているとはいえ、ゲーテは文学者であるのに対し、孔子は思想家だ。
 これは、中共当局が孔子の考えを支那を代表するものと認めたことを意味する。
 しかし、その中共の祖とも言うべき毛沢東は、文化大革命中に「批林批孔運動」を展開し、猛烈な孔子批判を行ったではないか。
 一体全体、どうして、また、いかなる経過を辿って、そんなアクロバット的転換が行われたのだろうか。
 今回、改めてこの難問に取り組み、最初に思い浮かんだのは、習近平が日本文明総体継受を推進してきている・・肝心の日本では日本文明は毛沢東生存中に早くも崩壊しつつあったことはさておく・・と私が見ているところ、北宋の儒学者である程顥(ていこう)の万物一体の仁(後出)が日本の人間主義とほぼ同じものである(と、これも私が見ている)ことに彼が着目しつつも、程顥は余り知られていないので、やむなく、最初に(「万物」中の「人間」だけに着目した)仁の言い出しっぺであるところの、儒学の祖たる孔子、を復権させることにしたのではないか、ということだった。
 しかし、すぐに、そうではなく、習近平は、孔子そのものを復権させるに値する思想家だと判断したのではないか、と考え直した。
 仮にそうだとすると、それは、孔子の「仁」を、差別愛的な観念である、と批判してきたところの、墨子に始まる、ありとあらゆる孔子批判が、ことごとく根拠レスであることを客観的に説明できる、と、中共当局が判断した、ということではないか、と。
 そこで、関志雄氏の論考を活用して、孔子学園の出現前後の孔子/儒教がらみの中共当局の動きを振り返ってみた。↓
 
 「「小康社会」、「調和の取れた社会」、「以徳治国」(徳を以て国を治める)など、儒教に由来する多くの理念<が>共産党の政策綱領に盛り込まれ<るに至っ>ている。

 <1> 1 小康社会

 鄧小平は改革開放の初期の段階で、中国の現代化の目標を、「いくらかゆとりのある社会」を意味する「小康社会」<(注1)>に定めた。

 (注1)「小康」という言葉は、詩経の『大雅』の中の「民労」から引用されている。「民亦労止、汔可小康(民も労し、かく小康となる)」という一節で、「庶民の労働が止まり、少しばかりの安らぎが得られるべきだ」という意味がある。このことから「小康」という言葉の原義は、比較的安定した生活を指すとされている。・・・
 鄧小平は、1979年12月に「四つの近代化」に基づいて「小康」というスローガンを初めて提案した。・・・
 胡錦濤の時代に、中国共産党が中国の未来のビジョンを正当化するために「小康社会」が再び使われるようになった。・・・
 2007年の中国共産党第十七回全国代表大会において、胡錦濤は「2020年までに全面的に小康社会を築くことを確保する」と報告した。
 2017年、習近平は中国共産党第十九回全国代表大会の報告で、人民の温飽問題の解決と総じて小康水準の生活の実現という2つの目標が早期に達成されたことを提起した。現在は小康社会の完成期に入っており、全面的な小康社会の実現を達成すると述べた。
 2021年7月、習近平は、中国共産党設立100周年記念大会で、「我々は第一の(中国共産党設立から)100年奮闘目標を達成し、中華の地において全面的な小康社会を完成した」と宣言した。さらに、中華人民共和国100周年である2049年までに、社会主義現代化強国を実現すると宣言した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BA%B7%E7%A4%BE%E4%BC%9A

 「小康」とは、前漢期にまとめられた儒教の古典の一つである『礼記』<(注2)>の「礼運篇」の中で・・・「大同」に次ぐ理想の社会として描かれたものである。

 (注2)「現代に伝わる『礼記』は、周から漢にかけての儒学者がまとめた礼に関する記述を、前漢の戴聖が編纂したものである。・・・
 『礼記』は雑然とした内容を集積した書物であり、篇によって成立時期は異なる。例えば、「中庸」篇は孔子の孫の子思の作、「月令」篇は秦の呂不韋の『呂氏春秋』に拠る、また「王制」篇は『史記』封禅書をもとに前漢の文帝の時に編纂されたとされている。・・・
 宋代<、>・・・朱子学によって『大学』と『中庸』の2篇が『礼記』の中から取り出され、『論語』『孟子』とともに四書の一つに数えられるに至った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E8%A8%98

 大同は、共産主義社会と同じように、争いのない公有制を前提としているのに対して、小康は、私有制と人々の私欲を前提とし、「礼」(制度)によって治める社会として描かれている。

⇒「大同は<、>・・・公有制を前提としている」とは私は思わないところの、『礼記』の中だけにしか登場しない、言葉である(後述)、上に、「小康」は、『礼記』だけではなく『詩経』にも登場する、また、大同は(私はそうとは思わない(後述)が)孔子(だけ)が使った言葉であるとされている、のに対し、「小康」は、孔子も使ったかもしれないが、孔子とは無関係に『詩経』にも登場する言葉であること、から、鄧小平は「小康」という言葉を採用したのではなかろうか。
 (一挙に孔子そのものを復権させるのは控えたという側面もあった、ということを、私としては指摘しておきたい。)
 ちなみに、鄧小平は、2008年から2019年まで駐日中国大使を歴代最長の9年3カ月にわたって務めることとなる程永華を、1975~1977年の間、創価大学に留学させていて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E6%B0%B8%E8%8F%AF 
これは、当時中共当局が行っていた日蓮主義の研究の一環であろうというのが私の認識(コラム#7625)であるところ、「1979年12月6日、<鄧小平>は、訪中した日本の首相大平正芳との会談で、「中国の近代化の目標は小康の状態を達成する」と<初めて小康社会を>提唱し・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BA%B7%E7%A4%BE%E4%BC%9A
のは、今にして思えば、日蓮主義が目指した世界である、慈悲に満ちた社会(人間主義社会)、を、我々は小康社会と名付けたところ、かかる社会の支那での実現に向けて環境整備をしてくれた日本は、その実現そのものについても協力して欲しい、という意思表示だったのではなかろうか。(太田)


[大同思想について]

一 大同思想

 「<支那>的ユートピア思想で、階級的差別や搾取のない自由平等平和の社会を構想する。大同<・・大道・・>とは、『礼記(らいき)』礼運篇(れいうんへん)に「権力を独占する者がなく平等で、財貨は共有となり生活が保障され、各人が十分に才能を発揮することができ、犯罪も起こらない世の中」と定義されている・・・が、考え方としては、それ以前の文献にも、墨子(ぼくし)の兼愛交利とか、老子の小国寡民とか、許行の君臣並耕などのように、断片的にではあるが数多く現れている。・・・
 孔子は,遠い古代には〈大道〉(すぐれた道徳)が行われていて天下は公有のものであったとされて,公平で平和な共産的理想社会を描き,それに反し,今日は〈大道〉がすでに隠れて,天下は一家の私有となり,私利私欲の横行する混乱した社会になったと嘆いている。・・・

⇒「矜寡<(かんか)>・孤独・廃疾の者をして、皆な養ふ所有らしむ。・・・貨は其の地に棄てんことを悪にくむも、必ずしも己に蔵<(かく)>さず、力は其の身に出でざることを悪むも、必ずしも己の為にせず。」(礼記-禮運より)
http://kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_753.html
からは、社会保障・福祉、要するに仁政の提唱はあっても、「財貨<の>共有」だの「共産的・・・社会」だのの提唱がなされているわけではない、と、私は思う。
 なお、孔子は仁政を唱えたことはない、とも私は思っている。
 いずれにせよ、『礼記』の成立事情から、孔子が本当にこんなことを言ったのかどうか、さえもはっきりしないことを銘記すべきだろう。(太田)

 漢代以後は、消極的な現実逃避的な思想の描く理想郷、神仙の世界に投影されたものと、積極的に政治的な理想としての井田(せいでん)制の実現を企図したものとが現れている。
 また歴史上しばしば発生した農民起義(叛乱(はんらん))においても、・・・この大同思想に似た,土地・家屋の均分公有という思想は・・・しばしば提起され,19世紀中ごろの太平天国運動で,洪秀全が《原道醒世訓》の中で,理想とする新世界を〈礼運篇〉にもとづきながら説明<すると共に>天朝田畝制度<を唱えた>・・・のは,その典型といえる。

⇒よって、「大同思想に似た,土地・家屋の均分公有という思想」も意味不明だ。
 なお、以上について、コラム#14130も参照されたい。(太田)

 清末変法運動の指導者康有為は、礼運篇の説と春秋公羊(くよう)学の三世説とを結び付けて大同世に至る段階を『礼運注』において、また現世における苦しみの状況とそこから大同世に至る道程および大同世のありさまを『大同書』(1935)において描いている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%90%8C%E6%80%9D%E6%83%B3-91681#

 大同思想に似たものがいくつかある。↓

 「墨子<の>・・・「兼愛」は、人々をだれもまったく同じように愛すること。博愛と同意。「交利」は、人と人とが互いに利益を与え合うこと<であり、支那>戦国時代の思想家、墨子が唱えた説で、・・・孟子から主君や父祖を無視する邪説として批判された。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%85%BC%E6%84%9B%E4%BA%A4%E5%88%A9/
 また、「<『老子』の>『小国寡民』<のくだりの>・・・現代語訳(口語訳)<は、次の通りだ。>
 小さい国で国民は少ない(国があるとしよう)。
 (そこでは、)便利な道具・・・があっても(国民には)使わせない。
 国民に命を大切にさせ、遠くに移住させないようにするのであれば、たとえ小舟や車があったとしても、これに乗ることはなく、たとえ鎧と武器があったとしても、これを並べることはない。(並べて戦争をすることはない。)
 国民に、縄を結んでそれを約束の印として用い(た古代のような生活をさせ)、食事をおいしいと思い、着ている服を美しいと思い、住居に満足し、自分たちの生活の習慣を楽しいませるようにすれば、近隣の国がすぐ見える所にあって、鶏や犬の鳴き声が聞こえる距離にあったとしても、国民は老いて死ぬまで、互いの国を行き来するようなことはない。」
https://manapedia.jp/text/3841?page=2
 「許行<は、>・・・戦国時代の思想家<で、>諸子百家のなかの農家に属する・・・楚の人。滕国(山東省)におもむき文公から田宅を賜って,仲間数十人とともに,粗服をまとい,わらぐつを編み,むしろを作って生活したという。神農の教えと称して,君主も人民もともに労働に従うべきだという君民並耕説と,同じ長さの布帛(ふはく),同じ量の五穀は同じ値段であるべきだという・・・農業保護の物価統制策<たる>・・・物価斉一論を説いた。孟子は精神・肉体労働の分業を,治者・被治者の関係でとらえ,この耕農優先説を君臣の本分を乱す逆コースと非難した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A8%B1%E8%A1%8C-53331
 『孟子』滕文公章句上では、<この>農家の思想家の許行の説が記されている。農業の始祖として「后稷」の代わりに「神農」を尊ぶ。神農の教えによれば、賢者・王侯といえども耕作や炊事の万端を自分の手で行うべきであり、このやり方に従えば物価は一定となり国中で偽りをする者がいなくなる、という主張であった。<この許行説についても、>孟子は、分業を非とする農本主義的なこの思想を、悪平等で「天下を乱す」として斥けた。また、孟子が「許行は自ら服や家を作るのか」と許行の高弟に問い、「否」と答えたのに対し「服や家を作るのが大変で農作業の片手間に出来ないというなら、なぜ政治は農作業の片手間に出来るのか」と孟子が問うとその弟子は答えることが出来なかったという。
 許行は孟子と同時代人で、氾勝之は前漢の成帝時期の人とされる。はじめは単に農を勧めるだけだったが、後に君臣上下の別なく農耕に従事すべきであるといい、勤労による天下平等を主張した。これは墨子の勤倹と道家の説く平等に影響された考え方と推測できる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%AE%B6_(%E8%AB%B8%E5%AD%90%E7%99%BE%E5%AE%B6) 

⇒その上で、張紀潯「中国における社会保障思想の生成と歴史的考察」を引用し、諸所に私のコメントを付す。(太田)

 「・・・真実の道–すなわち大道が行われると、あらゆる人々がすべて公正になり、力のある者はとり上げられ、義は重んじられ、すべての人が親しくなる。人々は自分の親だけを大切にするのではなくて、また自分の子どもだけを子供と考えたりもせず、老人は余生を楽しく送ることができ、壮年の者は十分仕事ができ、幼い者は無事に育てられ、妻を失った男も、夫を失った女も、身寄りのない者も、身体障害者も、病気に罹ったものはみなよく世話をされる。<」>
 このような社会を大同社会というのである。・・・

⇒すぐ上の諸引用を踏まえれば、兼愛交利(『墨子』)/小国寡民(『老子』)/君臣並耕(許行)、と、大同思想の親縁性が分かるが、墨子は楚人と見てよく(コラム#13780、13782)、老子は実在の人物かどうか議論が定まっていないが、楚人ということになっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90
し、許行は楚人なのだから、大同思想もまた、楚人(江南人)の産物と言ってよいのではなかろうか。(太田)

 <ちなみに、>孟子<自身>は「恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし」<(注3)>と述べ、・・・<また、>・・・「仁政」<(注4)>を実施する必要があることを説き、国民に対して・・・「・・・十分な蓄えをもって父・母親を大切にして、妻子を養う。豊年では一年中食うことに困らず、凶年では死亡から逃れることができるようにしなければならない」という。

 (注3)「「安定した財産なり職業をもっていないと、安定した道徳心を保つことは難しい」といった意味である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E7%94%A3%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%A6%E6%81%92%E5%BF%83%E3%81%AA%E3%81%97
 (注4)「孟子<の>・・・〈仁政〉の主張は〈人間らしさ〉のあらわれである仁は個人の努力,あり方のみで具現されるものではなく,政治等の社会的諸力に裏打ちされてより高度に達成されるとの認識を背後にもっている。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E6%94%BF-538042

 このような考え方は<孟子の>「民本」と「仁政」思想の中核をなしている。・・・
 孟子は孔子の大同社会をさらに具体化し、「・・・人が飢えれば、自分も飢えると思え、人がおぼれるならば自分もおぼれる思いをしなければならない<」>、このようにして「・・・出るも入るも互いに仲間となり、戦時は互いに助けあって、敵の防御をし、病気は互いに救い合うようにすれば、百姓はみな親しみ合い団結する<」>ということを「大同」思想とする(『孟子・藤文公』)。・・・

⇒「孟子は孔子の大同社会をさらに具体化し」は、既述したように孔子自身が大同社会を唱えたとは言い難いので誤りだと言ってよさそうだが、「孔子の以後、孟子は更なる仁の解釈を政治的秩序まで拡げ、主に彼の仁政の政治学説の中に現した。彼は仁政を行い、徳をもって人に納得させ、君臣相愛を求め、国が安定し民が安らかである状態に達し、国を良く治め天下を平かにすることを主張した。」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/139304/1/asia9xu.pdf 前掲
は、孔子自身は仁政を唱えなかったと考えている私(後述)としては、異論はない。(太田)

二 参考

 (一)兼愛交利

 墨子(前468~前376)の思想の中核をなすのは「兼愛思想」である。
 兼愛思想は、家族愛を主体とする孔子と違う立場をとり、無差別平等の愛を目指すものである。

⇒「孔子」(後出)は、「家族愛を主体とする孔子」は間違い(後述)なので、「儒教」(後出)でなければならない。(太田)

 <その後成立した(太田)>儒教<における>家族愛や仁愛は何よりもまず血のつながりを重要視し、家族愛をベースにしてそれを家族から近隣へ、自分の家族から他の家族や国へと拡げていく、いわゆる差別の愛である。
 愛するということは墨子にとって愛の相手に利益を供与することであり、「・・・兼く愛して、交いに利する<」>のである。
 そして「相手に利益を供与することは自分のため」でもあり、その努力が必ずいつか報いられるものと考えられ、功利的な性格を濃く持つ思想として知られている。
 墨子は「・・・天下の人々は互いに愛し合うべきである。強い者は弱い者を虐めず、大勢の者は小数者に乱暴せず、富める者は貧しい者を侮辱せず、身分の高い者は身分の低い者を馬鹿にせず、ずる賢い者は愚鈍な者を欺いてはならない<」>ことを諭す(『墨子・非楽編上』)。
 天下、万人を栄する「兼愛思想」の神髄を「・・・力のある者は自ら進んで人を助ける。富のある者は人に富を分けるように努力する。知識のある者は人を教え、学習を勧める。もし、飢える者は食べ物に困らず、寒さに震える者に衣服が与えられるならば、乱れる者は治められ、世の中も安泰になる(」)という教えから見て取ることができる。
 墨子は社会保障事業に対する政府の積極的介入を主張する<孔子や孟子の>思想に反対し、「愛の心」を基礎とした博愛主義と互いに相手を利する相互扶助制度の確立に重点がおかれ、社会福祉と社会保障の基礎をなす社会性と同じ意味をもつ。
 他方、墨子の「交利論」は兼愛思想と同じ意味をもつ。
 利の問題についても墨家と儒教は鮮明な対照を成している。
 儒教は利に関わる問題にあまり触れない。
 たとえ、触れたとしても利を倫理規範の側面から説き明し、倫理規範をもって利の意味を規定する。
 これとは逆に墨子は利をその哲学の理念、原則と位置付け、利をもって倫理規範を規定する。
 墨子のいう「利」は広い意味の利益であり、物質的な利益のほかに精神的な利益も含まれ、人々に役立つすべての物を「利」の範疇に含めるとする。
 利益をベースにして、個人の利益を全体の利益と結び付けることに「交利論」の特徴がみられる。
 墨子によれば、「人を利すれば、己れも利する。人を損なえば己れも損なう。人々が互いに相手に害を与えることなくなれば、天下の禍、妬み、恨みも自然になくなる」ことを諭す。・・・
 墨子思想の中で特筆すべきことは国民の休息を重視することである。
 墨子は「民衆には心配事が三つあるという。飢えていても食物が得られず、寒さに震えても衣服が得られず、疲労が激しくても休息が得られないこと」がそれであり、「飢える者に食べ物を与え、寒さに震える者に衣服を与え、働く者に休みをあたえるべきだ」ということを指摘した(『墨子・非楽編上』)。・・・

⇒「国民の休息<の>重視」はともかくとして、「兼愛交利」の「兼愛」の「愛」が孔子の「仁」(後出)と同じものであれば、また、「交利」についても、物質的な利益に関しては、孔子は商(殷)の王室の末裔である以上、孔子に異存があろう筈がない。
 しかし、墨子は、義を統治者が統一せよと説く(後出)ところ、これは、「愛」についても「利」についても多義性があることを前提としており、「仁」に多義性を認める筈がない孔子とは、この点で決定的に異なる。(太田)

 (二)貴己論・小国寡民・君臣並耕

  ア 貴己論

 揚朱<(注5)>(前400~前335)は道家早期の代表人物であり、揚朱学派は当時<孔子の弟子達>と並<ぶ>ほど大きな勢力を持っていた。

 (注5)「戦国時代(前3世紀後半)に為我(いが)説(我が為(ため)にする自己中心主義)を唱え、墨翟(ぼくてき)学派(墨家)と並んで大きな勢力をもったらしいが、その詳細は不明である。孟子の評言によると、世界のためになるからといって毛筋1本でさえ自分を犠牲にすることは拒否するという、徹底した自己主義者で、世界の問題よりは、個人的、内面的な問題を重視する荘子の思想などとの類縁がみられる。自己中心の思想は、その要点として生命尊重の思想と関係し、さらには感覚的欲望の解放とも関係する。『呂氏春秋』の「貴生編」などにみえる養生思想は、利己的独善的な傾向が強く、またそこにみえる子華子(しかし)の全生説は欲望解放に向かう傾向をみせていて、楊朱の後学の思想を伝えるものであろうとされている。また、『列子』のなかに「楊朱編」があり、極端な快楽説として有名であるが、おそらくその名を借りただけの後世の仮託であろう。・・・金谷治」
https://kotobank.jp/word/%E6%A5%8A%E6%9C%B1-145703

 揚朱学派は、人間が追<求>するのは個人的利益にすぎず、また、人間にとって確かなものは自分自身であることから、「貴己論」(己を尊ぶ)または「為我論」(己のため)を唱えた。
 揚朱は「人々は自分自身の貴賤、栄辱を知らない。己れこそは真実を知る貴い者である」とし、「一生を全うするにはまず自分自身を全うする。それがゆえに己を大事にしなければならない」と考える(『列子・揚朱編』)。
 「貴己論」は<後に成立する>儒教の「天下為公」思想<、や、>墨子の兼愛思想<、>と<、>真っ向から対立し極端な個人主義、為我主義を主張する。
 但し、「貴己論」は決して孟子が批判したように「一毛を抜きて天下を利するも為さざるなり」といった個人主義に徹したものではない。
 むしろ個々人が己の生命肉体を大事にすることにこそ価値があり、そうすることによって天下も自ら治まることを論じている。

⇒良く考えてみれば、揚朱の言っていることは、老子の言っていること(下出)と大差ない。
 揚朱も江南人ではなかろうか。(太田)

  イ 小国寡民

 老子の「無為而治<(むいのち)>」(無為による治理)は「貴己論」と同様に政府の役割を否定し、個人の自由を強く主張している。
 老子は、天地万物の変化、社会人事の興亡を通じてそこに一定の通則を見出した。
 それは例えば、有無、生死、高下、強弱などのように矛盾対立するものの相互依存(有があるから無がある)と相互転化(有は無に、無は優に転じようとする)の法則である。
 宇宙万物は対立するもろもろの関係の相互転化の過程が無限に反復することによってたえざる生々変化を示す。
 この現象の背後にひそむ本体は「道」と呼ばれる。
 道は人間の知覚を超越した「無」としかいいようのないある物である。
 無為の思想を「・・・聖人は言う。”私は行動しない”それゆえ、人民はおのずから教化され、私が静寂を愛すれば、人民はおのずから正しい道をいく。私が手出しをしなければ、人民はおのずから冨み栄、私が良く帽をなくしていれば、人民はおおのずから簡素になろう<」>から窺い知ることができる
 「無為」の本来の意味は作為をしないことをいう。
 しかし、無為は決してなにもしないことではなく、無の働き、つまり「道」の法則に従えば、「有」が生まれることを意味する。
 老子は社会の活動を含む社会福祉に対する政府の干渉に反対し、事柄の変化を自然のままに任せていけばいずれかが問題解決の道を見付けるだろうと考え、人々の欲望を「無欲」にまで減らさなければならないとしている。
 「知足論」は老子の代表的な教えである。
 老子は、「・・・”どの程度で”満足すべきことを知れば屈辱を舞う枯れ、”どこかで”止まるべきかを知れば危険に出会わない。”そうすれば”いつまでも持ち堪えられる<」>(『老子・下編第46章』)とし、貪欲で飽くことを知らない貴族階級を厳しく批判した。
 <ちなみに、>荘子は「・・・上”にある君主”は必ず無為のままに、天下を自在に駆使するし、下”にある臣下”は必ず有為の立場に立ち、天下のために駆使されなければならない。これは不変の道である<」>を「無為」思想と位置づける(『荘子・天道編』)。
 荘子は、君主は無為自然の政治をしなければならないことを主張し、政府の干渉に反対する一方、臣下は有為で積極的に政治の雑務を処理しなければならないことを主張し、一種の分業説を唱えているようである(大河内一男『世界名著4、老子・荘子』中央公論、昭和54年版)。
 『史記』によれば、「”無為”は作為をしないことではあるが、それがゆえに”無不為”(なんでもやる)なのである。
 その術は”虚無”’なにもない)を根本とし”因循”(自然のままに動いていく)を作用している」。
 要するに老子は・・・<広義の>経済活動を個々人の責任に任せるべきだとしている。」(張紀潯(注6)「中国における社会保障思想の生成と歴史的考察」より(再度記す))
https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000108442.pdf

 (注6)1953年~。「中<共の>対外経済貿易大学卒業、同大学専任講師、日本研究室副室長などを歴任。1990年、東京経済大学大学院経済研究科博士課程(日本経済論専攻)修了、経済学博士。・・・茨城大学専任講師に就任。同大学助教授を経て、・・・城西大学・・・助教授、[教授]」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%BC%B5%E7%B4%80%E6%BD%AF_200000000538914/biography/
https://researcher.josai.ac.jp/html/301_ja.html ([]内)

 この「無為而治」という考え方に基づき、老子は小国寡民を良しとした。
 「小国で住民の少ない所では、たとえ道具があっても使わせないようにする。人々に生命を大切にさせ、遠方には移住させないようにする。そうすれば、船や馬車があっても乗る機会がなく、武器があっても並べておくだけで使うことはなくなるだろう。人々に昔通りに縄を結んで約束の印をさせ、今食べているものを美味いとして、今着ているものを美しいと思い、今住む家を安楽だとし、現在の生活や風習を楽しいとして満足させるようにする。そうなれば、たとえ隣国がすぐ近くにあり、その鶏や犬の鳴き声が聞こえてくる程の近距離にあっても、その住民たちは老いて死ぬまで、境界を越えて行き来することがな(く、争いは止んで平和となる)。(<『老子』>第80章)・・・
 <つまり、>老子が考える理想の国家のあり方とは、「小さい国土に少ない民衆」であり、「必要最低限の道具を用い、地域間での行き来がない社会」です。
・これは現代社会とは真逆です。現代では、国土は広ければ広いほどよく、民衆は多いほど良いとされるのが常識です。だからこそ、国家間で領土問題が起こったり、戦争を起こして領土を奪おうとしますし、少子化が社会問題となります。また、道具は便利であればあるほど良く、国際間で行き来があること(=国際化)を推奨します。
→では、なぜ『老子』はこのように、現代とは真逆の国家・社会を理想とするのでしょう?
 ・・・なぜ最低限の道具のみしか使わせないのか?(私見)
 ①道具を積極的に使ってしまうと、技術や経済が発展し、人の欲望がかき立てられて争いや破滅に向かってしまうから。
→「民衆に便利な道具が多くなると、国家はますます乱れてしまう。(民に利器多くして、国家ますます昏(みだ)る)」(<『老子』>第57章)

・現代における「便利な道具」とは、電気・インターネット・スマートフォン・交通手段(電車・飛行機…)が挙げられます。これらのデメリットを考えると、老子が最低限の道具のみしか用いさせない意味が分かってきます。・・・
 ②技術や便利な道具があると、それを持つものと持たないもので格差が生まれるから。
 なぜ遠方への移住をさせないのか?(私見)・・・
 ・人々の移住や往来によって・・・価値観が<異なる>・・・他の地域を知ってしまうことは、戦争や文化的衝突の第一歩だから。」(「ハナシマ先生の教えて!漢文。」より)
https://oshiete-kanbun.com/2553/jyukenkanbun/haikeitishiki/

⇒日本文明下ならぬ、プロト日本文明下の現在の日本は、まさに、老子の言う小国寡民社会のようなものである、と、言えよう。
 しかも、この現在の日本は、老子が取り組んでいなかったところの、小国寡民社会の安全保障・・縄文人社会の普通人社会ないし弥生人社会の脅威からの防衛・・を、縄文人社会以外の特定の大国に丸投げする、という奇策に依ることによって、これまでのところ(ある意味奇跡的に)崩壊/消滅を免れ、現在に至っている、と言えるのかも。(太田)

  ウ 君臣並耕

 「許行<(前出)は、>・君主も人民もともに労働に従うべきだという君民並耕説・・・を説いた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A8%B1%E8%A1%8C-53331

⇒許行も江南人であり、その主張からしても、事実上、道家に含めてよいのではないか。(太田)


[漢人文明の前身たる長江文明]

一 長江文明

 「長江文明<においては、>・・・初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。・・・
 こ<の文明>が後の楚・呉・越に繋がったと考えられるが、どのような流れをたどって繋がるのかは未だ解<ってい>ない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E
 ちなみに、「稲作<は、>・・・約1万前に中国の長江流域で始まったと推定され<てい>る」
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202011/202011_01_jp.html
 「<また、日本列島では、>縄文時代後晩期(約3000–4000年前)には水田稲作が行われていた可能性が高いと考えられている。水田稲作の伝来経路としては、山東半島から黄海を横断し朝鮮半島を経て日本に伝来した経路が有力とされる・・・。近年は、水田稲作伝来以前からの熱帯ジャポニカ種の陸稲栽培の可能性が指摘されるようになったが、決定的な証拠は発見されていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C

 「そもそも、「百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代<支那>の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称<で、>・・・言語は古越語を使用し、華夏民族<(注7)>とは言語が異なると推測され、言葉は通じなかったとされ<、>・・・周代の春秋時代には、楚、呉や越の国を構成する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A
というの<だ>から、楚と呉越は似た者同士であるところ、魏も宋も勝も、楚呉越等の百越(越族)と華夏民族との境界地域の諸国だったという言い方もできるのではない・・・か。

 (注7)「華夏族(かかぞく)は、漢の時代以前に中原の黄河流域に暮らす部族<。>・・・
 漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていたとされる。漢民族という名称は漢王朝(<BC>206年–220年)の時代から今日まで使われてきてはいるが、今でも本土の<支那>人は<支那>のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。学者によると、周王朝(紀元前1066年–256年)の創立者である武王が殷(商)王朝(<BC>16世紀–<BC>1066年)の末代の帝辛(紂王)を討ち取った後、中原に定住し、その一族を<支那>の伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜に因んで「華族」と称した。また夏王朝(<BC>21世紀–<BC>16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%A4%8F%E6%97%8F

 その上で、私は、楚、呉、越、も、魏、宋、勝、も、広義の楚・・百越・・、と、見るに至っている・・・。
 以上を踏まえれば、華夏族=漢民族(漢人)、なのではなく、百越(越族)=漢民族(漢人)、である、とも、私は見るに至っている次第<だ>。
 興味深いことに、「文化面では、稲作、断髪、黥面(入墨)、龍蛇信仰、太陽神崇拝、鳥崇拜(河姆渡文化、良渚文化)裸潜水漁撈方法など、百越と倭人(特に海神族)の類似点が<支那>の歴史書に見受けられる。また百越に贈られた印綬の鈕(滇王の金印など)と漢委奴国王印の鈕の形が蛇であることも共通する。現代の<支那>では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。春秋戦国時代における越人の亡命者が九州北部や日本の各地に流入したという説である。・・・<また、>染色体<分析から、>・・・長江文明の担い手・・・が、長江文明の衰退に伴い、・・・一部・・・は南下し百越と呼ばれ、残り・・・は西方及び北方へと渡り、山東省、日本列島、沖縄、朝鮮半島へ渡ったとされ、こ<れ>・・・が呉や越に関連する倭人と考えられる。」(上掲)ことから、どうやら、百越(越族)≒日本の弥生人、と、言えそう<だ>。
 このことを踏まえ、更に踏み込んで、私の仮説を申し上げれば、日本人の、老子、荘子、や墨子の思想、への、孔子/孟子の思想、に比してのホンネベースでの親近感は、こういったことから来ているのではない<だろ>うか。」(コラム#13782)
 問題は、この最後の段落の「日本人」が「日本の弥生人」では必ずしもないことだ。
 その後、「縄文人は、はるか昔においてではあれど、1万年<もの間、>無政府状態ながら平穏無事にやってこれたし、最後は弥生人・・但し、その実態は、縄文的弥生人どころか、弥生的縄文人、だった・・に征服されちまったけれど、彼らを大歓迎したら虐殺されるどころかさほど抑圧されることもなく、うまく融合する形で支配されることができたし、戦後は米国に、征服された/征服させた、のかもしれないけれど、うまく融合できたとまでは言わないがうまく共存できている、という認識なん<だ>から・・。」と書いた(コラム#14047)のだが、日本に渡来した「江南出身の弥生的縄文人」、すなわち、「日本の歴史上の弥生人」系の人々、は、支那大陸に残った自分達の「親戚」の弥生的縄文人たる江南人が、セミ江南人による支那初の天下統一王朝を樹立した秦をすぐに打倒して、純粋江南人によるところの漢を創始し、その漢が長期にわたって存続した上、それ以降の支那における歴代の諸王朝の理念型となったことを誇りに思った一方で、私の用語である弥生性を帯びた諸夷狄の侵攻、浸透、になすすべを知らず、その都度、漢人文明化させることには成功するも、打倒されて新王朝を樹立される憂き目に遭い続けたことに危機意識を募らせたことから、むしろ、華夏文明を仰ぎ見、とりわけ、その所産たる孔子や孫武の思想に関心を寄せたのに対し、「日本の歴史上の縄文人」系の人々は、<長江>文明に親近感を覚え、その所産たる老子や荘子の思想に関心を寄せた、というねじれが生じたように思う。
 (長江文明と日本との関係については、後でもう一度取り上げる。)
 なお、私は、「夏」・・「」を付けた理由は後述・・、殷、周(戦国時代を含む)、の文明を中原文明ないし華夏文明と名づけることにしたところだ。
 また、私は、この華夏文明を、黄河文明の最終形態と捉えてもいる。

二 楚

 「楚の成立に関しては、漢民族とは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説など、さまざまな仮説がある。現代の遺伝子調査では長江以南である<支那>南部の楚、呉、越の遺伝子は<支那>北部の遺伝子と相違する。・・・
 近年、楚墓発掘の進展で、おおかたの埋葬が王族庶民を問わず周様式の北向き安置ではなく南を向いて安置されており、当時の<支那>では珍しい形式であるため、土着ではないかとする説がやや有力になっている。・・・
 戦国時代に入ると人口の比較的希薄な広大な国土に散らばる王族・宗族の数や冗官(俸給のみで仕事の無い官職)が多くなり過ぎ、国君の権力と国の統制が弱化した。他の六国では世襲でない職業官吏や、魏の文侯、秦の恵公などの開明君主に代表される他国出身者の要職登用が成立していたが、戦国時代を通じて令尹(宰相)就任者の大多数が王族であり、それに次ぐ司馬や莫敖の位も王族と王族から分かれた屈氏・昭氏・景氏が独占するなど、旧態依然とした体制を変えられず権力闘争に明け暮れた。・・・
 シャーマニズム的な要素を持ち合わせていた楚の墓中からは、「人物竜鳳帛画」や「人物御竜帛画」といったような帛画や「鎮墓獣」といった魔除けを目的とした副葬品など他国にはない出土物も多く確認されている。他国でも動物信仰は行なわれていたが、とりわけ楚では動物信仰が盛んに行なわれていたことも明らかになっている。また中原様式の建物や埋蔵品も発見されていることから、中原の影響も受けており、<支那>化も進んでいたことがうかがわれる。・・・
 楚は史記の記述などから道教や鬼道が盛んな蛮夷の国であり歴史的経緯などから儒教は軽視されたと思われていたが、守役である太傅の遺物とみられる書簡群からは道家の書は老子など4編が見つかっただけで、大半は周礼を始めとする儒家の書であり、貴族子弟の教育に関しては中原諸国と同様だったと考えられる。・・・
 楚の首都であった郢、後に遷都した陳の周辺や江蘇省一帯から貨幣が大量に発見されているが、貝の形を模して青銅で鋳造されている。貝貨は江北に在った中原諸国や秦・燕の他の六大国で造られた鋤形・刀形・円形の貨幣とは明らかに異質なため、南北間の交易は頻繁には行われず南に在った楚は独自の経済圏を形成していたと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
 「春秋戦国時代、楚の国は思想と文化が活発で、老子、荘子といった思想家や哲学者が誕生した。彼らの哲学や思想は、長く<支那>の思想や文化に影響を与えた。・・・
 老子は「道が一を生じ、一が二を生じ、二が三を生じ、三が万物を生じた」という宇宙論を提起し、「有無あい生じ、難易あい成り、長短あい形どり、高下あい傾く」や「禍や福のよる所、福や禍の伏す所なり」は、事物の相互の対立と相互依存、また相互転化という弁証法関係を論じたものである。・・・
 荘子は姓は荘、名は周。宋国蒙県の人。戦国時代の晩期に生きた。彼は貧に安んじて自分の道を楽しみ、「有国者のために縛られる」ことを願わず、楚王から高給で宰相にするとの招きを拒絶した。
 荘子は自然への順応を主張し、人為に反対した。彼は、世界の大きさや宇宙の無限を知らない人を、「井の中の蛙」になぞらえた。彼は大と小、長寿と夭折、有限と無限はみな相対的なものであると考えた。その相対論は、人々に事物と事物の間の差異を投げうち、自然万物と人間の間の普遍的真理を探すよう導いた」
http://www.peoplechina.com.cn/home/second/2011-04/28/content_353635_3.htm

⇒私は、楚は、中原文明の強い影響を受けた長江文明の北部において、弥生的縄文人が縄文的弥生人化した者達が支配層となって弥生的縄文人のままであった被支配層を率いて建国された、という認識であり、支配層は、れっきとした中原文明下の諸国同様、孔子の思想ならぬ原初的儒教も盛んに習得したが、ホンネでは長江文明系の老荘や墨家の思想を信奉し続けていた、と、見ている。(太田)

三 墨子

 老荘はどちらも楚人であると言ってよいところ、2人と同じく異色の思想家たる墨子についても、そう言えないか、調べてみた。↓

 「墨子は前五世紀前半に生まれ、前四世紀初頭<に>没したとするのが妥当だろう。・・・
 生国については、主に三つの説がある。宋人説・魯人説・楚人説である。
 宋人説については、冒頭で見たように、『史記』に「宋の大夫」と明記されていることが一つの大きな根拠のようだ。また、『史記』の中に「魯は季孫の説を聴いて孔子を逐ひ、宋は子罕の計を信じて墨翟を囚へぬ」とあることから、墨翟を宋の人としているようである。
 魯人説については、孫詒譲は次のようなことを根拠にしている。それは、『呂氏春秋』愛染篇のはじめに「墨子、名は翟、魯人なり」とあることや、『呂氏春秋』愛類篇・『淮南子』修務篇に交輸般が雲梯を作って宋を攻めようとしたとき、墨子が魯から楚の都へはせつけたとある点などである。
 楚人説は、『墨子』の魯問篇と耕注篇に魯陽文君との問答が多く出てくるが、魯陽は楚の領内であることから考えられたようだ。 
 これらの説に対して、渡邊氏は魯人説の根拠の一つとする貴義篇の中の「子墨子、魯より斉に着く」という表現は旅路の起点を示すだけのものとしている。そして、兼愛中篇で墨子が禹の治水の業績を讃えて、それにならって兼愛実践の決意を述べた部分に注目している。文中の水名・地名を手がかりに、墨子がどの地点に立っていた設定か考えていくと、それは黄河中流にあたり、地図中でも最も条件にかなうのは宋国としている。何か大きな意図があり、天下の中央に設定したとも考えられるが、宋国にあてはまる表現を細かく使う必要はなかったこと、同様の設定が非攻中篇に二つ、兼愛下篇や節葬下篇に一つずつみられること、魯問篇に宋国の授受を比喩とする対話の部分があることも併せて述べている。さらに、『史記』において司馬遷が「宋の大夫」と記したことも、説話の中の比喩を真に受けたためかもしれないと考えている。浅野氏は、貴義篇の「子墨子、魯より斉に着く」や魯問篇の「以って子墨子を魯より迎へんとす」などの記述に注目し、墨子の学団の根拠地が魯の国内に存在したことだけは確実とし、また、『呂氏春秋』当染篇の周王室より礼を伝えにきた史角がそのまま魯に住みつき、その史角の子孫に墨子が学問を受けたとする伝承にも注目し、それらを合わせると墨子は魯の人でほぼ間違いないとしている。
 近年は墨子が目夷の末裔であるとされ、目夷がいた場所が滕であるということや、天候条件・交通の便などが良く、経済や文化の中心であり、良い人材が育つ社会条件が他にないくらい良く整っていたこと、船や車を先がけて発明するほど高い科学技術があったこと、墨子に関する遺跡が多くあることなどから、現在の滕<(注<8>)>州が有力な説になっている。」
http://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/student/99nakano.html

 (注8)越が楚と同盟した後、BC473年に呉を滅ぼし、BC414年には勝を滅ぼし、更に、楚が越をBC334年にほぼ滅ぼし、BC306年には完全に滅ぼした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%95%E5%B7%9E%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A

 「墨翟の死後、墨家は禽滑釐・孟勝・田譲に導かれて一大勢力となる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90
 禽滑釐は魏人、孟勝は楚で活動した、田譲は宋人。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%BD%E6%BB%91%E9%87%90
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%8B%9D
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%AE%93

⇒以上を踏まえ、私は、墨子楚人説を採りたい。
 現在、勝人説が有力のようだが、墨子の活動期間の有力説によれば、当時、勝は事実上の楚領だったし、墨子の高弟達のうち、孟勝は楚人っぽいし、禽滑釐の魏も、田譲の宋も、楚の隣国であることも考慮すべきだろう。(太田)

四 総括

 楚と墨子についてのくだりも踏まえれば、楚から興った漢が漢人文明の原型を形成した以上は、孔子を生んだ中原文明(華夏文明)は非漢人文明であると言うべきか、プロト漢人諸文明のうちの一つと言うべきか、という程度の代物であった、ということになりそうだ。


[日本と支那の仁政]

 「仁徳天皇<は、>・・・4世紀末から5世紀前半に実在した可能性のある天皇<だが、>・・・即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている。・・・
 <しかし、>津田左右吉は、仁徳天皇の仁政記事は、史記の堯・舜・禹の伝説をもとにして書かれたものであり、史実ではないと指摘して、津田事件に発展した。
 直木孝次郎も、<支那>の史書をもとに創作された記事で、王朝の初めに聖天子が現れるという思想をもとに書かれたものであり史実ではないとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「<奈良県立橿原考古学研究所の>坂靖<もまた、>・・・仁徳天皇<の、この>著名な「民の竈」の逸話は、5世紀にそもそも近畿地方において竈は普及しておらず、この時代の景観を反映した記述でないことは明らかである<、としている>。」
https://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/manabu/online/kodai_matsuwaru_02/
 でも、果たしてそうだろうか?
 堯、舜の事績には、仁徳天皇の仁政と同様のものはない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9C
 では、(仁徳天皇はそうではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
ことだけでも決定的ながら、)支那の「王朝の初め<の>・・・天子」はどうだったのだろうか?
 まず、夏朝の創始者とされる「禹は<、>即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、<支那>の内はもとより、外までも朝貢を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B9
 次に、「天乙<(湯王)>は<、>夏の最後の桀を追放し夏を滅ぼし・・・たのち七年間も大日照りが続き洛川は枯れてしまった。そこで湯王は桑林まで出かけて神を祀り爪と髪を切り、みずからを犠牲として捧げる心で上帝に祈願した。するとたちまちのうちに大雨が降り国中が潤ったのであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%99
 そして、「姫昌(文王)は<、>・・・仁政を行って・・・周・・・の地を豊かにしていた。・・・
 あるとき、虞と芮という小国の間で紛争が発生した。両国の君主は紛争の調停を求めて、ともに周国を訪問した。そこで両国の君主が目にしたのは、農民が互いに畦道を譲り合い、若者が老人に道を譲って孝行するという、平和な共同体の姿だった。これを見た両国の君主は、自分たちが争っていたことを恥じ、ついには姫昌に面会することなく帰国し、紛争を止めた。
 紂王の暴虐に見切りを付けた諸侯は、次第に姫昌を頼るようになるが、当の姫昌は最期まで決起することなく、諸侯達を引き連れて紂王に降伏し、殷(商)の臣下であり続けた。内緒では姫昌は、そのような仁政と並行して、対外戦争によって版図を広げる。軍師として呂尚(太公望)を迎え、北方遊牧民族の犬戎・密須や、近隣の方国の盂国を立て続けに征伐。晩年には、宿敵である崇侯虎を征伐し、その領地である崇国を併呑した。
 姫昌が老齢で没して間もなく、後を継いだ息子の姫発(武王)は父に「文王」と諡し]、諸侯を率いて革命戦争を起こす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)
 以上から、彼らの事績には、善政とは言えても、仁政とまで言えるものは見当たらないと言っても過言ではあるまい。
 また、「古墳時代後期(6世紀)段階には全国で72.4%、関東地方で90%超の普及率となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%BE%E3%81%A9

ことを踏まえれば、坂靖の主張はいささか揚げ足取り的に過ぎるのではなかろうか。」(コラム#14104)


[支那の非仁政史–社会福祉の貧困]

 張紀●<(サンズイ偏に尋)>は、その「中国における社会保障思想の生成と歴史的考察」の中で次のように記述している。↓

 「今から2000年前の春秋戦国時代にすでに社会保障思想が存在していた。・・・
 西側の社会福祉思想よりずっと長い歴史を持っている。・・・
 儒教、墨家、道教の福祉関連思想を中心にその特徴をみよう。
 孔子の儒教思想を表す代表作として『尚書<(書経)>』と『礼記』が挙げられる。

⇒誤りだ。
 書経に関しては、「古来の通説では、儒教の聖人である孔子が唐虞から秦の穆公までの記録を編纂し、100篇からなる『書経』を作ったとされる<ところ、>近年の研究では、これは史実であるとは認められないが、『論語』に『書経』の引用が見えることや、孔子の教学として「詩・書・礼・楽」が重視されたことから、孔子の時には何らかの原初的な『書経』は存在していたと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E7%B5%8C
 礼記に関しては、「現代に伝わる『礼記』は、周から漢にかけての儒学者がまとめた礼に関する記述を、前漢の戴聖が編纂したものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E8%A8%98 (太田)

 『尚書<(書経)>』は・・・「徳とは良い政治を行うことであり、その目的は民を養うことにある」ことを説く。
 『礼記』はこの考えを受け継ぎ、・・・幼児を慈しむこと・・・老人を敬うこと・・・貧困からの脱出を奮い起すこと・・・貧困者を救済すること・・・疾病者を慰むこと・・・裕福者の安定を図る事・・・を「仁政」の具体策として列挙した。・・・

⇒孔子自身は「徳政」や「仁政」を語ったことがないこと(後述)を銘記すべきだろう。
 そもそも、仮に仁政や社会福祉について書かれていたものがあったとしても、それらが実際に行われていなければ絵に描いた餅に過ぎない
 以下、孟冬「中国における災害対応救済と福祉事業の歴史的研究」をたたき台にして、そのあたりを見極めてみよう。(太田)

 「『漢律』<(注9)>の中に、「高齢者、鰥寡孤独の者と重い病気の者のうち、家族がなくて貧乏で生きてゆけないもの」に対しては食糧が支給された。

 (注9)「<漢は、当初、>・・・遠隔の地には王を封じて領土を与え,その領内には漢の法制とは別にその土地に適した立法を行うことを許した。しかしそれでは統一国家とはいえないので,しだいに封建領主を取りつぶし,同時に法制を整備して,天下通用の漢律を制定した。それが完成の域に達したのは7代の武帝(在位,前140‐前87)のころであったと思われる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BC%A2%E5%BE%8B-1296800

 <すなわち、>両漢時代には、荒政が公式に法制化された。

⇒実施されたかどうか不明。(太田)

 大規模災害が発生すればまず政府に報告され、それを受けて救済が実施される。
 最終的には、税が免除される。
 漢代に実施された”常平倉”<(注10)>制度は、春秋時代の管仲の”通軽重之権”(農業を重視する政策)の思想および戦国時代の李悝の‘平糴<(へいてき)>法’に由来する。

 (注10)「宣帝<(BC91~BC48年。在位:BC74~BC48年)>の時期に、大司農中丞の耿寿昌が、穀物が余り価格が低下した時は買い取り(糴)、逆に穀物が不足し価格が高騰した時は売り出し(糶)、穀物価格を安定させる機能を有する常平倉を創設した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%8D%92%E6%94%BF%E5%8F%B2

 漢の昭帝<(注11)>のとき、大司農中丞の耿寿昌は、「・・・穀価低廉の際に購入し、穀価高騰の際に放出して、穀物の価格統制と農民と市民の救済に充てた。

 (注11)BC94~BC74年。在位:BC87~BC74年。「武帝以来の専売制を弱め、国力の回復に専念した<。>・・・専売制の廃止を訴える儒者と、専売制の続行を進めようとする桑弘羊との論争をまとめたものとして『塩鉄論』があるが、これは昭帝の代に行なわれた両者の論争を元にまとめられたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)

⇒これらは、治安目的の施策であって仁政とは言えない。(太田)

 漢代には、関係する法制度が整備された。
 たとえば、高齢者保護については’養老令”胎養令’などが制度化された。
 両漢代の政府が実施した救済と福祉事業の内容を整理すると以下のようになる。
 一 災害発生時に被災者を救済するための方策として、多数の常平倉、義倉を設置し、現実に大規模災害が発生したとき、穀物の価格調整を行うほか、被災者に穀物だけでなく衣類など生活必需品を配分し、救済した。

⇒上述参照。(太田)

 二 医療救済である’養疾之政’を実施し、貧困者および疾病者を’六疾館’に収容し、疾病者および貧困者を救済した。
 三 関係立法を制定し、恤幼養老を任務とする’孤独園’を設置し、高齢者の尊重を定、老人や児童を抱える家族の賦役を免除した。
 一方、地方政府は、孤独、鰥寡老人などの困窮者に対して,毎日五升の食料を支給した。「後漢の時代の五升とは、明清時代のほぼ一升に当たる」とされる。

⇒実施されたかどうか不明。(太田)

 漢代には、中央・地方の政府が災害被災者の救済を行ったほか、宗族救助と民間義行もみられた。
 宗族救助とは、血縁でつながっている大家族の内部で相互救助することである。
 宗族救助で具体的に行われた主なものは、財物の提供、幼孤の支援および葬儀を援助するというものであった。
 宗族救助は、宗族の構成員の関係の維持に役立ち、また国家財政の負担を軽減する効果があった。
 民間義行とは、儒教と仏教および道教の影響により生まれたもので、当時の多くの王侯貴族、地方官吏および仏教徒、道教の信者などが熱心に救済救助活動に従事する行為を指す。
 漢代には、政府の救済のほか、宗族救助と民間義行も広く行われた。

⇒宗族救助と民間義行まかせであったことが透けて見えてくる。(太田)

 魏晋南北朝時代は、仏教思想の影響のもとで、福祉事業が広く普及をみた。
 政府の救済のほか、特に仏教寺院の行う福祉事業がもっとも活発に実施された。・・・
⇒要は、仏教宗派の中には社会福祉事業を行なったものもあった、というだけのことだろう。(太田)

 <この>時代には、朝廷が一時的な政策によって臨時に国民に穀物などを支給することがあった。

⇒前述したように、治安目的の施策に他ならない。(太田)

 北魏の時代に実施された均田制は、老人、子供、寡婦および身体障碍者などに対して、朝廷から特別に田を支給したこともあった。

⇒均田制そのものが絵にかいた餅であり、何をかいわんや、だ。(太田)

 当時の中央政府は、救済福祉施策を重視し、地方政府にその救済福祉事業を実施させるために、指揮監督権限を行使した。
 地方政府は、中央政府の主唱にしたがい、老人、孤児、産婦など困窮した人たちに食糧を提供するなど積極的に救済した。
 この時代においても、孤独な人たちおよび病人を対象に、<支那>のもっとも古い福祉施設の一つである’六疾館’<(注12)>(南朝斉文恵太子簫長樊(AD458─493))が建設された。 
 また,この時代においては,政府は福祉事業の実施主体として貧困者と孤児を収容した‘孤独園’<(注12)>を設置している。『梁書・武帝紀下』のなかに「・・・生活できない老人および児童などを施設に収容し,衣食を提供する。首都に孤独園を設置し,頼りになる人がいない児童と老人を安心して生活させる<」>と記載されている。

 (注12)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%8D%92%E6%94%BF%E5%8F%B2 前掲

 魏晋南北朝時代の救済福祉事業の内容を整理すると以下のようになる。
 一 災害への防備施策の実施。農業政策を重視し,穀物の生産の向上を図った。洪水被害および旱害への対応として,水利施設の整備に努めた。災害に備えての施策としてもっとも重視されたのは,穀物の備蓄であった。被災後の救済のために備蓄した穀物の配給を目的とする‘常平倉’が設置された。また,当時の被災後の救済としては,賑済,調粟,蠲免租調,借貸も行われた。

⇒繰り返すが、治安目的の施策に他ならない。(太田)

 二 困窮者に対して,魏晋南北朝時代の皇帝は,儒教および仏教の影響のもとに,災害の被災者以外に,一般的な施策として鰥寡および孤独者に対する福祉を重視した。
 当時,政府が救済に努めたほか,仏教寺院の救済福祉事業もブームとして広く行われた。寺院に設置された施設では,災害の発生がない平時においても,貧困者を救助し,いったん大規模災害が発生すれば,迅速に被災者を救済した。そこでは,医療救助のほか道路や橋の修理修繕も行われた。
 魏晋南北朝時代の救済福祉事業を総体として検討すれば,当時の統治者は大きく仏教思想と仁愛思想の影響を受けていたことが分かる。

⇒やはり、仏教宗派の中には社会福祉事業を行なったものもあった、というだけのことだろう。
 もとより、仏教宗派への非課税等を通じて結果的に政府がこの社会福祉事業を支援したと言えるケースもあっただろうが・・。(太田)

 隋代でもまた農業が重視されたことに変わりはない。政府は,常平倉を設置し,穀物の備蓄と大規模災害の際の農産物の価格調整に努め,農業生産と社会の安定を確保しようとした・・・。・・・

⇒再度繰り返すが、治安目的の施策に他ならない。(太田)

 隋文帝がはじめた救荒施設のひとつが‘義倉’であった。義倉<(注13)>は,歴史的に巨大な影響を及ぼした。・・・

 (注13)「諸侯から民衆まで一定額の粟・黍を納めさせて州県に設置された義倉に納められた。・・・非常時に備える一方で穀物の腐敗の防止と義倉の維持のために古い穀物を安価で売却(出糶)し、また一般に低利で貸し付ける(借放)事も行われていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%80%89

 唐の初年,唐太宗は尚書左丞戴胃の意見を受け入れ,隋代の末期に廃棄された義倉を再興した。常平倉も隋代のものを利用した。前の時代と同様,義倉と常平倉は,大規模災害が発生した場合,社会的救済の実をあげた。それらは,この時代においても,農民の生活と社会の安定のために欠かせない制度として機能した。
 唐代には,大規模災害が発生すれば,朝廷は官僚を被災地に派遣して,救済の指揮をとった。
 被災の程度に応じて,税の減免を行った。・・・

⇒繰り返さない。
 以下、繰り返しになるので、いちいちコメントはしない。(太田)

 <このほか、>老人と貧困者には格別の支援を行った。唐代の均田法は,老人および障害者が畑を受給することができ,また高齢および障害を理由に免税もなされた。高齢者に対しては,介護者に配慮した‘おつき制度’があった。
 80歳の老人におつきの人ひとりを追加して配分し,90歳の老人にはおつきの人二人分を追加配分し,100歳の老人におつきの人三人分を加給配分した。
唐代には,政府が実施する救済制度と福祉事業のほか,仏教寺院が行う救済と福祉事業もあった。仏教の悲田思想にもとづき設置された悲田養病坊は,養老育児を行なう貧窮孤独者の収容施設であった。この悲田養病坊は,悲田院,療病院,施薬院の三つの部分から構成されていた。
悲田養病坊は,治療している病者を収容するだけではなく,困窮する病人,孤独老人,親戚のない孤児なども救済した。
唐代初期に寺院付設の救済機構として存在していた悲田養病坊の増加に伴い,701年から704年にかけて“置使專知”が設置され,政府は官僚を派遣し,寺院と共同管理した。
 宋代には,大規模自然災害が頻繁に発生し,宋代の為政者は社会の安定のために,防災救済関係法令を公布した。
 新たに広恵倉を設置し,また従前通り,常平倉,義倉,社倉<(注14)>も設置した。

 (注14)「義倉に対し、地域の役所あるいは民間が主体で義倉と同様の事業を行ったものを社倉(しゃそう)と呼ぶ。義倉が衰退した南宋期の<支那>において朱熹によって義倉に代わるものとして提唱されたと言われている。
 日本には朱子学とともに伝来した。江戸時代には山崎闇斎・中井竹山・加藤岳楽・佐藤信淵・吉田松陰らにより独自の義倉構想が立てられた。諸藩の中にもこれを推奨するところが多く、早くも・・・1654年・・・に保科正之の会津藩がこれを導入している。また、江戸幕府も寛政の改革で「七分積金」を導入した。このように日本では本来の設置意義と違って朱子学を奉じた支配階層主導による社倉設置も多く行われ、支配階層による義倉との混同が進んだ。とはいえ、民間主体の社倉も少なくなく、昭和時代まで運営されたものもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%80%89

⇒日本では、支那由来の民間の制度であっても、仁政的に運用される形に換骨奪胎して継受されたわけだ。(太田)

 ‘広恵倉’は,災害発生時に被災者および貧困者などを救済するほか,平時においても貧困者を救済する機能をもち,宋代で最も重要な救済制度であった。常平倉は,漢代から設置された救済制度で,宋代にも大規模災害が発生した場合の穀物価格の調整および被災者の救済の機能を発揮した。隋代に効果を発揮した義倉は,宋代にも常平倉とともに救済機能を発揮した。社倉は,主に農村に設置され,災害を発生すると,被災農家を直接的に救済し,機動的に効果を発揮した。宋代政府は,穀物の備蓄制度を運営するほか,農産物の生産の回復にも努力した。
 大規模災害が発生した場合,直接的救済以外に,被災者に対する税の減免措置がとられたのも前の時代と同様である。
 宋代には,特に子供に対する救済制度があった。貧困家庭の出産には穀物と資金が与えられた。また,‘挙子倉’が設置され,貧困家庭の子育て支援が行われた。遺棄された嬰児を救助する措置もとられた。そして,養子法を制定され,民間での養子が奨励された。宋代のこれら子どもに対する施策として,養安済院,慈幼局,慈幼庄,嬰児局,挙子倉,挙子田などが設置されたのである。
 宋代には,貧困者,老人,病者に対する救済制度もあった。唐代には悲田養病坊があったが,宋代には首都の開封に福田院が設置された。‘福田院’は,鰥寡孤独,障害者および乞食を救済する施設であった。
 宋代には,政府が実施する救済制度と福祉事業以外に,寺院救済と宗族救済が行われ,また個人が行う福祉事業も盛んであった。居養院,安済坊,養済院など,宋代の福祉施設は,僧侶が大いにかかわった。‘居養院’は,未亡人,やもめ,孤児,老人,障害者,病人,貧困者を収容する施設であった。‘安済坊’は,病者を収容,治療する施設だった。養済院は,居養院と安済坊の機能を併有する総合救済施設であった。‘恵民薬局’は,薬の販売提供の施設で,‘漏澤園’は貧困者などを対象とする墓地であった。
 ‘荒政’という制度は,支配者による大規模災害に備える救済政策である。そして荒政を実施することにより,社会の安定と経済の回復発展がめざされた。」
」(孟冬(注15)「中国における災害対応救済と福祉事業の歴史的研究」(桃山学院大学環太平洋圏経営研究 第14号)より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwivvaTu3OOBAxVCc3AKHcq2CpIQFnoECAoQAQ&url=https%3A%2F%2Fstars.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D146%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0P1DY02kQITl_pQYAU1mxp&opi=89978449

 (注15)桃山学院大経営学研究科博士後期課程。(上掲)

⇒それ以降に関しては、「元朝においては、大災害が多発し513回にも及んだとされる。至正11年(1351年)5月に潁州で劉福通が「明知王法、飢餓難当(法律はよく知っているが、飢餓はどうしようもない)」をスローガンに乱を起こし、それが後に紅巾の乱となり元朝滅亡の原因となった。・・・
 明<の場合、その太祖朱元璋の>洪武帝以後は、役人は日々雑務に繁忙で、かつての様に民衆の便宜を図る暇がなくなってきた。担当する役所を変えたとしても、おざなりの対応となり、洪水・旱魃・飢饉といった災害に遇っても、民衆は頼るところはなく、官は何の措置も取らず、公も私も手詰まりとなった。明朝中期以後、災害が報告されない年はなく、ある災害は数省に及んだ。
 張居正の改革においても、あまり荒政を重視せず、役人も荒政の改善努力はほとんどなされなかった。
 ・・・1628年・・・災害が頻発し、その後徐々に、「流民は道を埋め、村々は九割ほどは空き家になり、流民の多くは、やがて亡くなるか、生き残ってもごろつきになるしかない」といわれるようになり、・・・1640年・・・には、「南北ともに荒廃し、……死者や捨子で河は溢れ、道がふさがれる」という状況までに至っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%8D%92%E6%94%BF%E5%8F%B2 前掲
くらいで十分だろう。

 要するに、歴代諸皇帝が、縄文人でなくとも、弥生的縄文人でもなくとも、少なくとも縄文的弥生人であれば、自ずと仁政を行う筈なのだが、支那における、中原の諸王朝の王、漢人文明下の諸王朝の皇帝、で、そんな者は皆無だった、と言わざるをえない。(太田)

     2 調和の取れた社会

 胡錦涛・温家宝政権になってから、「小康社会」は「調和の取れた社会」(「和諧社会」)であることが強調されるようになった。<(注16)>

 (注16)「胡錦涛・・・政権は、2002年のスタート早々から「以民為本」「親民政治」を強調し、さらに2004年9月の中共第16期四中全会では「社会主義和諧社会建設に関する若干の重大問題に関する中国共産党の決定」が採択され、成長と公平な分配、人間と自然の調和などを重視する方針を打ち出された。・・・

⇒こうして、2004年11月に、韓国ソウルに初めての海外での孔子学院が設置された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2
 支那事大主義の伝統があり、最も受け入れられ易い韓国から海外設置を始めたわけだ。(太田)

 2005年胡錦濤は、地方政府の幹部の討論会の講話において、社会主義和諧社会とは「民主、法治、公平、正義が実現されな誠心友愛にあふれ、活力に満ち、秩序が安定し、人と自然が互いに調和されている社会である」と述べた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%AB%A7%E7%A4%BE%E4%BC%9A

⇒和(注17)=仁、だろう。

 (注17)「有子曰、礼之用和為貴、先王之道斯為美、小大由之、有所不行、知和而和、不以礼節之、亦不可行也。」(『論語』学而第一)→(現代語訳)→「有子先生がおっしゃいました。「礼」の働きとして「調和」があります。昔の王も調和をもって国を治めることに長けていました。しかし大事も小事も調和だけに則って行おうとすれば、なかなかうまくいかないものです。調和調和と言うのではなく、「礼」を用いて調和をはかるようにした方がいいでしょう。(その結果、調和はついてきます)」
https://manapedia.jp/text/1865
 「有若(有子)は、「紀元前6世紀後半の生まれ、紀元前5世紀中頃に没した<。>・・・『孟子』滕文公上の伝えるところによると、有若は孔子に風貌が似ていたため、孔子の死後、子夏・子張・子游らが孔子のかわりに有若に仕えようとしたが、曾子がこれを批判したという。『史記』にも似た話があり、他の弟子がかつての孔子の言行について、有若に質問をしたが、有若が答えられなかったため、孔子のかわりにはできないと批判されたという。
 また、王応麟は『困学紀聞』の中で曾子と有若を比較し、有若を低い評価としている。
 『論語』学而篇に有若の言葉が3回引かれている。「和を以て貴しとなす」「孝弟なる者はそれ仁の本たるか」などは広く知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%8B%A5

 つまり、礼を心を込めて行えば、そこに和が生れ、人々が仁者になる、と孔子が考えた、と、有子が(正しく)孔子の考えを推察して、分かり易く説明した、と、私は解している。
 その上で付言すれば、「和諧」=(厩戸皇子が『論語』のこのくだりを微妙に「誤読」した結果としての)十七条憲法中の「和」(後出)=人間主義=慈悲、ということになりそうだ。(太田)

 それを実現するための指針として、「人間本位主義(「以人為本」)の立場から社会全体の持続的な均衡発展を目指す」という「科学的発展観」が提示されている。具体的には、①都市と農村の発展の調和、②地域発展の調和、③経済と社会の発展の調和、④人と自然の調和のとれた発展、⑤国内の発展と対外開放の調和という「5つの調和」がその主な内容になっている。これらは、まさに儒教の「和」の思想に基づいている。

⇒まさに、「和諧=人間主義=慈悲」宣言だ。(太田)

 王毅駐日大使(当時)が指摘しているように、「儒教が最終的に追い求める目標は「仁」を中核とし、「徳」を基礎とし、「礼」を規範とし、「調和」を目指す理想的境地であります。従って、儒教文化の終始変わらぬ特徴は、「和」の一言に集約できると言えます」(「東方文化を高揚し、調和の取れた世界を築こう」、立命館孔子学院で行った講演、2005年11月17日」)。

⇒以上のことを、簡潔に、「和=人間主義」の国の日本で報告した、ということ。(太田)

     3 「以徳治国」

 社会の安定を維持するためには、違法行為に対して重い懲罰を課するという法治による「他律」に加え、自分の利益を求めるときに他人に損害を与えないという道徳による「自律」も欠かせない。残念ながら、このような道徳観念は、共産主義というイデオロギーが退潮し、功利主義が主流となっている今日の中国では欠如している。これを背景に、2000年6月、江沢民総書記は「中央思想政治工作会議における講話」において、「法律と道徳は上部構造の構成部分として、いずれも社会秩序を維持し、人々の思想と行動を規範化する重要な手段であり、そして相互に関連し補完している。法治はその権威性と強制的手段で社会の成員の行為を規範化している。徳治はその説得力と誘導力で社会成員の思想認識と道徳的自覚を向上させる。道徳規範と法律規範は互いに結合し、統一的に作用を発揮すべきである」と語り、「以徳治国」<(注18)>という方針を打ち出した。

 (注18)https://www.bing.com/ck/a?!&&p=bc72804a6c91c2acJmltdHM9MTcxMTQxMTIwMCZpZ3VpZD0zYjc0MjA5My02MjhlLTYxNmQtM2M0OS0zNGRkNjM2NDYwZGYmaW5zaWQ9NTI0NQ&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=3b742093-628e-616d-3c49-34dd636460df&psq=%e4%bb%a5%e5%be%b3%e6%b2%bb%e5%9b%bd&u=a1aHR0cHM6Ly9pci5pZGUuZ28uanAvcmVjb3JkLzI4MjY4L2ZpbGVzL1RQQzAwNDgwMF8wMDYucGRm&ntb=1

 江沢民の後を継いだ胡錦涛総書記も「八栄八恥」<(注19)>という道徳規範を提唱している。その内容は、マルクス・レーニン主義よりも、儒教の考え方に近い・・・。・・・

 (注19)「2006年3月4日、胡錦濤総書記はこのリストを「中国共産党公式の新しい道徳規範であり、仕事、行動、態度の方針を示している」として発表しており、すべての中国人民(特に共産党幹部)が守るべき規範として広め<た>。
以熱愛祖国為栄、以危害祖国為恥,(国を愛することは名誉であり、国を害することは恥辱である)
以服務人民為栄、以背離人民為恥,(民に尽くすことは名誉であり、民を見放すことは恥辱である)
以崇尚科学為栄、以愚昧無知為恥,(科学を敬うことは名誉であり、無知愚昧なことは恥辱である)
以辛勤労動為栄、以好逸悪労為恥,(重労働することは名誉であり、楽ばかりするのは恥辱である)
以団結互助為栄、以損人利己為恥,(相助団結するのは名誉であり、己だけ得するのは恥辱である)
以誠実守信為栄、以見利忘義為恥,(誠実にすることは名誉であり、義理を忘れるのは恥辱である)
以遵紀守法為栄、以違法乱紀為恥,(道徳紀律を守るは名誉であり、不法乱紀するのは恥辱である)
以艱苦奮鬥為栄、以驕奢淫逸為恥。(刻苦奮闘するのは名誉であり、傲奢淫楽するのは恥辱である)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%A0%84%E5%85%AB%E6%81%A5

⇒3は荀子の主張(後出)そのものだ。(太田)

 <2> 1 孔子学院の設立

 2004年以降、中国政府は、世界各国の大学と提携し、語学教育や中国文化を海外で普及させる機関である「孔子学院」を設立している。2010年現在、その数は約280校に上る。・・・
     2 孔子生誕記念式典

 2005年9月28日に、初めて政府主導の下で大々的に孔子生誕記念式典がその故郷である山東省曲阜市で行われた。中国中央電視台は4時間にも及ぶ実況中継を放送し、式典には共産党幹部、各界の重要人物が数多く出席した。

     3 映画「孔子」の上映
 2010年年初に、国策映画と見られる「孔子」が公開された。・・・

     4 天安門の斜め向かいに現れた孔子像

 2011年1月11日、天安門広場に隣接する中国国家博物館の改装工事の終了に伴って、その北口に建てられた高さ9.5メートルの孔子像が披露された。毛沢東の肖像画が掲げられている天安門の目と鼻の先に巨大な孔子像が登場したことは、儒教の復活を強く印象付けた。・・・<しかし、> 2011年4月20日にこの孔子像は中国国家博物館の構内に移された。」(関志雄「中国における儒教のルネッサンス― 共産党の政権強化の切り札となるか ―」より)
https://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/110427kaikaku.html

⇒孔子がらみの、<1> 2、と、<2> 1~3、は、いずれも胡錦涛政権の時だ。
 胡錦涛の「先祖は明の嘉靖年間の兵部尚書の胡宗憲。・・・胡錦濤の祖父の胡炳衡は幼少時から読書を好み、科挙の合格を目指すも挫折を繰り返し、志半ばで死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%8C%A6%E6%BF%A4
ということから、彼の生家には儒教の蔵書が多数あったとしても不思議ではない。
 なお、胡錦涛の後継者の習近平も、その父親の「習仲勲<が>・・・<支那>で散逸し、1990年代に日本の皇室関係者経由で写本を手に入れた群書治要<(注20)>の研究を命じて後に刊行される『群書治要考訳』の題字を揮毫しており、2015年に新年の辞を述べた習近平の執務室の書棚に映って注目された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E4%BB%B2%E5%8B%B2
こともあり、儒教も大好きな人間であった可能性もあり、喜んで胡錦涛の孔子復権政策を継続したと思われる。

 (注20)「唐朝の皇帝太宗が631年、それまでに伝わる諸子百家をはじめとする治世の書を編ませ、貞観の治の参考書として利用したとされる。」
https://agora-web.jp/archives/2029302.html

 以上、袖擦り合う程度のご縁があった関さんの論考を利用させてもらったが、中共において、孔子そのものが完全に復権しているどころか、今や、中共は孔子主義(confuciusism)を掲げている、と言っても過言ではない。
 もちろん、中共は人間主義・・interhuman-ismとでも英訳すべきか・・を掲げている、と言っても同じことだ。
なお、習近平は2012年11月に中共の最高指導者になる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3
が、なってすぐ、私の言うところの、日本文明総体継受キャンペーンを開始したと思われる。
 (私がこのキャンペーンに気付いたのは2016年に入ってからだが・・(コラム#8407)
。)(太田)

2 孔子の実像

 (1)仁

 墨子が孔子の仁を曲解して差別愛だと批判した話に後で触れるが、現代においても、なお、孔子の仁の差別性を指摘するむきがいる。↓

 「仁は家庭倫理や、血縁関係を基礎とする愛であるゆえ、厳格的な階層観念から離れない。儒教は五常<(注21)>(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫<(注22)>(君主と臣下、父と子、夫と妻、兄と弟、友人同士)関係を維持することを教え、その秩序のうえで愛を行うのである。これらの人間社会の関係性から生じる相互の義が遵守されることによって、社会に調和と秩序が存在することが儒教の最終的目標である 。

 (注21)「孔子(こうし)(孔丘)は、諸徳を包摂する最高の徳として仁を説き、孟子(もうし)(孟軻(もうか))は仁義を強調し、さらに礼智をあわせた四徳四端を唱えて性善説を展開したが、董仲舒は五行(ごぎょう)思想に基づいてこれに信を加えたのである。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%B8%B8-64794
 ちなみに、「兵法書の『孫子』には、武将に必要な徳として、「智・信・仁・勇・厳」(五常と違い、義・礼の代わりに勇・厳がある)と記し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81
 (注22)「「孟子‐滕文公・上」に見える「教以二人倫一、父子有レ親、君臣有レ義、夫婦有レ別、長幼有レ序、朋友有レ信」による語で、通常五教と呼ばれていたが、のち、「人倫」の語に基づいて五倫といったもの。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%80%AB-66562#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

 『論語』の中に無差別の博愛を語っているが、「君子敬して失なく、人と与するに恭にして礼あらば、四海の内、皆兄弟なり」(君子敬而無失、 与人恭而有礼、四海之内、皆為兄弟也)とある 。四海兄弟は差別なさそうな愛と思われるが、<君子が>敬して失なく、人と与するに恭にして礼があればという条件の下<での>四海兄弟であり、決して純粋な平等博愛ではない。

⇒「もし人格者たるべき者が他者を敬って落ち度が無く、恭しく振舞って礼に違うことがなければ、この世の全てが彼の兄弟と言えます。」(『論語』顔淵第十二の五 より)
https://blog.mage8.com/rongo-12-05
と、現代語訳できるくだりである以上、(プロテスタント牧師たる)筆者(下出「注☆」)によるこのような解釈は狷介不羈に過ぎると言うべきだろう。
例えば、「・・・『論語』(陽貨)・・・において、孔子は「性相近也,習相遠也……唯上知與下愚不移」)(性相近し,習相遠し……唯だ上知と下愚とは移らず)と述べている」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwif4IWksuuCAxW1q1YBHeOcDlAQFnoECAoQAQ&url=https%3A%2F%2Fkansai-u.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F12624%2Ffiles%2FKU-1100-20190331-24.pdf&usg=AOvVaw1wfmh9h_mBL9wKTPazfM2k&opi=89978449
についても、「上知と下愚とは移らず」に注目すべきではなく、「性相近し」の方に着目すべきだろう。(太田)

 儒教社会は普遍的な「人間愛」を次のような所見を述べ拒否した。つまり普遍的な人間愛のために恭順や正義は抹消されてしまう、父も兄も持たないのは動物のあり方であった 。

⇒儒者とされる誰かがそんなことを言ったのかもしれないが、例えば犬は自分の「家族」を認識するようであり、
https://woofoo.jp/fido/do-dogs-recognize-their-family/
間違いだ。(注23)(太田)

 (注23)「オキシトシンは、「うれしい」「楽しい」「気持ちいい」と感じたときに脳でつくられるホルモンです。また、出産~授乳期にも分泌が活発になり、子宮の収縮を促す、母乳の分泌を促す働きがあります。脳の視床下部でつくられたオキシトシンは、中枢神経を経由して、心と体にさまざまな影響を与えます。たとえば、愛情や信頼関係を築く、ストレスに強くなる、不安な気持ちが和らぐ、痛みが和らぐなど…。・・・
 赤ちゃん期は、脳が急速に発達する時期です。そのため、赤ちゃんのうちにオキシトシンの影響を十分に受けると、将来、オキシトシンがつくられやすい脳になります。オキシトシンの働きで得られる、「他人への親近感」や「ストレス耐性」は、豊かな人間関係を築くために欠かせない能力です。赤ちゃんが将来、人とのつながりを楽しめる、社会性のある人に育ってほしい!そう願うなら、オキシトシンの分泌をUPさせる親のかかわり方がカギになるでしょう。」
https://st.benesse.ne.jp/ikuji/content/?id=84660
 「マウスでは、赤ちゃんが鳴き声を上げると、母の体内でオキシトシンが分泌され、関わり合いが深まる<。>・・・マウスでは、赤ちゃんが鳴き声を上げると、母の体内でオキシトシンが分泌され、関わり合いが深まる<。>」
https://newspark.jp/contents/20150530m_kahokusinpou06/

 儒教<において>は、仁の根元は、家庭倫理や、血縁関係の中心としている親子関係の倫理「孝道」である。

⇒平均寿命が短く、兄弟姉妹が大勢いた時代に孔子は生きたのであり、孔子は、一番卑近な「孝」や「悌」を「仁」を理解させるために挙げた、というだけのことだと私は思っている。
 問題は、特殊な「孝」や「悌」、と、一般的な「仁」、との間に飛躍がないのかどうか、だ。
 私は、仁=普遍的な愛=(生物への愛や無生物への愛を含むところの)人間主義、マイナス、自然(非生物)への愛、だ、と考えているところ、利他主義≠人間主義、かつ、利他主義≒人間主義ではあるけれど、以下のことが明らかになっている。↓
 「利他的行動は自分に何らかのコスト(時間、労力、お金、など)を負いながら他者に利益を与える行動を指す。・・・
 ヒトだけが“直接のお返しを期待できない血縁関係にない他者”にも利他的行動を示すと言われ<る。>・・・
 利他的行動を促すメカニズムとして・・・<第一に、>他者を助けることが自分の喜びになるという“温情効果(warm glow effect)・・・があげられる。・・・<実際、>利他的行動を行っている時には眼窩前頭前野や線条体と呼ばれる報酬に関する脳部位が活動する<。>・・・<第二に、>自分の評判を良くしようという動機・・・があげられる。・・・<実際、>他者から見られている状況で寄付をする場合と誰にも見られていない状況で寄付をする場合とを比較すると、見られている場合に線条体がより活動する<。>・・・<第三に、>共感・・・があげられる。・・・<実際、>左島皮質は自分が痛みを受けた場合に・・・活動を示す<が、>・・・他者が痛みを受けているのを見た時に<も>左島皮質の活動が高い個人ほど後にその他者を助ける<。>」(※)
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%88%A9%E4%BB%96%E7%9A%84%E8%A1%8C%E5%8B%95#:~:text=%E5%88%A9%E4%BB%96%E7%9A%84%E8%A1%8C%E5%8B%95%E3%81%AF%E8%87%AA%E5%88%86,%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%8B%E8%A1%8C%E5%8B%95%E3%82%92%E6%8C%87%E3%81%99%E3%80%82
 オキシトシンの作用がもたらす育児がらみの言動、より一般的に言えば家族関係がらみの言動、それ自体は、必ずしも利他的行動/人間主義的行動とは言えないのかもしれないところ、「※」中の、第一と第三のメカニズムは、間違いなく、私の言う人間主義のメカニズムである、と、言えそうであり、大乗仏教の核心は、第一のメカニズムを意識的かつ頻繁に働かせることで、第三のメカニズムの活性化・強化を図ることが可能であると考え、これを促したところにあると言えよう。
 そう遠くない将来、弱い/毀損された人間主義性を医療行為を通じて回復すること・・第一のメカニズムを意識的かつ頻繁に働かせることなくして!・・が可能になるかもしれない。
 また、人間だけが人間主義的言動を行うかどうかは、「※」の論考が2012年に書かれたものであることもあり、検討課題だ。
 (念押しながら、動物以外の生物や自然(非生物)が人間主義的行動を行うことはないところ、人間は、これらのものに対しても片面的に(客観的に見て)人間主義的行動をとることがあることを忘れてはなるまい。)(太田)

 それは子供の親に対する従順と愛であり、親の子への愛に対する子から親への恩でもある。儒教の経典である『論語』為政篇において「孟懿子、孝を問う、子日く、『違うなかれ。・・・生くればこれに事うるに禮を以てし、死すればこれを葬るに禮を以てし、これを祭るに禮を以てす』とや」(孟懿子問孝、子曰、無違、・・・生事之以禮、死葬之以禮、祭之以禮)、『禮記』祭統篇において「是の故に孝子の親に事うるや、三道あり、生くれば則ち養い、没すれば則ち喪し、喪畢すれば則ち祭る。養えば則ち其の順を觀るなり、喪すれば則ち其の哀を觀るなり、祭れば則ち其の敬して時なるを觀るなり。此の三道は、孝子の行いなり」(孝子之事親也、有三道焉、生則養、没則喪、喪畢則祭)、祭義篇において「君子は、生くれば則ち敬いて養い、死すれば則ち敬いて享し、終身辱めざるを思うなり」などにも、生きている親に対する義務と死者(先祖)に対する尊敬が連続体を構成するという考え方をあらわしている 。儒教にとって、人間は「天 (上帝)と直接」の交流を持たず、その祖先を仲介者として「天」の恩寵に与るという構図があった 。
 しかし、「孝」が単に親子関係の倫理に過ぎないなら、親子間の情愛と従順はもとより自然の感情に属するから、かくも熱烈に議論する必要はないのであって、むしろ、儒教は親子関係をメタファーとして何か別のことを、より普通的な倫理なり人間としてのあり方なりを論じていたと考えるほうが自然であろう。「孝」ならびに祖先崇拝は王朝統治と深い関係を持っていたのである。孝は人々の間に自然に存在する「孝」と、君主によって(恐らく政治的な目的のために)宣揚され利用される「孝」の二つのレベルがある 。自分の親や家族のなかの目上の者に対する孝行は、社会的秩序の従順へと繋がる。親(先祖)は一つ家庭の家長であり、子(子孫)は家長に対して孝道を行い、従順でなければならない。つまり、一つの家庭は国家の縮図である。国家としての家長は君主であり、民はこの国家に属す一員の臣子である。儒教社会において、臣子は親に対する孝行をもって君主に従順する。儒教が政治的及び社会的な責任を強調し、儀式の役割を果たしつつ、国家と家を一つにまとめた。国家として重視しているのは、国家祭祀という儀式である。紀元前8、9世紀の周王朝以後、天上界の支配者である「上帝」が、地上の支配者の「王」に下す命令(天命)に従って、王は地上の支配する資格をもつという儒教の宗教的信仰が確立した。このように王は天と地との仲介者であるゆえ、「天子」(天の命令を地上で執行する子供)と呼ばれた。そのため、一定の時期に天の命令に従って、王が民を代表し、天、そして帝室の祖先の祭り(祭天、祭祖)を行うという伝統は、清王朝滅亡(1911 年)まで続いたのである 。王は「天」の「命」を受けたという資格をもって諸侯に「命」を降し、諸侯は同様に陪臣に「命」を降して、その権限の一部を委譲するというように、「命」は漸次に降されていくパターンをとる。同様のパターンをとる概念に「徳」があり、天は王に「徳」を降し、王は更にそれを臣に頒布し、それに対しては臣下が王に忠実を尽くすことにより王朝の秩序は確立する。一方、頒布された「徳」は家系ごとに継承されるもので、子孫は先祖の「徳」を見倣う責務がある。よって、王は先王に見倣って「徳」の継承が可能になるのと同様、臣下は祖先に見倣う(具体的には祖先が王に忠誠を尽くし功績を挙げたのに倣う)ことが求められる。天は究極的な力であるのだが、一般の人々は直接それに与るわけではなく、王(君臣関係)と祖先(祖先関係)の二つを媒介に間接的に係わるものであった。この構造の中で、王朝側は祖先関係を利用(または<祖先関係に>介入)することにより、その臣下に対して忠誠の義務を強調するという構図が存在していたと思われる 。

⇒筆者は「『大学』8条目の「格物、致知、正心、誠意、修身、斉家、治国、平天下」」
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%AE%E8%BA%AB-77070
といったものが念頭にあるのだろうが、「『大学』(だいがく)は、儒教の経書の一つ<であって、>南宋以降、『中庸』『論語』『孟子』と合わせて四書とされた<ところ、>もともとは『礼記』の一篇であり、曾子によって作られたとも秦漢の儒家の作とも言われる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
ものであって、『大学』を孔子の作とする説はないわけであり、孔子は、あくまでも既述したような仁を人が身に着けるために、形から入る方法が有効であると信じ、葬儀等の禮(礼)の励行を促したにとどまる、と、考えている。
 (「歴代の儒者も日中の漢学教授も、「礼」を礼儀作法や、冠婚葬祭の式次第の範疇と決めて疑わない。
 だが孔子生前の「礼」とはもっと幅広く、当時の君子=貴族の一般常識を指した。孔子塾で「礼」を・・・六芸(リクゲイ)(礼・楽・射・御・書・数)の一つ<、>教養の筆頭と<して>・・・教えたのは、それが仕官するための必須教養だったからに他ならない。」(九法堂「論語における「禮(礼)」」より)
https://hayaron.kyukyodo.work/kaisetu/rei.html
の、引用前段は正しいが、後段は間違っている。)(太田)

 すべての社会倫理の出発点が親族倫理にある以上、統治も親族倫理の延長上にあるべきであると考える。
 近親に対する愛情の精神を親子・親族関係を越えて拡大されることにより理想的統治が保持できる。君主自身が孝であることにより、その感化により民の道徳性を完成させるというものである。理想的統治は民に対して孝を含めた道徳の教育を行う。そうすれば、「孝」が従順さをもたらし、それ故に君主統治にとって有効である 。・・・

⇒だから、これは、必ずしも孔子自身の考えではない、と、思うのだ。(太田)

 <支那で>民衆が普遍的に執り行う祖先崇拝<(注24)>(崇祖)と孔子を祭る儀式<(注25)>(祀孔)<が行われるのは、このような考え方からだ>。

 (注24)「<支那>の祖先崇拝における「祖先」の概念には幾つかの条件があり、先に死去した親族が必ずしも祖先として崇拝されるものではない。まず、祖先となるには死者でなければならないが、夭折した者、未婚の者、横死した者は祖先になれず、悪い行いをせず天寿を全うする必要がある。また、祖先となる者は自分を崇拝してくれる子孫を設ける必要があるが、その子孫は自分と同じ姓の宗族員であり、男子もしくは婦人の地位をもつ女性でなければならないとされている。祖先崇拝の宗教観では、祖先は神明と鬼魂との中間的存在であり、適切な供儀を欠かさなければ一族を栄えさせるが、供儀を怠ると鬼魂へと変化し子孫に悪影響を及ぼすと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E5%85%88%E5%B4%87%E6%8B%9D
 「中国古代文明にお<ける>・・・祖先崇拝・・・祭祀の目的には主に、災害の除去、幸福の祈願、神霊への感謝、同盟関係の締結の4つが挙げられる。・・・
 祭祀は具体的には、場所や儀式、祭文(祝祷詞)、祭品(Sacrifice)などの一連の要素からなる。また祭祀を執り行う人員の配備にも細かい仕組みがあった。当時の祭祀の実施者は国家の官僚制度と緊密に結合し、全体としての祭祀制度の一部を形成していた。」
https://spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1605.html
 (注25)「今日でも、東京の湯島聖堂、あるいは閑谷学校その他で、いわゆる釈奠<(せきてん/しゃくてん/さくてん)>が行なわれている。外国では、台北市をはじめとする中華民国諸都市において、例年釈奠が催されている。
 釈奠とは言うまでもなく公祭(国祭、官祭)としての孔子祭である。
 孔子祭にはもう一つ、私祭(家祭)としての側面がある。・・・
 まず第一に、公祭、家祭双方を含めて、孔家は祭祀を中心とする生活を送っていたこと。第二に、孔家の家祭は、孔子を「始祖」とする家廟における祭祀であり、祖先崇拝であること。第三に、したがってこの点から言えることは、孔家が有する社会的、文化的な生命は、あくまで孔子に淵源すると考えられていること。そして、第四に、その祖先崇拝としての祭祀の中に、宗教的生命をも看取できること。」(欠端實 千島英一「家祭としての孔子祭」より)
https://www.moralogy.jp/wp-content/themes/mor/img_research/22kakehata.pdf

⇒言うまでもなく、祀孔なんぞは、孔子本人があずかり知らぬことだ。(太田)

 <支那>の社会において、皇帝から一般の平民まで皆祖先崇拝の儀式に拘った。祭壇に先祖を代表する位牌を安置し、位牌の前に果物、香料などのお供えを置き、位牌に向かって線香をあげ、紙銭を焼き、その後、儀式の参加者たちは、お供えを共に食べるのである。

⇒既述したことを言い変えるが、「孝」・・その系であるところの、擬制の孝たる「忠」(下述)を含む・・を外形化したものが孔子の言う「礼」である、と、私は受け止めている次第だ。
 (ちなみに、孝と忠との関係は、日本の場合は孝≒忠(注26)であって、より直截的だ。)(太田)

 (注26)「日本人(特に支配階級であった武家)は家(血族ではなく組織としてのイエ)の意識が<支那>人より高く、忠が孝につながるとした(君に忠を尽くさず、家を断絶されることは、孝につながらないとした意識)。」
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%BF%A0_%E6%A6%82%E8%A6%81

 孔子を祭る儀式について<は>、士大夫だけの参加である。士大夫たちは、毎月の一日と十五日に孔子廟で集まり、孔子の位牌に向けて線香をあげ、額を地につけて拝礼するのである。そして毎年春に各地の孔子廟で孔子大祭が行われ、祭壇の前にいけにえ、果物、お酒などを置き、その後盛大な宴会が開かれるのである。」(徐亦猛(注27)「儒教とキリスト教–孝行観念についての考察」より)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/139304/1/asia9xu.pdf

 (注27)「上海出身<で>1994年11月に来日、・・・聖和大学に入学し、日本の文部科学省の国費留学生となって関学大神学研究科に進学。博士課程を修了した後に研究員として在籍し、博士号<取得。>・・・神戸で牧師を続けながら、研究者の道に進み<現在に至る。>」
https://www.kwansei.ac.jp/news/detail/news_20100308_003919.html
 「福岡女学院大国際キャリア学部教授」
https://research-er.jp/researchers/view/644334

⇒(孔子を祭る儀式なんぞ、孔子自身のあずかり知らないところだが、)民衆も士大夫も天子も親の葬儀という礼は行うが、天子と士大夫はそれぞれの祖先を祭る礼をも率先して行ってこれを民衆に普及させよ、天子は天を祭り士大夫と民衆に天が全員の共通の祖先であって天子はその地上における代理人なので士大夫は天子に礼をもって孝を尽くす、即ち、(血縁関係が必ずしもない者に対する孝的なもの、孝の擬制、であるところの)忠を実践し、この忠の観念についても民衆に普及させよ、そしてこれらの責務遂行の証として天子と共に(忠孝/礼を唱えた)孔子を祭る釈奠にも参加せよ、というのが儒教である、と、頭の中を整理したらよさそうであると思えてきた。
 その儒教においては、孝、忠に対する反対給付・・天子の場合は徳政/仁政という形での反対給付・・を行うことは、親、天子の義務ではなさそうだ。
 すなわち、「君君たらずとも臣臣たらざるべからず」(孔安国(注28)「古文孝経訓伝序」より)
https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E5%90%9B%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%9A%E3%81%A8%E3%82%82%E8%87%A3%E8%87%A3%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%96%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%9A-2028416
なのであって、「儒教では古くから「父子天合」(孝)に対して、「君臣義合」(忠)というテーゼがあり、『礼記』曲礼篇には、父が過ちをした場合の子の対応を「三度諫めて聞かざれば、すなわち号泣してこれに随う」と記され、これに対して、君が過ちをした場合の臣の対応を「三度諫めて聞かざれば、すなわちこれを逃(さ)る」」(上掲)ことしかできないわけだ。

 (注28)こうあんこく(?~?年)。「前漢の学者。・・・孔子一二世の孫。山東曲阜の人。武帝の時、諫議大夫(かんぎたいふ)、臨淮(りんわい)太守となる。孔子の旧宅から発見された「尚書」「論語」「孝経」が、みな蝌蚪(かと)文字であったのを、「今文尚書」と比較研究して解読し、「古文尚書」をおこしたといわれる。・・・
 <但し、>孔安国の著述として伝えられた『古文尚書』の序や伝,『孝経伝』『論語注』などは,いずれも六朝の頃の偽作であることが,ほぼ定論となっている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%94%E5%AE%89%E5%9B%BD-61382

 なお、『論語』には、孔子が仁政を推したどころか、仁政とは何ぞやについて語った話さえ出てこない。
 陽貨第十七 6の「子張問仁於孔子。孔子曰、能行五者於天下爲仁矣。請問之。曰、恭寛信敏惠。恭則不侮、寛則得衆、信則人任焉、敏則有功、惠則足以使人。」で、孔子が仁政を語り、推しているとされる
https://kanbun.info/keibu/rongo1706.html
が、私に言わせれば、仁について問われた孔子が、仁者のお天道様(天下)に恥じない諸属性について説明しているだけだ。
 但し、孟子は、仁政を語り、推している。(後述)
 他方、日本においては、できの悪い家長たる親は押込隠居させられたし、
https://kotobank.jp/word/%E6%8A%BC%E8%BE%BC%E9%9A%A0%E5%B1%85-2016150
できの悪い君主は主君押込をされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E5%90%9B%E6%8A%BC%E8%BE%BC
 なお、西欧の封建制下では、主君と家来の関係は契約関係なので、主君が契約を履行しなければ契約違反となり、その責任を負わされることになる。(典拠省略)(太田)

 ちなみに、「東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした。・・・

⇒白川静と徐亦猛の言っていることは基本的に同じことだ。
 なお、殷がシャーマニズムに立脚していたこと(後述)を銘記されたい。(太田)

 日本<では、>・・・現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的だが、・・・儒教が宗教かが法廷で問われた例として至聖廟[・・沖縄県那覇市久米の松山公園内にある孔子廟・・]を巡る裁判があり、日本の最高裁は至聖廟を宗教的施設との判断を示した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%B3%E8%81%96%E5%BB%9F ([]内)

⇒儒教という言葉がいつ生まれたのか、また、儒教における「教」に欧米的な宗教のニュアンスもあるのかどうか、はともかくとして、儒教は、孔子の死後に形成されたものであって、孔子の思想とは、無関係ではないけれど、別物である、と、私は考えているわけだ。
 以上、随分回り道をしたが、孔子の唱えた仁とは本当のところいかなるものだったのだろうか。
 孔子は、「個人個人が・・・「深い人間愛」を意味するといわれてい<る>・・・「仁」を身につければ、・・・理想的な社会ができると考え<た。>」
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/r2_gengo/assets/memo/memo_0000000163.pdf
 ちなみに、『論語』学而篇に、「子曰、弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁、行有余力、則以学文。」とあるところ、このくだりは、一般に、「先生(孔子)がこうおっしゃった。『若者たちよ、家庭に入れば親に孝行を尽くし、家庭を出れば地域社会の年長者に従順に仕え、言行を慎んで誠実さを守り、誰でも広く愛して人徳のある人格者とは親しくしなさい。これらの事を実行して余力があれば、そこで初めて書物を学ぶとよい。」と解されている
https://esdiscovery.jp/knowledge/classic/rongo001.html
が、『論語』里仁篇において、「子曰、不仁者不可以久処約、不可以長処楽、仁者安仁、知者利仁。」
https://esdiscovery.jp/knowledge/classic/rongo004.html
と、「仁者」という言葉が使われている以上、「者」を使っていない「汎愛衆而親仁」の「仁」は「仁者」ではなく、単に「仁」なのであって、「誰でも広く愛して人徳のある人格者とは親しくしなさい」という趣旨ではなく、「あらゆる人々を愛せば自ずと仁が身に付く」という趣旨だろう。
 (「親」には、「みずから。みずからする。」という意味がある
https://dictionary.goo.ne.jp/word/kanji/%E8%A6%AA/
ことを思い出して欲しい。)
 また、「謹而信」は、DeepL翻訳では、with great care and confidence なので、配慮と信頼でもって、ということだろう。
 よって、「弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁」は、「家庭内における親に対する孝、家庭外における年長者に対する悌、の際と同様の配慮と信頼でもって、あらゆる人々を愛せば自ずと仁が身に付く」と解釈されるべきことになろう。(コラム#14150で述べたことを再述した。)
 しかし、孔子は、これが、言うは易くして行うのは難いことが分かっていた。
 さて、「次兄にあたる初代武王存命中は兄の補佐をして殷打倒に当た<り、>周が成立すると曲阜に封じられて魯公・・<すなわち、>周公旦<(~BC1037年?)>・・とな<った姫旦は>、天下が安定していないので魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治にあたっていた。
 建国間もない時期に武王は病に倒れ、余命いくばくもないという状態に陥った。これを嘆いた旦は自らを生贄とすることで武王の病を治してほしいと願った。武王の病は一時回復したが、再び悪化して武王は崩御した。
 武王の死により、武王の少子(年少の子)の成王が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、旦は燕の召公と共に摂政となって建国直後の周を安定させた。
 その中で三監の乱が起きた。殷の帝辛の子の武庚(禄父)は旦の三兄の管叔鮮と五弟の蔡叔度、さらに八弟の霍叔処ら三監に監視されていた。だが、霍叔処を除く二人は旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。反乱を鎮圧した旦は武庚と同母兄の管叔鮮を誅殺し、同母弟の蔡叔度は流罪、霍叔処は庶人に落とし、蔡叔度の子の蔡仲に蔡の家督を継がせた。
 さらに、引き続き唐が反乱を起こしたので、再び旦自らが軍勢を率いて、これを滅ぼした。
 その後、7年が経ち成王も成人したので旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻った。その後、洛邑(洛陽、成周と呼ばれる)を営築し、ここが周の副都となった。
 また旦は、礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』、『儀礼』を著したとされる。旦の時代から遅れること約500年の春秋時代に儒学を開いた孔子は魯の出身であり、<この>文武両道の旦を理想の聖人と崇め<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%85%AC%E6%97%A6
とされている。
 私見では、孔子が周公旦を崇めたのは、彼が仁(人間主義)を体現した人物で、武と礼を手段として仁の普及に努めたからなのだ。
 (「「忠」や「信」といった態度は、「仁」に達するための重要な手段なので<あるとした。>」
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/r2_gengo/assets/memo/memo_0000000163.pdf 前掲
という見解には私は与しない。私は、「忠」や「信」は「仁」の諸属性中の重要な2つに他ならないという理解だ。)
 ここで銘記すべきは、既述したように、「仁」は、人間のみならず、生き物全般、更には自然、までも包摂する「人間主義」よりもはるかに狭い、「人間の人間主義」である、という点だ。

 (2)武

 以上が、文武両道中の仁の話だが、それでは、孔子にとって、文武両道中の武とは何だったのだろうか?
 武は(仁者を作るための「手段」である礼とは異なるところの、)非仁者退治のための「手段」であったと考えられる。
 すなわち、武は、周公旦がやったように、非仁者集団と化した殷を放伐(打倒)したり、仁者である自分達が属している社会を、席捲しようとする内外の敵性勢力から防衛したりするための手段であったと考えられるのだ。
 「『論語』顏淵篇に、子貢政を問ふ、子曰く、「食を足し、兵を足し、民をして之に信あらしむ」と。子貢曰く、「必ず己むを得ずして去らば、斯の三者に於て何れを先にせん」と。曰く、「兵を去らん」と。・・・」とある」
https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2024/02/342-334_Yoshihiro-WATANABE.pdf
のは、孔子にとっての武の手段性を示すものだ。
 (渡邊義浩は、孔子/儒家が「基本的には戦争を否定してきた」根拠にこのくだりを挙げている(上掲)が、同意しがたい。なお、そもそも、孔子≠儒家、だ。)
 ちなみに、孔子自身、周公旦を祖と仰ぐ「魯国<の>昌平郷辺境の鄹邑(陬邑、すうゆう)、現在の山東省曲阜(きょくふ)で・・・生まれ、」その「父は・・・代々魯の実権を握ってきた・・・三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた<ところの、>沈着な判断をし、また腕力に優れた<人物だった>と伝わる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
ことから、この父を「3歳の時に・・・失<い、>・・・母の顔徴在とともに曲阜の街へと移住したが、17歳の時に母も失<う>」(上掲)時まで、曲阜の近親者の下で軍人としての教育を受けた、と、私は想像している。
 そう考えないと、下掲のような孔子の事績は理解できまい。↓
 「紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季孫氏に推薦したうえで、三桓氏の本城の城壁を破壊する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった。これは、先に陽虎が季孫氏に反旗を翻したように、曲阜に国相として居住する三桓氏に対し、地方にある三桓氏の居城にいる有力家臣がその本城に拠って下剋上を起こす傾向が強かったため、この憂いを取り除くためのものとして孔子が定公ならびに三桓氏に勧めたもので、このため君主権を拡大できる定公のみならず、三桓氏の同意もいったんは得ることができた。しかし、叔孫氏の本城城壁は破壊できたものの、家臣の抵抗にあっててこずり、孟孫氏の本城では家臣が同意せずに城壁に拠って抵抗を続けたうえ、主君である孟孫氏もこれに納得して反対の立場に回ったために失敗した。・・・
 <また、>紀元前483年、孔子は斉の簡公を討伐するよう哀公に進軍を勧めるが、実現しなかった。その3年後の前481年、斉の簡公が宰相の田恒(陳恒)に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。」(上掲)
 しかし、孔子の軍略は、詭計を排除するものであったようで、だから、上出前段では失敗し、後段では採用されなかったのだろう。
 (下掲を参照されたい。↓
 「紀元前517年・・・斉の景公が孔子を召し出そうとしたが、宰相の晏嬰<(コラム#14000)>がこれを阻んだ。・・・
 紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これはかの有名な宰相晏子<(晏嬰)>による計略で、それを孔子が見破ったといわれる。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った。この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。」(上掲)
 晏嬰は孔子同様、当時としては珍しい、仁政論者であった(コラム#14000)ところ、孔子を採用しなかったのは、孔子のこの軍略面での欠点を見抜いていたからだろうが、孔子が晏嬰の詭計を見破ったのは、孔子が詭計を立てる能力があったからこそであり、孔子は、詭計を立てる能力は十分あったけれど、極力その能力を用いないように心がけていた可能性がある。
 結局のところ、晏嬰は政治家だったのに対し、孔子は思想家だった、ということかも。)(太田)


[戦争–国家の起源論再訪]

 「武」の話が出てきたところで、表記をおさらい目的で行っておきたい。

 「松本直子<(注29)>・・・によれば、人が戦争を始めるのは基本的に約1万年前より後の時代であり、農耕に伴う生活様式の変化と人口増加が始まる時期と一致している。

 (注29)九大文(史学(考古学))卒、同大博士(文学)、レディング大考古学科客員研究員、岡山大准教授、教授、同大文明動態学研究所所長。雄山閣考古学賞特別賞受賞。
https://researchmap.jp/nmatsumoto_okayama-u
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000030314660/

 これまでは、農耕によって人口が増加すると土地や水をめぐる争いが起きるという経済学的視点や、人口増加と余剰生産物の蓄積によって社会の階層化が進むことが要因となるという社会的視点からの説明がなされてきた。それに付け加えて、さらに文化的制度が必要になる。戦争になると、自集団の人は殺してはいけないが、敵対集団の人を殺すのは良いこととなる。それは人類にとって新しい文化的な価値の枠組みに則って行われるものであり、明確な集団への帰属意識の発生が戦争を生み出す文化的要因となる。わが身を犠牲にしても、自分が属する集団に尽くす「利他的な」行動が、戦争を生み出す個人レベルのメカニズムである(松本・・・)。・・・

⇒松本がいかなる根拠に基づきかかる主張をしているのかまで調べが及んでいないが、動物でも、母親や(場合によっては父親までも)が「わが身を犠牲にしても、自分が属する」自分と自分の子供達からなる「集団に尽くす「利他的な」行動」をとる場合があることを我々は常識的に知っているところ、一体、そのどこにこの母親(や父親)が本能以外の「則って」いるところの、「文化的要因の枠組み」、があると言うのだろうか。
 人間の場合は、女親だけではなく男親も自分達の子供のために自己犠牲を厭わない気持ちを抱き、その気持ちを、近親者、親族、地域の人々、地域を中心に拡大された広域の人々、にまで理性に基づき、というか、想像力と合理的計算に基づき、拡張しているけれど、この拡張にも「文化的要因の枠組み」など殆ど関わってはいまい。
 だから、この点に関しては、松本の主張には違和感がある。
 問題は、人間が、かかる、拡張された本能の発揮を頻繁に繰り返していると、私の言うところの、人間に生来的に備わっている人間主義が毀損されてしまうことだ。
 その場合に、その状態を文化として積極的に肯定する宗教、例えばゲルマン神話、が生れる場合があるし、また、毀損された人間主義を修復(回復)すると標榜する宗教、典型的には一神教、就中アブラハム系諸宗教、が生れる場合があり、後者の場合、(別の宗教を信仰する人々を含む)当該宗教を信仰しない人々との間で、戦争を含む紛争を生み出す原因となりがちだ。(太田)

 このように、より細かな検証によれば、戦争は狩猟採集社会から農耕牧畜社会への移行期、つまり約1万年前から見られる現象<なのだ。>・・・
 農耕牧畜が確認されるのは、約1万年前の旧石器時代の末期である。紀元前6000年頃、乾燥農業がメソポタミアの丘陵地帯で発展した。一定の土地を領有し農作物の収穫を確実にする技術の発見と習得がやがて人口を増大させ、町の発展を促し文明を発展させ、このために略奪の対象が新たに生じ、その潜在的脅威が生じた(森利一・・・)。家族を形成すると共に、共同して食物を獲得するために分業を行うという社会が、人間社会の第一歩であり、この社会構造が農耕生活を可能にするための必須の条件であった。この農耕牧畜は人類が最初に経験した産業社会で、食料生産革命と呼ばれ、自然に制約される不安定な生活から、穀物の貯蔵や家畜の飼育に支えられた定住生活にはいった。ここから私有財産の観念が生まれ、貧富の差が生じ、やがて政治権力を司る支配階級が発生するのである(Smith・・・)。農耕生活は社会的剰余を生み出した最初の生活様式であった。その農耕生活が、人間社会をして他の動物社会とは決定的に異なる発展の道に進ませたのは、生産された社会的剰余の管理、所有と分配のための社会構造を作りあげたからである。貧富の格差により社会的ストレスが高まり、それが戦争に結びつき、さらに政治権力を強めるために戦争に訴え、政治権力がより強化されるのである。
 このように政治権力は、社会的剰余、所有という関係の上に発生したものであった。人間社会の発展によって、この所有を物的なものに限定できなくなり、後には宗教やイデオロギーの対立さえもが戦争となった。政治的秩序維持のために、自己の社会内部や社会外部に対しても権力や物理的暴力、戦争を行使するようになったのである。政治権力と戦争とは、発動すると否とにかかわらず、一体のものとして出現したのである(森祐二・・・)。

⇒イデオロギーは宗教の代替物であると言ってよいだろうが、イデオロギーを含む広義の宗教がどうして生れたか、と、生まれた広義の宗教がどうして戦争を含む紛争を生み出したか、について、私見を既に記している。(太田)

 このように農耕社会に内在する諸要素が戦争の原因のひとつとなっているということを強調する論者は多い。松木によれば、耕地は血と汗の結晶であり、命をつないでくれる食糧のみなもとだから、それを守る意識は、狩りや採集の社会のテリトリーを守る気持ちよりも何倍も真剣で強烈なものになるはずである。つまり、耕地のような明確な不動産が現れたことが、人々の排他的な防衛意識を強め、争いを激しくさせた大きな原因となったにちがいない(松木・・・)。また福井によれば、農耕牧畜社会では、特定の土地にしばられるようになり、狩猟採集社会より定着性が増していくと同時に、なわばり意識が固定化し、土地が特定の集団の間で排他的に継承されていくようになる。それと並行して系譜意識が発達し、血縁原理などをもとに強固な集団が形成されるようになる。なわばり意識が顕在化し、土地が排他的に継承される社会になると、異なる集団間で組織的な戦争が行われやすくなるのである(福井・・・)。

⇒農耕牧畜社会の成立と定着社会の成立は、日本の縄文時代を除けば、ほぼイコールである、と言ってよいことに注意。(太田)

 1万年前から始まる農耕牧畜によって、生産量が上がり、貧富の差が生じ、分配のための政治権力も誕生した。この政治権力と戦争の関係も密接であり、両者は相互に強化し合った。農耕牧畜により、以前よりもテリトリー意識は強くなり、排他的な領域意識も生まれ、それが戦争に拡大することとなった。

⇒農耕牧畜社会の成立≒定着社会の成立≒政治権力の生誕、と言ってよかろう。(太田)

 このように、農耕と密接に関係する定住化にも戦争の原因が隠されているようである。人類は出現してから数百万年は定住することなく暮らしてきた。大きな社会を作ることもなく、稀薄な人口を維持し、したがって環境が荒廃することも汚物にまみれることもなく生き続けてきた。しかし約1万年前から定住革命が進み、人類の社会は、逃げる社会から逃げない社会へ、あるいは逃げられる社会から逃げられない社会へと、生き方の基本戦略を変えた(西田・・・)。
 定住生活が出現する背景に、氷河期から後氷期にかけて起こった気候変動とそれに伴う動植物環境の大きな変化が重要な要因となったことは、定住生活がこの時期の中緯度地域に、ほぼ時をあわせたかのように出現していることからも明らかなことである。中緯度地域に温帯森林環境が拡大し、氷河期の大型獣が姿を消し、シカやイノシシなどの小型獣しかいなくなり、しかも障害物の多い森のなかでは見つけにくくなる。森の拡大によって狩猟が不調になれば、植物性食料か魚類への依存を深める以外に生きる道が無くなり、次第に定住化が進んだようである。地球的規模の環境変動によって始まったこの一連の出来事は、人類社会における技術や社会組織、あるいは自然や時間に対する認識、観念的世界までも巻き込む大きな変化を引き起こした。まさに人類史の流れを変える革命的な出来事であった(西田・・・)。

⇒より、精緻に農耕牧畜社会成立の経緯を説明しているのが、狩猟採集を主、農耕を従とする、定着社会たる縄文時代(注30)、の始まりに係ると私が受け止めたところの、福井県の水月湖の堆積物に基づく2021年公表の研究成果たる、「氷期からその後の暖かい時代への移行期には、気候が安定な時代と不安定な時代とが、何度も繰り返し訪れていました。その中で人類による植物の栽培化は、気候が単に温暖になった紀元前13,000年頃には始まらず、温暖な気候がさらに安定化する紀元前12,000年頃まで待たなければなりませんでした。

 (注30)「縄文時代<の>・・・他の地域の新石器時代との共通点としては、・・・磨製石器や土器の使用のほか、定住生活なども挙げられる。ただし、食糧生産経済の本格化には至らず狩猟採集経済が継続しており、この点において縄文時代は、他の地域とは異なる珍しい形態の新石器時代として位置づけられる。狩猟採集経済でありながら定住生活を営んでいたという点において類例として知られているのは、北アメリカ北西海岸の先住民のみである。このような特異な形態は、・・・豊かな自然環境を大いに活用することによって可能となったものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
 「・・・縄文時代前期・・・には畑でいろいろな作物が作られていました.」
https://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/jomon/plants.html

 農耕をおこなうには計画を立てる必要があり、計画が意味を持つためには、未来がある程度まで予測可能である必要があります。気候が常に激しく変動していた時代には、来年の天候が今年のそれと似ている保証がなく、作物の生育にも不安がつきまとうため、農耕はあまりにもリスクの高い賭けでした。このような条件の下では、(農地とは対照的に)種の多様性が保たれた自然の生態系の中で「何か」食べられるものを探す狩猟採集のほうが、農耕よりも合理的な生存戦略でした。・・・この発見は、農耕が人類の歴史にとって革命的な進歩であったという一般的な見方を覆すものです。むしろ農耕と狩猟採集はそれぞれ、安定した気候と不安定な気候への適応戦略として、等しく合理的であったのです。」
https://www.ritsumei.ac.jp/news/detail/?id=2215
だ。(太田)

 このような人類史における大きな革命であった定住化は戦争の発生にも影響しているのだろう。定住化によってなわばり意識が芽生え、テリトリーを排他的に系譜する必要がでてくる。様々なものから逃げることができなくなり、ストレスや葛藤、紛争が生じることとなった。移住する採集民の集団は、他の集団との関係が危うくなると敵からすばやく離れることによって「戦争に近い」緊張状態を解消できるのであったが、この平和な選択を定住は取り去ってしまったのである(佐原・・・)。このように農耕や定住によりテリトリー意識や排他的系譜意識が高揚し、他集団との摩擦が生じて、しばしば戦争の原因となったのである。・・・

⇒縄文時代に戦争が殆どなかった・・従って人間主義が毀損されなかった・・のは、農業が従であったこともあり、人々が奪い合うほどの富の集積がなされえなかった一方で、奪い合わねばならないほどの飢えが生じることもまたない比較的に恵まれた食環境であったからだろう。(太田)

 集団がより緊密になり、より強制力を増したのが国家である。したがって国家と戦争の関係は、農耕牧畜社会と戦争の関係よりも、さらに深く密接になると考えられる。・・・
 そもそも国家と暴力の関係は、国家がまずあるのではなく、暴力の行使が国家に先行する。あらかじめ存在する国家が秩序を守るために暴力を用いるのではなく、反対に秩序と支配を確立するために暴力を組織化するという運動こそが、国家を出現させるのである(萱野・・・)。国家が暴力への権利を独占しているのは、社会における他のあらゆる暴力を圧倒し、違法な行為を取り締まるだけの物理的な力を持っているからに他ならない。社会の中でもっとも強いから、暴力を独占しているのである(萱野・・・)。社会で起こる暴力を合法なものと非合法なものに分け、その非合法な暴力を実際に抑えこむだけの力を持つことができてはじめて、国家は社会における合法的暴力の源泉となることができる。このように、国家の存在は暴力の実践から切りはなせない。

⇒縄文時代は、定着社会であったにもかかわらず、既述したように暴力行使の機会が少なく、従って国家は出現しなかったと考えられる。
 そして、この状態が1万年も続いたために、弥生時代になってからも国家の出現は遅く、また、出現した国家による支配も緩やかなものだったと私は見ている。
 それどころか、日本列島の住民達にはアナキズムがデフォルトであるという感覚が抜けきらないまま現在に至っていると言えるのではなかろうか。
 そのこともあり、80年ころ成立した『漢書』
https://kotobank.jp/word/%E6%BC%A2%E6%9B%B8-48889
に、「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。」とあり、「紀元前10世紀から紀元後3世紀中ごろまでにあたる・・・弥生時代」中の紀元前1世紀頃・・・<の>前期」から「1世紀中ごろから3世紀の中頃まで・・・<の>後期」の変わり目くらいになって、日本列島の中・西部に、ようやく国家群が生れたのではなかろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3 (「」内)(太田)

 力の論理が国家を突き動かしている。国家権力といわれるものも、国家が最終的には物理的実力、つまり暴力を用いてことに当たれるというところから来ている(萱野・・・)・・・
 人類の歴史では、ほとんどの期間を通して国家は存在しなかった。狩猟採集社会や小規模の農耕社会には、単独の政治的権威は存在しなかった。だが、そうした国家なき社会は無秩序状態に陥ったわけではなかった。それらの社会には、共同体を左右する意志決定を方向づけ、紛争を処理するためのインフォーマルな統治機構が働いていた。意志決定は普通、家族集団内で行われており、かりに同一バンドに居住する親族集団どうしが根本的に意見の食い違いをみせた場合、そうした親族集団は別々の単位へと分裂し、その後、他の親族集団と再結合していった(Giddens・・・)・・・
 <その上でだが、>日本史においては<、松本によれば、>弥生時代以降から戦争が発生したと捉えるのが妥当であろう。・・・
 子供が殺されることが戦争の一つの重要な証拠であるが、縄文時代の受傷人骨の中に子供は含まれていない。この結果は、まれに殺人はあっても、集団間の戦争があった可能性は極めて低<かった>ことを示している。弥生時代の早期から後期までおよそ1000年間にわたる3298体のうち、受傷人骨は100体、比率にして約3パーセントである・・・。より時代が下った弥生時代にしても、<それを額面通りに受け止めることは慎重でなければならないところの、>ピンカーの狩猟採集民の暴力死の平均値15パーセント<、なる数字と較べても、>約5倍の差があるのである。」(岩木秀樹(注31)「戦争原因の研究I–農耕牧畜の開始と国家の成立」より)
https://www.totetu.org/assets/media/paper/k034_089.pdf

 (注31)1968年~。「創価大・・・博士(社会学)。専門、平和学、国際関係学、中東イスラーム学。現在、創価大学非常勤講師」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%B2%A9%E6%9C%A8%E7%A7%80%E6%A8%B9_200000001047319/biography/
にして、「東洋哲学研究所委嘱職員。著書に・・・戦争と平和の国際関係学・・・中東イスラームの歴史と現在 平和と共存をめざして・・・共存と福祉の平和学 戦争原因と貧困・格差・・・
きちんと知ろうイスラーム・・・」
https://honto.jp/netstore/search/au_1001886181.html

⇒つまり、日本列島の弥生時代ですら、全球的標準に照らせば、極めて平和であったというわけだ。

 だから、私の言う拡大弥生時代に生れたヤマト王権の指導者達たる弥生系の人々からすれば、自分達の祖先達の故郷である支那(や朝鮮半島)は、戦乱ばかりの異常な社会に見えていたに違いないのだ。(太田)

 (3)礼

 ところで、礼は、本当に仁者になるための手段たりうるのだろうか。↓
 「〈「礼」の最単純モデルは親の喪礼である<。>〉
 なぜなら、一般的に言って、親が子よりも後でなくなるという特別な事情を除くと、人間はほとんど必ず親の死を迎え、喪礼を行うからである。・・・
 孝とは何か、という弟子の質問に対して、孔子はこう答えている。
 生〔生きている親〕に〔対して〕は、これに事(つか)うるに礼をもってし、〔親の〕死に〔対して〕は、これを葬るに礼をもってし、〔忌日などに、祖先〕これを祭るに礼をもってす。(『論語』為政篇)
 すなわち、死生の上に孝を置き、孝の上に礼を載せている。この礼が社会の規範(それを延長すると最後は政治理論となる)であることは言うまでもない。そして、その礼の基準の役割を果たしているのが、親の葬儀を中心にしている喪礼である。・・・
 孔子は、……[親への]愛情や[その死の]悲しみを<形として>表わし、共通の規則あるいは慣行として守ろうとした。すなわち<礼>がその具体的表現である。儒教とは、人間の常識を形として(大小や数量など)表現することでもある。そして、この礼を守る
 もちろん、礼は単なる形式ではない。ほんらい真情の真摯な表現である。孔子は「礼と云い、礼と云う。玉帛を云わんや」(『論語』用貨篇)と述べる。このことばは、「人は礼、礼というが、礼の根本は、それを行なう真情にあるのであって、礼式に使う玉や絹束(帛)の大きさや数がどうこうというのは、端々(はしばし)のことだ」という意味である。この孔子の非難にすでに現れているように、ともすれば、礼は形式に流されやすい。形だけ礼式にあっているが、それをしているときに、ともすれば、心はどこかに行ってしまっている、ということになりがちである。とすると、これもまた偽りとなってくる。」(加地伸行『儒教とは何か』より。下掲から孫引き。)
https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/syunjuu-kousi4
 上掲を補足するが、「仁」と「礼」の関係は、日本の武道における、「戦闘巧者であること」と「型」(注32)の関係になぞらえられる、というのが私の認識なのだ。

 (注32)’Katas then became tools for transmitting techniques, but also principles, of combat.’
https://fr.wikipedia.org/wiki/Kata Google翻訳で仏語→英語
 型の邦語ウィキペディアが存在せず、型のコトバンクだけが存在するものの、そのコトバンクでは、武道だけでなく古典芸能も併せ説明している
https://kotobank.jp/word/%E5%9E%8B-2378
ところの、帯に短し襷に長しの説明になってしまっているのは困ったことだ。

 私は、孔子(BC552/551~BC479年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
こそ、史上初めて、人間の人間主義性の喪失という問題意識を抱き、その回復手段を提起した人物である、と、見るに至っているわけだ。
 すなわち、孔子が、「当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
といった、一般的な見方は誤りだ、と、思うのだ。
 (ちなみに、支那で生まれ台湾で活躍した徐復観(1903~1982年)が、孔子は民本主義者であったと主張している
https://www.bing.com/search?q=%E6%B0%91%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9+%E5%AD%94%E5%AD%90&cvid=c28ed4f3b11341758970628ec922489c&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyBggAEEUYOdIBCDU3OThqMGo0qAIAsAIA&FORM=ANAB01&PC=U531 
が、私は、孔子は、晏嬰のような仁政論者ではなかった以上、晏嬰のような民本主義者でもなかった、と、見ている。
 「孟子・・・<が>、夏(か)の桀王と殷の紂王が国を失ったのは民の心を失ったためだと説<き、>さらに、為政者が民の心を得るためには、民が望むことを行い、民が嫌うことをしないことが必要であり、民がそのような仁政に帰服するのは「水が低きに流れる」ように自然な現象だと論じた(「孟子・離婁上」)。
https://www.recordchina.co.jp/b898671-s41-c100-d0198.html
のは、孔子ではなく、晏嬰の考えを、孟子が祖述したものに他ならない、と、見るている次第だ。)
 「82年以降の中<共>で・・・<支那>における〈すぐれた教育者〉であったとして再評価され<るに至った>・・・孔子」、
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%94%E5%AD%90%E6%89%B9%E5%88%A4-1164694
そして、2004年から中共の教育部が始めた孔子学院(Confucius Institute)の海外展開
https://en.wikipedia.org/wiki/Confucius_Institute
における孔子、は、以上のような孔子が念頭にある、と、見るべきだろう。
 なお、「孔子の教えを国教にしようとする孔教運動がおこり,袁世凱の帝制がさけばれるなかで,新文化運動が開始される。〈民主と科学〉を旗じるしとする雑誌《新青年》を中心に,<支那>の社会と文化を改革するためには,<支那>の封建体制の基礎となっている家族制度とそれを支えてきた孔子の教え(儒教)を否定せねばならぬ,という認識が進歩的知識人の共通のものとなった。陳独秀は〈孔子の道と現代生活〉など多くの文章で,孔子の思想が封建的なものであって民主主義とは両立しえないと主張し,呉虞は〈儒教の害毒は洪水猛獣〉のごとくはなはだしいものだと痛烈に批判し,魯迅は,儒教は〈人が人を食う〉教えであるとのべて《狂人日記》のなかで,人を食ったことのない(儒教に毒されぬ)子供を救え,と書いた。このほか,胡適,李大釗(りたいしよう),周作人,銭玄同,易白沙,高一涵など多くの人々が儒教の打倒を論じた。
 そして<支那>では1973年夏から約3年間,人民大衆を広くまきこむ大規模な孔子批判の動きが勃発した。それは当時,文化大革命の裏切者と評された林彪と孔子とを合わせて批判しようとした批林批孔運動である。そこでは,孔子は変革と進歩に反対し復古と退歩に固執した〈頑迷な奴隷制擁護の思想家〉〈反革命のイデオローグ〉というレッテルが貼られた。孔子の呼び名も,先生を意味する〈子〉をとり去り〈孔丘〉と呼びすてされ,さらには〈孔老二(孔家の次男坊)〉という蔑称があたえられた。と同時に,孔子批判を現代の歴史に適用しようという政治方針のもとで,孔子を崇拝したといわれる林彪もまた〈反革命のイデオローグ〉だと批判され政治的に抹殺されたのである。だが毛沢東の死後,江青夫人らいわゆる四人組が逮捕されると,この批林批孔運動は学術的価値が皆無の〈影射(あてこすり)史学〉であった,と全否定されてしまった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%94%E5%AD%90%E6%89%B9%E5%88%A4-1164694
というわけだが、新文化運動や批林批孔運動で批判された孔子は、孔子そのものというよりは、孔子の教え=儒教、であった、と見ればよかろう。
 その儒教とは、孔子の思想が、後漢以降において、讖緯説といったエセ科学と融合させられ、かつ、一族郎党命主義に絡めとられ、たところの、退嬰的イデオロギーである、と。
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-053_0.html を参考にした。)


[一族郎党について]

 「日本の場合はその国家形成において、<支那>のような経済的発展に基づいた自然な氏族<・・一族郎党(太田)・・>制度を採用せず、天皇の下に統制された賜姓制度を採っていたために、国家的に氏族の分散が奨励され、より小規模な家制度が確立された。そのため、<支那>のような同姓不婚制が成立せず、古くから行われてきた血族結婚の氏族概念での抑制が働かずに、族内婚が行われてきたのではないか、と指摘されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%8F%E5%86%85%E5%A9%9A

⇒日本の支配層は、漢人文明下の諸王朝の支配層に比べてよりまともな統治を行ってきたので、日本では、国家抜きで自己完結、自己統治を行うための一族郎党、的なものが形成されなかった、というだけのことだ、というのが私の見解だ。(太田)

 「氏族(・・・英語: clan)とは、共通祖先を持つ血縁集団、または、共通祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。・・・
 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリネージ(lineage)<・・=一族(太田)・・>といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)<・・≒郎党(太田)・・>と呼んで、両者を区別する。・・・
 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E6%97%8F
 「同姓不婚は、同姓の者を一族の者と擬制し、その者との結婚を禁止する<支那>の制度。違反した場合の刑罰もあった。
 古代の夏王朝や殷王朝では族内婚に対して特に規定はなかったと伝えられているが、周王朝以降は長らく同姓婚は忌み嫌われ、周辺諸国にも多大な影響を与えた。父系制社会の象徴的制度で、儒教的思想に基づき支持されていたとされる。満族の建てた清王朝の時代の末期に撤廃され、その後中国北部においては同姓婚も一般的となった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E5%A7%93%E4%B8%8D%E5%A9%9A

⇒私は、支那における一族郎党の形成は漢人文明成立後だと見ているところだ。(太田)

 「<支那>では早くから戸(こ)と呼ばれる単位の小家族が一般化し、この戸の把握(戸籍作成)が王朝の政治経済力の源泉となったが、土地を集積して地主として成長した豪族は集積した資産の散逸を防ごうとしたこともあって同族間の結合が強く、漢・六朝の豪族勢力は、郷里における累代同居の形をとった。・・・

⇒中原文明(華夏文明)下では戸ないし個人を支配層が統治していたのが、漢人文明下では、一族郎党を支配層が緩治するようになった、ということだ。(太田)

 隋・唐ではこの結合は弱まったが、唐末に名族と呼ばれた門閥貴族が没落した後、新興地主ができるだけ没落を防ぐための相互扶助手段として宗族を強化した。族長のもとに族譜を有し、宗祠を設け、族産をおくものが多く、特に華中・華南に普及した。宗族という言葉や理念は儒教体制が浸透した朝鮮半島やベトナムにも伝わって、定着している。逆に日本では氏姓社会が比較的維持されたまま、儒教体制を取り入れたために宗族制は形成されずに中国や朝鮮半島とは異なる儒教観・家族観が形成されることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%97%8F
 「殷は、南方からもたらされたタカラガイ(子安貝)が遺跡で大量に出土したことなどから、その勢力が長江流域まで伸びていたとみられている。」(岡本隆司『物語 江南の歴史』(x))

⇒中原文明が、江南の長江文明の北部の弥生的縄文人の一部を次第に縄文的弥生人に変えていった、と、私は想像している。
 その結果、周の初期に生まれたのが楚
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
である、と。(太田)

 「客家<は、>・・・原則漢民族であり、そのルーツを辿ると華夏族も含む古代<支那>(周から春秋戦国時代)の中原や<支那>東北部の王族の末裔であることが多い。
 歴史上、異民族の過酷な支配と戦乱から逃れるため中原から南へと移動、定住を繰り返していった。移住先では先住者から見て“よそ者”であるため、客家と呼ばれ、先住者との軋轢も多かった。この争いを土客械闘という。
 <支那>内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類され、最初が秦の時代辺りから江西地帯への入植、第2段階が西晋の八王の乱から永嘉の乱にかけて黄河流域の中原や華北の北方住人が長江以南に避難。第3段階が唐末の黄巣の乱に江西、福建、広東の奥地に南下。第4段階として南宋末期の元軍の侵攻により広東に拡がり、第5段階では、清の時代の領土拡大に伴い、西は四川省、東は台湾に展開、そして最後の段階として、海南島まで南下した。・・・
 よく知られている土楼(円形のものは円楼、正方形など四角形のものは方楼)と呼ばれる独特の集合住宅は、客家人全体の習俗ではなく、福建省の一部山間部の客家人だけに見られるもので、外部からの襲撃を防ぐために作られており、一族がまとまって居住している。また、広東省や香港では「圍」と呼ばれる、城壁のような壁の中に村を築く方法も取られていた。このことから客家の間には、他の漢民族と比べ規律を重視する気風が生まれた。・・・
 劉鎮発は、本当の漢族は異民族の支配でもう絶滅されていて、客家は北方からの移民ではなく、広州人との械闘の中で起源の正当性を主張したことが誤まって定説とされたと主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A2%E5%AE%B6

⇒客家は、中原文明から長江文明地域に植民したところの、縄文的弥生人といったところか。(太田)

 「イスラーム文化圏では地域によって異なるが、サウジアラビアのような国では血縁が濃いことが喜ばれる傾向があるため、いとこ同士の見合い婚が多い。恋愛結婚にしても、女性が顔を隠しているために、男性にとって恋愛対象になり得るのが顔を知っている従姉妹に限定されてしまうという事情がある。また、預言者ムハンマドの第7夫人ザイナブがムハンマドの従姉妹であることも、いとこ婚が推奨される背景になっている。クルアーン(コーラン)に記述された、婚姻が禁じられた近親者の一覧の中には、いとこは書かれていない。父方いとこ同士の結婚(ビント・アンム婚)は好ましいものとされており、特別な理由がない限り、女性が父方の従兄弟に当たる男性からの求婚を断ることができない、という慣習を持った地域も存在する。
 ヨーロッパの王族、貴族の間では、いとこ婚が頻繁に行われている(関連項目の例を参照)。しかし本来は教会法に反する近親婚に当たるとされており、カトリックの場合には教会から特別に赦免をもらったり、逆に離婚時にはこれを理由に用いて結婚を無効にする、といったことが行われていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E5%A9%9A

⇒アラブ人は騎馬遊牧民であることから、また、地理的意味での欧州の支配層たるゲルマン人は生来、弥生人である、と、私は考えているところ、普通人が形成する一族郎党を彼らが形成することはなく、だからこそ、同族のいとこ婚がむしろ奨励される、というのが私の見解だ。(太田)


[楽について]

 楽しい→楽器→音楽、と、捉えることによって、「「礼楽備而朝野得二歓娯之致一」 〔論語‐先進〕と唱えた孔子
https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BC%E6%A5%BD-151227
が言わんとしたことを探ってみよう。

 「近年では、「音楽は人々の社会的なつながり(社会的結束: Social Bonding)を強くするはたらきがあるのではないか」という仮説や(Savage et al., 2020)、「音楽は信頼できる同じ集団に属していることを示すはたらきがあるのではないか」という仮説(Mehr et al., 2020)も提唱され<るようになっている>」
https://www.nhk.or.jp/citizenlab/music_reward/kiji_hypothesis.html
ことが参考になる。
 ’In 2009, archeologists unearthed a flute carved from bone and ivory that was over 35,000 years old. This proved that even during the hunting/gathering stage of human evolution, music was present and important to society. Why else take time away from survival tasks to create a musical instrument?・・・
 Here are some ways scientists believe that music strengthens social bonds.

  1. Music increases contact, coordination, and cooperation with others・・・
  2. Music gives us an oxytocin boost・・・
  3. Music strengthens our ”theory of mind” and empathy
  4. Music increases cultural cohesion・・・’
    https://greatergood.berkeley.edu/article/item/four_ways_music_strengthens_social_bonds  但し、これは、音楽を作り出す音楽家が、ことごとく人間主義者であることは必ずしも意味しない。↓  「完成された「音楽」とそれを作った「音楽家」とは本来無関係である。・・・
     「非日常」的で「過剰な何か」を噴出している・・・<ような>音楽を作る音楽家もまた常人とはかけ離れた何かを持つ者だったり、特殊な状況・体験・環境におかれた者だったりする。・・・
     暴行、殺人、性犯罪、薬物乱用、タブー体験、精神疾患、自殺未遂、などなどの体験者が作る音楽が暴力的であったり甘美な快楽を呼び起こす魅力を持っていたり、この世の物とは思えない不思議なムードを持っていたりするのである。
     従って、あくまで犯罪の是非を抜きにして考えれば、不謹慎な言い方になるが、音楽の作り手が素行不良であったり犯罪歴があったり、精神疾患にかかったりすることは聴き手側にとっては、むしろ歓迎すべきことでさえある。」

https://plaza.rakuten.co.jp/zouky/diary/200711130000/


[女性について]

 「子曰く、唯女子と小人とは養い難しと為す。之を近づくれば則ち不孫なり。之を遠ざくれば則ち怨む。」(陽貨第十七 25)
https://kanbun.info/keibu/rongo1725.html

⇒これは、普通人(非仁者)の属性を端的に示した一節であるところ、ここから、女性は本来的に小人(普通人)なのであって君子(=仁者=縄文人)にはなれない、と孔子が考えていたことが分かる。
 この種の女性蔑視は、遊牧民出身の周の家父長制のコインの半面とも言えるわけだが、狩猟採集民出身の殷の人々が本来は男女平等観を抱いていたと思われるにもかかわらず、しかもその殷の「嫡流」であるにもかかわらず、孔子は、本件に関して、一切、韜晦しようとさえしなかったわけだ。
 (孔子が一種の仏教上の変成男子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%88%90%E7%94%B7%E5%AD%90
論的なものを抱懐していたとすれば、若干話は違ってくるが・・。)
 いつものようにポリティカルコレクトネスを完全に無視して私見を書くが、私は孔子の見解に基本的に賛成であり、科学用語を用いて敷衍すれば、普通人の方が縄文人等より生物としてはより健全なのであって、女性は基本的に普通人以外になれない存在であるところ、女性なるものは、自分自身、及び、自分自身の延長であるとDNA/ホルモンによって彼女が錯覚させられているところの自分の子、並びにそれらの健康・財産の維持・増進に寄与すると彼女がみなす他人、の、健康・財産の維持・増進、だけしか眼中にないように設計されている、ということではなかろうか。
 つまり、女性は、縄文人のみならず、健康(生命)へのリスクが高い弥生人にも、縄文人と弥生人のリスクをどちらも背負うところの、縄文的弥生人にも弥生的縄文人にも、ならない、というか、なれない、と。
 もちろん、人間界のあらゆることには例外が存在する、ということをここで強調しておきたい。
 ちなみに、家父長制の起源については、大きく二つの説に分かれている↓
 ’<a>Several researchers have stated that the first evidence of patriarchal structures, signs of a sexual division of labour, dates from around 2 million years ago, deep within humanity’s evolutionary past. <b>Other anthropological, archaeological and evolutionary psychological evidence suggests that most prehistoric societies were relatively egalitarian, and suggests that patriarchal social structures did not develop until after the end of the Pleistocene epoch, following social and technological developments such as agriculture and domestication.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Patriarchy
 衛藤幹子は、b説を当然視しているようだ。↓
 「家父長制<は>狩猟採集社会から農耕社会に移行するなかで・・・登場した」(衛藤幹子「家父長制とジェンダー分業システムの起源と展開–「男性支配」体制(レジーム)はいかにつくられたのか」(法学志林第103巻第2号)より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjxq6XVxuWCAxW_m1YBHRM1DyQQFnoECAUQAQ&url=https%3A%2F%2Fhosei.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D3569%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2EIeuF7OpsaKzdxfISz4kP&opi=89978449
 私は、少なくとも東アジアに関しては(日本の例にも鑑み、)b説、農業社会(agriculture)・・「夏」的なものを生み出した黄河文明がそう・・、と、その双生児たる牧畜社会/遊牧社会(domestication)・・周のような西戎、等がそう・・が当てはまると考えている次第だ。
 これに関連して、シャーマニズムにも触れておきたい。
 シャーマニズムの起源にも大きく二つの説がある。↓
 「シャーマニズム<は>・・・北アジアに限られるとする説と、世界中の他の地域で見られる諸現象を含める説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
 殷の邦語ウィキペディアの執筆者達は、北アジア説を当然視しているようだ。↓
 「伝説上、殷の始祖は契とされている。契は、有娀氏の娘で帝嚳の次妃であった簡狄が玄鳥の卵を食べたために産んだ子とされる。契は帝舜のときに禹の治水を援けた功績が認められ、帝舜により商に封じられ子姓を賜った。有娀(有戎)の「戎」は西方の遊牧民を意味し、有娀(有戎)の娘である簡狄の「狄」は北方の狩猟民を意味する。女神が野外の水浴の場で、天から降りてきた鳥の卵を呑んで妊娠し、男の子を産むというのは、北アジアの狩猟民や遊牧民に共通の始祖伝説である・・・
 殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。」**
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7
 私は、北アジア説を、東アジアに関してはとりたい。
 つまり、東アジア・シャーマニズム北狄起源説だ。
 ここで重要なのは、シャーマニズムがジェンダーニュートラルであることだ。↓
 ’In shamanic cultures we find that practices and rituals which aim at the merging of the male-female dichotomy are quite common, and even central to religious life. ‘(Mazatec Shamaness, Maria Sabina ‘The Androgenous Shaman–THE PRACTICE OF TRANSCENDING POLARITY: THE CASE OF SHAMANISM AND SHAMANIC CULTURES’ より)*
https://www.elamerom.com/the-androgenous-shaman
 殷の起源は西戎と北狄の混淆であるとの伝説がある(**)が、*から、シャマニズムはジェンダーニュートラルであって、ジェンダーニュートラルなのは、b説からすれば、狩猟採集民であった東夷と北狄であったはずであり、よって、殷の人々の出身である東夷としては北狄からシャーマニズムは継受し易く、だから継受した、と、私は考えている。
 すなわち、殷の起源が西戎と北狄の混淆であるとの伝説は誤りで、殷は北狄文化を部分的に継受した東夷である、と、私は見ている次第だ。
 にもかかわらず、繰り返すが、殷の「嫡流」の孔子は女性蔑視だったわけだ。
 そして、興味深いことに、中共当局は、女性蔑視であり(注33)、この点でも、彼らは孔子に従っている、と、言いたくなってくる。(太田)

 (注33)「中央政治局員(序列8〜25位)の女性は現在1人だけ。最高指導部の政治局常務委員(7位以上)に女性が就いた例はなく、今回昇格が取り沙汰される候補者もすべてが男性だ。・・・21年末の党員約9700万人のうち女性の割合は約29%。序列約200位以上の「中央委員」では10人に減少し、上層部ほど女性比率が落ちる。中央委員での比率は、胡体制だった07年の6.4%から、習体制の17年は4.9%に減少している。」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/208680
 しかも、この中共は、(過去の支那社会とは違って、)高度の男女共同参画社会であることを想起されたい。↓
 「中国の男性労働参加率は世界で最も高い80%グループに入っている。同グループのその他のメンバーはブラジル、フィリピン、インドなどである。
 しかし、中国の女性労働参加率は68%に達している。フランスの男性労働参加率が62%であることを考えると、中国人女性はフランス人男性よりも働き者だということになる。インドの男性は中国男性に劣らず労働参加率が80%に達しているが、女性労働参加率はわずか28%にすぎなかった。・・・
 ちなみに、オーストラリアやニュージーランドの女性労働参加率は60%、アメリカは58%、フランスは51%、日本は48%である。
 比較的新しいデータもある。北京師範大学労働力市場センターが作成した『2016中国労働力市場発展報告』によると、中国の女性労働参加率は約64%で、世界平均(50.3%)を大きく上回っているという。」

https://diamond.jp/articles/-/298563

 (4)徳

 「「徳」の原形<たる>・・・甲骨文・・・は、道を行きつつ左右を監視する目付役の姿であり、原義は”監視する”が正しい。・・・「徳」に「心」が加わるのは西周早期の金文からで、欠かさず記されるようになったのは西周末期以降になる。論語の時代はそこに相当する。・・・
 <孔子の言う>「徳」とは発揮する者の威力・権能を含めた”機能”のことだ。・・・孔子の最晩年になるまで、君子=貴族の本領は戦場働きにあり、それゆえ従軍しない庶民の社会に特権を説明できた。「徳」は暴カさえ意味し得たのだった。・・・また「徳」は”機能”だけでなく、それによって発揮される効果・・”利益”や”利権”・・をも意味した。・・・
 利「得」のために正気でおかしな事を言うのも、人間の「徳」の一つである。・・・
 「道徳」は”社会がそうあれと望む行動原則”であり、・・・”君子に期待される能力”と解しうる。・・・<ちなみに、>「倫理」は”個人がそうあれと望む行動原則”<だ>。・・・
 「徳」をメルヘンチックに解し始めたのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子とされる。」
https://hayaron.kyukyodo.work/kaisetu/toku.html

 「中<(ちゅう)は、>《書経》には政治の要諦としてしばしば説かれている。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD-96994
 「「中庸」という言葉は、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆されたのが文献初出と言われている。それから儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。だがその論語の後段には、「民に少なくなって久しい」と言われ、この「過不足なく偏りのない」徳は修得者が少ない高度な概念でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%B8

⇒要するに、中は徳の一環であるところ、徳は、統治者に期待される能力であって、仁とは何の関係もないわけだ。(太田)

3 孔子が仁を「発見」できたわけ

 (1)殷人たる孔子

 「『礼記』の最後の言葉で、孔子は自分が殷人であるとハッキリ言っています。殷人とは、当時の周王朝の前の殷王朝の遺民という意味です。孔子は被支配者である民・殷人であったのです。そのことには考古学的な状況証拠もあります。」
https://www.amazon.co.jp/%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E8%AB%96%E8%AA%9E%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB-%E5%AD%94%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%87%BA%E8%87%AA%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86-%E4%B8%98-%E4%BF%A1%E5%A4%AB/dp/4908879370
ということからだろうが、孔子は<その殷人であることに関して(太田)>次第に神格化されていき、「前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝<(前出)>の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する。
 孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90 
というわけだ。


[夏について]

 「紀元前2070年頃~紀元前1600年頃<。>・・・
 落合淳思<(注34)(コラム#11961)>は、文献資料に示された古代夏の統治範囲は「九州」すなわち沿海地域の兗州、青州、徐州、あるいは長江流域の揚州、荊州、梁州などにわたっているのに対し、二里頭文化の政治勢力は黄河中流域を支配したにすぎないことから、伝説上の夏王朝と二里頭文化には直接の関係はないとし、「日本では、このことがよく理解されて」いるとしている。・・・

 (注34)あつし(1974年~)。立命館大文(東洋史)卒、同大博士(文学)、同大助教。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E5%90%88%E6%B7%B3%E6%80%9D

 <しかし、>二里頭遺跡は新石器時代の遺跡で、掘り出された住居の跡から人口2万人以上と推定され、当時としては世界有数の大規模集落である。・・・
 <また、>二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、粟(あわ)、黍、小麦、大豆、水稲の五穀を栽培していた痕跡がある。これにより、気候によらず安定した食料供給が可能となったと考えられる。これが、それまでに衰退した他の<支那>の新石器時代に起こった各文化との違いであり、その後の商(殷)とも推定される二里岡文化へと繋がる<支那>文化の源流となったとも言われ・・・二里頭文化こそ夏王朝だとする学者も多い。・・・
 長江中流域の屈家嶺文化(紀元前3000年 – 紀元前2500年)・下流域の良渚文化(紀元前3300年 – 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化(紀元前2100年頃 – 紀元前1500年頃)が移植されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3)

⇒私は、現時点では、現在の日本の多数説に一応従っている。

 いずれにせよ、「黄河中流域を支配し」殷によって征服されたところの、面積的には小国があったこと、及び、この国が後世夏と呼ばれた国(都市)であったとして、この夏や殷等の、弥生性を相対的に強く帯びた広義の黄河文明からの攻撃を含む接触を通じて、弥生性を相対的に弱く帯びた広義の長江文明諸国(都市)は、黄河文明諸国(都市)に滅ぼされたり隷属させられたりする状態が長く続いたけれど、やがて、楚、や、後には呉、越、が、勃興し、反撃を始めた、と、解したらどうだろうか。(太田)

 (2)建国後の殷

 「商鞅の「上からの氏族制の解体」<によって、>・・・一人ひとりを君主が直接把握することにより、国家の中で君主のみが唯一強力な権力を持つ、始皇帝の目指す国家体制が、次第に形成されていくのである。・・・
 秦は「西戎の覇者」と呼ばれた穆公のときから、西方異民族との交戦を通じて騎馬戦術を導入し、孝公のときの商鞅、秦王政のときの李斯など、能力があれば他国の出身者でも重用した。」(渡邊義浩。コラム#13774)

⇒唐突に秦の話が出てきて恐縮だが、本件に係る私の思考過程を再現しながら説明した方が分かり易いと思って、そうした次第だ。(太田)

 「早期・・・秦文化<には、>・・・主として3つの起源がある・・・。それは殷文化、周文化、そして西戎文化である。
 殷文化の要素<については、>・・・秦の祖先と殷は密接に関係しており、そのため周代秦文化は一側面において濃厚な殷文化の遺風を留めることになった。<例えば、>殉葬<(注35)>および人身犠牲<(注36)>の習俗<、>・・・君主・・・専制主義<(注37)、等がそうだ。>・・・

 (注35)「殉葬は殷代に顕著であり,西周にも認められ,《史記》によると秦の武公が死んだとき66人が従死したと伝え,始皇帝のときには多数の宮人を殺し,墓を造った工人を墓中に生埋めにしたといわれる。さらに従死ないし殉死は隋・唐から明・清にまで及ぶという。日本では《魏志倭人伝》に卑弥呼が死んだとき奴婢百余人を殉葬したと伝え,《日本書紀》垂仁紀には近習者を生埋めにした話が記され,〈孝徳紀〉のいわゆる大化薄葬令では,人と馬の殉死や殉葬を禁止している(薄葬)。しかし,最近長野県で殉葬した馬と推測される墓が発見されただけで,人の殉葬は遺跡の上ではまだ確認されていない。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AE%89%E8%91%AC-78661
 (注36)「夏の都市のひとつであった望京楼遺跡では、殷による激しい破壊と虐殺の跡が見つかっている。遺骨の多くは手足が刃物で切断されたり、顔が陥没しており、実際には殷が力によって、中原の支配者の座を勝ち取ったことがしのばれる。・・・
殷は占いによって政治を行い、その為に多数の人身御供を必要とした。中国の文字である漢字は、骨に刻むための象形文字として始まった。これまでに(2012年現在)、少なくとも1万4000体の殷代に生贄の犠牲となった人骨が発掘されており、それらは殷以外の他の部族から見せしめ的に要求され、献上された人身御供であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7
 (注37)「基本は非世襲で、必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。」(上掲)ことから、疑問。

 まず、殉葬をググってみると、「スキタイの王墓にも殉葬を伴うものがあ<る。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%AE%89%E8%91%AC-78661
とあったので、更に調べると、
「スキタイ人<(Scythians)は、>・・・、古代東イラン騎馬遊牧民<(equestrian nomadic)>で、 [ who had migrated during the 9th to 8th centuries BC from Central Asia to the Pontic Steppe in modern-day Ukraine and Southern Russia, where they remained established from the 7th century BC until the 3rd century BC<,s>killed in mounted warfare,]・・・
 スキタイ人は言語的にはインド・イラン語派でありいわゆる「アーリア人」であったと推定される。・・・
 スキタイ人は、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国を結ぶ広大な貿易網であるシルクロードで重要な役割を果たし、おそらくこれらの文明の繁栄に貢献したとされる。・・・
 戦争で生け捕った捕虜の中から100人に1人の割合で生贄を選び、その者の頭に酒をかけてから喉を切り裂いて血を器に注ぎ、その血を御神体である短剣にかける。一方で、殺された男たちの右腕を肩から切り落として空中に投げ、儀式が終わるとその場を立ち去り、右腕と胴体は別々の場所に放置される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4
https://en.wikipedia.org/wiki/Scythians ([]内)
と、騎馬戦が得意な騎馬遊牧民で、人身犠牲もやらかしていたというではないか。
 しかし、殷の「建国」当時のスキタイの様子が分からないので、殷人がこのスキタイの強い影響を受け、その技術や慣習を取り入れた、とは言い難い。
 そこで、スキタイ人がインド・イラン語派だったことを手掛かりに、その親文化とも言うべき、プロト・インド・アーリア文化たるシンタシュタ文化、に辿り着いた。
 「シンタシュタ文化(・・・Sintashta culture)またはシンタシュタ・ペトロフカ文化 、シンタシュタ・アルカイム文化は青銅器時代のユーラシアステップ北部(東ヨーロッパ、中央アジア)に紀元前2100-1800年に栄えた考古文化である 。
 シンタシュタ文化は一般にインド・イラン語派の原郷と考えられている。最古のチャリオット<(戦車)>が見つかっており、当時の戦闘技術の最先端を生み出し、旧世界まで拡散させる、揺籃の地であったことが示唆される。
 シンタシュタ文化の集落は、銅鉱業と<青>銅冶金の強さが顕著であるが、これは草原の文化にとっては珍しいことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E6%96%87%E5%8C%96
 Among the main features of the Sintashta culture are high levels of militarism and extensive fortified settlements・・・
 Sintashta culture, and the chariot, are also strongly associated with the ancestors of modern domestic horses, the DOM2 population. ・・・
 Much of Sintashta metal was destined for export to the cities of the Bactria–Margiana Archaeological Complex (BMAC) in Central Asia. The metal trade between Sintashta and the BMAC for the first time connected the steppe region to the ancient urban civilisations of the Near East: the empires and city-states of modern Iran and Mesopotamia provided a large market for metals. These trade routes later became the vehicle through which horses, chariots and ultimately Indo-Iranian-speaking people entered the Near East from the steppe.
https://en.wikipedia.org/wiki/Sintashta_culture
 このシンタシュタ文化が、草原の道を通って、スキタイ人の文化と類似した文化を含むと想像されるところの、(家畜化された)馬文化と青銅文化、を「黄河中流から下流を中心に栄えた・・・二里頭文化<(BC2100年頃~BC1800/1500年頃)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8C%E9%A0%AD%E6%96%87%E5%8C%96
に伝え、「殷は、この二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3)
ことから、シンタシュタ文化を継受することとなった、と、見るに至った次第だ。(太田)

 <西戎文化の秦への影響についてはここでは触れないが、秦が周文化の影響を受けたのは、>西周から春秋時期に至るまで、秦と周は密接な関係性を保ってい<たことに加え、>・・・秦はその出現期の発展の過程において、周人に近づき用を果たし、周礼を学び、周制を吸収し、周と婚姻関係を結び、襄公は周王室をたすけた。」(梁雲。コラム#13776)からだ。

 (3)建国前の殷人

 ここで考えなければならないのは、殷人の起源がなんだったのか、だ。
 「孟子は『孟子』において、・・・周の文王は「西夷」の人であると述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7
が、商(殷)については何も述べていない。
 岡田英弘は、殷は北方狩猟民出身・・つまりは「北狄」出身(太田)・・であるとしている(コラム#13772)のに対し、宇都木章(コラム#11557)は、「東夷<は、支那>の東部および東南部の異民族に対する蔑称。<東>夷(い)民族は殷<当時>には人方とよばれる有力な部族国家を形成した。あるいは殷族と近い関係にあった民族ではないかともいわれる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E5%A4%B7-103060
と、殷が「東夷」出身であることを示唆している。
 この東夷説に関しては、状況証拠的ではあれ、裏付ける典拠たる諸「史実」が存在する。↓

 「周代以前の「夷」は現在の江蘇省や山東省付近に住んでいた民族を指していた[が,のち満州・朝鮮・日本などの各種民族の総称となり,『後漢書』『三国志』などの東夷伝に詳述されている。
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E5%A4%B7-103060 ]。・・・
 「夏后氏(夏王朝)の太康が徳(天命)を失うと、夷人は初めて叛乱を起こした。
 少康(在位:前2118年 – 前2058年)以後、東夷は代々夏王朝の王化に服していた。やがて王化がいきわたり、東夷たちは王門まで招かれるようになったため、そこで彼らの音楽や舞踊を披露した。
 桀(在位:前1818年 – 前1766年)が暴虐をほしいままにすると、諸夷は中原に侵入し、殷の湯(とう)は革命を起こして夏王朝を滅ぼし、諸夷を平定した。
 仲丁(在位:前1562年 – 前1549年)の時代、藍夷(らんい)が<支那>に侵入して略奪をはたらいた。これより300余年の間、諸夷は服属と叛乱を繰り返すこととなる。
 武乙(在位:前1198年 – 前1194年)の時代になると、殷王朝はすっかり衰え、逆に東夷が盛んとなる。その後、東夷は淮水流域や泰山周辺に移り住み、次第に中国本土に移住するようになった。
 周の武王が殷の帝辛(紂王)を滅ぼすと(前1046年)、粛慎(しゅくしん)が石砮(せきど)と楛矢(こし)を献上してきた。武王の死後、管叔鮮と蔡叔度が周に背き、夷狄を招き寄せて叛乱を起こすが、周公旦によって征伐され、かくして東夷は平定された。
 周の康王(在位:前1078年 – 前1052年)の時、粛慎がふたたび至る。後に徐夷(じょい)が王位を僭称し、九夷を率いて宗主国である周を撃つべく、西の河(黄河)にまで迫って来た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7

 また、殷は支那史において、最初に貨幣を用いたとされているが、そもそも、(周は殷の貨幣を引き継いだだけの可能性があるところ、)殷が、北狄出身だったとすると、南方の海から入手されるタカラガイを貨幣にするとは考えにくい。↓

 「紀元前15世紀の殷や、紀元前11世紀の周では、南方の海から入手したタカラガイ<(注38)>の貝殻を貨幣としていた。このような貨幣を貝貨という。タカラガイは熱帯や亜熱帯の海で生息しており、殷にはベトナム方面で採取したものが運ばれていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E5%88%B6%E5%BA%A6%E5%8F%B2

 (注38)「タカラガイは世界中の熱帯から亜熱帯の海域に分布し、全て海産である。特にインド洋や太平洋の、潮間帯から水深 500m にかけての深度に多く生息する。砂の海底よりも岩礁やサンゴ礁を好む。・・・
 漢字の「貝」はタカラガイに由来する象形文字であり、金銭に関係する漢字の多くは部首として貝部を伴う<。>・・・
 『竹取物語』にも珍宝「燕の子安貝」として登場している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AC%E3%82%A4

 更に、殷は支那史において、最初に文字を用いたとされている。↓

 「考古学的に現存する最古の漢字は、殷において占いの一種である卜(ぼく)の結果を書き込むために使用された文字である。これを現在甲骨文字(亀甲獣骨文)と呼ぶ。甲骨文以前にも文字らしきものは存在していたが、これは漢字と系統を同じくするものがあるか定かではない。当時の卜は亀の甲羅や牛の肩胛骨などの裏側に小さな窪みを穿ち、火に炙って熱した金属棒(青銅製と言われる)を差し込む。しばらく差し込んだままにすると熱せられた表側に亀裂が生じる。この亀裂の形で吉凶を見るのであるが、その卜をした甲骨に、卜の内容・結果を彫り込んだのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97

 そして、「殷<は、>・・・自名としては「商」と称し、これを滅ぼした周が前代の王朝を「殷」と称した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AE%B7-32767
とされている。

 こういったことを踏まえ、徹底した、殷・東夷出身説を唱えているのが下掲だ。↓

 「<漢>語の動詞は印欧語風の人称変化や時制変化を持ちません。また日本語の動詞にあるような未然、連体、終止、連用、仮定、命令などの活用を持ちません。また<漢>語にはすさまじい方言変化があって、ひとつの方言しか知らないと別の方言を使う人とは会話が成立しません。北方方言、呉語(上海語)、広東語、福建語(閩語)….といったレベルの方言は、独立した「言語」として扱うべきだという説もあるくらいです。
 これらの特徴と漢字という表意文字、そして<支那>の古代史を考え合わせると、<漢>語とは一種の人工的な商用言語から発達したのではないかと思えてきます。文法が単純であれば、語彙を増やすだけで言葉が通じ、更に発音がわからなくても文字を見るだけで意味がわかるというメリットがあるからです。
 ・・・河北省に殷墟という都市遺跡があります。まだ伝説的な「夏(xia「か」)」を滅ぼした国(といって良いかは疑問の余地があるが)をつくった民族は、「商人」と自称していました。商民族は交易を生業とし、<支那>史で初めて通貨を発明した民族として知られています。「殷」という名称は、本来は彼らの商品である織物の一種だったようです。今では「商人」は固有名詞ではなく、普通名詞になってしまいましたが、おそらく彼ら「商人」が<漢>語の原型を使っていたのでしょう。殷を倒した周は殷の遺産を受け継ぎ、ここに漢民族が誕生します。
 ところで、最近の研究により「殷民族」は元から中原に住んでいたのではなく、東夷の一派だったことがわかってきました。南蛮、北狄、西戎、東夷の東夷です。
 私の考えでは、約1万2千年前に最終氷期が終わった頃、現在は大陸棚になっているが当時陸化していた「東シナ平原」に住んでいたのが東夷の祖先です。大陸の氷床が溶けて海水面が2~3千年かけて100~130m上昇していった<(注39)>とき、住んでいた土地が水没してしまって土地を失った東夷は四散したことでしょう。

 (注39)「北半球の巨大な氷床の融解に伴って、約19000年前以降、氷床から遠く離れた場所では、 海面は年間で1~2センチメートルというものすごい速さをもって100メートル以上も上昇し、 ちょうど約7000年前までには海面が一番高くなりました。」
http://quaternary.jp/QA/answer/ans010.html

 長江を西に遡上したグループ、黄河(最終氷期には済州島のそばに河口があった)を遡上したグループ、舟で東の日本列島に移住したグループ、北の朝鮮半島に移住したグループ….があったに違いありません。・・・
 さて、そうやっていくつかのグループに分裂した東夷ですが、グループ間の連絡が全く途絶えてしまったとは思えません。南西諸島でとれる美しい貝や糸魚川市を流れる姫川でとれる翡翠、長野県の霧ヶ峰や和田峠付近でとれる黒曜石などは物々交換の対象に違いありません。<(注40)>・・・

 (注40)「<支那>で・・・8000年前の丸木舟<が>・・・出土し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E6%9C%A8%E8%88%9F
 「日本では紀元前4,000年頃(縄文時代前期)の外洋での航海が可能な大型の丸木舟の出土例がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9

 太公望が活躍した殷周革命の頃は、遊牧文化の影響をあまり受けない東夷が<支那>大陸の東岸の山東半島から長江河口地域にかけていくつかのグループを形成して居住していました。しかし、周→春秋→戦国→秦→三国時代….という時代の流れの中で、いつしか漢民族に同化されてしまったのでした。」
https://fengxian-urawa.com/ancient/dongyi-and-chinese.html

⇒筆者の素性が明らかではないが、必ずしも荒唐無稽のことを言っているとは私は思わない。
 この筆者のノリで私が付言すれば、東夷の人々は、かつて漁撈を中心とした狩猟採集生活を送っていた人々であって、私の言う縄文人(人間主義人)であったところ、やがて、丸木舟を使って海上交易を始め、更には東南アジアとも交易を行うに至り、そのルートでタカラガイを入手し、貨幣として使い始めたのだろうし、交易民は当然武装していたであろうし、更に、海進に伴い、支那大陸内陸部に移住していった過程で彼らは遊牧民たる北狄(注41)とも交易等で接触が生じ、馬文化を継受して馬に荷車を引かせる形の交易も始めると共に戦車も導入したのではなかろうか。

 (注41)「古代<支那>において北方の中原的都市文化を共有しない遊牧民族を呼んだ呼称である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%8B%84

 そして、最終的に、二里頭文化を含む黄河文明と接触するに至った、と。
 かかる武装長距離商人の後裔が殷の支配層となった、と見ればどうか。
 この、殷の支配層の間で、武装商人化する前の狩猟採集時代の自分達は人間主義的だった、という記憶が伝承されていき、それが孔子にも伝わっていた、とも。(太田) 

 「殷<は、>・・・紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年<。>・・・
 夏の桀王は暴政を敷き、その治世はひどく乱れた。これに対し、殷の湯王(契から数えて14代目、天乙ともいう)は天命を受けて悪政を正すとして、賢人伊尹の助けを借りて蜂起、鳴条の戦で夏軍を撃破し、各都市を破壊、こうして夏は滅亡した。現代の考古学調査によると、夏の都市のひとつであった<とされる>望京楼遺跡では、殷による激しい破壊と虐殺の跡が見つかっている。遺骨の多くは手足が刃物で切断されたり、顔が陥没しており、実際には殷が力によって、中原の支配者の座を勝ち取ったことがしのばれる。遺跡からは夏人のどれも毀損された遺骨と共に殷の青銅の武器も出土する。・・・

⇒「夏」だの「桀王」だのはフィクションだとして、殷を建国した人々は、長江文明諸国に比して弥生性が相対的に強かった黄河文明の大邑の顔色をなからしめる、凶暴なまでの弥生性を帯びていたわけだ。
 これは、狩猟採集社会時代(前述)は、私見では本来縄文人的(人間主義)社会であるけれど、成人男子のほぼ全員が弓矢/剣術や集団戦術に長けているわけであり、商人(しょうじん)は、この装備/戦術を活かして武装商人集団化することによって弥生人的になっていたところへ、最も高度に弥生性を帯び、かつ、半農半遊牧民で東アジアで最も高度な青銅器<(注42)>文化を享受していたところの、弥生人的(非人間主義)社会の遊牧民たる北狄、と接触することで、強い弥生性を身に着けるとともに、優れた鏃や刀剣、更には初期の戦車<(注43)>(後出)を駆使できるようになっていた、ということではなかろうか。

 (注42)「欧州古代においては、青銅器は青銅器時代の晩期においても、鍛造で製造された。しかし、<支那>においては全く異なり、新石器時代の末期から、青銅器は鋳造で製造された。この鋳造技術が一応の確立をみたのは、夏(か)時代(商時代の前、B.C.約1766年)である。商時代初期からほとんどすべての青銅器は鋳造で製造され、商時代は鋳造技術の最盛期となった。現代人が驚くような複雑なものや大型のものも多数製造された。」
http://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Technology/History_of_Iron/History_of_Iron_China01.htm
 「鋳物の歴史は古く、紀元前 4000 年ごろ、メソポタミアで始まったといわれています。青銅を溶かして型に流し込み、いろいろな器物をつくったのが始まりです。鋳造は、人間のモノづくりの中で、最も古い技術のひとつといえるでしょう。
 紀元前 1500 年頃のエジプトのパピルスに、足踏み「ふいご」で風を送りながらるつぼ内の青銅を溶解し、大きな扉を鋳造している鋳造している様子が描かれています(1)。人類は、「ふいご」の発明により、より高い温度を得ることになり、青銅器時代が全盛を迎えることになります。・・・
その後、メソポタミアでは紀元前 1200 年頃、エジプトでは紀元前 1100
 一方、<支那>においては紀元前 3100 年頃から紀元前 2700 年頃にかけて、青銅器時代に移行し、この鋳造技術が一応の確立をみたのは、紀元前1700 年頃の殷・周時代で<した。>」(一般社団法人日本鋳造協会「日本の鋳造と溶解の歴史」より)
https://foundry.jp/foundry2018/wp-content/uploads/2019/09/947db4aedceeb81eb46ac60af90c5e39.pdf
 (注43)「馬の家畜化は・・・食肉を得る目的で・・・紀元前4000年頃に現在のウクライナで始まったと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E3%81%AE%E5%AE%B6%E7%95%9C%E5%8C%96
 「シンタシュタ・・・文化で紀元前2000年頃にスポーク型車輪のついたチャリオット<(戦車)>を発明したとも考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A9%E6%96%87%E5%8C%96
 ちなみに、「シュメールにおいて、もっとも初期の・・・チャリオット<(戦車)の>・・・記録は紀元前2500年頃の物である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88 

 私は、「注42」から青銅器や鋳造技術が、そして「注43」からチャリオットが、草原の道(注44)を通って、(前述した)シンタシュタ文化から、東アジアでは、遊牧民たる北狄に伝わったと見ているわけだ。(太田)

 (注44)Steppe Route(Eurasian Steppe Route)。「絹と馬を主な商品とし、毛皮、武器、楽器、宝石(トルコ石、ラピスラズリ、メノウ、ネフライト)などを副商品とした。 全長はおよそ10,000 km (6,200 mi)。・・・Christian, David<説によれば、>・・・草原の道による東西交易は、従来のシルクロード(オアシスの道)の起源とされる年代より、少なくとも二千年は早い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%8E%9F%E3%81%AE%E9%81%93
 「ユーラシア・ステップは馬の家畜化が始まって以来、騎馬民族の活動の場であった。クルガン仮説によれば6500年ほど前に騎馬民族であるインド・ヨーロッパ語族が南ロシア平原から拡散した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%97
 ちなみに、「シルクロード(・・・Silk Road,・・・)は、紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網である。全長6,400キロメートル以上、東西の経済・文化・政治・宗教の交流に中心的な役割を果たした。
 シルクロードの始まりは、紀元前114年頃に漢王朝が中央アジアに進出し、かつて未開の地であったこの地域をほぼ平定したことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89

 殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。
 仮説によると、殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、不規則ではあるが、原則として「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、定期的に王を交替していたとする。それ以外の「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から、臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測される。・・・
 [<もとより、>王位は初め兄弟相続<だったという説もあるが、いずれにせよ>、のちに父子相続に変わった。]
 殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。
 [王都は、甲骨文中で「大邑(たいゆう)」とよばれているが、これを取り巻く氏族邑が多数存在して支配貴族の住地となり、さらにこれら氏族邑には多数の小邑が隷属していたと考えられる。これらの邑相互の累層的支配隷属関係が国家構造の基本であって、これを邑制国家ないし都市国家とよぶ。王都には、すでにある程度の支配官僚層の形成が認められる。]

⇒シンタシュタ文化のBC2150~1650年頃の「邑」・・日干し煉瓦の城壁を持った都市・・が、現在のロシアの南ウラルのカザフスタン国境のすぐ北で1987年に発見されている
https://en.wikipedia.org/wiki/Arkaim
ので、邑も、シンタシュタ文化から黄河文明が、遊牧民なので邑を持たなかった北狄経由で情報を得て継受したのではなかろうか。
 殷が氏族社会たる邑制国家になったのは、狩猟採集社会の母斑を残していた東夷武装商人団上がり、であるところの、殷人が、商人団上がりであるが故に領域的支配志向ではなかった上に、彼らが滅ぼした二里頭文化の人々、が城壁で囲まれた邑に住んでいたのでそれに倣うことにしたからだろう、と、私は見るに至っている。
 また、殷が「氏族共同体の連合体」となったのは、当然ながら、彼らが狩猟採集社会当時の姿を維持した、ということだろう。(太田)

 殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。
 また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。

⇒神々に捧げるものが、海産物/木の実類/動物⇒(北狄との接触以降は)もっぱら動物⇒(殷建国以降次第に)内外からの敵の捕虜、へと変化し、また、自然崇拝⇒(北狄との接触以降は)シャマニズム、へと変化していったのではなかろうか。(太田)

 [甲骨文は、殷王室の卜官(ぼくかん)によって、殷王朝の祭祀(さいし)、農耕、天候、外敵の侵攻と征伐、王の行旅、狩猟、疾病等々、万般にわたって、殷人が人間世界に支配力を有すると考えた天帝に、その神意を問いただすために行われた占いの結果を書き刻んだものである。とりわけ祭祀に関する占卜(せんぼく)が多く、これは、殷王室の先王先妣(せんぴ)のいわば祖先神を対象とした場合と、河、岳など自然神を対象とした場合に分けられる。これらを祀(まつ)ることが政治における秩序形成の中核をなしていたという意味で、祭政一致の政治形態をもったといえよう。・・・

⇒この「祭政一致の政治形態」を世俗化したものが周が始めた(と孔子らが考えた)ところの、礼的秩序による政治体制である、という認識を私は抱くに至っている。(太田)

 支配階級は・・・軍事を担当し,氏族奴隷を農耕や家事に使っていた。]
 この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。しかし祭祀のために戦争捕虜を生贄に捧げる慣習が、周辺諸氏族の恨みを買い、殷に対する反乱を招き、殷を滅亡に導いたとする説もある。・・・

⇒この類の話が、孔子の出身で殷の遺民達の子孫が少なくなかったところの、宋、の人々に伝わっていて、自分達にされたらいやなことは、敵や目下の者達にしないようにする、という、人間主義に似て非なるものであるところの、仁、の喪失が殷を滅亡に導いた、と、孔子が考えた可能性がある。(太田)

 [<なお、自らは首都の名である〈商〉を国号として用い,しばしば都を移した。最後の都(王朝の後半期)が殷墟である。>
 <ちなみに、>殷墟時代の主業は石器,木器などを使った農業とされる<が、>その交易圏はモンゴル,華南,東南アジアに及んでいる。]
 滅亡後<、>紂王の子である武庚は、周の武王に殷の故地に封じられた。武王の死後、武庚は、武王の兄弟の管叔鮮・蔡叔度・霍叔処と共に反乱を起こした(三監の乱)が失敗し、叔度以外誅殺された。(叔度は追放されたがその子が継いだ。)その後、武庚(禄父)の伯父の微子啓(紂王の兄)が宋に封じられ、殷の祭祀を続けた。微子啓には嫡子が無かったため、同じく紂王の兄の微仲衍が宋公を継ぐ。異説もあるが、その微仲衍の子孫が孔子とされ、その後の孔子の家系は世界最長の家系として現在まで続いている。

⇒この孔子のくだりに注目し、銘記していただきたい。
 後世の支那の人々は、孔子は西周の良い部分を活かしつつ、その悪い部分を、かつての殷人の良い部分でもって置き換えようとしたところの、殷の王室の子孫たる人物として崇めた、と、私は解するに至っている。(太田)

 紂王の叔父<の>箕子は朝鮮に渡り箕子朝鮮を建国したと中・・・共・・・では主張されているが、<それでは支那>人によって朝鮮が建国されたことになってしまうため、韓国側は檀君朝鮮こそ初の王朝であり箕子朝鮮は単なる後世の創作であると主張している。・・・

⇒殷の初期の王位継承制度と新羅の初期のそれ((コラム#9510))の類似性だけからも、中共説に軍配を挙げたいところだ。(太田)

 <ちなみに、>殷王朝の軍隊は氏族で構成され、殷王による徴集を受けると普段は農耕に従事していた氏族の構成員が武器をとり、出征する軍隊を編成した。この軍隊を指揮するのは各氏族の貴族だった。

⇒殷の初期のうちは、狩猟採集生活の記憶が伝承されていたのでこういうやり方で軍事力を確保できただろうが、次第に軍事力が劣化していったであろうところ、殷は、その後、戦車戦術を高度化していき(下述)、それに伴い貴族が戦闘の中核を担うようになったため、それなりの軍事力を引き続き確保でき、そのおかげで早期滅亡を避けることができたのではなかろうか。(太田)

 強大な軍事力を誇った殷王朝は、度重なる戦争に勝利を収めるために、兵種・戦法・軍備などを発展させていった。その中で特筆すべきは、「三師戦法」という大量の戦車を活用した戦術である。殷王朝が歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍制に変化するのは、殷の支配域が拡大して黄河中下流域や中原など、戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場になっていったからと考えられる・・・
 戦車は歩兵と共同して戦いを行った。1輌の戦車には3人の兵が乗り、左側の兵士が弓を、右側の兵士が矛や戈を持ち、中央の兵士が御者となった。戦車部隊は5輌が最小単位で、戦車兵15人と付随する歩兵15人からなっていた。100輌の戦車と戦車兵と歩兵がそれぞれ300人、25輌の戦車と戦車兵と歩兵が75人というふうに、戦車が5の倍数で、戦車兵と歩兵は15の倍数で編成されていた。
 [文化的にもっとも特徴的なのは、この時期が<支那>青銅器文化の最盛期にあたっている点であ<り、>・・・世界的にみて古代青銅器文化の粋とされる。
 こういった殷文明の来源については未解明の部分が多い。]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7
https://kotobank.jp/word/%E6%AE%B7-3276 ([]内)

⇒繰り返すが、私は、草原の道を通じてシンタシュタ文化から、チャリオット(戦車)が殷に伝わったと見ているわけだ。(太田)


[周について]

 岡田英弘は、「北方狩猟民出身の殷を倒して取って代わった周が、西方遊牧民出身であることは明白である。」と主張している(コラム#13772)(前出)ところ、前段は前述の理由から疑問符がつくが、後段についてはコンセンサスがあると言えよう。

 「周<は、>・・・陝西に起こり、渭水盆地に定住、殷の支配を受けたが、のちにこれと対立、<BC12世紀後半あるいはBC11世紀後半、>武王のとき殷王紂を滅ぼして建国、鎬京(西安)に都を定めた。礼的秩序による封建的政治体制をしき、黄河流域から揚子江岸まで支配したが、第一三代平王のとき(前七七一)犬戎<(注45)>の侵入を受けて東遷、都を洛邑(河南)に移した(遷都以前を西周、以後を東周という)。

 (注45)犬戎=戌戎=西戎=戎。「羌、ほかには葷粥(くんいく)や氐(てい)、密須(みつしゅ)などが含まれ<えい>た。・・・周代には現在の陝西省・四川省から甘粛省・チベット自治区の付近にいた。・・・民族や種族としては、南北で分かれる傾向があ<り、>北はテュルク系、南はチベット族やチベット人の祖とされる彝族とみられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%8E

 以後周室の権威は失われ、諸侯の割拠する春秋・戦国時代にはいり、三七代で秦に滅ぼされた。・・・
 <以下は、宇都木章(コラム#11557)による。>
 周族は戎狄の間に雑居し、公劉(こうりゅう)のときに豳(ひん)(山西あるいは陝西省)の地に居し、古公亶父(たんぽ)(太王)に至って陝西省の岐山(きざん)の地(周原)に国都を移した。

⇒「周の祖である后稷の母である姜嫄の「姜」は「羌」と同じで、西方の遊牧民<(注46)>を意味する。

 (注46)「<支那大陸では、>約1万年前の新石器時代、南北の文化地帯の周縁でアワ・キビ農耕や稲作農耕が生まれ、そこから牧畜型農耕社会と遊牧社会が分離し、さらにその周辺には<これらの前から存在していたところの、>狩猟採集民が存在した。」
https://bookclub.kodansha.co.jp/title?page=2&code=1000037989

 古公亶父は、戎・狄に攻められて岐山の下に移り、はじめて戎・狄風の生活形態である遊牧を改め、都市を建設し、北方狩猟民出身の殷<・・宇都木も岡田説であるところ、疑問符がつくわけだ(太田)・・>を倒して取って代わった周が、西方遊牧民出身であることは明白であ<り、既に支那>戦国時代の儒学者である孟子は『孟子』において、「・・・<周の>文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として<いる>」(上掲)ところ、殆どまだ現役の遊牧民であった周族が、狩猟採集民出身とはいえ、農業・定着民化していた殷の支配層よりも、その時点では弥生性に富んでいたことに加え、私は、周族には、馬を制御し易くなる轡が既に伝わっていたことで、戦車に加えて騎馬戦も行うことができ、戦車戦しかできなかった殷に勝利することができた可能性がある、と、想像を逞しくしている。
 すなわち、’The Chinese of the 4th century BC during the Warring States period (403–221 BC) began to use cavalry against rival states.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Horses_in_warfare
ということになっているけれど、周の建国より前に手綱がBC1400年前後、轡がBC1300からBC1200年の間に中央アジアないしオリエントで出現しており、↓
 ’To date, the earliest known artistic evidence of use of some form of bitless bridle comes in illustrations of Synian horseman, dated approximately 1400 BC. The first bits were made of rope, bone, horn, or hard wood. Metal bits came into use between 1300 and 1200 BC, originally made of bronze.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Bit_(horse)
他方で、既述したように、草原の道が、BC1100年代後半からBC1000年代後半、までの頃に既に利用されていた可能性だって否定できず、だとすれば、この時点で周が騎馬兵を擁する至っていても不思議ではないからだ。
 仮にそうでなかったとしても、BC900年代中頃の(広義の同族であるところの当時の犬戎による)西周の「滅亡」の原因はそうだった可能性があるし、BC200年代後半の(西周の本拠地を本拠とする)秦による支那の統一の原因の一つがそうだった可能性は更に高い。
 いずれにせよ、西周の建国、「滅亡」、秦による支那統一、の3つが、いずれも陝西省を本拠とする西戎系族によって成し遂げられたことは、彼らの遊牧民ファクター・・遊牧民であることに由来する強い弥生性・・によるわけであって、そのファクターの中には、草原の道を通じて西方から伝播されるところの、(支那発祥以外の)軍事を含む最新の文化を最初に受容できたことが含まれると考える方が自然だろう。
 (書かずもがなだが、草原の道が出現してから、東端と現在の陝西省の間に遊牧民の南北の道が形成されていたであろうことは想像に難くあるまい。)(太田)

 これより次王季歴(きれき)(王季)の時期にかけて、周辺の諸部族を討って発展し、文王のときには西伯と称せられ、新都を豊(ほう)(陝西省西安)に営み、殷王朝と対抗する勢力をもった。次の武王は父の志を継ぎ、呂尚(りょしょう)(姜(きょう)姓族の首長)ら諸侯を従えて、紂王を牧野(ぼくや)に討って殷を滅ぼし、鎬京(こうけい)(陝西省西安)を首都として周王朝を建てた(その時期は紀元前12世紀後半あるいは前11世紀後半)。考古学的調査によると、陝西省岐山県付近から、周初以来の遺跡、遺物が多く発見され、周初の歴史を物語る青銅器銘文もみつかっている。・・・殷墟前期の武丁卜辞(ぶていぼくじ)のなかに「周方」の名がみえ、周は早くから殷の西方の「国」であったことが確かめられている。・・・
 武王は、滅ぼした殷の遺民を支配するために、紂王の子、武庚禄父(ぶこうろくほ)を封建し、さらに兄弟を諸侯として征服民を監督せしめたが、次の成王が幼少で即位し、武王の弟周公旦が摂政になると、兄弟の間に権力争いが生じ、これに武庚の反乱が加わって周室は大きく乱れた。周公は召公奭(しょうこうせき)らとともに乱を平定し、さらに東方諸部族を遠征して周室を再建し、一族・功臣を要地に封建<後述)>してこれを周の藩屏(はんぺい)とし、洛邑(らくゆう)(河南省河南)を造営して東方支配の重鎮とした(成周<(注47)>)。

 (注47)「周は今日の陝西省の西安地方から起こり,殷を滅ぼすと,洛陽に新しい政治的首都として洛邑を建設して東方統治の基地とし,その東には別に殷の遺民を住まわせるために成周を築いた。のち周の本拠が西戎に襲われ,周の平王は洛邑に遷都して春秋の世となった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%88%90%E5%91%A8-1349524

⇒周による殷の打倒後の殷の紂王の子の「封建」、や、周の内乱後の周一族・功臣の「封建」、は、ミスノーマーであることを後述する。(太田)

 近年の考古学的調査によると、周初の発展はほとんど殷の故地を覆うものであり、ことに東北は遼寧(りょうねい)省に及んでいたことが・・・明らかになった。
 周初の文化は殷文化を受け継いだものであることも明らかになったが、それはおそらく、殷代以来の諸部族が多く周王室に職事<(注48)>せしめられたからであろうといわれる。

 (注48)しょくじ。「しごと。職業」
https://kotobank.jp/word/%E8%81%B7%E4%BA%8B-72606

 4代昭王、5代穆(ぼく)王のときは周の対外発展期で、昭王は南征して楚(そ)を討ち、穆王は西に犬戎(けんじゅう)を征し、東に徐夷(じょい)を討ったという。

⇒殷文化を継受することで周が殷化したというよりは、殷文化の強い影響を受けつつ周はその犬戎性を稀薄化した、と捉えるべきだろうが、その結果、周が自分たちと同類の犬戎を討つという舌を嚙むようなことも起きるようになったわけだ。(太田)

 7代懿(い)王から9代夷王にかけて王威が衰え始め、次の厲(れい)王のときには、王室を支えていた諸侯の勢力が盛んになったうえ、厲王は卿士栄夷(けいしえいい)公を用いて悪政を行ったため、国人の反乱が生じ、王は彘(てい)(山西省霍(かく)県)に出奔したという(前841)。その後14年間、共和時代になるが、これは周公と召公の執政期とする説、あるいは諸侯が協力して政治を行ったとする説のほか、共伯和という諸侯の執政期であるともいう。前827年宣王によって周室は再興され、王はしきりに四夷を討伐したというが、この時期、諸侯の強大化はますます進んで独立化の傾向を示し、次の幽王の悪政を契機に、諸侯は離反し、周は申侯と犬戎の軍によって滅ぼされた。

⇒そして、ついに犬戎を含む勢力によって、周は一旦滅亡し、再興はするものの、西周時代は終わり、東周時代・・春秋戦国時代・・が始まった。(太田)

 幽王の子、平王は東の洛邑で即位したが、王権は衰退し、諸侯が割拠する分裂時代となった。
 周代は邑(ゆう)制(邑土)国家の時代といわれる。王室の直接支配地(王畿(おうき))は「郷遂制度」を中心にして、郊外の地には卿大夫(けいたいふ)の采邑(さいゆう)や公邑が設置されていた。封建諸侯(貴族)は周王室を大宗(本家)として、それぞれの封地に城市(邑)を営み、これを国と称した。諸侯はこの国都を中心にして、周囲の諸邑を支配し、これを鄙邑(ひゆう)とした。国には宗廟(そうびょう)、社稷(しゃしょく)を奉ずる貴族(公、卿大夫)のほか士、農、工、商の民が住し、彼らは国人とよばれ、軍事、政治の面でも活躍していた。これに対し鄙邑の民は野人とよばれ、貴族の采邑とされたり、国都へのさまざまな義務を課せられたりした。国人も野人も血縁共同体的な集団をなしており、農民は「井田(せいでん)制」によって組織されていたと伝えられるが、しかし共同体の性格についても、「井田制」の理解についても異論が多く、したがって貢、助、徹とよばれる税制もさだかでない。西周後半期の青銅器銘文には貴族の土地所有を示すものがあるから、邑共同体を基盤にしつつ、大土地所有(私田)が展開されていたものと思われる。したがってこの邑制国家の時代が奴隷社会か、封建社会かは理解の仕方によって異なる。
 周代の文化は経書によって伝えられている。とくに王の詔誥(しょうこう)を収めた『書経』や、王室の雅歌や各国の歌を集めた『詩経』は重要であるが、そこでは周王は「天命」を受けて、徳をもって万民を治めるという政治的色彩の強い天の思想が展開されている。一方、数多い青銅器銘文(金文)からは西周時代のさまざまな儀礼が物語られている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%91%A8-76698

 「[<以下>の節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。・・・]
龍山文化期から殷代にかけての社会統合の制度は、「貢献」とよばれる貢納制であったとされる。殷末から西周期にかけて、貢納制はさらに進化し、複雑化して、封建制に展開したとされる。
貢納制は、首長・王権などの政治的中心に向かって従属・影響下にある各地域聚落・族集団から、礼器・武器・財貨・穀物・人物等を貢納し、首長や王権が主宰する祭祀・儀礼を助成するなどして、ゆるやかな従属を表明する行為である。これに対して、首長や王権は、祭祀や儀礼の執行に際して、政治的中心に蓄えられた貢納物を、参加した地域聚落や族集団の代表に再分配することを通じて政治的秩序を樹立する。この「貢納―再分配」の関係によって、首長・王権は、ゆるやかな政治的統合を実現した。
 殷朝では、殷王が有力都市連盟の盟主もしくはそれ以上の立場にあったとみられるが、それらの都市支配者に領域支配を認める形の制度になっていたのかは不明である。ただし、王が諸侯を建てて地方を統治させるという封建制は、周が創始した制度というわけではなく、殷代には既に存在していたとされている。<支那>の学界では、<欧州>中世の封建制(feudalism)と区別するためか、<支那>の封建制を「分封制」と呼ぶことが多いとされる。

⇒「封建制<とは、>・・・一般的には中世<欧州>の封建貴族(独立権力をもつ)間に成立した政治体制(レーン制)をさす。主従誓約と封土の授受を媒介とする,貴族個人間の双務的な主従関係に基づく。家臣は主君に軍事奉仕,出仕義務(特に封建法廷での陪席),緊急時の金銭的援助を義務づけられ,主君は家臣に軍事的援助や公的裁判所での弁護を義務づけられる。両者の間柄は封建法によって規制され,主君の誠実義務違反に対しては家臣の反抗権が発動される。制度的には8―9世紀に北フランスに成立,12―13世紀が最盛期。商品経済の発展,広域経済圏の出現とその規制に当たる王権の伸張とともに崩壊した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6%E5%BA%A6-627436
のに対し、「周(前11世紀成立)代に一族・功臣などを各地に封じて諸侯とし,身分と土地とを与えた制度<においては、>諸侯は貢納・兵役の義務を有し,その下に卿・大夫・士の家臣がそれぞれ世襲の身分・土地を与えられて属していた。氏族的・血縁的であることが西洋の封建制と異なる点で,それを強化・保持するために宗法制が行われた。」(上掲)とされているところ、
一、目下の者の貢納・兵役の義務は、法的(契約に基づく)義務ではなく、氏族的・血縁的な紐帯に基づく道徳的義務であり、それに加えて、
二、(精査していないが、)王は身分と土地をセットで諸侯に与えたけれど諸侯はその目下の者にセットで身分と土地を与えたわけではなさそうだし、
三、王も諸侯も、それぞれ、領域の一円的支配をしていたわけではなく、邑・・城壁居住地とその周辺の共有耕作地・・を支配していただけである、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%91 ←二、三の典拠
という諸点において、欧州の封建制とは異なっていた。(太田)

 周の時代には、封建制が成立し、各地に邑を基盤とした氏族共同体が広汎に現れ、周はこれらと実際に血縁関係をむすんだり、封建的な盟約によって擬制的に血縁関係をつくりだし、支配下に置いたと考えられている。ただし、「封建」という言葉は、西周の当初から存在したわけではなく、単に「封」や「建」という言葉で表現されることが多かったとされており、「封建」という言葉が見られるようになるのは、『春秋左氏伝』からであるとされる。「封建」という言葉は、むしろその実態が変容して形骸化した戦国期から漢代にかけてできあがった言葉であるとされる。
 西周の封建制は、単純な貢献制である穀物・人物・財貨等の「貢納―再分配」から進んで、より複合化し、身分秩序を表す礼器や封土及び族集団を最初の封建時に再分配することによって、職業(貢納物・征戦等)の貢納を割り当てて、中心となる王権のもとに複数の下位首長である諸侯、宗氏―分族、宗子―百生を階層制的序列に組み込んで統合する政治秩序である。この場合、王権と諸侯―百生との関係は、「貢納―再分配」を通じた上位首長と下位首長との間の二者間君臣関係であり、王権はせいぜい諸侯―百生からなる支配者集団に対して及んでいるにすぎず、下層族集団の内部にまでは貫徹していない。また、周王権の文化的・政治的影響力が及ぶ全ての地域の首長や族集団が王権に対して貢納関係・封建関係を結んでいたわけではないとされる。戎や夷と呼ばれる周縁に散在する諸種族は、貢納によって従属関係に入る場合もあれば、往々にして離反することもあり、西周王権は、なお統一的な領土国家として政治支配を実現するには至っておらず、前国家段階における首長制的社会統合をより複合的・広域的に実現したものであったとされる。
 西周の封建制には2つの類型があったとされており、ひとつは、周王権との系譜関係をもつ首長や同盟関係にある異種族の首長を武装植民の形で各地に派遣し、身分序列を表す礼器とともに王人百生などの諸親族集団を再分配し、その地の諸集団と領域とを支配させる類型である。他のひとつは、殷の遺民を封じた宋のように、旧来の族集団を基本的に維持したままで、諸侯に封じて建国させる類型である。周王権は、その支配領域を再編し、政治的影響力を四方に拡大していったが、もとより西周封建制の特質は、武装植民地型の封建制のほうにあったとされる。
 長子相続を根幹する体制を宗族制度といい、封建制度にも関連性がある。宗族制度は紀元前2千年紀前半に一般的となったとされている。
  [<以下>の節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。・・・]
 春秋時代には、周王に対する諸侯の自立性が高まるとともに、周王の権威が衰退し、封建制が動揺し始めた。春秋時代に入ると、各国間の戦争が常態化するようになり、戦争による競合の中で、諸侯は、天子に対する貢納を経常的に行わなくなり、封建制の基盤である貢納制が不安定化した。

⇒貢納が契約に基づく義務ではなかったからこそ、貢納が行われなくなっても、周王を頂点とする権威の階層構造は表見的にはなお長期にわたって存続したのだろう。(太田)

 宗族組織が解体されより集権的な官僚制に置き換わるとともに<支那>的な封建制度は徐々に消滅していった。宗族制度は春秋末期から戦国初期にかけて解体され、末端では邑を中心とする諸侯支配が確立した。

⇒文意が明確ではないが、周全体の統治を諸侯が周王を補佐して行うことがなくなった、という意味だろう。
 そうなった以上は、周王室は自前の官僚による統治を行わざるをえず、その体制が、諸侯にも普及していったのだろう。(太田)

 また春秋時代には会盟政治と呼ばれる政治形態が出現した。これは覇者と呼ばれる盟主的国家が他国に対して緩い上位権を築く仕組みであるが、周王朝が衰え各国単独では北方・東方異民族の侵攻への対応が難しくなったため、新たな支配-被支配が必要となり誕生したと考えられている。会盟の誓約は祭儀的な権威に付託して会盟参加者に命令する関係を築いた。会盟は、多くの場合、宗廟において挙行され、先王に戦争の停止を誓うとともに、周王を奉戴して貢献制を基盤とする封建的秩序を再構築する儀礼であった。侯馬盟書が伝えるように、会盟は、諸侯間だけではなく、趙氏一族を中心とする晋国内部の諸首長間の紛争の調停に際しても挙行された。覇者や諸氏族の宗主たちは、会盟の主宰者になることによって、貢献制を基盤とする封建制的秩序をかろうじて維持していたとされる。

⇒官僚による統治は、王領、諸侯領の内政を行うだけなので、諸侯間の紛争処理や諸侯が連合しての広義の北方異民族の侵攻への対処、には、覇者を決めて、その覇者にかつての周王の役割を演じてもらう必要があったのだろう。(太田)

 戦国時代には宗族組織はほとんど消滅もしくは変質して封建領主は宗族や功臣を除いて居なくなり、在地や諸侯は血縁ではなく官吏と律令により支配されるようになり、郡県制に置き換えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6

⇒やがて、独自で、他の諸侯との紛争処理・・言い分を飲ませる、領土の一部を割譲させる、属国化する、併合する・・や、広義の北方異民族の侵攻への対処、ができると考えた侯は、長江文明由来の楚の統治者が、中原文明の周の王に対抗して、王を自称するようになった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
ことにも刺激され、王を称するようになり、ついには、そのうちの一人が中原の統一を成し遂げるに至る。

 それが、秦による天下統一だ。(太田)


[孔子と商業]

 「孔子は金儲けにあまり興味は無かった。
論語:述而第七 11
子し曰いわく、富とみにして求もとむ可べくんば、執鞭しつべんの士しと雖いえども、吾われ亦また之これを為なさん。如もし求もとむ可べからずんば、吾わが好このむ所ところに従したがわん。
現代語訳
孔子がおっしゃった「富が私の人生の目標というならば、どんな仕事でもやるけれども、そうでないなら私は好きな生活を選ぶ。」
論語:述而第七 15
子し曰いわく、疏食そしを飯くらい水みずを飲のみ、肱ひじを曲まげて之これを枕まくらとす。楽たのしみ亦また其その中うちに在あり。不義ふぎにして富とみ且かつ貴たっときは、我われに於おいて浮ふ雲うんの如ごとし。
現代語訳
孔子がおっしゃった「粗末な飯を食べて水を飲み、腕を枕にして寝転ぶ。楽しみはその中にある。道ならぬことで出世したり金儲けすることは、私にとっては浮雲のように無駄なことだ。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10286591735

⇒孔子は、富を人生の目標とすべきではない、とか、不道徳なことをして金儲けしてはならない、と、言っているだけであり、利殖や商業それ自体を否定しているわけではない。(太田)

 「孔子も「君子義に於て喩<(さと)>り、小人利に於て喩る(優れた人物は正しい道に則って行動し、つまらない人物は目先の利益によって行動する)」と説き、「利」に走る人を批判的に捉えている・・・
 このように、儒教では「利」は卑しく軽蔑される対象であり、「利」を生み出す商業や商人もまた批判の対象となりました。

⇒この論語解釈はおかしい。
 利だけで言動を行ってはならない、と言っているだけだ。
 私の言葉に置き換えれば、普通人としてではなく、人間主義者(縄文人)として生きよ、情けは人のためならず、という諺を嚙み締めよ、と、言っているわけだ。(太田)
 
 この考え方から、国家を支える産業は「利」を追求する商業によってではなく、農業によって成されるべきという思想に結び付き、農業を国家の「本」とし、商業を「末」と位置付けられるようになったのです。
https://liberal-arts-guide.com/peasantism/

⇒よって、これは孔子の主張を矮小化し、曲解したものであって、儒教なるものは、一事が万事、そのような代物である、と、見てよさそうだ。
 なお、本件に関しては、「孔子の弟子で十哲の一人<である>・・・子貢<は、>・・・すこぶる利殖にたけていた<ところ、彼が>・・・孔子の経済的支援者とみる説もある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%90%E8%B2%A2-72994
ということが、その裏付けの第一であり、裏付けの第二は、これが決定的なのだが、殷人が商人集団であって、彼らが建国した国である殷は商とも呼ばれていたことから、利殖や商業をディスることは、殷の王室の後裔であった孔子の自己否定に等しいことだ。
 日本の近代実業家の祖とも言うべき澁澤榮一が『論語と算盤』、『論語講義』を著していること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
も、この際、想起していただきたい。(太田)

 「冊封体制・・・は、漢帝国の初期に、国内では郡国制をしき、朝鮮と南越をそれぞれ王と認めてた<(注49)>ことに始まる。」

 (注49)「漢朝は前191年頃、衛満を遼東太守の外臣とし東方からの異民族の侵入に備えるとともに、衛満の朝鮮方面における支配圏の拡大を支持した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%BA%80
 BC191年は恵帝(BC213/210~BC188年。在位:BC195~BC188年)の在位時代だが、実験は皇太后で実母の呂雉が握っていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
 「南の南越国は・・・、文帝時代に漢の外藩国として服属し・・・た<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2) 

 その後、漢の武帝は、朝鮮と南越に郡県制をしき、直轄領としたので、冊封体制は一時消滅したが、その後、儒教が国教化されると、周辺の夷狄(異民族)に対して<支那>の王道を及ぼすという中華思想、王化思想が強まり、高句麗との冊封関係が復活し<(注50)>、三韓諸国、倭国などもそれに組み込まれた。

 (注50)「新王朝を開いた王莽は、高句麗を含む東夷諸族に新たな印綬を配布した。この時従来まで王を名乗っていた高句麗の君主は高句麗侯へと格下げされた。西暦12年に王莽が匈奴出兵のために高句麗侯騶(すう)に出兵を命じた際には、騶がこれに応じなかったために捕らえられて処刑されたという。更に王莽は高句麗の国名を「下句麗」として卑しめた。・・・王莽が倒され光武帝によって後漢が開かれると、「下句麗」侯は西暦32年にこれに朝貢し、高句麗王へと戻された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97

 魏晋南北朝時代には、<支那>の王朝が分裂弱体化したが、高句麗・百済・新羅・日本などが成長し、いずれかの王朝と冊封関係を結ぶことで、東アジア世界は一体となって展開することとなる。これら冊封を受けた国々では、<支那>の皇帝から国王以下の諸官職をあたえられ、皇帝の世界支配に服するので、元号も<支那>のものを用いることが強制される。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-082.html
 また、「冊封国には・・・朝貢<も>・・・義務付けられ<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81%E4%BD%93%E5%88%B6
 「朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜する。経済的に見ると、朝貢は受ける側にとって非常に不利な貿易形態である。・・・
 冊封により<支那>王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うことが出来た。例えば遣唐使を送っていた当時の日本では日本側は「中国と対等貿易を行っていた」とし、<支那>側は「遠国である事に鑑み、毎年の朝貢の義務を免じた」としている。 漢字文化圏に包含された冊封国からの朝貢は経済的な利益にとどまらず、書物の購入、情報の入手など、社会・文化的な利益も伴った。
 しかし宋代においてこのシステムは破綻する。遼に対しては辛うじて上位にたって中華王朝としての面目を保ったものの、新興金に対しては宋王朝のほうが下位で貢物を差し出す事となった(貢物を受け取る側が貢物を超える回賜ができなかったとも言える)。
 元代においては朝貢と言った形式はなかったが、明になると再び朝貢形式が採られた。鄭和の大遠征により、多数の国々からの朝貢を受けることになった。しかし回賜の経費が莫大であったことから、その後に明は朝貢制限へと方針転換<す>・・・る。
 清<は、>・・・朝鮮・琉球・ベトナム(阮朝)・タイ王国・ビルマ(コンバウン朝)・ネパール・イスラーム諸国の朝貢国の君主が清と主従関係を結んだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2
 「海禁(かいきん)とは、・・・明清時代に行われた領民の海上利用を規制する政策のことである。海賊禁圧や密貿易防止を目的とし、海外貿易等の外洋航海、時には沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)が規制された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E7%A6%81

⇒柵封体制は、軍事軽視政策の産物と言えるが、朝貢、ないし、朝貢貿易、を伴う制度であったところ、これは、国家イデオロギーとしての儒教が、孔子の考えを歪曲して、商業を蔑視したことが背景にある、と、私は見ており、これが、漢人文明下の支那における、国家が保護して関税収益を確保するという、正常な形の貿易の成立、発展を妨げることになったと言えよう。

 この結果、海賊や密貿易が横行することにもなり、更にその結果、明清時代に海禁政策がとられたわけだ。(太田)


[支那の天下統一直前は近代だがその後は前近代]

一 天下統一直前–近代

 (一)高度な兵器

 「弩は、古代において、支那の独壇場であったということになりそう<だ>。・・・
投石機(カタパルト)・・・も、春秋戦国時代の支那が一番乗り<らしい>。(太田)・・・攻城塔(ベルフリー)・・・は、オリエントの方がほんの少し支那よりも早かったよう<だ>が・・。・・・<また、>戦車(チャリオット)・・・は、オリエントの方が支那よりも遥かに早い時期から用いてい<たが・・>。」(コラム#14028)
 鉄製の兵器はどうだったのだろうか。
 「「孫子 兵法」には、呉の名刀匠の話が出てくるが、刀などというありふれた武器も鉄製、就中、ちょうど孫子の生存中に出現した可能性がある白心可鍛鋳鉄(下出)製らしき刀ともなれば・・。↓

 「本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代になって鉄製の武器も使われるようになった。
 一方の東アジア北部では中国よりも早くに鉄器が伝わり、沿海州では紀元前1000年頃に鉄器時代を迎えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
 「青銅の鋳造技術はメソポタミアにはあったが、鉄の鋳造技術は紀元前7世紀頃の中国で開発された。鉄の鋳造は可能となったものの、それは黒鉛を含有しないチルと呼ばれる硬くて脆い鋳鉄だった。紀元前470年頃にはそれを約900〜1000度の酸化鉄内で3日間加熱して白心可鍛鋳鉄にする技術があったという研究もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84
 (参考)「<支那>人は、鉄混合物にリンを6%まで加えると、融点が通常の千百度から九百五十度に下がることを知っていた。この技術が中国で普及するのは6世紀である。一方、西洋で鋳鉄が広く使用されるようになるのは、1380年以降である。」
https://spc.jst.go.jp/experiences/impressions/impr_09006.html

 と、想像を膨らませたのだが、「越王勾践剣」も、「呉王夫差矛(やり)」も、青銅製だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E7%8E%8B%E5%8B%BE%E8%B7%B5%E5%89%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E7%8E%8B%E5%A4%AB%E5%B7%AE%E7%9F%9B
ので、いささか拍子抜けした。
 ただ、<このこと>はともかくとして、当時、鉄製の剣や矛が出現していた可能性はあるわけであり、<このように高度な兵器が登場していたところの>春秋戦国時代の支那(華夏)は文明のレベルが世界最高峰の社会であった、と言ってよいのではない<だろ>うか。」(コラム#14030)

 (二)無宗教

 「もう一つ気付いたのは、これも、<私が鑑賞したTVシリーズの>「始皇帝 天下統一」と「孫子 兵法」に共通していること<だ>が、宗教にからむ場面が皆無であること<だ>。
 強いて言えば、前者で、華陽太后
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E
が亀朴<(注51)>を自分でやっている画面があったけれど、亀朴は、いわばくじ引きのようなもので、宗教とまでは言えない<だろう>。

(注51)「占いに使う亀の甲羅は、腹甲を乾燥させ薄く加工したものを用いる。甲羅に溝や穴を開けた部分に燃やして熱い波波迦木(ははかぎ、上溝桜)あるいは箒(サクラなどの木片)を押し付け、ヒビが入った状態から吉凶や方角を占う。甲羅を直接炎で加熱することはない。
 起源は古代<支那>大陸で、殷の時代に盛んに行われていた。占いの結果などを彫り込んだのが甲骨文字である。漢代には衰え始め、唐代になると卜官も絶えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%8D%9C

 この世俗化度から見れば、春秋戦国時代の支那は、近現代を通り越して、人類の未来を先取りしていた、とさえ言えるのかもしれ<ない>。」(コラム#14030) 
 「中共当局の宗教に対する姿勢がそうだから<TVシリーズ制作者がそれに従ったという>可能性も皆無では<ない>が、『史記』の春秋戦国時代の描写の中でも私には記憶が殆ど<ない>。
 考えてみれば、春秋戦国時代には仏教はまだ支那に伝播してい<なかっ>たし、儒教・・が宗教と言えるかどうかはさておき・・も道教も成立してい<なかっ>たから、当時は、実際、世俗的な時代でれっきとした宗教とは余りご縁がなかった<、と見るのが自然だろう>。
 論より「証拠」、例えば、周のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
には、宗教に係る記述は皆無<だ>。
 もう一度書<く>が、春秋戦国時代の支那は、恐ろしいばかりに近代的であったと言えるのではな<かろ>うか。」(コラム#14032)

二 停滞–前近代

 (一)停滞は事実

 「そんな支那が、その後、突然、停滞してしまったわけ<だ>。
 いや、支那においては、(旧江南文化圏を含めた)統一国家成立以降も、紙と印刷術・火薬・羅針盤の三大発明があったではないか、という反論が予想され<る>。
 しかし、まず、「紙<について>は、紀元前2世紀頃、<支那>で発明されたと考えられてい<る>。当初は試行錯誤しながらいろいろな方法で紙が作られていたよう<だ>が、西暦105年頃に蔡倫(コラム#13838)という後漢時代の役人(宦官)が行った製紙法の改良により、使いやすい実用的な紙がたくさん作られるようになったと言われてい<る>。
 ちなみに、蔡倫が紙作りに使った材料は、 麻のボロきれや、樹皮など<だっ>た。」
https://www.jpa.gr.jp/p-world/p_history/p_history_02.html
というの<だ>から、 蔡倫が製紙法を発明したわけではなく、改良しただけであるわけ<だ>。
 <だ>から、紙が生誕したのは、後漢時代ではなく、前漢時代、つまり、事実上、春秋戦国時代の延長線上、の時期である、と、言ってよいのではな<かろう>か。
 また、支那では、「7世紀から8世紀頃には木版印刷が行われていたといわれ<てはい>る」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E5%88%B7
けれど、支那人は、「『はんこ』は,木や石にほって色をつけたくない部分をけずるおなじみの『版画』の技術をつかって<きていたし、>・・・石碑から『拓本(たくほん)』をとること<も>思いつ<いてい>・・・た。
 <ちなみに、>拓本とは,「もとになるものの上に紙をのせて刷るやりかた」<だ>。」
https://www.shumpou.co.jp/technology/lets_learn/phistory/
ということから、私は、支那において、紙の生誕と同時に、事実上印刷も始まった、と考えてい<る>。
 次に火薬については、「唐代(618年 – 907年)に書かれた「真元妙道要路」には硝石・硫黄・炭を混ぜると燃焼や爆発を起こしやすいことが記述されており、既にこの頃には黒色火薬が発明されていた可能性がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%96%AC
とされてはい<る>が、支那では、「少くとも紀元2~3世紀には黒色火薬が・・・発明されていたと考えられる<ところ、>・・・B.C.160~122 劉安の淮南子に硫黄、炭、消と黒色火薬の三成分が現れ、<それらが>硫化銅を含む金鉱より金銀の分離<に用いられていた>」
https://www.jes.or.jp/mag/stem/Vol.28/documents/Vol.28,No.4,p.322-330.pdf
ことから、遅くとも前漢、早ければ春秋戦国時代に火薬が発明されていた可能性が大<だ>。」(コラム#14032)
「最後に羅針盤(方位磁石=compass)については、「原型となるものとしては、方位磁針相当の磁力を持った針を木片に埋め込んだ「指南魚」が3世紀頃から中国国内で使われていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D%E7%A3%81%E9%87%9D
というの<だ>が、「磁石にN極とS極があることに気づいたのは、約2千年前の<支那>人だったと言われてい<る>。」
https://www.jasnaoe.or.jp/mecc/fushigi/report/report028.html
というの<だ>から、やはり、その原理の発見は、前漢末、すなわち、事実上、拡大春秋戦国時代だった、ということにな<る>。」(コラム#14034)

 (二)停滞理由

  ア 帝国病

 「では、そんな支那が、江南文化地域を取り込んだ初の統一帝国を構築した後、・・・科学技術の停滞を招いてしまったのは、一体、どうしてなの<だろ>うか。
 <科学技術には理系のみならず文系のそれも含まれることに注意。(太田)>
 古代文明のチグリスユーフラテス、エジプト、インダス、黄河、各文明は停滞的<だっ>たが、その後、これらの文明の辺境の古典ギリシャ、黄河文明の嫡流の支那(華夏)で顕著な科学技術の発展が見られたところ、それは、同質に近い小国分立という背景の下でだったのに対し、ヘレニズム諸帝国、その後継たるローマ帝国とペルシャ帝国、更には、分立時代の支那の嫡流たる統一国家の漢帝国やその後継の諸帝国では科学技術は再び停滞し、カトリシズム下の地理的意味での欧州・・やはり同質に近い、但し中規模国分立という背景の下で顕著な科学技術の発展が継続的に見られることになる一方、イスラム帝国及びその後継諸帝国においては科学技術は引き続き停滞を続けることとなる、といったこと(典拠省略)を踏まえれば、支那も、他の諸帝国同様、帝国病に陥っただけのことだ、と言えるのかもしれ<ない>。
 そうだとすれば、「ニーダム<(注52)>博士は古代及び中世の<支那>人の並外れた創意工夫と自然に対する洞察力に敬意を表しつつ、なぜ現在<支那>は遅れた国になってしまったのかと疑問を呈し・・・、<それ>は、<支那>の官僚組織<が、>その初期では科学の発展を大いに援助したが、後期になると、官僚組織は科学がさらに発展するのを強力に押さえ込み、飛躍的な進歩を阻んだためとしている。

 (注52)Noel Joseph Terence Montgomery Needham(1900~1995年)。「ケンブリッジ大学で医学を専攻。・・・1930年代後半より<支那>における科学発達史に関心を持ち始め、1942年から1945年まで蔣介石政府の科学顧問として重慶に滞在した。・・・1948年にケンブリッジ大学・・・に戻り、以後、前人未踏の<支那>科学史の研究に没頭する。『<支那>の科学と文明』の最初の巻は1954年に出版され<、>・・・ケンブリッジ大学内のニーダム研究所で編纂が続けられ、1995年の没時までに計16冊が出版され、12冊分はニーダム自身によるもので、没後も出版が続けられた。・・・
 ニーダムは若いころからキリスト教社会主義者であり、また中国に対する関心は1949年の中華人民共和国成立後も続けられ<、>・・・1965年には英中相互理解協会(英語版)を設立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%A0

 また、ドイツ帝国の宰相であったビスマルクは、日本及び<支那>からやってきた留学生の行動を評価し、「日本人は機械や大砲の原理まで理解し、もっと優れたものを開発しようとするが、<支那>人は廉価なものを購入するだけの態度に終わっている」と述べている。祖国の近代化に向けた留学生の意識の差が、その後の両国の運命を大きく変えることになった。近代以前の科学技術で世界一であった<支那>は、なぜ自ら創意工夫をしなくなったのであろうか。
 ニーダム博士は官僚組織に<支那>科学技術の発展と停滞の原因を求めているが、・・・官僚組織も含めた政治体制及びそれを支えてきた思想が原因であると考え<られ>る。つまり、皇帝に全ての権力が集中する皇帝制度及び人々の行動規範となったイデオロギーとしての儒教が元凶であると思う。自由な発想や創意工夫を重んずる気風がイノベーションには不可欠である。」
https://spc.jst.go.jp/experiences/impressions/impr_09006.html 前掲
 と<まあ、こう>いった<具合に>、支那固有の原因を追究<しようと>するのは筋違い・・・なのかもしれない・・・。」(コラム#14034)

  イ その原因

 そこで、手掛かりをローマ帝国に求めてみよう。
 そもそも、「どうして、<ローマ>帝国<において、古典ギリシャと比較して、>・・・その科学技術は停滞<した>・・・の<だろ>うか。
 私の仮説は、「同質に近い小国分立」であ<ったところの>、古典ギリシャの<場合は>、(Albert O. Hirschman<(注53)>の言葉を借りれば、)不満を抱いた住民達がVoice手段・・投票で統治者を罷免する・・もとれる場合であ<ったので>なおさら<だ>が、・・・不満を抱いた住民達がExit手段・・他の隣接等小国に逃散する・・をとることができるので、その不満を沸点以下に抑えることが比較的容易であ<った>のに対し、一旦帝国が形成されてしまって、古代ローマ帝国のように<若干の>Voice手段が<残されていて>も、(異質の外国への逃散は平均逃亡距離が延伸されることと相俟って心理的ハードルが高いことから、)Exit手段が事実上なくなってしまうと、住民達の不満を沸点以下に抑えるためには、<キリスト>教というアヘンで住民達の意識を鈍磨させる・・・とともに、それまでは脅威が他の小国群、と、異質の「大国/大勢力」の二本立てだったのが、前者が消滅することで戦争が大幅に減少<した>ため、軍事技術の研究開発意欲が衰え、この二つの要素が相俟って科学技術の停滞をもたら<した>、というもの<だ>。」(コラム#14036。但し、事実上、中身を修正した(太田)。)

 (注53)1915~2012年。「ドイツ出身の経済学者。専門は政治経済学、開発経済学。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BBO%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9E%E3%83%B3 その著書の、’Exit, Voice and Loyalty’について。↓
https://jfn.josuikai.net/semi/itamizemi/books/books03.html ・・・

 ところが、天下統一後の「支那・・・に係る<悩ましい>問題は、一体全体、かかる機能を果たしたところの宗教<があったのか、また、あったとして、それ>は何だったのか、が、必ずしも明らかではないこと<だ>。
 よく、支那の宗教は、支配階層は儒教、被支配階層は道教、的なことが言われ<る>が、「儒<(注54)>教は<キリスト教やイスラム教のような>宗教で<こそ>ないが、その<支那>に果たしてきた役割からすると、欧米のキリスト教に匹敵する<>・・・ことは確かであり、例えば、かの高名なる「マックス・ウェーバー<も、論文の>・・・<「>儒教と道教<」で、>・・・儒教の果たした役割とその思想、そして派生である道教について考察し、プロテスタントとの差異と類似点を論じた<。>」
https://bookmeter.com/books/213290
と、儒教<や道教>をプロテスタンティズムと同じ次元のものとして、つまりは、宗教として、対置させてい<る>。・・・
 
 (注54)「儒」は、ニンベンに「需」(古義は「しっとりとして柔らかい」)<と書くが、>・・・学研『漢字源』改訂第6版(2018)p.139<に、>・・・【コア】柔らかい【初義】学問を修め、教養のある人【語源】古人は「儒は濡なり、柔なり、弱なり」と語源を捉えている。教養によって身を潤す人、あるいは、たけだけしい武人に対して、柔弱な文人が儒<。)>」<とある。>・・・

 <確かに、支那において、>多様<な>・・・宗教<が存在す>・・・るが、漢<人>を主体とする中華民族の本物の代表的な民族宗教は道教しかない。
 宋儒はかつて仏教の経典のある説を参考にし、宗教的色彩の濃い理気学を完成したが、しかし彼らは儒学の宗教化の傾向を断固として否定した。・・・<(いずれにせよ、>儒学は宗教の色彩に如何に染められても、・・・<あくまでも>学説の1種として存在しつづけて、国家の政治理念に関する学問として利用された。<)>」(翁其銀「中国人の養生観とその文化・宗教的背景」より)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4494437/002_p013.pdf
という理解が正しいよう<だ>。」(コラム#14036)
 しかし、道教については、多神教であることもあって、その教義には体系性がなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
また、聖職者・・道教の場合は道士・・資格を得るシステムもあってなきが如しである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%A3%AB
ことから、道教は本格的な教義宗教とは言い難く、その個人や社会に対する羈束力も弱い、と、私は見ている。
 これは、支那が中原文明(華夏文明)末期に、近代的な、従って合理的な、社会、に一旦はなっていて、孫武や孔子といった近代的思想家を輩出していたこと、や、華夏人同様漢人は、平均的知力が高かったこと、から、漢人が、ある意味、非近代性、非合理性の極みとも言えるところの、教義宗教に絡めとられることのない、対宗教耐性的なものを身に着け、その耐性的なものを失うことがなかったからだ、というのが私の見解だ。
 だからこそ、後漢代に伝来したところの、教義宗教であるかどうか微妙な仏教、も、結局支那で主流になることはなかった(典拠省略)し、唐代に伝来したキリスト教(ネストリウス派)、ゾロアスター教、マニ教、は、いずれも9世紀後半には姿を消し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E4%BB%A3%E4%B8%89%E5%A4%B7%E6%95%99
同じく唐代に伝来したイスラム教も、狭義の漢人の信者は無に等しいまま推移してきた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0
のだ、と思うのだ。

 以上から、私は、ローマ帝国の場合とは微妙に違って、支那の場合は、被支配層をほったらかすことにしたところの、支配層、が、どちらも宗教ならぬ、タテマエとしての国家イデオロギー、たる儒教、と、ホンネとしての墨家の思想(後出)、に、絡めとられたために、科学技術等が停滞してしまい、帝国病に陥った、と、考えるに至っている。

4 孔子の「後継」史

 (1)序に代えて–改めて孔子(BC552/551~BC479年)について

 「孔子<は、>・・・有力な諸侯国が<邑制国家から>領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の<邑制>国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。・・・

⇒仁道政治・・仁に基づく政治・・を孔子が掲げた形跡はない。(太田)

 孔子の生まれた魯(紀元前1055年 – 紀元前249年)・・・では周公旦の伝統を受け継ぎ、周王朝の古い礼制がよく保存されていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。・・・

⇒孔子は、「周初への復古を理想とし<た>」わけでも「身分制秩序の再編・・・を掲げた」わけでもなく、単に周初の周公旦を文武兼ね備えた理想的な人物として仰ぎ見ただけだ。
 「周王朝の古い礼制が・・・をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていった」のも「孔子一門」であって、孔子本人ではない。
 そもそも、「孔子の祖先は宋の人であ」(下出)(※)って、このことを支那の後世の人々は重視し、「前漢・・・の成帝の時、・・・宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた」こと(※)、を等閑視してはならない。
 孔子/儒教に関しては、周ファクターよりも殷ファクターをより重視すべきであると考える。(太田)

 <ちなみに、>周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。・・・
 春秋時代に入ってからの魯国は、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である三桓<(さんかん)>氏<(注55)>が政治の実権を握り、寡頭政治を行っていた。・・・

 (注55)「魯の公族で、春秋時代・戦国時代の魯の第15代君主桓公の子孫の孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏の事を指す。・・・
 中でも特に権力を極めたのが季孫氏である。
 第22代・襄公の子である第23代昭公が紀元前517年に季孫氏当主の季孫意如を攻めるが、逆に三桓氏の軍事力に屈し、国外追放された。また、第24代定公が就任してから8年目の紀元前502年に季孫氏の有力家臣であった陽虎が叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の君主を追放する反乱を起こしたが陽虎は敗れ、国外追放された。
 紀元前498年(定公12年)、季孫氏の宰であった[孔門十哲の一人である]子路は三桓の居城の破壊を命じたが、成功しなかった。
 定公の次の哀公は三桓氏を除こうとして失敗し、魯から追放されて、越の地で死亡した。
 その後、三桓氏は悼公を立てたが、もはや魯公の力はきわめて弱いものになっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%A1%93%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E8%B7%AF ([]内)

 『史記』によれば、孔子の祖先は宋の人であるという。『孔子家語』本姓解ではさらに詳しく系図を記し、孔子を宋の厲公の兄である弗父何の10代後の子孫であり、孔子の曽祖父の防叔のときに魯に移ってきたと言っている。・・・
 紀元前534年、孔子19歳のときに宋<(←注目!(太田))>の幵官(けんかん)氏と結婚する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90

⇒孔子が殷人であるという認識は支那においては確立している。
 魯は斉に殆ど取り囲まれ、一部が越に接する小国だったが、宋は魯に近接する中くらいの国で、北は斉、西は魏、南は楚に接していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%EC%A0%84%EA%B5%AD%EC%8B%9C%EB%8C%80BC350%EB%85%84.png
 また、「『礼記』の最後の言葉で、孔子は自分が殷人であるとハッキリ言っています。殷人とは、当時の周王朝の前の殷王朝の遺民という意味です。孔子は被支配者である民・殷人であったのです。そのことには考古学的な状況証拠もあります。」
https://www.amazon.co.jp/%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E8%AB%96%E8%AA%9E%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB-%E5%AD%94%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%87%BA%E8%87%AA%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86-%E4%B8%98-%E4%BF%A1%E5%A4%AB/dp/4908879370
ということからだろうが、孔子は次第に神格化されていき、「前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、<既述したように、>次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する。
 孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90 ※
という次第だ。
 また、孔子は、文武にわたって活躍した官僚だった。↓(太田)

 「北の晋と南の楚に挟まれた鄭などの国々は晋に迫られれば晋に従い、楚に迫られれば楚に従うという態度を採らざるを得なかった。この状態に疲れ果てた諸国は平和を望むようになり、紀元前579年に宋の仲介により晋・楚に不戦条約を結ぶこととなった。しかしその後の紀元前576年に再び晋楚の間で戦端が開かれ、翌年に鄢陵にて晋軍が楚軍に大勝(鄢陵の戦い)。その後も何度となく戦いは起こり、諸国の間では内乱が頻発したために再び平和への機運が高まり、紀元前546年に再び和平が成立し、その後の十数年は平和が保たれた。
 この頃の諸国の内部では大夫と呼ばれる諸侯の下にいた貴族階級が諸侯を凌ぐ勢力を持つようになり、時には晋の厲公のように大夫の共謀によって殺されることもあった。また大夫の下にある士という階級の者たちも勢力を伸ばしていた。魯では三桓氏と呼ばれる3つの大夫の家が権力を握っていたが、・・・三桓氏の家臣であった士階級の陽虎<(注56)>が三桓氏を抑え込んで一時的にではあるが政権を執った。

 (注56)「第23代君主昭公の時代の紀元前505年、季孫斯に反旗を翻して魯の実権を握る。・・・
 陽虎は、孔子を召抱えようとした。孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった。(論語 陽貨第十七)・・・
 紀元前502年、叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放された。
 その後、宋・晋を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅(趙簡子)に召抱えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E8%99%8E

 この流れの中で本来政治の中枢に座ることが出来なかった大夫層から<斉では>晏嬰や<鄭では>子産<(注57)>などの名政治家と呼ばれる者が登場する。また孔子もこの中から登場し、後の<支那>の支配的思想となった儒教<の>創始<者とされ>ることになる。・・・

 (注57)?~BC522年。鄭の宰相として、「紀元前536年、<支那>史上初めての成文法を制定したとされる。・・・
 なぜ子産が成文法を作ったかと言えば、すでに宗族制度の中枢にあるべき周王室が衰退して久しく、既に制度自体が機能しなくなっていた。そのような状況下で法体系を大きく変えなければ、下の者の不満を抑えきれない状況が作られていたからだろう。上述のように士の階級の台頭を押さえ込もうとしたが、それだけ下の力が強くなっていたということの証拠であり、いわば飴と鞭である。その証拠に、鄭に続いて叔向亡き後の晋が、成文法を制定している。このことは孔子(宗族制度の擁護者であり、礼は士大夫、刑罰は庶民に対するものであると考えていた)に大きな衝撃と困惑を与えたといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E7%94%A3

 <孔子が没するのは紀元前479年だが、その直後の>[紀元前473年に、]越の・・・<攻>撃により、呉は滅亡する。・・・
 <また、晋は孔子の生まれた頃の紀元前453年以降、それまでに晋から事実上「独立」していたところの、>「魏・韓・趙の三国<、が、>紀元前403年に周王室より正式に諸侯として認められ<、>・・・この時点をもって春秋時代は完全に終わり、戦国時代に入る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B) ([]内)

⇒孔子は、諸侯国が互いに相争いながら栄枯盛衰を繰り返す戦国時代のとば口に差し掛かっていたところの、春秋時代末期に、中原諸国の相互戦争の恒常化、すなわち、戦国時代の到来、を防止し、願わくはかつての殷や周のように天下統一を再び実現し、その状態を永続させたいと願ったに違いない。
 ここまでは、諸子百家の多くとさして違いはなかったことだろうが、孔子のユニークさは、そのための大前提として、私の言う人間主義の人間限定版とも言うべき「仁」を「発見」し、提唱したことなのであり、私見では、孔子は、(断じて儒教の祖などとしてではなく、)この点においてこそ、世界史において全ての人々に記憶されるべき存在になったのだ。
 (私は、この趣旨のことを、深く考えないまま、前回のオフ会「講演」原稿(コラム#13759)の中で記していることに随分後になってから気が付いた。)
 さて、肝心のこの仁についてである。(太田)

 「「朝聞道、夕死可突」(『論語L里仁)とある孔子の言葉からあらわされているように、<支那>思想におけるあらゆる哲学的、倫理学的探求は道の体得に集約された。ところが、この道の概念は、「天命之謂性、率性之謂道」(『中庸章旬L首章)とあるように、天の命として捉えられる性に率うものとされる、しかし、性は萬物各々の本体であるから、道は人を含めた萬物の道であって、人にのみ適用されるものではない。そこで孔子は人の道を強調し、人の道を意味する仁の思想を創出したのである。」(李基東「孟子における仁と義の理法的性格について」より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjEmMuAwOuCAxUTsFYBHQzWC4YQFnoECAsQAQ&url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F23941%2Ffiles%2F7.pdf&usg=AOvVaw1558Zn5FouF7za6rJkVat0&opi=89978449

⇒この指摘が正鵠を射ているかどうかはともかくとして、孔子が人間主義の「発見」を狭い土俵上で行ってしまったことは確かだ。(太田)

 「仁」とは人間にとってもっとも普遍的で包括的、根源的な愛を意味<し、>・・・「孝」や「悌<(注58)>」、「忠」なども仁のひとつのあらわれだと主張されている<。>・・・
 君子<(注59)>は仁者であるべきと説いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81

 (注58)「兄や目上の者に素直につかえること。」
https://kotobank.jp/word/%E6%82%8C-573290
 (注59)「最古の歌謡『詩経』にみえるこの語は種々の意味を示す。(1)身分の高い人。「君子の依(よ)る所。小人の腓(したが)う所」(馬車についていう。采薇(さいび))。(2)夫または夫となるべき男。「君子于(ここ)に役す」(君子于役(うえき))。「未(いま)だ君子を見ず」(草蟲(そうちゅう))。(3)徳の高い人。「斐(ひ)たる君子有り」(淇奥(きいく))。(1)(3)の用法では「小人」に対する。孔子も(1)(3)両義に用いる。「君子の徳は風。小人の徳は草。草これに風を上(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す」(『論語』顔淵(がんえん)篇(へん))の場合、君子は為政者。「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(里仁(りじん)篇)というときは有徳者の意味。そして「君子は器ならず」(為政篇)というとおり、幅広い教養人。職人でない。・・・
 学識,人格ともにすぐれた,道徳的にりっぱな人物。原義は,一般民衆よりも上位にあって,治政の立場に足る人の称。在位の身分ある為政者をさす。〈野人(やじん)〉あるいは〈小人(しようじん)〉の対。とくに政権の主宰者,首長を〈君主〉ともいい,領土と臣民を保有する主権者の〈国君〉,臣下にたいする〈君王,主君〉をもさす。」
https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E5%AD%90-58330

⇒「「孝」・・・主張されている」に直接的な典拠が付されていないが、白川/徐説を踏まえつつ、私見を述べれば、仁は、誰しもが抱いているところの、子の親に対する心情であるところの、孝、や、多くの人が抱いているところの、弟妹の兄姉に対する心情であるところの、悌、ないし、上司に対する心情であるところの、忠、を例にとって、孝も含むところの、「人間にとってもっとも普遍的で包括的、根源的な愛」である「仁」を孔子は説明したのだろう。
 そして、孔子にとっては、君子=仁者、なのだ。
 礼や軍事については既述したところを振り返って欲しい。(太田)

 (2)孟子(BC372?~BC289?年)

  ア 仁を巡って

  (ア)全般

 「惻隠(そくいん)の心が仁の端(はじめ)であると説いた(四端説)。惻隠の心とは同情心のことであり、赤ん坊が井戸に落ちようとしているとき、それを見た人が無意識に赤ん坊を助けようと思う心であると説いた。」(上掲)
 「『孟子』公孫丑章句上篇によれば、孟子は、公孫丑上篇に記されている性善説の立場に立って人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳(四徳)を誰もが持っている4つの心に根拠付けた。
 その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」の心が存在する。「四端」とは「四つの端緒、きざし」という意味で、それは、
・「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)
・「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)
・「辞譲」(譲ってへりくだる心)
・「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)
の4つの道徳感情である。この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達するというのである。
 言い換えれば、
・「惻隠」は仁の端
・「羞悪」(「廉恥」)は義の端
・「辞譲」は礼の端
・「是非」は智の端
ということであり、心に兆す四徳の芽生えこそが四端である。・・・
 したがって、人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきであり、それによって人間の善性は完全に発揮できるとし、誰であっても「聖人」と呼ばれるような偉大な人物になりうる可能性が備わっていると孟子は主張する。また、この四徳を身につけるなかで養われる強い精神力が「浩然の気」であり、これを備え、徳を実践しようとする理想的な人間を称して「大丈夫」と呼んだ。
 なお、四端については、南宋の朱熹の学説(朱子学)では、「端は緒なり」ととらえ、四徳が本来心に備わっているものであるとして、それが心の表面に現出する端緒こそが四端であると唱え、以後、四端説において支配的な見解となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%AB%AF%E8%AA%AC

⇒孟子は、孔子の主張を歪曲してしまった。
 すなわち、仁を四つの徳の筆頭に置きつつも、あくまでも徳の一つとすることによって、仁を水で薄めてしまい、また、仁を含む徳を身につけるのは個人の努力による、と、殆どの人には実行不可能な、仏教で言うところの自力ないし難行だけを推奨してしまった。
 孟子自身、例えば、「財産を作れば、仁の徳から背いてしまう。仁の徳を行えば、財産はできない」(典拠不詳)と主張している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81 前掲
ところだ。
 孟子は、「君主が仁政を行って民に恩沢をもたらすことこそ政治であると考えた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E7%BE%A9-536899
けれど、これも、仁者ではない場合が大部分であるところの君主に難行を強いているわけだ。
 (なお、孟子は、義を徳の二番目とし、四徳中、最初の二徳を際立たせるために「仁義」という言葉を用いた。
 「孟子の仁義思想における仁と義の関係性・・・をみると、義は仁の把握によって演繹される論理的構造をもつ。仁は天人関係、あるいは父子関係のような一次的関係における理法として、更に義は一次的関係を媒介にして成り立つ二次的関係における理法として把えられる<。>」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjEmMuAwOuCAxUTsFYBHQzWC4YQFnoECAsQAQ&url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F23941%2Ffiles%2F7.pdf&usg=AOvVaw1558Zn5FouF7za6rJkVat0&opi=89978449 前掲)

  (イ)孔子からの前進・・民本主義

 孟子の仁政及び民本主義/革命思想は、孔子にはなかったものだが、仁の思想の論理的帰結とも言えることから、孟子が孔子の真意を代弁した、と、考えることも可能だろう。↓

 「孟子は<、>民為貴、社稜次之、君為軽、是故得乎丘民而為天子(『孟子』●心下)<、>と述べ、民が最も貴ぶものであり、国家が次であって、君は最も軽いものであると説いている。<※>
 つまり、人民の秩序をよりよくするため・・「仁政を実現するために」と書いた方が分かり易いと思う(太田)・・に国家が必要となり、国家の秩序の象徴として君が存在する。
 したがって、国家や君は民の意志に順って存立された場合にのみその意味をもつのである。・・・
 このような意味からすると、君が全体的秩序の維持に関係されないもの・・「仁政を目的としないもの」と書いた方が分かり易いと思う(太田)・・をもって、民を使役させたり、命令したりすることはできないし、民もまたそのような君の命令には従わざるべき権利をもつが、孟子はこのことを次のように義をもって説明している。
 すなわち、
 萬章日庶人召之役則往役、君欲見之、召之則不往見之、何也、日往役、義也、往見、不義也、且君之欲見之也、何為也哉、日為其多聞也、為其賢也、日為其多聞也則天子不召師而況諸候乎、為其賢也則吾未聞欲見賢而召之也(『孟子』萬章下)
という。
 このような孟子の民本思想は、西洋近世の民主主義思想とは異なる。

⇒古典ギリシャ文明を欧州文明の淵源である、と、地理的意味での欧州の人々は共通して考えているところ、欧州文明はアテナイの直接民主制を政体の理想視したが、アングロサクソン文明はアテナイで花開いたプラトンやアリストテレスが理想視したところの混合政体を理想視した。(以上、典拠省略)
 よって、孟子の民本思想は、欧州文明の民主主義理想視思想とは確かに異なるけれど、アングロサクソン文明の民主主義的要素も必要という思想には近似していると言ってよかろう。(太田)

 民主主義は民が国家の主人になる思想であり、民の多数の議決によってすべてが決定されるものであるが、孟子の民本主義思想においては、民が政治原理の中心になることは確かであるが、しかし、民も君もその背後にある根源的秩序として把握される天意に従うという共通的目標が前提とされる。
 したがって、民本主義思想の根本は天命思想に帰着する。
 ところが、上述のように、天命は性として把握される一方、天意は民意として現われた。
 それゆえ、天意に順うということは、個人的には自性に従うことを意味し、国家的には民意に順うことを意味する。

⇒天意が現されることは、天人相関説等をでっち上げでもしない限り、ありえないのだから、前段は無用だろう。
 前述したように、孟子は、「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」(盡心章句下)と言ったところ、真ん中の、「社稷之(これ)に次ぎ、」を削除すれば、民>君主、の民主主義的混合政体を孟子は推していた、ということになると言ってよいわけだ。(太田)

 孟子は<、>舜相尭二十有八載、非人之所能為也、天也、尭崩、三年之喪畢、舜避尭之子於河之南、天下諸候朝勤者、不之尭之子 而之舜、訟獄者、不之尭之子而之舜、調歌者、不調歌尭之子而調歌舜、故日天也、夫然後之中国、践天子位焉而居尭之宮、逼尭之子是纂也、非天与也(『孟子』萬章上)<、>と述べ、尭が舜に譲位した歴史的事実に対し、天が舜に天子の位を与えたと説いた根拠として、舜が民意に順ったことを挙げている。
 このように民意の代行者としての統治者を天子と言い表すが、これは天意の代行者という意味として、儒学的政治思想の特徴を代弁する言葉となる。」(上掲)
 (注<記:>)「孟子は人問社会の中で作られた階級的なものを人爵とし、それに対し、人間が元来もっているものを天爵と述べているが、民本主義の政治理念からすれぱ、先に天爵を保存し、後に人爵を兼ねているものが治者の徳に適合したものとして理解される。
 しかし、孟子の時代にはもはや天爵は度外視され、人爵のみによって治められていた混乱した社会であった。
 ところが、天爵を忘れて人爵のみを固執する者は、民本主義的政治原理からすれば、治者の資格を喪失する。
 だから、桀や村は歴史的には王であったにもかかわらず、このような理論的側面に立脚したとき、王とは呼ばれなくなる。
 この意味からして、治者はその地位に坐っている事実よりも、治者としての資格が先に議論されなければならない。
 孟子は<、>孟子謂斉宣王日王之臣、有託其妻子於其友而之楚遊者、比其反也、凍蟹其妻子、則如之何、王日棄之、士師不能治土、如之何、王日已之、日四境之内不治、則如之何、王顧左右面言他(『孟子』梁恵王下)<、>といって、斉の宣王に、王の資格に対して嚴しく追窮している。
 もし資格のない者が、政治原理を忘却し、権力をもって民を逼追するならば、民はその治者を避けることによって、逼迫から逃れるか、あるいはその治者を革命によって替えるかのどちらかを選ぷべきである。
 このような思想が孟子の革命思想として整理されるが、一方においては「君臣有義」によって集約される。
 すなわち、君と臣の関係はよく生きるために人為的に結ばれた二次的関係であるから、義を有することによって維持される。
 したがって、義は有徳之君に対しては、彼を中心に合力して秩序を維持して行かなければならないが、無徳之君に対しては、革命をすることによって新しい秩序を求めるという両面性をもつ。」(上掲)

⇒’ Support for the right to resist can be found in the ancient Greek doctrine of tyrannicide(注60) included in Roman law, the Hebrew Bible,[clarification needed] jihad in the Muslim world, the Mandate of Heaven in dynastic Chinese political philosophy, and in Sub-Saharan Africa’s oral traditions. Historically, Western thinkers have distinguished between despots and tyrants, only authorizing resistance against the latter because these rulers violated fundamental rights in addition to their lack of popular legitimacy.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Right_to_resist#cite_note-FOOTNOTETurchetti2006871-6

 (注60)’The archetypal tyrannicides were Harmodius and Aristogiton of Athens, who in 514 BCE planned to murder the tyrant Hippias, son of Peisistratus. They succeeded only in killing the tyrant’s brother Hipparchus before being killed themselves, but they nevertheless received great posthumous honours from the Athenian populace. Harmodius and Aristogiton’s deed did not end the Peisistratid tyranny—Hippias ruled for three more years, and their act was, furthermore, personally motivated, a response to an insult by Hippias (according to the historian Herodotus) rather than the product of political conviction—but they became known in popular tradition as a symbol of resistance to tyranny.
 The laws on the killing of tyrants passed in the Classical period make the idea appear uncomplicated: if anyone aims at tyranny or succeeds in becoming a tyrant, he can be killed with impunity. In practice, however, the motives of tyrannicides were rarely politically pure. In many cases the term tyrant was used to justify an unedifying cycle of political murders as would-be rulers declared their rivals to be tyrants and murdered them. Some tyrannicides, however, have been credited with disinterested motives; under the influence of Plato’s condemnation of tyranny, for example, some students of philosophy chose to risk their lives against tyrants. Thus, Clearchus, tyrant of Heracleia on the Black Sea, was killed in 352 BCE by a group led by his court philosopher Chion. The tyranny did not fall—Clearchus was succeeded by his brother—but the tyrannicides appear to have acted from genuine political conviction.’
https://www.britannica.com/topic/tyrannicide

を踏まえれば、孟子は、プラトンよりやや遅れて、世界で二番目に抵抗権的なものの必要性を主張した、ということになりそうだ。
 いずれにせよ、「孟子自身は「革命」という言葉を用いていないものの、その天命説は明らかに後の易姓革命説の原型をなしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90 (太田)

  (ウ)孔子からの後退・・階層的人間観

 孟子は、「「王何ぞ必ずしも利を曰はん。亦仁義あるのみ(王はどうして利益のことだけ・・「だけ」は不要では?(太田)・・を言う必要があるのですか。ただひたすらに仁義有るのみです)」
https://liberal-arts-guide.com/peasantism/
と言ったことがあるし、「孟子<の>・・・著作には六芸<(注61)>など実学的教養への言及がない。

 (注61)「『周礼』は、周代の制度を後の時代に想像・理想化して著したものと考えられている。その中で、身分あるものに必要とされた6種類の基本教養を六芸とまとめた。その「地官・大司徒」に、礼・楽・射・御・書・数を六芸とする。それぞれ、礼儀、音楽、弓術、馬車を操る術、書道、算術である。・・・
 こうした職務は歴史的事実ではなく、『周礼』の創作である。だが、漢代以降長く周の時代の実際の制度だと信じられた。
 『史記』孔子世家には、次のような逸話が語られている。孔子が一芸に名を成していないのは、世に用いられず、様々な芸を習い、多芸の身となってしまったからであり、このことを達巷の村人に、「(孔子は)一芸で名を成していない」といわれた。それを聞いた孔子は、「御(馬術)でも名を成そうか」といってみせた。鄭玄注によると、これは六芸の中で、御(馬術)が格下と認識されていたため、孔子が謙遜して言ったのだという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%8A%B8

 「孟母三遷」の伝承は、それが事実なら、孔子が君子の教養として弟子たちに修養を勧めた「六芸」を著しく侮辱するものであり(墓地における礼は六芸の第一、市場における数は六芸の第六だが、孟母はこれを賤業と見下した)、孟子は孔子たちがもっとも嫌悪したであろうステレオタイプの差別主義者・出世主義者の母親によって育てられたことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90
ことから、後に、孟子が儒教において亜聖視されるようになる(注62)と、孟子、ひいては儒教が、商工業者を蔑視する農本主義(注63)を正当化するために用いられるようになった。

 (注62)「<支那>において、孟子の地位は宋代以前にはあまり高くなかった。中唐時代に韓愈が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一孔子の「道統」を受け継いだという評価を開始し、こうして孟子の「昇格運動」が現れた。以降孟子とその著作の地位は次第に上昇していった。北宋時代、神宗の熙寧4年(1071年)、『孟子』の書は初めて科挙の試験科目の中に入れられた。元豊6年(1083年)、孟子は初めて政府から「鄒国公」の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後『孟子』は儒家の経典に昇格し、南宋時代の朱熹はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた。元代の至順元年(1330年)、孟子は加えて「亜聖公」に封じられ、以後「亜聖」と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90
 (注63)「古代<支那>では、食糧を生み出す農業(本)とその生産手段としての土地を尊重するといった、のちの重農主義に類似した主張がおこなわれ、こうした主張は農本思想(もしくは農本主義)と呼ばれている。この主張に特に積極的であったのが法家、農家など(儒家も含む)の一派である。特にこれらの<支那>思想は<支那>と周辺諸国において政治思想の中核として発展し、経済・社会政策の一つの基盤となった。江戸時代では商業を統制し物価の安定をさせ、同時に過度な幕府の利益を抑えて倹約令を出した政策もいくつか存在した。しかしいずれの政策も社会・経済になじまず失敗に終わっている。
 農本主義における「本」とは農業従事者(寄生地主は除く)と生活必需品を生産する最低限の手工業を指し、「末」とは贅沢奢侈な商品を製造・販売する商工業者を指す。
 その背景として、中国においては商業活動によって財を得た本百姓(庄屋)・商人(豪商)・豪族達が土地を兼併して土地と住民を自己のものとして、政治的発言力と自己防衛のための兵を備えるようになり、更にこれを背景として不輸・不入の権を得て、軍事的・財政的に王朝を脅かす存在となり、また彼らによって土地を奪われた流民も盗賊などの形で武装化して社会秩序を破壊する存在になり、上と下から王朝を転覆させるだけの圧力となり得るからである。
 だが、実際に<支那>の歴史を見ると他国に征服された場合を除けば、多くの王朝が創建から日が経つにつれて地主・商人・豪族の土地兼併と農民の流民化の進行につれて社会秩序は混乱して王朝が崩壊し、新しい王朝が新秩序を形成するという過程を繰り返している。この間に豪族抑制の政策が取られる事もあったが、その王朝そのものがこうした豪族達から擁立されて成立したものであり、官僚もこれらの層から輩出されているために全く効果が無かったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%9C%AC%E6%80%9D%E6%83%B3

⇒余談だが、六芸に含まれなかった「医」は、だからこそ/にもかかわらず、儒教で白眼視されることはなかったようだ。
 「<支那>(または朝鮮)における孟子の子孫で医官であった孟二寛が、秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜として日本に連行されて毛利氏・浅野氏に仕え、渡辺治庵と名乗り、その孫の武林唯七(隆重)が赤穂浪士に参加したという伝承がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90 (太田)

  イ 軍事

 「孔子(武人の子)や、後代の朱熹・王陽明らと異なり、孟子は武人ではなく、兵学を修めず、軍事指揮経験がなく、著作には六芸など実学的教養への言及がない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90 前掲
 「『孟子』は、王の命令による「義戰」である「征」以外の戦いを否定することで、戦争を止めようとした。侵寇する側の正義を追究して、「義戰」を主張したのである。だが、正義は相対的である、『孟子』の「義戰」により、戦争を止めることは難しかった。」https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2024/02/342-334_Yoshihiro-WATANABE.pdf 前掲

⇒当然、孟子には、義戦なる無意味な一般論はともかくとして、軍事に関する具体的提言はない。
 孔子は、前述したように武術を身に着けていた上に軍事に係る具体的提言も行っていることと好対照だ。
 ちなみに、兵法書の『孫子』には、武将に必要な徳として、「智・信・仁・勇・厳」(五常と違い、義・礼の代わりに勇・厳がある)と記し、仁を含めているが、日本の儒者である荻生徂徠の指摘として、「仁なれば厳ならず、厳なれば仁ならず(部下に対して仁を取れば、威厳の方が立たない)」、「4つの徳備わりても、信また備わり難し」(『孫子国字解』)と解釈を述べ、仁と厳(また信)の両立が難しいことを記述している。」(上掲)と、支那の知識人の言を引用していない。
 孫子や孔子ですら、武力の行使と仁との関係を突き詰めて考えた形跡がないことが、その後成立した漢人文明が退嬰的なものに堕してしまった最大の理由の一つである、と、私は考えるに至っている。(太田) 

 (3)荀子(BC298/313~BC238)

  ア 始めに

 荀子は、「趙に生まれる。『史記』によると、50歳で初めて斉に遊学した。斉の襄王に仕え、斉が諸国から集めた学者たち(稷下<(しょくか)>の学<(注64)>士)の祭酒(学長職)に任ぜられる。

 (注64)「戦国時代の斉の学問。斉では威王 (在位前 357~320) ,宣王 (在位前 319頃~301頃) の頃を中心に都の臨淄 (りんし) の稷門 (城の西門) 外に学堂を建て,広く天下の学者を集めて邸宅を与え,自由に研究させたのでこの名がある。荀子,鄒衍 (すうえん) らもここで学び,当時の学問の一大中心地として<支那>文化の発展に大きな役割を果した。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A8%B7%E4%B8%8B%E3%81%AE%E5%AD%A6-80098
「鄒衍<(BC305?~BC240年)は、> 戦国時代の諸子百家の一つ陰陽家の始祖。[五行思想の一種にあたる・・・五徳終始説]〈、陰陽主運の説〉などを説いて、後の<漢>人の世界観や歴史観に大きな影響を与えた。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-067_1.html
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwis7rbjlOGDAxX3nK8BHYSGAFMQFnoECAwQAQ&url=https%3A%2F%2Frose-ibadai.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F14853%2Ffiles%2FCSI2010_1750.pdf&usg=AOvVaw0oDsW32AtZ731VkNGCQudK&opi=89978449 (〈〉内)

 稷下の学者の中では最年長で、三度列大夫の長官に任ぜられた。後に、讒言のため斉を去り、楚の宰相春申君に用いられて、蘭陵の令となり、任を辞した後もその地に滞まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90

  イ 孔子がほほ笑むであろう部分

 荀子の考えは、その核心部分において、孔子の忠実な祖述者にして敷衍者であると言えそうだ。↓

 「荀子<は、>・・・正しい礼を身に着けることを徹底した「性悪説」で知られる。・・・
 「青は藍より出て藍より青し」の成語で有名である。学ぶことは自分勝手な学問ではものにならず、信頼できる師の下で体系的に学び、かつ正しい礼を学んで身に付けた君子を目指さなければならない。荀子にとっての君子は、礼法を知って社会をこれに基づいて指導する者である。・・・
 荀子は、君主が頂点にあり、君子が礼法を知った官吏として従い、人民が法に基づいて支配される、つまり法治国家の姿を描写して、その統治原理として「礼」を置くのである。孔子や孟子も「礼」を個人の倫理のみならず国家の統治原理として捉える側面を一応持っていたが、荀子はそれを前面に出して「礼」を完全に国家を統治するための技術として捉え、君子が「礼」を学ぶ理由は明確に国家の統治者となるためである。」(上掲)
 荀子は、「君子は礼を身に付け、法に従って統治し、法が定めない案件については「類」=礼法の原理に基づいた判断を適用して行政を執る<べきとした。>・・・

⇒「類」=礼法の原理=仁、と見てよかろう。(太田)

 <そして、>王公・士大夫の子孫といえども礼儀にはげむことができなければ庶民に落し、庶民の子孫といえども文芸学問を積んで身の行いを正して礼儀にはげむならば卿・士大夫にまで昇進させるべきことを説<いた。>・・・

⇒荀子の真意は、礼にはげめば多くの場合仁者になり、仁者になった者を仁政を行わせるべく為政者/役人に登用すべきだ、ということだったと考えられる。
 (但し、これだけでは、軍事が疎かになってしまう、という問題点・・下出参照・・を荀子は自覚していなかったということにもなりそうだ。)(太田)

 <また、>絶対正義を示して天下全てを味方につけて戦わず勝利するユートピア的な王者を優位に置き、覇者ではなく王者・・・の王道政治<(注65)>・・・を理想と<した>。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90 前掲

 (注65)「儒家の理想とする礼にもとづいて行う仁義の政治。権力政治である覇道と対比される<。>孔子は周の文王を範とすべきものであると主張し,孟子は殷 (いん) の湯王・堯 (ぎよう) ・舜 (しゆん) ・禹 (う) ら伝説上の聖人をも先王と考えた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%8E%8B%E9%81%93%E6%94%BF%E6%B2%BB-2128415

⇒荀子は、墨家/墨子とは違って、義は一つしかなく、それは仁である、と、正しく認識していた、と、私は見たい。(太田)


[墨家の思想再訪]

一 墨家の思想とは

 「富はよろしく貧はよろしくなく、治はよろしく乱はよろしくないが、富と治を追求するのなら、まず、乱の根本原因であるところの、義・・何が善で何が悪か・・の乱立をなくさなければならず、そのためには、一人の王によって天下統一がなされ、その王によって義の統一がなされる必要がある。
 また、そうなれば、乱は基本的には夷狄に対処する乱だけになるだろう。
 例外は、第一に、天下統一のための乱、と、いたずらに乱を好んだり、賢でなかったりする、王を交代させるための乱、だ。
 ちなみに、賢とは、生活必需品である食物や衣類の増産を旨とし、音楽や美術や珍味や大建造物を排斥することだ。」(コラム#1640)

⇒墨家の思想は、王(皇帝)による独裁、軍事軽視、人間野生動物視、で特徴づけられる。
 皇帝独裁は凡庸な皇帝の出現が不可避であるが故に悪政の出現を必然たらしめ、軍事軽視は社会発展の基盤を掘り崩し、人間野生動物視は群れによる被治者統治であるところの一族郎党に依拠した緩治をもたらした、と、私は考えている。
 ちなみに、「司馬遷は、『史記』において、老子韓非列伝として老子と韓非<(注66)>を同じ伝に立てる。

 (注66)「韓非は、商鞅・・・の「法」・申不害・・・の「術」・慎到・・・(しんとう)の「勢」といった先人の思想を体系化し、法家思想を完成させた。」
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/kanpishi.pdf 
 慎到(しんとう。?~?年)は、「趙の出身で、のち田斉の稷下に遊び、黄老道徳の術を学び、・・・道家と法家との折衷的な思想を唱えたとされ<る。>・・・
 儒家の説く忠臣や有徳者〈<の>賢・智といった個人的な才能〉による政治を否定して、〈勢・法といった客観的統治手段である君主の権勢や地位に依存すべきだというもの〉・・・であった。一方で、民に自発的行動能力があることを認め、為政者はことさらな作為を施さなくても自動的に世界が統治されていくという社会体制を理想とする。・・・
 ここから、慎到の思想は、道家的特色があると評されることもある。・・・
 慎到の思想は、商鞅の思想や申不害の思想とともに韓非へ継承された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%8E%E5%88%B0
https://kotobank.jp/word/%E6%85%8E%E5%88%B0-82301 (〈〉内)

 そして、その中に、荘子[道家]・申不害<(注67)>[法家]の伝記を附す。

 (注67)しんふがい(?~BC337年)。「申不害は身分は低かったがその才能を見込まれて師匠に推挙され、<韓の>昭侯に拝謁した。昭侯は弱国である韓をよく治めるための方法を問うた。すると申不害は「君たるものよく為さじ、よく知らず」と答えた。
 法を整備し公平な論功行賞を行えば国は自然に治まると説いたのである。こうして、昭侯は申不害を宰相にした。
 韓は戦国七雄のうち最弱国で、常に隣国の魏と秦に怯えていた。だが、申不害が宰相の間は国勢は安定し、領土も少しずつ拡張した。
 申不害の法律至上主義の考え方は韓非に継承された。その思想は始皇帝によって国政に用いられ・・・た。・・・
 彼の思想には黄老思想の影響があったとされており、[言説と実功との一致を求める臣下統御の術<である>・・・刑名学<、及び、>]君主が自身の権力意志を知られないように”無為”の姿勢で独裁を行う”術”[(法術)]を説いたとされる。それは後に韓非の法家思想に影響を与えたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E4%B8%8D%E5%AE%B3
https://kotobank.jp/word/%E5%88%91%E5%90%8D-489290 ([]内)

 道家と法家とは、伝を同じくすべき同系統の思想と把握されていたのである。
 司馬遷は、韓非の学問について、「刑名・法術の学を好んだが、そもそもの根本は黄老思想に帰一する」と総括している。」

⇒申不害や韓非子もまた、韓という、百越(越族)と華夏民族との境界地域の諸国・・広義の楚・・、の人間として、韓の最大の「敵国」たる秦を念頭におきつつ、戦国時代にふさわしい、しかし楚的な思想を確立しようとした結果が法家の思想だった、と、総括すればよさそう<だ>。(太田)

 司馬遷の生きた前漢の武帝期には、法家と道家を折衷した黄老思想が、いまだ国家の中心的な思想であった。
  その一方で、儒家の台頭も、この時期には始まっている。
 黄老思想は、前漢初期の現実を強く反映したものであった。
 その現実は、匈奴の脅威と諸侯王の存在による皇帝権力の未確立とまとめられる。
 秦の滅亡後、楚漢の争っている間、かつて秦の蒙恬に討たれ、オルドス・・・から駆逐されていた匈奴は、勢力を盛り返していた。
 また、郡国制下の諸侯王は、強大な権力を持ち、漢帝国は、唯一無二の公権力ではなく、数多の諸侯国の中で最大のものに過ぎなかった。
 こうした前漢初期の現実が、他者と争わず、ありのままの現実を受け入れる黄老思想を為政者に受容させた。
 「黄帝四経」には、道家の見地から法家の政治を基礎づける道家・法家の折衷思想が記され、文帝が好んだ、無為でありながら法律も尊重する政治を正統化する。
 黄老思想により前漢は、戦乱による人々の疲弊や強力な諸侯王と匈奴の存在という、急激な改革を回避すべき状況を「無為」として正統化し、国力の回復に努めたのである。
 黄老思想は、疲弊した前漢初期の国家と社会に休息をもたらす有益な思想なのであった。」・・・

⇒同感<だ>。(太田)」(コラム#13788)

二 墨家の思想と始皇帝

 この墨家の思想をホンネのイデオロギーとして、秦の始皇帝は支那の天下統一を果たした、というのが吉永慎二郎秋田大名誉教授の説である(コラム#1640)ところ、秦帝国を打倒した漢がそれを継承し、爾後の支那の諸王朝も、基本的に承継を続けることとなった、と、私は考えている。
 「『呂氏春秋』に「孔墨之後学、顕栄於天下者衆突。不可勝数。」(仲春紀、当染)とあり、『韓非子』に「世之顕学、儒墨也。」(顕学)とあ・・・<る>ように、墨家は先秦の思想界における一大勢力であった。」(「墨家の孝説について–儒家による批判を中心に–」より)
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61058/cks_034_021.pdf
<という>「事実」・・・を踏まえれば、・・・秦王政(始皇帝)・・・が、『呂氏春秋』の該当箇所を読んだ可能性は大だし、「始皇帝を感激させた・・・韓非子<の篇>は「孤憤篇」「五蠹篇」の二篇である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E9%9D%9E%E5%AD%90
らしいとはいえ、「顕学篇」だって読んだ可能性はあり、いずれにせよ、そういった墨家への諸言及に促されて、『墨子』を直接読んだ可能性すら大いにある、と、私は想像<している次第だ>。・・・
 <『始皇帝 天下統一』>の中では、まるで、日本の戦国時代末を扱ったNHK大河ドラマ同様、戦乱の時代を終わらせ平和を確立するためには天下を統一しなければならない、的な発言が秦王政(始皇帝)らによって繰り返しなされる。
 これは、少なくとも、中共当局が、戦国時代末の代々の秦王の最大の行動原理は墨家の思想である、と見ていることを示<すものだ>。」(コラム#13982)

 「私は、墨子(墨翟)は楚人であると見ている(コラム#13780)ところ、<仮にそうだとすれば、>・・・始皇帝は、楚発祥の思想の下に行動したことにな<る>。」(コラム#13984)


[韓非子]

 「<韓非は、>人民は支配と搾取の対象であり,君主に奉仕すべきものとされる。〈君主と人民の利害は相反する〉として,この観点から,厳格な法で人民を規制すべきを説くが,そのいわゆる法治主義は,法と術と勢の三者を強調する。君主たる者は臣下を統御しうる勢を利用し,客観的な法と,胸中にかくす術とを兼ね用いれば,臣下を自由自在に操縦することができる。その際には,賞と罰の二柄(にへい)が有効な要具となる。
 [要するに君主と臣下の関係は、信頼関係ではなく利害関係において成立すると考えたのである。「形(実質=職分)」と「名(名目=職名)」を一致させ、一致しない場合は処罰する・・<すなわち、>官職を越えれば死罪になり、その通りにできなければ処罰される。その職分の範囲を守り、言うことが業績と一致して正しければ、臣下は仲間を作り一緒になって悪だくみをすることができない・・という、いわゆる「形名参同(けいめいさんどう)」の思想は、君主が「法」を冷厳に適用し支配を確立するためには必要な考え方であったと言えるだろう。]
 その法治主義は法の権威を確保するために,いっさいの批判を封ずる。現在の法を批判する者は,多くの場合先王の法をもちきたって,両者を対置して論評する。韓非にとってまず抹殺さるべきは先王の法であった。<すなわち、韓非は、>先王主義を否定<し、後王主義を唱える>。
 法治の妨害者として五蠹<(ごと)>をあげ,その撲滅をはかる。蠹は木を食う虫で,五蠹は,五種の社会を害する者の意。その
第1は,学者-道徳を唱えて法を批判し,無用の弁説をもてあそぶ。
第2は,言談者-デリケートな国際関係を利用して,詭弁を弄し君主をまどわす。
第3は,俠客-私の節義のために法禁を犯し,然諾を重んじて死を軽んずる。
第4は,君主の側近。
第5は,商工業者。保護育成すべきものとして,軍人と農民をあげる。それは国力の増強に直接寄与し,知能が低く単純なので,権威に弱く御しやすい。つまり,知的な面での愚民と経済の面での弱民とは,君主の支配が容易なので,国家主義の歓迎するところである,という。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9F%93%E9%9D%9E%E5%AD%90-49522

⇒焚書坑儒につながる部分はさておくとして、商工業の抑制と軍人/農民愚民化の提唱は韓非の恥部と言うべき<だろう>。

 天下統一過程と統一後に、李斯が手掛けた諸事業は、そのほとんどが<、>・・・土木事業<を除き、>・・・韓非が掲げた政策の実施と言えそう<だ・・・>。(太田)」(コラム#13994)

 「荀子は、性悪なる人間がどうして教育に従うのか、教育を行う側の人間の善はどこから来たのか、などの点を明確にしなかったため、後世に「性悪説の矛盾」として批判や諸解釈を生むことになった。
 性善説と性悪説には共通点もあった。例えば、どちらも「教育の重要性」を結論とすること、「善人も悪人も性は皆同じ」とすること、などが挙げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC%E3%81%A8%E6%80%A7%E6%82%AA%E8%AA%AC

⇒荀子は、趙という、(私の言う)普通人の中枢のような地域、に生まれ、同じ中原の斉で名声を確立し、その後、江南の楚という、弥生的縄文人の地域で生きた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90 前掲
わけだが、その生涯にわたって生粋の縄文人(人間主義者)はほぼ目にしていない筈であり、況や、当時の日本列島にほぼ全員が縄文人からなる社会群が存在していることなど全く知らなかったのだから、この荀子にとっては、人間は、非仁者、すなわち、性悪の者、が大部分だった、ということではなかろうか。(太田)

 「荀子の描いた国家体制は、まず彼の弟子である李斯が秦帝国の皇帝を頂点とする官僚制度として実現し、続く漢帝国以降の<支那>歴代王朝では官僚が儒学を学んで修身する統治者倫理が加わって、後世の歴代王朝の国家体制として実現することとなった。・・・
 治政にあたって実力主義や成果主義の有効性を説いている。・・・王公・士大夫の子孫といえども礼儀にはげむことができなければ庶民に落し、庶民の子孫といえども文芸学問を積んで身の行いを正して礼儀にはげむならば卿・士大夫にまで昇進させるべきことを説く。・・・
 ・・・人間の性を「悪」すなわち利己的存在と認め、君子は本性を「偽」すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい、統治者となるべきことを勧めた。この性悪説の立場から、孟子の性善説を荀子は批判した。
 富国篇で、荀子は人間の「性」(本性)は限度のない欲望だという前提から、各人が社会の秩序なしに無限の欲望を満たそうとすれば、奪い合い・殺し合いが生じて社会は混乱して窮乏する、と考えた。それゆえに人間はあえて君主の権力に服従してその規範(=「礼」)に従うことによって生命を安全として窮乏から脱出した、と説いた。このような思想は、社会契約説の一種であるとも評価される 、 荀子は規範(=「礼」)の起源を社会の安全と経済的繁栄のために制定されたところに見出し、高貴な者と一般人民との身分的・経済的差別は、人間の欲望実現の力に差別を設け欲望が衝突することを防止して、欲しい物資と嫌がる労役が身分に応じて各人に相応に配分されるために必要な制度である、と正当化する。そのために非楽(音楽の排斥)・節葬(葬儀の簡略化)・節用(生活の倹約)を主張して君主は自ら働くことを主張する墨家を、倹約を強制することは人間の本性に反し、なおかつ上下の身分差別をなくすことは欲望の衝突を招き、結果社会に混乱をもたらすだけであると批判した。
 荀子の実力主義による昇進降格と身分による経済格差の正当化は、メリトクラシーとして表裏一体である。・・・

⇒繰り返すが、現実問題として、当時の中原の住民の大部分は普通人(性悪人)だった。
 だから、礼の遵守なる外形から仁へと導こうとした荀子は、孔子を誤解が生じない形で祖述しているだけだ、と見ればよいのではないか。(太田) 

 「天」を自然現象であるとして、従来の天人相関思想(「天」が人間の行為に感応して禍福を降すという思想)を否定した。
 「流星も日食も、珍しいだけの自然現象であり、為政者の行動とは無関係だし、吉兆や凶兆などではない。これらを訝るのはよろしいが、畏れるのはよくない」。
 「天とは自然現象である。これを崇めて供物を捧げるよりは、研究してこれを利用するほうが良い」。
 また祈祷等の超常的効果も否定している。
 「雨乞いの儀式をしたら雨が降った。これは別に何ということもない。雨乞いをせずに雨が降るのと同じである」。
 「為政者は、占いの儀式をして重要な決定をする。これは別に占いを信じているからではない。無知な民を信じさせるために占いを利用しているだけのことである」。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90 (前掲)

⇒「「論語―述而<じゅつじ)」の一節<に、>「子は怪力乱神を語らず(孔子は、怪しげなこと、力をたのむこと、世を乱すようなこと、鬼神に関することについては語ろうとはしない)」とあ<る>」
https://kotobank.jp/word/%E6%80%AA%E5%8A%9B%E4%B9%B1%E7%A5%9E%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%89%E3%81%9A-2236558
ところ、荀子は、この孔子の考えを敷衍した結果として、天神相関説や祈祷等を否定したほか、孟子と子思の「五行説」に対しても非難した、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC%E3%81%A8%E6%80%A7%E6%82%AA%E8%AA%AC 
と見ればよいのであって、(孔子もそうだったと言ってよいと思うが、)彼は、2000何百年も前の時点で、既にほぼ近代人であった、と、評してよかろう。
 (なお、コラム#13990も参照のこと。そこでの私の孟子評価は高過ぎた。)(太田)

  ウ 孔子が眉を顰めるであろう部分

 但し、荀子にも、表記がないわけではない。
 一つ目は、「商」を貶めたことだ。↓

 「儒者は今も昔も「富貴功名(財産や功名)」のことをとにかく卑しくて悪いものと解釈するが、本来論語における孔子の発言を正しく読めば、「道理を有た富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならば、あえて差し支えない」「正当の道を踏んで得らるるならば、執鞭の士となっても宜いから富を積め、しかしながら不正当の手段を取るくらいなら、むしろ貧賤におれ」と言っておる。・・・
 「富と貴きとはこれ人の欲する所なり。その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり。貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり。その道をもってせずして、これを得れば去らざるなり」
 「富にして求むべくんば、執鞭の士といえども、吾(われ)またこれをなさん。如し求むべからずんば、吾が好む所に従わん」」[(述而第七の十一)]
https://okwave.jp/qa/q8937531.html ([]内)

⇒孔子は、利鞘稼ぎを旨とする「商」を決して貶めてなどいない、と、解すべきだろう。(太田)

 「士農工商とは<支那>の春秋戦国時代(諸子百家)における「民」の分類で、例えば『管子』匡君小匡には「士農工商四民者、国之石民也」と記されている。士とは周代から春秋期頃にかけてまでは都市国家社会の支配階層である族長・貴族階層を指していたが、やがて領域国家の成長に伴う都市国家秩序の解体とともに、新たな領域国家の統治に与る知識人や官吏などを指すように意味が変質した。この「士」階層に加えて農業・工業・商業の各職業を並べて「民全体」を意味する四字熟語になっていった。四民の順序は必ずしも一定せず、『荀子』では「農士工商」<(注68)>、『春秋穀梁伝』<(注69)>では「士商農工」の順に並べている。」

 (注68)「荀子は農業こそは国家の富の生産の最も重要なもので<あるとした。>」
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/c16a420f060d592820a62afbbfa2a617492a80d7
 (注69)「『穀梁伝』は前漢の始めにいたとされる江公以来、細々と継承されるのみであった。しかし<、>[前漢の第10代皇帝<で>武帝の曾孫<である>]宣帝はその『穀梁伝』に対する執着から、時の伝承者蔡千秋に命じて、郎官十人に『穀梁伝』を伝授させ、『穀梁伝』の盛行を図った。これと前後して劉向などの著名な学者も『穀梁伝』を修めた。こうした後、宣帝は公羊学と穀梁学との異同と優劣を定めるべく、石渠閣(図書館のこと)にて学者に議論させた。そこでは公羊学と穀梁学の優劣が多くの学者によって戦わされたが、宣帝の趣向も影響して、穀梁学が勝利を収めた。しかしこれが『穀梁伝』の最盛期で、以後は書物こそ失われなかったものの、衰微の一途をたどり、南北朝の時代には書物のみ存在し、伝の思想を伝える師は絶えていなかったと言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E7%A9%80%E6%A2%81%E4%BC%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2) ([]内)

 なお、<支那>では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」が重視されてきた。商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると考えたのである。これを理論化したのが、孔子の儒教である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86

⇒「これを理論化したの」は「孔子」ではなく「儒教」だ。
 荀子が、「農」を「士」の前に持ってきたのは、「農」の重要性を強調するためだったであろうところ、これが孔子の考えであるとは思えない上、「商」を最後に置いたのは、間違いなく孔子の考えに背馳するのではないか。
 私は、本件に関しては、『春秋穀梁伝』・・「儒学の正統思想としては最も穏当な解釈とみなされ、思想的特徴が見つけにくい」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E7%A9%80%E6%A2%81%E4%BC%9D 前掲
が、孔子の考え、というか、孔子のホンネの考え、に合致しているのではないかと思う。(太田)

 二つ目は、軍事に疎かったことだ。↓

 「荀子<は、>・・・「孫・呉<(注70)>も・・・『孫子』・・・を用いて,天下に敵無し」と記している>(『荀子』議兵篇)
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090916/337292/

 (注70)孫・呉は、それぞれ、「<支那>戦国時代の斉の武将、思想家<で>兵家の代表的人物の一人<で『孫子』の著者の>孫武の子孫であるとされ<る>・・・孫臏<(そんぴん。BC4世紀頃)>、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E8%87%8F
と、同じ「<支那>戦国時代の・・・魯・・・魏・・・楚・・・の軍人、政治家、軍事思想家<の>・・・呉起<(ごき。BC440~BC381年)>、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%B5%B7
を指している。

と兵家達にリップサービスした上ではあるけれど、「兵は詭道」とする・・・孫子・・・を否定して、「王者の兵」の優越を主張し<、>王者の兵は、「禮」による統治で実現する。国家が王者の禮により治められているか否かにこそ、兵の強さの根本がある、としたのである。」
https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2024/02/342-334_Yoshihiro-WATANABE.pdf 前掲

⇒「兵は詭道」までは孔子と同じだが、その後がムチャクチャだ。
 これでは荀子が単に自分が軍事について無知であることをごまかしただけだと批判されてもやむを得ないのであって、荀子自身、ホンネでもそう信じていたのかどうかは知らないが、少なくとも、彼が軍事について献策したり、軍事に係ることで諮問を受けたり、いわんや、軍事指揮を執ったり、した事績は皆無であるところ、それは当然だろう。(太田)

  エ 爾後の支那における荀子評価

 「荀子の弟子としては、韓非・李斯・・・などが記録に現れる。・・・
 韓非・李斯は、外的規範である「礼」の思想をさらに進めて「法」による人間の制御を説き、韓非は法家思想の大成者となり、李斯は法家の実務の完成者となった。ただし、「法家思想」そのものは荀子や韓非の生まれる前から存在しており、荀子の思想から法家思想が誕生した、というのは誤りである。・・・
 『詩経』『書経』『春秋』の三学のごときは荀子の伝承に出たものである、荀子の名声は、漢代の儒者において大きかった。・・・
 <ところが、>唐代の韓愈は『原道』で儒学復興を提唱したが、・・・荀子・・・は、・・・聖人の道を選んで正しく伝えることができなかったと評したのであった。
 この韓愈の評価が、後の宋代儒学の道統の標準となり、孟子の後に現れた荀子は排斥される道を辿った。・・・
 朱子学においては、荀子は四書の一である『中庸』『孟子』を書いた子思・孟子を批判し、孟子の性善説を否定して性悪説を説く異端として、遠ざけられてしまった。・・・
 江戸時代、荀子に一定の評価を与えたのは、荻生徂徠で、徂徠は「荀子は子・孟(子思と孟子)の忠臣なり」と言い、彼の言うところによれば荀子は子思や孟子の理論的過ちを正した忠臣といえる存在であり、荀子のほうが孔子が伝えようとした先王の道(子思・孟子の言う儒家者流の倫理ではなく、先王が制定した礼楽刑政の統治制度)をよく叙述していた。徂徠は『読荀子』で『荀子』の初期注釈を行った。・・・
 毛沢東による批林批孔運動での「儒法闘争」<(注71)>でも再評価の対象であった。<(注72)>

 (注71)批林批孔運動の際には、「「儒法闘争」と呼ばれる歴史観に基づいて<支那>の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた(以下には竹内実『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる)。
善人<:>少正卯、呉起、商鞅、韓非、荀況、李斯、秦の始皇帝、前漢の高祖・文帝・景帝、曹操、諸葛亮、武則天、王安石、李贄(李卓吾)、毛沢東ら。
悪人<:>孔子、孟子、司馬光、朱熹ら。」(上掲)
 しかも、「荀子<は、>・・・毛沢東による批林批孔運動での「儒法闘争」でも<、韓非、李斯の師であることから?(太田)・・>再評価の対象であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90
というのだから、ここでの孔子は、秦による天下統一以降、歪められてしまった孔子の思想の主として仮託された孔子であって、歴史上(本当)の孔子ではなかった、と、言えよう。
 (注72)「2013年12月26日の「半月談」(中共中央宣伝部委託新華社主宰の隔月版雑誌)は、「毛沢東の尋常でない読書量に関しては今さら言うまでもないが」と断った上で、毛沢東がことのほか、荀子に深い興味を持っていたことを紹介している。」
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/c16a420f060d592820a62afbbfa2a617492a80d7 前掲

 特に習近平は荀子に深く傾倒している<(注73)>と<さ」>、文化大革命で陝西省に下放された際に全巻を読破したとも言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90 前掲

 (注73)当然、習は『孫子』も熟読したはずだ。
 その習は、「中央党校校長時代は「幹部は歴史を学べ。世界四大文明の中で中華文明だけが中断せずに今日まで続いている」と述べた。後年にエジプト・イラク・インドなどを集めた「世界古代文明フォーラム」の共同設立を唱える習の歴史観や思想戦略が既に形成されていたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3

 なお、「孔子学院プロジェクトは2004年に開始され、同年11月大韓民国ソウル市に初めての海外学院が設置された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2
ところ、2004年は同年9月19日まで、党軍事委主席だったのは江沢民
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%B2%A2%E6%B0%91
なので、このプロジェクトは江沢民が推進した、ということになるが、孔子学院は、その活動内容を英国のBritish CouncilやドイツのGoethe-InstitutやイタリアのSocietà Dante AlighieriやスペインのInstituto Cervantes、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%88
その名称はGoethe、Dante Alighieri、Cervantes、に倣ったもの・・Goetheは誰でも知っているドイツの文人、孔子もまた誰でもしっている支那の文人・・と思われる。
 但し、これらの機関と孔子学院との違いもあり、その点が問題になっていること
https://www.sanseito.jp/translation/8546/
ところだ。
 (ちなみに、American Centerは、当該国の言語・・米語・・の講座を提供していないという点で、これらの機関及び孔子学院とも違っている部分がある。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411647089 )

 <なお、習が>最も引用しているの<は>その弟子の韓非であり、社会信用システムのような習近平の徹底したメリトクラシー的な統治方法は法家に喩えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90

「毛沢東は,代表的著作『矛盾論』や『持久戦論』を書くに当たって『孫子』を下敷きにしている。」
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090916/337292/

 (4)儒教

  ア 孔子の考えの矮小化による原初的儒教の成立

 「『史記』秦始皇本紀によると、始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって体制を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて、医薬・卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定した。・・・
 <これは、>李斯の独創ではなく、戦国末期には法家によって提案されていた政策だった。・・・
 李斯は秦の史家によるものを除いたすべての史書も燃やすべきであると<した。>・・・
 翌紀元前212年、盧生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝は独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺した(坑儒)。ただし、その後も秦に仕えた儒者はおり、陳勝・呉広の乱が起きた際に二世皇帝胡亥が儒者の叔孫通に諮問している。
 紀元前206年、漢の高祖劉邦が秦を滅ぼしたが、依然として挟書律は現行法であり、その後恵帝4年(紀元前191年)11月になってようやく廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%9A%E6%9B%B8%E5%9D%91%E5%84%92

⇒ここから遡って、孔子の死後、儒教が成立し、それは、邑制国家理想視、反法治国家、等の、孔子の考えを矮小化した属性を持つイデオロギーであったことが分かる。
 この他、銘記すべきことは次の通りだ。↓
 第一に「遅くとも戦国前期(前403~前343年)には、儒家の中に『易』を経典視する思考が<出現>していた<ことが>確実であ<り、>・・・徳義を重んじる孔子が筮占のマニュアル本に過ぎない『易』に傾倒する<のは>矛盾<であるにもかかわらず、>・・・『易』と孔子を結び付ける営為が戦国期から着々とすすめられてきた<ことだ。>」(近藤浩之・西信康「〔学界時評〕先秦~秦漢代」(2013年6月)より)
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/58716/cks_056_002.pdf
 『論語』述而篇で孔子が、「『易』の文句・・・を引き、それに論評を加えている」(上掲)のも、「『易』の経典化を推し進めていた学派<が、>反対勢力の批判を封じるために・・・孔子の口を借りて批判に反論<させ>た<ものと見るべきであり、実際、>・・・『易』は・・・『荀子』もまだ全然経典と認めるには至っていない<以上、>『易』の儒教化が本格的に進行するのは、『荀子』以後の戦国末期~前漢初期と考えるべきであるし、また『易』を五経あるいは六経の中に含める文献が世に現れるのはその後のこと<だ。>」(上掲)
 なお、*には、例えば、BC[55年に亡くなった漢王室の墳墓から出土した『論語』の述而篇に『易』は出てこない(上掲)。
 第二に、荀子の頃までに儒者が天人相関説(後出)にかぶれ始めていたことだ。
 すなわち、孔子の考えの矮小化の一環として、戦国末期から前漢初期にかけて、こういう形で、孔子の考えの迷信化の基盤が構築されていき、原初的な儒教が成立した、と、見ることができよう。(太田)

  イ 秦始皇帝による原初的儒教の弾圧等※※※

 始皇帝は、墨家の思想に基づき、義の統一を行うべく焚書坑儒を断行して原初的儒教の弾圧を行なうと共に、中央集権化を行うべく郡県制を全国に広め、また、平和主義を追求すべく諸国の武器を集めて鎔かすとともに勢力を強めつつあった北方及び北西の遊牧民に対して攻勢策をとることなく万里長城建造を含む防勢策をとった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
 すなわち、半江南人であった始皇帝(注74)は天下統一後、軍事軽視政策を採った(注75)のであり、この秦に取って代わった江南人王朝の漢の時代において、この政策は当然視されることになる。

 (注74)始皇帝に至る秦王室の家系図は以下の通りだが、このうち、宣太后と(始皇帝の養祖母の)華陽太后が楚の公女だ。(コラム#13956参照)

                夏姫-|

 恵文王-| |-荘襄王-秦王政(始皇帝)
|-昭襄王-孝文王-|  ↓
 宣太后-| |=
華陽太后-|

 ↑「<ちなみに、>昌平君(BC271~BC223年)<は、>・・・昭襄王36年(紀元前271年)、前年に春申君と共に人質として秦に入っていた楚の太子完(後の考烈王)と昭襄王の娘の間に生まれた。・・・
 楚滅亡後、(楚の公女の華陽太后に秦で養育された)昌平君を楚王に擁立した項燕(?~BC223年)は、「項羽・・・の祖父にして、、項梁・項伯の父」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%87%95
であり、この項羽を養育したのが、項羽の叔父の項梁であり、項羽は、同じく項梁傘下で同じく楚出身の劉邦と競い合いつつ秦帝国を滅ぼすわけ<だ>が、項羽と劉邦が敵対後一時的に和解したところの、鴻門の会のおぜん立てをしたのは項羽のもう一人の叔父の項伯<だ>。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BD
 こういったことから、漢が春秋戦国時代の終焉をもたらしたことは、楚が最終的に秦に勝利したことをも意味する、と、私は考えるに至っているわけ<だ>。」(コラム#13960)
 (注75)そんな始皇帝が天下統一することができたのは、恵文王の時にその基盤が概成していたおかげなのだが、どうして概成できたかについては、「秦の強味は、楚や呉越両国と同様、その中心部が中原から離れた場所にあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Chunqiu_map-zh-classical.png
ことから、中原諸国からの脅威に対抗しやすかった上に、楚や呉越両国とは違って、・・・・関中にあって西方は狄戎、北方は北狄の匈奴、東方は黄河文明の中原諸国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F
<、南方は>長江文明に起源を持つ楚、という多様な、従って、兵器も戦術も多様な軍事力に対抗する必要<(コラム#13972)>が、・・・あって、常に軍が一本化され臨戦態勢に置かれることになり、かつ、<当然のことながら、>戎狄がもたらす最新の装備や戦術を導入せざるをえなかった結果、精強な軍を維持し続けることとなった点にあったと考えられる。」(コラム#13966)
 「かかる背景の下、秦は、白起や王翦といった名将を輩出したわけだ。」(コラム#13972)
 「孫臏や・・・呉起のような軍師・・もっとも呉起はその枠を超えているが・・を秦に招聘する動きが全くなかったのは、・・・秦のように軍が精強で量的にも不足がなければ、基本的に、正攻法を採れば足りるのであって、軍師など不要だ<った>からだ。」(コラム#13968)
 「<なお、始皇帝が滅ぼすまで、秦の強力なライバルであった>趙もまた、秦同様、四周を敵ないし潜在敵に囲まれていた大国であり、しかも、東と南は中原諸国、西は秦、北は匈奴、という多様な勢力であり、秦同様、精強な軍を擁せざるをえなかった、と言えるのであって、廉頗や李牧といった名将の輩出はかかる環境の産物だったと考えられる。」(コラム#13978)

 また、「五徳終始説とよばれる・・・戦国時代の斉の陰陽家・・・鄒衍の五行説では,一代の帝王は五行のどれかひとつの徳をそなえ,王朝は五徳の順序にしたがって交代すると説かれ<、>・・・五行は火→水→土→木→金の順序のもとに,それぞれ前者にうちかちつつあらわれると考えられ,相克説(または相勝説)とよばれたが,その後,五行が木→火→土→金→水の順序のもとにつぎつぎに生成すると考える相生説が生まれた<ところ、>・・・この説は、後漢以後に盛行した<儒者達が捏造したところの(太田)>『緯書(いしょ)』にも用いられ、感生帝説や災異説、瑞祥説などとも関連づけられて、火徳を有する漢王朝の正統性や神権性を主張する根拠となった」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%BE%B3%E7%B5%82%E5%A7%8B%E8%AA%AC-1319328
のだが、これが、孔子の思想の儒教化・・形而上学化/宗教化・・をもたらすきっかけになったところ、その原因を作ったのは、(本人はホンネではそんなものを信じてなどいなかったと私が見ているところの)始皇帝だったわけだ。
 すなわち、「始皇帝は・・・この<五徳終始>説を取り入れ<、>・・・周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を持って栄えたと考えられ<、>続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた<が、>この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)に・・・黒色<を>用い・・・た。<(>史記の伝説では秦の始祖、大費(柏翳)が・・・舜に黒色の旗を貰った、と有る。<)>・・・
 <そして、>自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え、・・・封禅・・・を遂行した。・・・
 <この>儀<は、>・・・かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる。・・・
 しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を敢行した。・・・泰山<の>・・・頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、隣の梁父山で「禅」の儀式を終えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
 これについては、「始皇帝が信じていたのはあくまでも墨家の思想であり、鄒衍の思想は広報宣伝用のイデオロギーとして用いたにとどまる、というのが私見だ。・・・但し、始皇帝が「用いた」ことは事実であり、そのことが<先例になって、>支那のその後の歴史に負の影響を及ぼすことになった、と、思う。」と書いたコラム(コラム#13988)を読み返して欲しい。
 (また、「始皇帝は泰山で自らの不老不死を祈る儀式も行った<。>・・・
 <これは、>始皇帝が<楚出身と目される老子、及び、楚の北隣国の宋出身とされる荘子、の思想に淵源を持つ>神仙思想<・・後の道教(太田)・・>に染まりつつあったことを示し<ているところ、>・・・斉の出身である・・・方士<の>・・・徐巿は、東の海に伝説の蓬萊山など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人の安期生を伴って帰還するための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、<支那>一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した。第2回巡遊でも瑯琊を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐巿の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた。言い逃れも限界に達した徐巿も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されると恐れた一行は逃亡した。伝説では、日本にたどり着き、そこに定住したともいう。・・・」(上掲)
 この迷信信仰的な愚行によって、始皇帝は、上から神仙思想を支那に広げ、普及させてしまい、そのことが、後漢時代における、迷信宗教である道教の生誕をもたらした、と言えよう。) 


[邑社会・個別人身的支配社会から一族郎党社会へ]

一 歯位・爵制の廃止

 「春秋時代までの邑(村落)は基本的に同一氏族が共同生活を営む場であった。その内部での秩序としてあるのは歯位(年齢)による秩序である。この伝統的な秩序は父老と呼ばれる纏め役とそれに従う子弟と呼ばれる者たちがある。これらの秩序は邑の中心に作られる社にて執り行われる宴会によって保たれる。この時代の宴会は席次や料理の分配などに綿密に気を配る必要があり、それにより秩序を保っていたのである。陳平が幹事役を務めて名を上げたという宴会もまたこのような意味を持ったものであった。これが戦国時代ごろより邑の中に別の氏族が混在するようになり、歯位の秩序は次第にその力を失い始めていた。また情勢の変化により新しい邑も多数誕生しており、この中には当然旧来の歯位の秩序は存在しなかった。これに対して爵制<(注76)>による秩序は、数年毎に一律に賜爵が行われるのであるから自然年齢の高い者ほど爵も高い傾向にある。

 (注76)「秦・漢代に行われていた爵制。・・・
 爵を得ることで得られる特権として、封邑(領地)<(民爵の場合は田宅支給)>・<特別な時のみ行われる>免役・罪の減免などが挙げられる。・・・
 この爵制に含まれる爵位は以下の二十等である。・・・このうち8位の公乗が庶民および下級の吏に与えられる上限であり、ここまでを民爵・吏爵という。9位の五大夫以上は官秩六百石以上の官にならないと与えられず、これを官爵という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E7%AD%89%E7%88%B5

 つまり爵制の秩序は歯位の秩序と対立するものではなく、力を失いつつあった歯位の秩序を補完・補強するものであった。・・・歯位と爵制の秩序の最も大きな違いは皇帝がその秩序の中に含まれるということである。歯位の秩序はその邑内部にて完結しており、外部との関係性は無い。爵制の秩序は爵を発する皇帝と爵を受け取る民とがそれぞれ一対一で結びついており、邑の内部秩序を内包する形で皇帝を頂点とした国家的秩序が形成され<た>のである。」(コラム#13794) 
 「このように皇帝が民一人一人(個別)を把握して(人身)、支配しようとする構造を個別人身的支配と呼ぶ。・・・
 だが、・・・爵の持つ特権は次第に形骸化していき、後漢末期の王粲の「爵論」(『芸文類聚』巻51所引)には、「民、爵なる者の何たるかを知らざるなり」と論じ、爵を授けられることを喜ばなくなり、爵を奪われることを懼れなくなったこととして、爵の授与や剥奪によるメリット・デメリットが失われた<。>」(上掲)

⇒要するに、華夏文明下で王による邑支配から個別人身的支配へと近代化していた支那は、漢人文明へ転換することによって、皇帝による一族郎党支配へと非近代化した、というわけだ。(太田)

 「「秦〜漢代に行われた課税<である>・・・算賦<(さんぷ)には、>・・・人頭税としての口算 (こうさん) と口銭,財産税としての貲算 (しさん) とがある。口算は・・・戸籍に基づいて,15~56歳の成年男女に対して毎年1算 (120銭) を,商人と奴婢には倍額を課したもので,国家財政に属した。口銭は3~14歳の男女に毎年 23銭を課し (<漢の>元帝の時代に7~14歳に改められた) ,帝室財政に属した。これに対して貲算は民に財産を申告させ,1万銭<(1000銭?)>に対して1算を課したもの。・・・またよう車,船,家畜に対しても貲算が課された。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AE%97%E8%B3%A6-71362
ということ・・・を踏まえれば、支那における税制は、マクロ的に見て、春秋戦国時代末とその延長線上の時代における、個人からの銭納、から、それ以降の時代における、・・・<例えば、>唐中期から明中期まで行われた・・・農業生産に対する土地税の「両税」<といった>・・・<豪族(下出)が取りまとめて行うところの>戸からの物納、へ、と、退化した、と、言えそうですね。(太田)」(コラム#14080)

二 豪族の出現

 「漢王朝<の初期においては、>・・・政権が<、>・・・階級・身分に格差の少ない構成員が・・・自治的に営んで秩序を維持した<ところの、>・・・地域社会<、>・・・の個別把握・・・していた・・・。
 ところが、すでにキリスト紀元開始の前後あたりの時期から、地域社会は一部の有力豪族が主導するようになってきた。
 豪族とは漢王朝が実現した平和を享受し、在地で勢力を伸ばした血縁地縁集団の謂(いい)である。

⇒「血縁地縁集団」、とはすなわち、私がかねてから言ってきたところの、「一族郎党」、<だ>。
 ちなみに、陳鳳・・・は、・・・「中国の人々の社会結合において、血縁集団・・宗族・・と地縁集団・・社・・はきわめて重要な意味をもつのは周知のとおりである。というのは、農村社会を統治するにあたって中国史上の各王朝政権は、行政組織を村に設置することはなく、旧中国農村社会の基層構造をなしたのは血縁集団と地縁集団だったからである。このような伝統的集団が、人々の社会関係を結びつける紐帯であり、村落を運営する上で力を発揮し、それが郷村自治に多大な影響を与えていた。」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2291/1/0140_010_005.pdf
としているところ<だ>。(太田)

 かれらは自らの私有地を拡げたばかりでなく、その地域一円に影響力を拡大しはじめ、必ずしも政権に従順ではなくなってきた。」

⇒私の仮説は、「農村社会を統治するにあたって<支那>史上の各王朝政権<が>、行政組織を村に設置すること<が>な<かった>」のは、軍事の等閑視に起因する退行現象であった、というもの<だ>。
 というのも、「秦帝国の領土管理の一つは、人民の移動を厳しく制限するために関津・亭・駅で民のパスポートや携帯品の記載書類を検査することである。」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiZ0L2I74mEAxUyi68BHWSaAjwQFnoECA4QAQ&url=https%3A%2F%2Fpetit.lib.yamaguchi-u.ac.jp%2F29272%2Ffiles%2F166636&usg=AOvVaw3FZrFQfAGN0EcDmcBulSV1&opi=89978449
から分かるように、秦帝国、ということは、その前身の秦、更には、多かれ少なかれ、戦国時代の主要諸国、においては、人民一人一人の中央政府による掌握がなされていた、つまりは、中央政府の統治が末端まで貫徹していた、と解すことができそうだから<だ>。(太田)」(コラム#14048)

三 一族郎党社会

 「<支那>人の生活を構成しているのは家族、郷党、ギルドという三つの様式であ<るところ>、・・・家族は血縁、郷党は地域、ギルドは目的により結成せられた団体であって、その区別は<本来は>明確である・・・が、<支那>には家族制度が根づき、郷党も宗族の延長したものに過ぎす、宗族との区別も判然としなかった<ことから、支那>の団体には、仮に目的を異にするものであっても、家族を祖形とし、郷党を本拠とするものがもともと多いとされる。たとえば、商工ギルドは、商工業の擁護を主たる目的とするが、多くの場合、同郷のみにより結成されているか、同郷団体の連合により組織されている。また、商工業者は世襲を強いられることもあるとはいえ、商業の分野では、「合股(ごうこ)」という一族や友人の合同出資によりある種の企業体が維持され、同業者が一定地域に聚居することによって、隣保互助の精神を実現していた。しかし、ギルドは血縁、地縁、両縁と微妙な関係にあるがゆえに、これらを単純な一つの目的とみなすことは困難である。かといって、国家による保護を求めることもなく、むしろ国家の圧迫を排して、成員の生活の安定を目指しているがゆえに、成員の全生活をその管理内に包容しようとするのが中国のギルドなのである。したがって、ギルドは中国人にとって社会生活を支える重要な様式というべきもの<なの>であ<る。>」(石井知章「根岸佶と中国ギルドの研究」より)
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=f1c4ee0c4951025aJmltdHM9MTcwODA0MTYwMCZpZ3VpZD0wNzllY2NiMy1iM2ZhLTZlM2MtMGYyYS1kODk1YjIxMDZmNjEmaW5zaWQ9NTI0Ng&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=079eccb3-b3fa-6e3c-0f2a-d895b2106f61&psq=%e3%82%ae%e3%83%ab%e3%83%89+%e4%b8%ad%e5%9b%bd&u=a1aHR0cHM6Ly9haWNoaXUucmVwby5uaWkuYWMuanAvcmVjb3JkLzkwMTQvZmlsZXMvMDclRTglQTglOTglRTUlQkYlQjUlRTUlQTAlQjEyM18lRTclOUYlQjMlRTQlQkElOTUlRTclOUYlQTUlRTclQUIlQTBfJUU2JUEwJUI5JUU1JUIyJUI4JUU0JUJEJUI2JUUzJTgxJUE4JUU0JUI4JUFEJUU1JTlCJUJEJUUzJTgyJUFFJUUzJTgzJUFCJUUzJTgzJTg5JUUzJTgxJUFFJUU3JUEwJTk0JUU3JUE5JUI2XzQ5LTYwLnBkZg&ntb=1
という<のが>、現在でも日本で通説であると想像されるところの、根岸佶説
https://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/002/002-negisi.pdf 」(コラム#14090)
であるところ、家族、郷党、ギルドが混然一体となっているのが私の言う一族郎党なのであって、このような一族郎党の集合体が一族郎党社会、すなわち漢人文明下の支那社会・・より厳密に言えば、支那の被治者社会・・なのだ。
 そして、「黄巣の乱が874年に山東で起こった・・・頃になると、支那社会は、江南を中心に、私の言うところの一族郎党、群の集合体社会になっていて、「政府」が統一されていようが割拠状態にあろうが、住民達は殆ど意に解さなくなっていた、というのが私の見方<だ>。
 一族郎党側は、「政府」に何も期待せず、そのこともあって、「政府」が課す税や役をできる限り逃れる算段をするだけ、というイメージ<だ>。」(コラム#14072)
 ちなみに、「私は、・・・一族郎党・・・の中で相互扶助と疑似公的サービスを享受する生き様のことを「一族郎党命主義」と呼ぶとともに、この「主義」が、日本や地理的意味での西欧以外の古今東西の世界の諸社会のいわばデフォルトである、と、考えるに至っている次第<だ>。
 ・・・最近、私は、かかる諸社会に生きる人々を「普通人」と命名したばかり<だ>。・・・」(コラム#14094)
 「私自身の経験や知識を踏まえて申し上げれば、・・・「複雑・・・狡猾・・・老獪」・・・<が>、支那人を含む、普通人一般の、自分が属する一族郎党以外の人々に対するところの、ごくありふれた普通の行動様式なの<だ>。

 それは、・・・国が扶助も公的サービスも碌に提供してくれない、リスクに満ち満ちた環境下で自分の利益を確保するためにとらざるを得ないところの、極めて合理的な行動様式なの<だ>。」(コラム#14096)

  ウ 前漢高祖による軍事軽視政策の確立

 漢の高祖の劉邦(BC247~BC195年。在位:BC202~BC195年)は、「紀元前200年、匈奴の冒頓単于を討つため、・・・北へ軍を動かした。しかし、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物がなく窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の妃に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。その後、劉邦と冒頓単于は匈奴を兄・漢を弟として<、漢の公主(皇帝の娘)を匈奴に妾として嫁がせると共に(コラム#13784)、>毎年貢物を送る条約を結び、以後は匈奴に対しては手出しをしないことにした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%82%A6
ところ、203年に項羽との戦いに勝利して天下再統一を果たしてからさして年月が経っておらず、圧倒的な兵力差があったはずなのに、匈奴に惨敗を喫したということは、楚出身者が中心であった漢の軍事力がいかに弱体であったかを示しているが、にもかかわらず、劉邦がその後、軍事力の強化を図ることなく、屈辱的条件で締結した匈奴との和約頼りの安全保障政策を維持したことが、漢の、従ってまた、それ以降の漢人諸歴代王朝の、基本的に軍事力を軽視した安全保障政策の堅持をもたらすことになった。


[軍事軽視政策の帰結]

一 序

 「漢において、漢人文明が、黄河文化と江南文化の統合によって成立して以来、その文明は、軍事(武力)の手抜きに立脚したものになり、爾後は、西欧勢力の東漸が始まるまでの間、この文明への外からの脅威は、軍事による対抗ではなく、侵攻、浸透の受忍とこの脅威の漢人文明化による無力化によって対処されるようになった・・・。
 つまり、<南北朝時代>の場合も、外からの脅威は、まず北朝地域で第一次的な漢人文明化により無力化され始め、次に南朝地域を併合すると第二次的な漢人文明化により無力化が完成する、と、とらえれば<よかろう>。(太田)」(コラム#14068)

二 弱体な軍事力

 例えば、「西晋は曹魏をそのまま乗っ取った形で成立したため、高い軍事力を持っていた。しかしこれは三国時代という戦時体制のために成立していたためであり、統一後は軍備は必要ないとして武帝は若干を例外として州郡に所属していた兵士を帰農させて平時体制に移行し、有事の場合には洛陽など要衝に展開する中央軍を派遣するという形をとった。これは後漢末期に地方における分権的な軍事状況を放置した結果、群雄割拠が成立した事を恐れての処置であったが、このために有事すなわち異民族の反乱が起こると地方は無力で対応できず、逆に永嘉の乱で西晋が滅亡する契機となった。(A-1)
 また八王の乱で東海王司馬越が自軍に鮮卑、成都王司馬穎が匈奴など、諸王が少数異民族を軍事力として利用したため、異民族が中国内地に流入する事になった。(A-2)・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B
というわけ<だ>が、私見では、A-1は、最初の黄河文化と江南文化の統一政権たる秦、及び、その後の諸王朝共通の軍事の弱体という問題であり、A-2はこの問題に安易に対処しようとしたことの結果としての問題であ・・・る、と言えるのではない<だろ>うか。(太田)」(コラム#14058)
 もう一例挙げよう。
「<南北朝時代の>西魏は、一般農民を兵にして農閑期に軍事訓練を行う府兵制<(注<77>)(コラム#10982)>を創設して、それが隋唐帝国へと継承される。・・・
⇒府兵制は、支那での初めてのまともな軍事制度であったと言えそう<だ>。
 但し、装備、食糧が自弁である点はいただけ<ない>。」(コラム#13850)
 三例目として、北宋を少し詳しく紹介しよう。
  「・・・宋<では、>・・・禁軍は・・・馬軍都指揮使、歩軍都指揮使、殿前都指揮使・・・<の>三衙(が)・・・<に分けられ、>・・・<この>三衙を統轄し禁軍全体を掌握する将軍は存在しなくなり、三衙をあわせ統率指揮する権限を持つものは、ただ皇帝のみという組織ができあがった・・・。

 (注77)「五代では殿前都点検という禁軍の総司令官がいて,これが天子に推される傾向にあったので,宋の太祖は禁軍の組織を改編し,それぞれに都指揮使などの官職を設け,権力を分散させたのである。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E8%A1%99-1326042

 しかも、おのおのの都指揮使には、地位の低い将校や凡庸の武将を任命して、太祖の意のままになる者を配備した。
 それだけでなく、これらの指揮使には所属の兵隊を指揮する権限つまり握兵権はあったが、出兵や交代といった、兵隊を動かす命令権は与えられなかった。
 その発兵権は枢密院<(注<78>)>が握っていた。

 (注78)「軍政の最高機関とされ、民政を管轄する中書省と並んで「二府」と称された。枢密院の主要職責としては用兵、辺境警備、軍令及び密令の発布、邦治の補助とされ、皇帝直轄の禁軍も枢密院の指揮下に置かれた。枢密院は宰相とともに朝政の中枢であり、ともに対等な関係に置かれ、枢密使は宰相や三省官同様に皇帝へ直接稟奏する権利を有していた。
 枢密院の長官は枢密使(知枢密院事とも)と、副長官は枢密副使(同知枢密院事とも)と称され、文官が任命された。その下に武官による都承旨及び副都承旨が設置された。またそれ以外には定員のない編修官が設置された。・・・
 後<に>は中書省との対立関係が生じるようになり、金の進出に対して主戦論を唱える中書省に対し、枢密院は講和論を主張し国論の統一に失敗、徽宗及び欽宗が金軍の捕虜となる事態(靖康の変)を招き宋軍は瓦解するに至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E5%AF%86%E9%99%A2_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)

 だから、枢密院を通して天子の命令を受けなければ、指揮使は兵を動かせなかったのである。
 一方、枢密院の方は発兵権は持っていても握兵の権限はないから、兵隊を実際に動かすことはできない。
 その両者を統轄するのは、やはり皇帝だけであり、皇帝の禁軍に対する権限はいちじるしく強大となり、五代のように、皇帝が禁軍に翻弄されることは、制度上おこりえなくなったのである。・・・
 <更に、>全国の強壮な兵卒を中央に送らせて、これを禁軍に編入し、勇猛な兵士が藩鎮・・・つまり節度使・・・の軍隊にとどめられないようにした。
 禁軍に編入された新兵の訓練は、太祖みずからが指揮監督し、軍隊内では肉を食ったり酒を飲んだりすることを厳禁し、絹の服を着たものは罰せられるなど、徹底的に節倹を身につけさせた。
 また階級制度を厳格にし、上司の命令には絶対に服従させ、唐末五代のような下剋上の風潮を払拭した。・・・
 太祖の時代、禁軍は22万といわれるが、そのうちの10万余を中央にとどめ、10万余を地方に派遣して両方の均衡をたもち、一方に偏重して変乱を招く危険を防ぐという配慮までなされた。
 また、地方に駐屯する将兵は一か所にながくとどめず、3年ごとにぐるぐると交代させた。
 これを更戍法<(注<79>)>(こうじゅほう)という。

 (注79)’During the period of the garrison and berthing of the forbidden troops, their families are not allowed to accompany them, and they may return to their original places at the end of the period.
 The imperial court temporarily appointed commanders and generals of the garrison army, resulting in impermanent commanders and impermanent divisions, which were easy to control. Although this method prevents generals from using the army as their own personal force, it greatly weakens the tacit understanding between generals and soldiers, resulting in the lack of cooperation between soldiers and generals on the battlefield and affecting the combat effectiveness of the army.’
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%9B%B4%E6%88%8D%E6%B3%95 漢語→Googleで英語へ

 その表向きの理由は、将兵にいろいろな経験を積ませるとともに、勤務条件を平均にするということであったが、実際には、故意に「兵は将を知らず、将は兵を知らず」という状態をたもち、朝廷の眼のとどかない辺境で、将と兵とが緊密な関係になって勢力を扶植するのを防止するためであった。」(105~106)

⇒「注79」から更戍法は地方における禁軍を弱体化させてしまったことが分か<る>が、中央における禁軍についても、「都指揮使には、地位の低い将校や凡庸の武将を任命して、太祖の意のままになる者を配備した」には開いた口が塞が<らない>し、軍政を担当した枢密院のトップとナンバーツーは文官であったために軍事総指揮官としての皇帝の補佐に遺漏があったと想像される、というわけで、太祖のような軍事指揮官としての経験豊富かつ有能な人物ではない者が皇帝になった場合は、三衙を適切に指揮するのが困難になることは目に見えてい<る>。
 しかも、中央における禁軍のうち、馬軍都指揮使下の軍と歩軍都指揮使下の軍は、組み合わせて指揮しなければならない場合が多かった筈であり、そもそも皇帝の負担が大きかっただけになおさら<だ>。
 一言で言えば、太祖は、その浅知恵から、宋の軍事力が脆弱なものとなり、宋の早期滅亡が運命づけられた軍事制度を構築してしまった、と、という感が否め<ない>。(太田)」(#13868)
 それでも、「宋の創成期の2人の皇帝は文民ではなく軍人<だった>のであり、2人とも、文字通り、宋軍の総司令官だったわけ<だ>。
 にもかかわらず、趙匡義の子で第3代皇帝の真宗は、遼の親征に直面して自らも形の上では親征したものの、宰相の反対を押し切って遼と屈辱的講和をしてしま<う>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%87%E6%BA%96
し、その子で第4代皇帝の仁宗に至っては、一切戦争を行わせず、「西夏や遼に対しては銀をはじめとする貢物を贈ることで友好関係を維持する外交を展開」するだけに終わってしまってい<る>。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)
 つまり、宋の皇帝は、3代目で実質的に、4代目では名実ともに、文民化してしまった、ということであり、宋は、早くも3代目で、滅亡という運命が決定してしまった、と言っても過言では<ない>。
 それぞれ、文民化/滅亡決定、の時期に若干の出入りはあるとはいえ、これが、基本的に漢以来の支那の歴代統一王朝のセットパターンだった、というのが私の見解<なのだ>。
 なお、これまで何度か指摘してきた(コラム#省略)ように、・・・「科挙という試験で登用した」のは「文官」だけでなく、「武官」もであるところ、「武官」の方の科挙(注<80>)は、「文官」のそれに比べると、かなり杜撰なもの<だっ>たし、「文民統制」されることもあり、頭脳が優秀な者はもとより、身体能力において傑出した者すら、「武官」の「科挙」の受験などしなかったと思われ<る>。(太田)

 (注80)「武科挙(武挙、清代には武経と呼ばれた)とと呼ばれていた。対し、一般的に言われている文官登用試験は対比して文科挙といわれる。・・・
 試験の内容は馬騎、歩射、地球(武郷試から)と筆記試験(学科試験)が課された。
・馬騎 – 乗馬した状態から3本の矢を射る。いわゆる騎射。
・歩射 – 50歩離れたところから円形の的に向かって5本の矢を射る。
・地球 – 高所にある的を騎射によって打ち落とす。
・技勇 – 青龍偃月刀の演武、弓を引く強さや持ち上げる石の重さを計る。
 矢の的に当たる本数、引ける弓の強さ、持ち上げる石の重さが採点基準となる。学科試験には、『孫子』などの『武経七書』の兵法書に関する問題が出題された。しかし、総外れもしくは落馬しない限りは合格だったり、カンニングもかなり試験官から大目に見られたりと文科挙とは違う構造をしていた。また伝統的に武官はかなり軽んじられており、同じ位階でも文官は武官に対する命令権を持っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99
 (↑ずっと以前にも引用紹介したことがある。(コラム#省略))」(コラム#14078)

 そして、これで最後にするが、四例目だ。
 「「<明では、>洪武帝の死後、孫の朱允炆が即位して建文帝となった。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には靖難の変で建文帝と四男の朱棣が戦うことになる。洪武帝は家臣には異常な程猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった。戦術に長けていた功臣は既に殺し尽くされていたので、朝廷軍は二流の将軍しか持たず、[<他方>、燕王軍は漠北で明朝に対峙するタタール(北元)とたびたび戦ってきた実戦経験豊かな朱棣自身が指揮を取ったの<で、>]結局建文帝は敗北し、朱棣が即位して永楽帝となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%96%87%E5%B8%9D ([]内)
というわけ<だ>が、<このように、>宋も明も、初代が2代目への継承に失敗してい<る>。
 そんな、宋や明が長く続いた方が不思議なのであって、私は、どちらも、最初から死に体だったのが、僥倖に恵まれ続けてすぐには倒れなかったに過ぎない、と、見てい<る>。(太田)」(コラム#14088)

三 武力なき豪族

 「大土地所有者でありながら、そのまま武断的自立的な領主<・・封建制的領主・・>になってしまうのではなく、地域社会の支持を集めることで名望・勢威を築いたのが、中国の豪族の特質である。・・・」(49)

⇒これは、秦帝国、つまりは、秦を始めとする戦国時代の諸国で、多かれ少なかれ、中央政府以外の(狩猟採集/農耕遊牧目的のものを除く)武器所有を禁じていたことが漢時代以降も踏襲された(注<81>)からではないか、と、私は見てい<る>。
 なお、唐代に、はた、のぼり類が禁止されたのは興味深い・・・。(太田)

 (注81)「唐代では弓箭・刀・楯・短矛が民用武具として私有が認められた一方で、矛・矟、甲・弩、旌旗・幡幟・儀仗が軍用武具として私有が禁じられ、特に甲と弩の私有は厳罰であった<。>・・・
 安史の乱以後、・・・戦乱は戦場に遺棄された武器の直接獲得を一般農民に可能にさせた<。>・・・
 唐宋代の禁武政策は、平時には民用武具による自衛活動を認め、動乱期には国家管理の軍用武具を貸与することで一時的にその自衛力を強化させるという柔軟性を兼ね備えていた<。>・・・
 <すなわち>、唐宋代では重兵器の私有を厳禁としつつ軽兵器の私有を容認することで、民衆から反乱に繋がる軍事力を奪う一方、民衆に自衛のための適度な自衛力を保持させるという、限定的で柔軟な禁武政策が実施されていた<。>・・・
 元<は、>唐宋よりも総じてより厳しい禁武政策を布いていた・・・。
 他方、唐宋では弩の私有は鎧に次ぐ重罪であったものの、元では槍・刀・弓箭の私有と同罪とされ、量刑が緩和されている。これは唐宋代では弩は主に歩兵の主力兵器として活躍したものの、元代では弓矢を駆使する騎兵が主要な兵種となったため、相対的に軍隊での重要性が低下したためであろう。・・・
 元の禁武政策は民間人、特に漢民族に対する徹底した武装解除を目指すものであった<。>・・・
 明代では火器や防具を除いた、ほぼすべての武器が解禁となった<。>・・・
 明代では兵卒の給与が滞ることが状態化しており、十分な給与を受けられない軍士は装備を質入れや売却せざるを得なかった<。>・・・
 清代ではその禁武政策もおおむね明代から引き継いだものであり、明清代を通じて、冷兵器の私有が合法化され、それらを扱う市場が成立する条件も整っていた<。>・・・
 清朝においても・・・困窮した旗人は、武器を質に入れたりしていた<。>」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjuw6r79omEAxWq2jQHHcfTA0QQFnoECAgQAQ&url=https%3A%2F%2Fu-aizu.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F182%2Ffiles%2F%25E4%25BC%259D%25E7%25B5%25B1%25E4%25B8%25AD%25E5%259B%25BD%25E3%2581%25AB%25E3%2581%258A%25E3%2581%2591%25E3%2582%258B%25E7%25A6%2581%25E6%25AD%25A6%25E6%2594%25BF%25E7%25AD%2596%25E3%2581%25A8%25E6%25B0%2591%25E9%2596%2593%25E6%25AD%25A6%25E8%25A1%2593%25E3%2581%25AE%25E6%25B3%2595%25E7%259A%2584%25E5%259F%25BA%25E7%259B%25A4.pdf&usg=AOvVaw1HwvgN_TEMAnnV0I-oZx2G&opi=89978449
 矟(さく)=長柄のほこ
https://kanji.jitenon.jp/kanjiv/10624.html
 甲(こう)=よろい。転じて、兜(かぶと)。
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B2-48403
 旌旗(せいき)=はた。のぼり
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%97%8C%E6%97%97/
 幡(はた)=旗=旌
https://kotobank.jp/word/%E6%97%97%E3%83%BB%E5%B9%A1%E3%83%BB%E6%97%8C-358702
 幟(のぼり)=細長い布の端につけた輪にさおを通し、立てて標識とするもの。
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%9F-112446 」(コラム#14052)

四 都市化の阻害

「<支那では、>駐屯地起源である・・・鎮市<は別として、首都やそれに準ずる城郭都市以外の都市が殆ど存在しない状態が続いた。>
 これは、漢及びそれ以降の支那の統一諸王朝が、城郭都市や軍の駐屯地以外では、治安機能等を提供しない一方で、一般住民による城郭建設や武器所有を認めなかったからだと思われ<る>。
 こんな環境下では、駐屯地ではなくなった鎮市においても、自治組織は形成されなかったこと<だろう>。
 欧州のケースを思い起こせば、都市は自治組織の下にあったけれど、それは、都市が、城郭を建設し武器を保有して軍事・治安機能を保持できたし、保持する必要があったからこそ、独自の法と裁判所を持つ政府・・(少なかったが)独裁制、寡頭制、共和制、がありえた・・を形成していた
https://sekainorekisi.com/world_history/%e9%83%bd%e5%b8%82%e3%81%ae%e8%87%aa%e6%b2%bb%e6%a8%a9%e7%8d%b2%e5%be%97/
から<だ>。(太田)」(コラム#14084)

五 把握人口の停滞

 「中華王朝が掌握する人口は、12世紀はじめ、<北宋の>徽宗皇帝のころ1億人を突破したとされる。
 それ以前、歴代の人口統計の推移は、前漢末期と唐中期の2回、ピークがあったものの、いずれも6000万人の規模を越えなかった。
 以前の2回のピークは、数が同じ6000万人でも、もちろん内容は異なっている。
 漢代の場合は、中原だけでその規模をかかえることができた。
 気象が寒冷化のさなかだった<こともあり、>唐では、すでに北方・中原の生産力が逓減した半面、南方の扇状地・微高地に対する移民・開発がすすんで、ようやくその水準に達したものである。」(コラム#14082)

六 中国武術の誕生

 「中国武術・・・を考察するにあたっては、「琉球王国において士族の嗜みであった空手道<が>大正時代に沖縄県から他の都道府県に伝えられ、昭和8年(1933年)に大日本武徳会において日本の武道として正式承認を受け<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%89%8B%E9%81%93
ことが参考になる。
 「武器を取り上げられた琉球士族が薩摩藩家臣に対抗するために、また、武器を持つことができなかった琉球王府の士族<の間で>・・・広がっていった・・・とする説が<あったところ、>・・・薩摩藩の実施した禁武政策(1613年の琉球王府宛通達)<は、>・・・武器の所持(鉄砲を除く)やその稽古まで禁じるものではなかった」(上掲)とされるが、火器以上の武器、つまりは近代武力保有を禁じられた環境下で、琉球士族が一種のマスターベーションとして、個人的集団的軍事訓練の代替物として空手が生まれたことが推測できること、と、この空手が19世紀には唐手(トゥーディー。後にからて)と呼ばれていた(上掲)こと、すなわち、それが支那の拳法を継受したものであることを示唆していること、が、銘記されるべきだろう。
 <その上で、>中国武術<についてだが、>・・・「・・・武術<に>・・・は徒手技術である拳法のみではなく、火器を除く武器術も含まれる。武器は<支那>においては器械、または兵器と呼ばれ、刀や剣に代表される短器械、槍や棍に代表される長器械などがある。<支那>の武術の門派の数は400とも600とも言われるが、徒手拳術と器械を備えている門派が多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E8%A1%93
 つまり、空手/拳法は、支那以外では、例えば日本<(本土)>、や、・・・欧州、では生まれなかったわけだ。
 それは、日本や欧州では中央政府以外での火器の保有が必ずしも禁止されていなかったからだ、というのが私の見解だ。
 現状<では、>・・・その拳法ですら、中共において・・・骨抜きにされている。↓

 「1950年に政府による武術工作会議が開かれ、新しい武術活動が開始された。
 ソ連の科学的な体育観を基にして武術からスポーツに変化させていった<。>
 ここでいうスポーツというのは競技や娯楽のための運動という意味<だ>。・・・
 つまり、この段階で実戦的な練習は禁止されたと言ってもいい・・・
 徒手格闘の軍事技術としての性質が濃厚に存在していた。
 昔の武術というのは武装秘密結社が秘密裏に教えていたものであったため
 武術自体が危険視されていた可能性は高い。」
https://trivia-and-know-how-notes.com/is-chinese-martial-arts-weak/

 実際、義和団の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
の時の義和拳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E6%8B%B3
の記憶は我々にも新しい。
 要するに、中共の拳法政策は、それまでの支那の歴代統一王朝における中央政府の火器以上の武器の独占政策を更に厳格化し、中央政府以外の、実力行使手段を完全に奪ったものだと言えそうだ。
 その成果はまさに完璧だと言えるのかもしれない。↓

 「西洋格闘技に20秒で惨敗した中国伝統武術・・・」
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/101059/051000099/

七 現在は?

 「・・・劉建輝<に言わせれば、>・・・毛沢東<のおかげで、>・・・八路軍以後<、>軍人の地位は「人間のクズ」から脱却しただけではなく、「中国人民あこがれの存在」に転化した<ところ、>・・・。<2012>年ノーベル文学賞を人民解放軍の作家莫言・・・が取った<こと>は 好鉄不打鉄、好人不当兵 という「中国文化人幻想」が完全に息の根を止められた瞬間でもあった。」
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2013/01/post-934b.html 」(コラム#14092)
 なお、下掲のやりとりも参照。↓
 「D:太田さんは、中共軍が国軍にならないのは、日本の幕府に倣ったものだという説だが、たまたまそうなっただけでは?
 O<(太田)>:権力掌握まで党軍であるのは当たり前だが、権力を掌握すれば、今度は当然国軍になるはずなのに、党軍に留めた、というのだから、しかも、20世紀に、そんな事例は世界を見回してもなかった(・・党軍的なものを国軍と併存させる例はあったかもしれないが・・)のに、そうしたのだから、熟慮の上のはずだ。

 中共は封建制国家ではないのだから、幕府制を導入したところで、軍幹部達に領主たることに基づく一所懸命意識を抱かせることはできないが、党員でなければ、人民解放軍の一員にはなれないはずであり、ということは、党員になる前に党青年団に入るのが通例であろうところ、それが、いわば、戦前の日本における幼年学校的な機能を果たしているのだと思うし、党員は特権を伴う選良であることから、一所懸命意識に相当する党員資格執着意識、とでも言うべきものを彼らが抱いていて、それが、(誰でも入れる)国軍にすることによって失われることを毛沢東らは危惧した、ということではないか。」(コラム#11378)

  エ 前漢武帝による原初的儒教の復権

 武帝期に、転向儒者達によって原初的儒教の復権がなった。↓
 
 「・・・武帝<(在位:BC141~BC87年)>期より儒家が台頭したことは間違いない。
 儒者として最初に丞相となった公孫弘(こうそんこう)・・・のように、武帝の好む法家思想を儒教で飾る儒者は重用された。・・・
 董仲舒(とうちゆうじよ)を膠西(こうせい)に左遷したのは<公孫弘>の策謀によるといわれる。」(コラム#13802)

 「董仲舒は、・・・『春秋公羊伝』<(注82)>・・・を作り上げることにより、儒教<によって、>国家の政策を正統化<する>自らの教えを広めようとした。
 武帝もまた、公羊伝を論拠とする国政の正統性を詔に述べることで、自らの政策に広い支持を得ようとしたのである。」(#13806)

 (注82)「董仲舒と胡毋生が公羊伝を伝えたことは『史記』にも記載されているので確かであると考えられる。他の多くの先秦の書物と同じく多くの人の手が加えられ漢の景帝期に現在の形にまとまったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%85%AC%E7%BE%8A%E4%BC%9D

「経書の「経」は縦糸、すなわち人として生きる筋道という意味である。
これに対して「緯」は横糸を指す。
 すなわち緯書は、縦糸と横糸をあわせて初めて布になるように、経書を補うために孔子が著し、儒教の全体を明らかにしようとした書物という意味である。
 もちろん、緯書は、実在の孔子とは無関係に、権力に接近するために、主として成帝期から哀帝期ごろの公羊学<(注83)>派が創作した偽書と考えられている。

 (注83)「公羊学とは、孔子が作ったとする『春秋』を公羊伝に基づいて解釈する学問であり、さらにそこで発見された孔子の理想である微言大義を説き現実の政治に実現しようとする政治思想である。・・・
 前漢の董仲舒によって形作られ、後漢の何休によって大成された。何休以後は、『春秋』を『左氏伝』によって解釈する左伝学が主流となり、公羊学は衰退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%85%AC%E7%BE%8A%E4%BC%9D

 「緯書のなかには、経書を解説するだけのものもある。
 自らの経書の解釈を権威づけるため、それを緯書に仕立てたのである。」(コラム#13818)
 「董仲舒<は、また>、天子の善政・悪政に応じて、天はその政治を賛美・譴責するという天人相関<説(注84)を、儒教の>中心<に組み込んだ。(この状態は、>・・・南宋に朱熹(朱子)が現れるまで<続くことになる。)>」(コラム#13804)

 (注84)「天と人とに密接な関係があり、相互に影響を与えあっているという思想。・・・
 天子<は>・・・、悪政を行えば、大火や水害、地震、彗星の飛来などをもたらし(→「災異説」)、善政を行えば、瑞獣の出現など様々な吉兆として現れるという。・・・
 天変地異や疫病流行などの災害を防ぐため、君主は善政を布くことが模範として求められ、特別に行うそれらの施策は「徳政」と言われた。・・・
 思想自体は先秦からあるが、最初に体系化したのは前漢の儒学者・董仲舒である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BA%BA%E7%9B%B8%E9%96%A2%E8%AA%AC

  「災異説<(注85)>・・・と天人相関<説>とを・・・陰陽<(注86)>説<でもって>・・・結<ぶことよって、>・・・儒教は、政治に対して物を言う手段を得た。・・・しかも、<儒教>は、易や五行思想<(注87)>と結びつくことで予占[予言]を行うこと<も>できる<ようになった(注88)>。」(コラム#13812)

 (注85)「災異説(さいいせつ)とは、意志をもった天が自然災害や異常現象を起こして君主に警告を与えるという・・・董仲舒・・・の学説である。・・・
 董仲舒の用語では、「災」は異常の度が小さなもの、「異」は大きなもので、本質的には同じである。董仲舒は『春秋繁露』で、君主が徳を養い善政をとるならば、災異はなくなり福が来るだろうと説いた。君主の横暴を抑え、儒教的な善政を勧めるのが、董仲舒の災異説の目的と言える。
 董仲舒においては、災異が事の前兆として起こることはない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%BD%E7%95%B0%E8%AA%AC
 (注86)「森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陽(よう)と陰(いん)の二つのカテゴリに分類する思想及び哲学。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD
 (注87)「万物は火・水・木・金・土(七曜の命令)の5種類の元素からなるという説である。・・・
 元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだったともいう。・・・
 また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3
 なお、「春秋戦国時代ごろに発生した陰陽説と五行説、それぞれ無関係に生まれた考え方が後に結合した思想。・・・
 [戦国時代には、陰陽家の鄒衍や雑家の『呂氏春秋』などにより、五行説にもとづく王朝交替説(五徳終始説)が形成された。漢代には、王朝交替説が緯書などに継承されると同時に、陰陽説と結合して陰陽五行説が形成された。(上掲)]
 陰陽五行説の基本は、木、火、土、金、水、(もく、か、ど、ごん、すい、金は「きん」でなく「ごん」と読ませる)の五行にそれぞれ陰<(と)>陽<(え)>二つずつ配する。・・・
 十二支にも五行が配されている。その前提として、季節に対応する五行(五時または五季)は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水である。土はどこへ来るかというと、四季それぞれの最後の約18日(土用)である。有名な「土用の丑の日」は夏の最後の時期(土用)の丑の日(丑は土の五行)ということである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3
 (注88)「後漢になると、占いの書である『易経』をもとにした易学者との交渉により、過去だけでなく将来発生する事件を予言する神秘的な讖緯説へと発展していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%BD%E7%95%B0%E8%AA%AC 前掲

⇒董仲舒は、転向に加え、儒教の迷信化を図ったが、前漢中には、董仲舒一派、すなわち、公羊学派、は、次第に儒者中の勢力を拡大するも、儒教の国家イデオロギー化までは達成できなかった。
 なお、迷信化しつつの儒教の復権にあたって、(そもそも、軍事について孔子が無言のままであったところ、)儒者が軍事について物申すことはなく、秦始皇帝に始まる軍事軽視政策は維持された。
 
 「衛青、霍去病、李行利、については、武帝が皇后や夫人の身内の者を抜擢したわけであり、また、公孫敖は衛青の引きで登用されたわけであるところ、これらは、武帝がついに武官を養成するシステムを構築しなかったことを示しており、このことは、霍光のような文官についても言えそうである<(注89)>ところ、(これも問題はあったけれど)科挙制度が構築されることになる文官についてはともかくとして、前者は、漢及びそれ以降の支那の諸王朝のアキレス腱となった、と、私は考えている。(太田)」(コラム#13796)
 (注89)「衛青の場合<、>彼が騎射の名手であるという、戦略・戦術と直接関係のないメリットが武官登用の際に考慮された」(コラム#13798)

 にもかかわらず、武帝は、国内の治安を悪化させることのない財政政策を実施した。
 個別人身的支配に基づく課税の嵩上げよりも国家歳入のより容易な確保を重視して専売制を導入したのだ。↓
 「破綻した財政の再建のため、武帝は農業<の>振興<、>・・・均輸法<・>・・・平準法<や、>・・・塩・鉄・酒の専売<を行った。>・・・これらの経済政策のなかでは、農民保護の側面を持たない塩・鉄・酒専売[酒はやがて廃止]が最も施行しやすかった。ただし、これは悪税であったため、貧富の差を拡大させ<た>。それにより、豪族と呼ばれる大土地所有者が大きな力を持つに至った。こうして武帝の治世末期には、民は疲弊し、各地で農民反乱が起こった。」(コラム#13808)

  オ 新・王莽による原初儒教の儒教化とその国家イデオロギー化への着手

 新の王莽(BC45~AD23年。在位:AD8~23年)は、「僅か2歳の遠縁の広戚侯劉顕の子の劉嬰を立てるも皇帝ではなく皇太子とし、「符命」(一種の予言書にあたるもの)に基づいて自らが摂政として皇帝の業務を代行することとした。そして自らの呼称を「仮皇帝」・「摂皇帝」としてほぼ皇帝と同格の扱いとし、居摂と改元、周公旦の故事に倣って朝政の万機を執り行った。
 更に天下を狙う王莽は古文<(注90)>を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。

 (注90)「前漢代、秦の焚書政策を免れて孔子旧宅の壁中や民間から発見された秦以前の儒家の経書のテキストに使われていた文字であり、当時の経書に一般的に使用されていた書体である今文(隷書体)に対して古文という」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%96%87

 折しも、哀章という人物が高祖の予言という触れ込みの「金匱図」・「金策書」なる符命を偽作し、また他にも王莽の即位を後押しする符命が出現していた。そこで、これらの符命などを典拠として居摂3年(8年)に王莽は天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国した。この出来事は歴史上で初めての禅譲であ<ったが>、<実態は>簒奪(身勝手な禅譲)<だった>。・・・
 後漢から曹魏への革命が、この王莽の禅譲型式を踏襲したため、のちに「漢魏の故事」とよばれ、歴代王朝の創業時の模範となった。・・・
 王莽は政治的な目的として、当時、孔子によって唱えられ、儒家の経書に継承されていると考えられていた周代の礼(儀礼)や楽(音楽)を、[讖緯説と結合した・・・儒教]とともに、漢や新の国家の諸制度に具現化する「制礼作楽」の事業の完遂をかかげていた。 王莽はそのために、政治の実権を握った漢の平帝時期にあたる元始年間に、精力的に儒家的な礼制整備を行った。王莽によって、先鞭をつけられた儒家の教説による国家的儀礼は、後漢王朝に引き継がれ、後漢王朝が原型となって、その後の<支那>の諸王朝が礼教国家としての性質を帯びるようになっている。
 <すなわち>、王莽は、儒家的教説の制度化に大きな功績をあげ、漢の「儒教の国教化」に貢献した。・・・
 前漢の元帝時代から、後漢の明帝時代にいたる、紀元前40年頃から西暦60年までのほぼ100年間の間に出来上がった儒家的祭祀、礼楽制度、官僚制の骨格は、・・・清王朝にいたるまで継承されることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%8E%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6%E5%B8%9D ([]内)

  カ 後漢光武帝による儒教の概成とその国家イデオロギー化

 この王莽も、王莽を最終的に打倒して漢を「復興」させた劉秀も、それぞれ持ち味は違っても軍事音痴であり、新も後漢も軍事軽視政策を維持することになる。↓

 「国内各地で叛乱が発生し、中でも18年(天鳳5年)に樊崇らが指導者となって挙兵した赤眉軍、同時期に王匡が緑林山を拠点に挙兵した緑林軍が勢力を持<ち、>・・・劉玄が更始帝として擁立されることとなった<ところ、>23年(更始元年)夏、更始帝討伐を計画した新の王莽は洛陽から100万と号する(戦闘兵42万、残りは輸送兵)軍を出発させた。しかし王莽は軍事の知識・経験に乏しく、新軍に63派の兵法家を同行させる、猛獣を引き連れるなどの常識外れの編成を行った。新軍は劉秀が拠点としていた昆陽城を包囲・攻撃した。劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出、近県3千の兵を集め、昆陽包囲軍と対決する。総大将が率いて迎撃した新軍に対して、劉秀やその部下の軍は勝利を収めた(昆陽の戦い)。」(上掲)という具合に、王莽がいかに軍事を軽視していたかが分かろうとおいうものだが、その後、権力を掌握して後漢を立てた劉秀とて、この王莽の弱兵や、叛乱仲間のシロウト兵と戦い、「戦場では、多くの戦いで最前線に立って自ら得物を奮い、皇帝に即位後の鄧奉戦・劉永戦などでも、大軍を持ちながらなお最前線で騎兵を率いて戦った。天下統一後は危急でなければ戦のことを口にせず、皇太子(後の明帝)が戦について尋ねても、「むかし、衛の霊公が軍事のことを問うても、孔子は答えなかった。これはおまえがかかわるべきことではない」と答えなかった。」(上掲)という体たらく・・本当のところは恐らく答えるべき何物も持ち合わせていなかった・・だった。
 しかし、「48年(建武24年)に匈奴が内部抗争により南北に分裂し、南匈奴が後漢に帰順した」(上掲)という僥倖により、後漢はしばらくの間、存続することになる。

 さて、「<後漢の>光武帝<(BC5~AD57年。在位:25~57年)>は、緯書を整理して後漢の正統性を示すものだけを天下に広め、自らが認める讖緯<(注91)>思想を含んだ儒教を漢の統治を支える唯一の正統思想として尊重した。
 功臣だけではなく、豪族にも郷挙里選(きょうきょりせん)という官僚登用制度の運用により、漢を正統視する儒教を学ばせたのである。・・・」(コラム#13828)

 (注91)讖緯=予言。「讖緯説が著しく発展したのは、王莽の新の時代である。王莽の即位を予言する瑞石が発見された、とされ、王莽自身も、それを利用して漢朝を事実上簒奪した。
 儒教の経書に対する緯書が後漢代にも盛んに述作され、それらは全て聖人である孔子の言として受け入れられた。後漢の光武帝も、讖緯説を利用して即位している。また、春秋戦国時代の天文占などに由来する讖記の方も、緯書の中に採り入れられて、やがては、それらも、孔子の言であるとされるようになった。讖緯に批判的な当時の大儒者であった鄭玄や馬融らも、緯書を用いて経典を解釈すること自体には全く違和感を持っていなかった。・・・ 
 讖緯の説は、その飛躍の時代である王莽の新の時代以来、王朝革命、易姓革命と深く結びつく密接不可分な存在であったため、時の権力からは常に危険視されていた。よって、南北朝以来、歴代の王朝は讖緯の書を禁書扱いし、その流通を禁圧している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AE%96%E7%B7%AF

⇒支那大陸に残った方の歴史上の弥生人、とも言うべき、長江文明系の弥生的縄文人たる広義の楚人達が、黄河文明系の縄文的弥生人や普通人からなる中原人を征服した結果、黄河文明は滅亡するに至っていたが、ここに、タテマエ上儒教を国家イデオロギーとし、ホンネでは墨家の思想を治者が抱懐するところの、長江文明改とでも形容すべき、漢人文明、が、概成した。(コラム#13816での主張を修正した。)
 最後に、光武帝の軍事軽視政策にも触れておこう。
 「班固、班超の父の班彪(3~54年)には武官歴が全くなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E5%BD%AA
にもかかわらず、つまりは武官教育訓練を受けた形跡がないのに、班超は武官として登用され、彼の兄の班固も、同様であり、しかも、『漢書』を概成するという大事業を成し遂げた後、「母の喪のために官を辞したが、永元元年(89年)に竇憲に従って匈奴と戦った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E5%9B%BA
というの<だ>から、・・・光武帝を嗣いだ・・・明帝、すなわち、後漢、においても武官の養成制度が存在せず、武官としての登用が恣意的に行われていた感が否め<ない>。」(コラム#13828)
 この軍事軽視政策と陰陽五行思想(や讖緯思想)を取り入れたところの、儒教の国家イデオロギー化によって「この1世紀の頃の人間である蔡倫が紙を事実上発明し、それ以降も、支那で、印刷、火薬、羅針盤、という、世界史に大きな影響を与えた四大技術的発明を次々に生み出すという偉業が<形の上では、その後>11世紀まで、<都合>1000年間も続<きはした>
https://kotobank.jp/word/%E8%94%A1%E5%80%AB-68316
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E7%99%BA%E6%98%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E5%88%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%96%AC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D%E7%A3%81%E9%87%9D
<ものの>、(儒教・・・同様、妄想の産物に他ならないキリスト教の弊害を被りながらも古典ギリシャ科学を比較的早期に継受できたところの地理的意味での西欧とは違って、)<軍事軽視と>儒教<の国家イデオロギー化>・・・によって、支那で(文系科学を含む)科学の発展が阻害されてしまったことが、惜しまれてな<らない>。」(コラム#13834)(太田)

  キ 後漢章帝による儒教の完成と儒教を国家イデオロギーとする漢人文明の完成

 黄老思想とは、「戦国時代末期から漢代初期に流行した、道家または法家・雑家の政治思想であ<り、>・・・黄帝と老子に仮託されることからこのように称される。
 「無為の治」を掲げ、君主が政治に過度に干渉することを避け、天道に背く勝手な行動をとることを禁じ、最小限の法に統治を委ねるべきとする思想である。・・・
 <その後、>黄老思想の支持勢力は衰退し、公孫弘に代表される儒者にとって代わられた<が>、『老子』はその後も重んじられ続け、<その後の>注釈や『易』との接近を経て、後漢末期から三国時代には初期道教と玄学の経典になった」ものだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E8%80%81%E6%80%9D%E6%83%B3

「⇒『老子』は、その総論は、仏教のサマタ瞑想・・止観の止・・チックな話であって、それなりの妥当性、普遍性がありそうであり、また、そこに、ここに登場したところの、純粋農業社会人たる楚人(≒倭人中の弥生人)達、の琴線に触れるところがあったのでしょうが、その各論は、デフォ部分の不老不死になれるだの追加部分の皇帝になれるだの、究極の現世利益的戯言であるところが、興覚めです。(太田)」(コラム#13786)

 「<光武帝の子の>明帝の子である章帝<(在位:75~88年)>は、儒教に基づ<くと称して(太田)、>寛治<(注92)>(かんち)と呼ぶべき、ゆるやかな統治を推奨するとともに、白虎観会議<(注93)>を主宰して、小文学と今文学の経義を調整する。・・・

 (注92)「後漢国家に特有な支配は,前漢時代の儒教的な支配である「徳治」とは異なる支配である。前漢時代の「徳治」が、循吏<(じゅんり)>による治水・灌漑や儒教による教化政策であったことに対して、後漢の儒教的な支配は,「寛治」と名づくべきものであった。「寛治」とは,後漢国家の支配の具体的な場において,在地社会における豪族の社会的な規制力を利用する支配であ<った>。」(渡邊義浩(著者))
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-05710218/
 (注93)「後漢の公式の学問は今文であり、今文の説のみを採用しているが、日原利国によれば、王莽が古文学派の説を採用したため、王莽を否定する白虎観会議では表向き今文派を勝たせなければならなかったものの、『春秋左氏伝』が君父を重視するなど古文の説の中にも利用価値の高い思想が多かったため、実質的には今文・古文<(★★)>を包摂した内容になったとする。
 渡邉義浩<(著者)>によれば、王莽は儒教にもとづく政策を行ったが、当時の儒教が現実離れしていたために失敗し、白虎観会議で儒教の国教化が完成したとする。
 後漢の経学の特徴として緯書を引くことが多いのも特徴である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%8E%E9%80%9A%E7%BE%A9

 <寛治については、>76・・・年・・・詔を下し・・・『尚書』堯典に「五教は寛にせよ」とあることを典拠として、農業を勧め、人材を登用し、なるべく刑罰を行わない寛治を励行せよと天下に告げた。
 続く和帝<(在位:88~106年)>もこの政策を>継承<した>。・・・

⇒「徳治思想<は、>・・・儒教における政治思想<であり、>国を治めるには、権力や武力によらず、為政者の人徳によって教化すべきであるとする。その意味で、天子は最高の徳をそなえた聖人でなければならないとされた<ところの、>王道政治の思想。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E6%B2%BB%E6%80%9D%E6%83%B3-582745#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8
であるところ、そもそも、皇帝に不可能を強いるとともに、軍事を軽視をもたらしたところの、絵にかいた餅的ナンセンスだった私は考えてい<る>が、<それに比べれば、>黄老思想に基づく寛治は確かに実行可能ではあるものの、官僚制の整備を等閑視するとともに軍事の軽視を放置し、外戚勢力と宦官勢力の跳梁を許した結果として、後漢が滅亡に至ったのは当然である、と、言いたい・・・。」(コラム#13830)
 「後漢<だけでなく>、唐<も>明<も>宦官によって滅ぼされた」とされてい<る>。
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%A6%E5%AE%98-48536
 日本に宦官制度が継受されなかったのは、基本的に日本は女性優位社会であり、宮廷でも、外廷においてすら、平安時代までは女官(女性官僚)が活躍しており、いわんや、内廷においてをやだった
https://book.asahi.com/article/11599185
<からだろう。>」(コラム#13836)(太田)

 「・・・豪族と貧民の階層分化を容認し、それに応じて徴税の負担を調整する、これが儒教的な寛治なのである。・・・

⇒特定の県令の挿話が出てきたということは、寛治は後漢において全国一律的な法令に基づいて行われた法治ではなく、地方ごとに、そして、たまたまその地方を統治することになった役人の判断や匙加減でもって行われた人治であった、ということ<だろ>うが、こんなやり方が、全国的、かつ、長期的にうまくいくはずが<ない>。
 また、兵役が事実上のただ働きになっていたということも深刻<だ>。
 そんな基本的なところでカネをかけないのでは、兵達に碌に訓練も施さず、また、碌な武装もさせなかったと考えざるをえ<ない>。
 しかも、既に記したように、兵役についた人々を指揮統率する将校を教育訓練する仕組みが公私ともに。存在していなかったようである、とくれば、後漢の軍事力が、量的にはともかく、質的にどれほど弱体な代物であったか、想像に難く<ない>。」(コラム#13832)
 こうして、後漢において、発展的であったところの黄河文明、は、東アジアにおいては長江文明に起源を持つところの、弥生的縄文人、が、一族郎党「自治」に委ねられた普通人を緩治するところの、退嬰的、停滞的にして循環的な漢人文明が完成し、この新文明への転換が完結することになったのだ。
 その後、科挙の導入による官僚制の整備が図られるが、科挙では行政実務遂行能力を見極めることはできず、維持された軍事軽視と相まって、国家イデオロギーとしての儒教以外の思想・科学の発展を阻害し、その結果、退嬰性、停滞性によって特徴づけられるところの、漢人文明、が、維持され続けることになった。(太田)

  ク 唐の韓愈による荀子の排斥

 それにしても、どうして、孔子の思想が、その後も、このような儒教という形で歪められた形で受け止められたまま推移し、その結果、清末以降、孔子が、つい最近まで、儒教と共に非難され排斥されることになってしまったのだろうか。
 それについては、孟子らによって歪められてしまっていたところの、孔子の思想の中核部分を「復元」したところの、荀子、の権威が失墜させられてしまったことが大きいと思う。↓

 「唐代の韓愈<(注94)(コラム#13702)>は『原道』で儒学復興を提唱したが、その中で古代の聖人の道統を述べた。堯・舜・禹・湯王・文王・武王・周公の聖人たちが伝えた道は孔子に継がれ、その後に孟子に継がれ、その死後は道が断絶したと評した。そして荀子および漢の揚雄<(注95)>は、「選びて精(くわ)しからず、語詳(つまびら)かならず」(『原道』より)と聖人の道を選んで正しく伝えることができなかったと評したのであった。

 (注94)「儒家思想を尊重して、堯・舜・禹・湯(とう)・文・武・周公・孔子・孟軻という道統の説を提出し、仏教・道教を排撃した。古典研究において、経書の思想内容に重点を置き、『論語』と並んで『中庸』や『孟子』を尊重するなど、宋の性理学の先駆者とされ、李翺(りこう)との共著『論語筆解』2巻が存する。・・・
 <また、>李白と杜甫を尊敬し,詩風を継いで豪放な詩を作った。儒教の正統を継承する確信のもとに,儒教精神を表現すべき古文の復活を提唱し,当時一般に行われた駢文(べんぶん)に反対した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9F%93%E6%84%88-49712
 (注95)ようゆう(BC53~AD18年)。「現在は佚して伝わらないが、『孟子』にも注解を施していたようである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E9%9B%84
 「揚雄<は、>・・・前漢、新、後漢の3王朝に仕えた。学者として高名である。・・・
 著書としては『易経』に擬した『太玄経(たいげんきょう)』と、『論語』を模した『法言(ほうげん)』が有名である。・・・
 【太玄経】<では、>・・・易の六十四卦にたいして八十一首,六爻(ろつこう)にたいして九賛を設けるといったたぐいで,暦学,天文学,陰陽五行説などと結合した漢代易学の成果を吸収しつつ,《老子》に由来する〈玄〉に根本原理をもとめた。・・・
 《法言(ほうげん)》では,王道を論じて道徳による政治を説いた。・・・
 宋(そう)代の程伊川(程頤)や朱熹(朱子)<も>、聖人の書の模作を難じ、性善悪混説を唱え、3朝に仕えたことなどを批判した・・・。」
https://kotobank.jp/word/%E6%8F%9A%E9%9B%84-145877

 この韓愈の評価が、後の宋代儒学の道統の標準となり、孟子の後に現れた荀子は排斥される道を辿った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90

⇒韓愈の評価は荀子については、私に言わせれば、間違っていて揚雄については正しかったわけだが・・。
 ちなみに、韓愈は『原道』の中で、「孔子の春秋を作るや、諸侯 夷礼を用ふれば則ち之を夷とし、夷にして中国に進まば、則ち之を中国とす」(『原道』)と言っており、これは、夷狄からの脅威に対しては、中原(華夏=黄河文明末期)時代同様、中国(漢人文明)時代においても、できれば撃破ではなく同化へと誘いその吸収を試みよと言っているところ、韓東育は、この主張が、孔子からではなく、孟子の主張からきている、と、指摘している。
https://ushimane.repo.nii.ac.jp/records/1941 前掲(太田)

 以下、余談だが、日本では、荀子は排斥されることがなかった。
 それどころか、「荻生徂徠<(後出)>・・・は「荀子は子・孟(子思と孟子)の忠臣なり」と言い、彼の言うところによれば荀子は子思や孟子の理論的過ちを正した忠臣といえる存在であり、荀子のほうが孔子が伝えようとした先王の道(子思・孟子の言う儒家者流の倫理ではなく、先王が制定した礼楽刑政の統治制度)をよく叙述していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90
 ちなみに、「荀子および後学の著作群<が>・・・出版物として初めて刊行されたのは、北宋の神宗の・・・1068年・・・であり、南宋の孝宗の・・・1181年・・・に台州知州唐仲友が復刻した。この宋代の刊本が宋本である。しかしこれは<支那>で散逸し、日本の金沢文庫に一冊のみ残された。この写本が影宋台州本である。江戸期文政時代の久保愛(久保筑水)は、この影宋台州本を参照して『荀子増注』を著した(・・・1820年の自序。・・・1825刊)。よって、宋本を参照した注釈は、日本の『荀子増注』が<支那>より早い。<支那>では王先謙が清代考証学の成果を取り入れ、日本の宋本も参照して、『荀子集解』を著した(・・・1891年)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90 前掲

⇒荻生徂徠(注96)の荀子評は概ね正しく、毛沢東も習近平も概ね徂徠同様の荀子評価をしたのだろうが、望蜀の感はあれど、兵学者でもあった徂徠には、荀子が、孔子の言動中、より正確には孔子の「動」中、の、軍事に係る「動」きを無視していることを批判して欲しかったところだ。

 (注96)「荻生氏の本姓は物部(もののべ)氏と伝えられ、<支那>風の一字の姓として、物(ぶつ)茂卿とも署名した。先祖は三河(みかわ)または伊勢(いせ)の武士で、祖父の代から医師となり、父方庵(ほうあん)(1626―1706)は徳川綱吉(当時は館林(たてばやし)藩主)の侍医であった。・・・
 《四書大全》などを読み大内流軍学を外祖父から学ぶ。・・・
 1696年(元禄9)柳沢保明(のち吉保)に仕え・・・<最終的には>500石<取りとなる。>」
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0-17726
 
 孔子同様、荀子も、その「言」中に軍事に関することが存在しないわけだが、孔子とは違って、荀子は、彼が仕えた春申君が、BC258年に趙の首都邯鄲が秦によって包囲された時に楚の旧援軍を派遣してこの囲みを解いた時、や、BC241年に楚・趙・魏・韓・燕の合従軍を率いて、秦を攻めたが、函谷関で敗退した(函谷関の戦い)時、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%94%B3%E5%90%9B
に、軍事面で春申君を補佐した気配は皆無であって、孔子よりも更に問題なのに・・。
 想像するに、これは、徂徠が、「兵法書の『孫子』には、武将に必要な徳として、「智・信・仁・勇・厳」(五常と違い、義・礼の代わりに勇・厳がある)と記し、仁を含めているが、・・・荻生徂徠<は>、「仁なれば厳ならず、厳なれば仁ならず(部下に対して仁を取れば、威厳の方が立たない)」、「4つの徳備わりても、信また備わり難し」(『孫子国字解』)と解釈を述べ、仁と厳(また信)の両立が難しい・・・<と>指摘・・・している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81
ことからして、荀子に対してそのような批判を投げかけることは、孔子より少し若いがほぼ同時代人である兵学者の孫子(孫武)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A6
が仁に言及しているというのに、孔子が、軍事において必須の厳、ひいては軍事そのものについて、沈黙を守ったことをも批判せざるを得なくなるからではなかったか。
 (毛沢東は、兵家の代表的人物である呉起
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%B5%B7
を「善人」の中に位置付けることによって、この問題への対処に腐心しているように見受けられる。
 ちなみに、その毛沢東は、中共が支那の権力を掌握した後も、人民解放軍を国軍ではなく、党軍のまま維持することにすることによって、国軍化によるところの、中共の軍人達の縄文的弥生性の消失の可能性、を排除しようとした、と、私は見ている(コラム#省略)わけだ。)(太田)


[新羅における文明の乗り換え再訪]

 よりにもよって、(日本のように、プロト日本文明をやがて日本文明へと進化させるどころか、)プロト日本文明的文明からこの漢人文明へと乗り換え、儒教国家体制・・実態は、墨家の思想とエセ法家の思想に依る国家体制・・を継受し、支那同様、朝鮮半島を長期停滞に陥ってしまう羽目に陥らせてしまったのが、新羅だ。↓

 「安史の乱」(755~763)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1 
の最中の「757年12月に」<新羅の>景徳王(?~765年。在位:742~765年)は、「<新羅>全国各地の地名を固有語から<支那>風の漢字2文字に変更した。また、759年正月には中央官庁とそれに属する官職名についても<支那>風のものに変更している。地名改称については州に所属する郡県の区域の改定も行なっており、単なる美名改称ではなく、従来の三国時代の伝統を考慮した地方行政を律令体制の立場から再編推進しようとする意図のものであると考えられている」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%BE%B3%E7%8E%8B (「」内)(コラム#9510)

 (5)程明道(程顥(ていこう))(1032~1085年)

 「程明道・・・は、・・・「万物一体の仁」の説を次のような過程で展開していく。医書では手足の麻痺した症状を「不仁」と呼び、自己の心に対して何らの作用も及ぼしえなくなってしまっているためと解し、これを生の連帯の断絶とそれに対して無自覚であることを意味するとし、生意を回復せしめることが仁であるとした。つまり、「万物一体の仁」の一つの説は「知覚説」であり、痛痒の知覚をもつことを仁としているわけである。もう一つの説は、義・礼・智・信が、皆、仁であるとする立場であり、ここからは仁を「体」とし、五常を「用(作用)」と見なしていたことがわかる(明道にとって、仁は生である)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81 前掲

⇒孔子と孟子の仁論とは違って、程明道(程顥)の仁論は、人間以外の生物や自然も射程に入れたところの、人間主義論そのものだと言える。
 程顥(ていこう)は、「科挙のために学習することを嫌い、・・・老荘や仏教に惹かれたが再び六経の研究に戻った」人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E9%A1%A5
1500年前の孔子の仁論を、老荘や仏教、就中、1000年前に誕生した大乗仏教の慈悲論、をヒントに発展させることができた、と、私は見ている。
 (漢人文明の退嬰性、停滞性、が、この一点だけからも分かろうというものだ。)
 しかし、そんな程明道も、役人経験がなく、当然、軍事とも無縁であったこともあり、武力の行使と彼の万物一体の仁との関係を論じた形跡はない。
 ところで、「程顥・・・とその万物一体の仁と日本との関係に・・・思いを致<したい>。
 「呉越(・・・907年 – 978年)は、中国五代十国時代に現在の杭州市を中心に浙江省と江蘇省の一部を支配した国。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%B6%8A
だが、「呉越は935年にはじめて日本と国交を開いた。翌936年には、藤原忠平が呉越王に書を送り、良好な関係を築こうとした。940年には藤原仲平が、947年に藤原実頼が、953年に藤原師輔も呉越王に書を送った。957年には呉越王が黄金を送った。」(上掲)ということから、その後、宋が960年に建国され
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
てから更に約半世紀後に生まれた程顥が、当時、日本は宋とは私貿易が継続していただけ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%AE%8B%E8%B2%BF%E6%98%93
とは言え、宋の二代目の太宗(939~997年)が、「984年<に、>・・・「島夷(日本、東の島の異民族/蛮族)であると言うのに、彼ら(天皇家)は万世一系であり、その臣下もまた世襲していて絶えていないという。これぞまさしく古の王朝の在り方である。中国は唐李の乱(朱全忠による禅譲)により分裂し、後梁・後周・五代の王朝は、その存続期間が短く・・・、大臣も世襲できる者は少なかった。朕の徳はたとえ太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、大臣の子等に官位を継がせるのが朕の願いである」・・・<と>語った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)
こともあり、<程顥が>日本に関心を抱いていた可能性が大いにある。
 だとしたら、そんな程顥が、(そのほぼその全てが漢文で書かれた)『日本書紀』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
、就中、その仁徳天皇に関する部分を読んでいたとしても不思議ではない。・・・
https://kodainippon.com/2019/08/06/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%9b%b8%e7%b4%80%e3%83%bb%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%aa%9e%e8%a8%b3%e3%80%8c%e7%ac%ac%e5%8d%81%e4%b8%80%e5%b7%bb%ef%bc%9a%e4%bb%81%e5%be%b3%e5%a4%a9%e7%9a%87%e3%80%8d/
 程顥は、その中の、「「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから、人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは、自分が貧しいのと同じである。・・・」という仁徳天皇の言、も目にしていて、儒教に言う聖人の統治を、支那で本当の意味で実践した王や皇帝はいなかったけれど、日本にはいたこと、だからこそ、王統も臣下も万世一系である・・臣下がそうであることの方が重要かも・・ことに改めて深い感銘を受け、その背景にあるものを追求し、唐に留学した空海や円珍や安然が、支那仏教が唱えた「草木国土悉皆成仏」<(注97)>・・(私の言う)人間主義・・の思想に強い興味を示していたということを聞き及び、それを儒教の言葉に置き換えて主唱したのが、「万物一体の仁」だった、と、私は想像するに至っている。

(注97)「草木国土悉皆成仏<とは、>・・・『涅槃経』で説かれる言葉。草木や国土のような非情なものも,仏性を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく,6世紀頃,<支那>仏教のなかに見出されるが,特に日本で流行した。日本では空海が最初といわれ,次いで天台宗の円珍や安然らによっていわれた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%89%E6%9C%A8%E5%9B%BD%E5%9C%9F%E6%82%89%E7%9A%86%E6%88%90%E4%BB%8F-89720
 (私は、「この思想はインドにはなく」は誤りだと思う。・・・)

 程顥の思考過程は以下のようなものであったのではなかろうか。
 彼は、「老荘や仏教に惹かれたが再び六経の研究に戻<り、>・・・26歳で進士に合格し、38歳頃に中央官庁の役人になったが王安石と意見が合わず、その後は鄠・上元・沢州・汝州などの地方官として過ごした。・・・
周時代の文王の「民を視ること傷むが如し」という精神を座右の銘として、誠によって民を感化することを政治の要訣と考えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E9%A1%A5 前掲
という人物だが、彼は、官僚であった時に、新旧党争(1069年~)において、司馬光、蘇軾・蘇鉄らと共に旧法党の一員として王安石の新法党と党争を繰り広げたものの、「経済の発展とともに台頭してきた兼并(大地主・大商人)とその下で苦しむ客戸の格差も社会問題となっており、小作人である佃戸に対しては農地に課せられた税の他に水利権や農牛、農具、種籾の使用料に対して10割前後の利息を取っていた。また、自作農に対しても水利権や農牛、農具、種籾の用意を兼并が貸付として行い、それに対して4割という利息を取り立てる事もあった。これが払えなくなると土地を取り上げられてしまい、地主はますます土地を増やすことになる。また塩商たちも畦戸に対して同じことを行っていた。政治の主要な担い手である士大夫層は、多くがこの<兼并>層の出身であり、科挙を通過したものは官戸と呼ばれ、職役が免除されるなどの特権が与えられていた。これにより更に財産を積み上げるという状態であった。」ところ、旧法党は客観的には兼并の利益を代弁したいたのに対し、新法党も「最終的には地主や商人・役人達などが、・・・新法を私腹を肥やす道具として勝手に利用し始め、統制の取れなくなった宋の社会は破滅に向かっていく」ことを許してしまい、結局、1126年に、「金により・・・、北宋<は>滅ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B3%95%E3%83%BB%E6%97%A7%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84
という経過を辿る新旧党争のただ中に亡くなるけれど、王安石や自分自身を例外として(?)、支那の官僚(家臣)の非人間主義性に程顥は辟易し、太宗の日本評を思い出し、自分が若い時に身に着けた仏教の素養を活かして、日本人の人間主義性を、彼の言葉で「万物一体の仁」と名付け、その支那での普及を図ろうとした。いかがだろうか。」(コラム#14104、14106)
 以上の、私の日本の程顥への影響論を補強するのが、程顥(1032~1085年)とほぼ同時代人である知識人、但し、程顥とは違って役人であったところの、南蛮の血統の欧陽脩(1007~1072年)、が、日本に強い関心を抱いていたことを示すところの、『日本刀歌』(注98)という漢詩、を残していることだ。

 (注98)https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80%E6%AD%8C

 「この詩の中で欧陽脩は徐福が日本にいたったことをいい、その時代が焚書坑儒以前であったため、日本には「逸書百篇」(失われた『書経』の篇)が残る、といっている。もちろんこれは詩的誇張にすぎないが、日本に残る佚存書に言及したものとして注目される。
 『日本刀歌』は中国人の日本観のみならず、日本人の歴史観にも影響を及ぼした。『神皇正統記』の中で、「始皇帝が日本に長生不死の薬を求めたのに対し、日本は三皇五帝の本を求めたところ、すべて送られてきた。その5年後に焚書坑儒が行われたため、孔子の教えは日本に残ったという。この事は中国の本にも記されている」と言っているのは『日本刀歌』のことを指すと考えられる。
 『日本刀歌』には、「魚皮にて装貼(そうてん)す、香木の鞘、黄と白の閑雑(かんざつ)す、鍮(ちゅう)と銅」といった対句が記されていることから、彼の太刀は精巧な透かし彫りが施され、鞘は鮫皮をもって巻かれていたことがわかる。加えて、「佩服(はいふく)すればもって妖凶をはらうべし」とも述べられており、太刀の魔除け信仰についても11世紀の中国に伝わっていたことがわかる。このことは、日本刀が単なる美術品としてのみ輸出されたわけでないことを示す資料ともなっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E9%99%BD%E8%84%A9 (太田)

(6)朱熹(朱子。1130~1200年)

 「<朱子>の仁学は・・・1172 年・・・に作られた『仁説』に集中的に反映されている。その要旨をまとめれば、
 (1)仁は天地生物の心であることが明確に描かれる。
 (2)人は生まれると、その天地の心を得て「以て心と為し(以為心)」、これを「心の徳(心之徳)」と言う。
 (3)「その徳に四有り(其徳有四)」―つまり仁義礼智である。「仁は包ぜざる無し(仁无不包)」
―つまり仁は仁義礼智を主宰し貫通している。
 (4)道としての仁は「物に即して在り(即物而在)」、「此の体已に具う(此体已具)」という普遍的な存在である。仁は「衆善の長(衆善之長)」、「百行の本(百行之本)」であり、したがって、また「愛」のみではなく「愛の理(愛之理)」である。
 (5)この心の徳は天地においては「坱然<(注99)>として物を生む(坱然生物)」こととして現れ、人においては「温然として人を愛し物を利する(温然愛人利物)」こととして現れる。」(呉震「朱子の仁学思想」より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwic_7W6xISCAxWTGogKHXlSDgcQFnoECAwQAQ&url=https%3A%2F%2Fnichibun.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F6979%2Ffiles%2Fkosh_049_137.pdf&usg=AOvVaw0bk_cjWEEnK9gv4xUThzOo&opi=89978449

 (注99)「1. 孤独、一人でいること。2. 無知。・・・」(Google翻訳。中国語→日本語)

⇒朱子は、程明道の万物一体の仁を知りながら、仁の対象を人に限定しており、仁論を、事実上、孔子のそれにまで引き戻してしまった。
 (もちろん、朱子も、「朱熹は科挙に合格すると読書の幅を広げ、『楚辞』や禅録、兵法書、韓愈や曾鞏の文章などを読み、学問に没入した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E7%86%B9
と、兵学の本も読んではいるけれど、役人経験こそあれ、軍事に携わったことはなく、やはり、武力の行使と仁との関係を突き詰めて考えることはしなかった。)(太田)

 (7)王陽明(1472~1529年)

  ア 仁を巡って

 「致良知(ちりょうち)は、・・・明代に王守仁(王陽明)がおこした陽明学の実践法の一つ。
 人間は、生まれたときから心と体(理)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致する。王守仁は、実践に当たって私欲により曇っていない心の本体である良知を推し進めればよいと主張した。
 「良知」とは『孟子』の尽心篇の一節に基づいており、陽明は之を公孫丑篇の一節および告子篇の一節の「智」と同一のものとした。しかしながら、孟子は尽心篇において性善説に基づき良知及び良能が資質として備わっている(即ち完成させていく必要がある)としたのに対して、陽明はその良知をすでに完成しているものとし自身に備わっているとした。ただし、その「良知」自体は前述のように私欲等に曇っていない状態である事が大前提である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%B4%E8%89%AF%E7%9F%A5
 「『礼記』・・・大学篇の内容は、「三綱領」と「八条目」に要約される。三綱領とは、「明徳を明らかにし、民を新たにし(民を親しましむと読む説もある)、至善に止る」の三項、八条目とは、「格物、致知」の二項と、「意を誠にし、心を正し、身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らぐ」の六項を合せた八項目のこと。これらは全体として、儒教思想の体系を巧みに論理だてて、説き明かしている。ところが八項目のうち六項目については、『大学』の文中で詳しい解説が与えられているのに対し、「格物、致知」の二項については、一言も説明が加えられていない。「格物、致知」が解らなければ、段階を追って組み立てられている八条目の思想が出発点から曖昧になる。そこで、特に宋代以降、儒学者のあいだで、この解釈をめぐって儒教の根本問題として論争の的となった。・・・
 朱熹・・・は・・・格は「至(いたる)」、物は「事」と<し>、事物に触れ理を窮めていくことであるが、そこには読書も含められた。そして彼はこの格物窮理と居敬を「聖人学んで至るべし」という聖人に至るための方法論とした。・・・しかし、格物は単に読書だけでなく事物の観察研究を広く含めた。・・・
 一方、・・・王陽明・・・は、「格物」は外在的な物に至るというものではなく、物を「正す(格す)」として、自己の心に内在する事物を修正していくこととし、「致知」とは先天的な道徳知である良知を遮られることなく発揮する「致良知」だとした。ここで格物致知は自己の心を凝視する内省的なものとされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E7%89%A9%E8%87%B4%E7%9F%A5

⇒分かりにくいが、王陽明も、朱熹同様、仁論を孔子のそれにまで引き戻してしまっているように思える。
 但し、孟子の仁論は難行
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%A3%E8%A1%8C-590411
たる「原石/宝石」論であり、朱熹もこれを踏襲していると言えるところ、王陽明は「曇った鏡/曇りの取れた鏡」論は、曇りを取るには単に私欲等を抑制すれば足りる」というのだから、一見すると易行(いぎょう)
https://kotobank.jp/word/%E6%98%93%E8%A1%8C-431348
的ではある。
 儒者にとって仁は倫理の根源、根本であるところ、私見では仁とは私の言う人間主義のことであり、かつまた、人間主義性は本来人間全てに、少なくとも潜在的には備わっているのだから、どんな社会にも数はともあれ人間主義者はいる可能性はあるが、仮にいたとしても、それは聖人などという仰々しい存在ではありえないところ、そのことはさておき、朱子の言うように「読書」しても人間主義者になどなれないのであって、日本のような人間主義社会に住んで自分以外の大部分の人々・・人間主義者達・・の言動を「観察研究」しただけでも駄目なのであって、この「観察研究」を踏まえ、自ら人間主義的言動を行い続けることによって、初めて人間主義者たりうるのであるし、また、王陽明ご推奨のように、「私欲<を棄てること>」によって人間主義者になろうとするのも易しいようで難しいのであって、人間主義者達の言動を観察研究したことを踏まえて(それが回り回って実は自分の為になる、つまり、「私欲」を昇華的に成就させることに繋がる、ということを信じさせつつ)自ら人間主義的言動を行い続けるよう促すことこそが真の易行の薦めであると言えよう。
 ついでながら、口幅ったいけれど、王陽明の仁論を論じたところの、李鳳全「王陽明思想の一考察」、
https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/18125/ctr017_p035.pdf 
や、孫路易「王陽明の「良知」の再検討」、
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/234418/1/hct_026_067.pdf 
といった諸論考は、どちらも、読み進めることが容易ではなく、しかも、何の役にも立たなかったし、前掲の、
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwic_7W6xISCAxWTGogKHXlSDgcQFnoECAwQAQ&url=https%3A%2F%2Fnichibun.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F6979%2Ffiles%2Fkosh_049_137.pdf&usg=AOvVaw0bk_cjWEEnK9gv4xUThzOo&opi=89978449
論文についても、上で引用した箇所以外の箇所について、同じことが言える。
 これは、過去の儒者達自身と同じく、現在の儒教研究者もまた、仁論について、形而上学的なアプローチをすることに終始してしまっているからだ。
 それでは、分かりにくい上、不毛な成果しか得られないと思う。
 私のように、経験科学的・・私の人間主義性概念は、経験科学的概念だ・・にアプローチすることを、彼らに強く勧めたい。

  イ 軍事を巡って

 ところで、王陽明は、「26歳の時には北京で兵法を学んだ<上、>・・・高官とな<った後>、3つの軍事的業績を挙げ、後世「三征」と呼ばれた。
 1つ目は正徳11年(1516年)から5年かけた、江西・福建南部で相次いだ農民反乱や匪賊の巡撫・鎮圧である。この地方は地方官衙の統制が及びにくく、様々な紛争や軋轢が絶えなかった。追討の命を受けた王守仁は、商船を徴用して水路で進軍、民兵を組織してこれらをことごとく鎮圧、民政にも手腕を発揮し治安維持に務めた。
 2つ目はその最中の正徳14年(1519年)6月に明の宗室が起こした寧王の乱である。15日に反乱の一報を聞いた王守仁は直ちに軍を返し、未だ朝廷から追討命令が出ていないにもかかわらず吉安府で義兵を組織した。7月13日に吉安を進発し、寧王朱宸濠の軍が南京攻略のため不在となっていた反乱軍本拠地の南昌を急襲、これを落とした。慌てて戻ってきた寧王軍と24・25日にわたって会戦してこれを撃破し、26日に首謀者である寧王を捕らえた。王守仁はまともな軍事訓練をしていない烏合の衆を率いて、反乱に向けて準備を進めていた寧王軍を僅か2カ月足らずで鎮圧したことになり、その軍事能力の高さが窺える。8月、朝廷は寧王の残党が燻っていることを理由に正徳帝の親征を企てたが、王守仁は無用だと建白している。皇帝が北京を留守にすれば、宿敵たる西北国境の異民族に隙を付かれかねず、その経費や労力にかかる民衆への負担が大きすぎると述べ、王守仁の優秀な前線指揮官に留まらない、国家の大局・大勢を踏まえた戦略的思考がわかる。これらの功績により、王守仁は正徳16年(1521年)10月に新建伯に封じられた。
 3つ目は嘉靖6年(1527年)に広西で反乱が起きると、その討伐の命が下った件である。王守仁は辞退したが許されず、病(結核)をおして討伐軍を指揮し、それらを平定し事後処理を進めた。帰還命令が出ない中、独断で帰郷を図ったが、その帰途、病が重くなって南安府大庾県(現在の江西省贛州市大余県青龍鎮)の船中において57歳で死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E9%99%BD%E6%98%8E

⇒3つ目で王陽明が率いた軍の実態がこれだけでは分からないが、1つ目は「民兵を組織」、2つ目は「義兵を組織」、ということは、明には、常設の治安部隊がなきに等しかっただけでなく、常設の予備の治安部隊すらなかった、というわけであり、それこそ、内患と外患が同時並行的起こり、しかも、両者が提携でもするようなことがあれば、明が滅亡することは陽の目を見るより明らかだったと言えよう。
 王陽明が軍事指揮官として優秀だったことは間違いないが、彼が、この情けない状況を憂い、建白書を認めた的な話が全く伝わっていないどころか、軍事に係る民衆の負担の軽減を提言しているところを見ると、王陽明は軍事を軽視していたと言わざるをえないところ、この点でも、仁と武との関係性を論じなかった孔子を思い出してしまう。(太田)

 (6)李卓吾(李贄(りし))(1527~1602年)

 「李卓吾は儒教・仏教・道教の三教の融合を唱えていた<。>・・・
 李卓吾への批判はその思想だけでなく生活習慣(僧形となったこと、剃髪、極度の潔癖症であったこと、女性にも学問を講義したこと)にまで及び、彼を悩ますことになる。62歳の時に落髪出家(剃髪)を行ったとされる。李卓吾自身は、儒書をまとめた『初潭集』を編集するなど儒者の精神を捨てたわけではなかったが、世間で剃髪は”世俗との訣別、儒者の放棄”と受け取られる行為として、役人などからも大きく批判され、迫害や逮捕につながるものとなった。・・・
 李卓吾思想の真髄は童心説にある。「童」が童子、赤ん坊と言う意味であり、人間が生まれたままの自然状態である。「童心」<(注100)>とは偽りのない純真無垢な心、真心を言う。

 (注100)「李贄は救いがたいほどに世俗的な汚濁,後天的な習気にまみれている現存在する人間に対する反措定として,後天的世俗的なものにいっさい汚染されていない童心こそが人間の本来性を象徴するものとし,万人が本来完全に具有するこの童心を覚醒して悪の世界から自己救済することを強調した。・・・
 その童心は私欲すなわち勢利(地位財利)の欲望を含むものであり,聖人といえども人間である以上,私欲をもつものである。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AB%A5%E5%BF%83%E8%AA%AC-1189024

 これは陽明学の「良知」を発展させた先に李卓吾が到達したものである。李卓吾によれば、誰もが持つこの「童心」は人間が成長して社会生活を営み、文明化されるにつれて、道理や見聞、知識を得るなど外からもたらされるものによって曇らされ、失われるという。

⇒「童心」と「仁」との関係を(恐らく李卓吾自身が論じていないのだろうが、)誰も論じてくれていないが、仮に、イコールだとすれば、やはり、彼もまた、仁論を孔子のそれにまで引き戻してしまっているように思える。(太田)

 この思想が危険視されるのは、当時正統イデオロギーとなっていた朱子学における聖人に至る道を否定している点にある。朱子学では心を性と情に分かち性こそ理とする「性即理」をテーゼとするが、性を発露するために読書などによって研鑽を積まねばならないとする。しかるに李卓吾はそのように多くの書物を読んで道理や見聞を得ると言う研鑽そのものが「童心」を失わせるとして排し、否定的に捉えるのである。

⇒そもそも李卓吾は舌足らずだ。
 彼自身、王陽明の「著作の読書などによって研鑽を積」んで自分の説に到達したのであるし、自分の説を記した著作の「読書などによって研鑽を積」んでくれることを期待して自分の著作群を残した筈だからだ。
 例えば、李卓吾は、その『焚書』に収録されている「忠義水滸伝叙」で、「「童心」から生まれた「古今の至文」のひとつとして『水滸伝』を挙げてい<る>」
https://picosuiko.hatenablog.com/entry/2021/05/19/080000
ところ、彼の説の核心たる童心論を人々に読んで理解もらうためにこの「忠義水滸伝叙」を書いた筈だし、当然、『水滸伝』もかかる観点から読んでもらったり読み返してもらったりすることを願っていた筈だ。(太田)

 そして「童心」を失った者が成す文や行動がいかに巧みであろうと仮(にせ)であって、真なるものでは無いとする。・・・
 士大夫的価値観への嫌悪・反発が明確に吐露されている例として、それまで儒者によって貶められてきた歴史上の人物や文学の顕彰が挙げられる。たとえば秦の始皇帝や馮道<(注101)>といったそれまで高く評価されてこなかった人々を再評価し、また『西廂記』・『西遊記』・『水滸伝』を・・・「童心」の発露<であるとし、>・・・『史記』や『離騒』とならぶ古今の至文と評価している。・・・

 (注101)ふうどう(882~954年)。「五代十国時代には皇帝・王朝が激しく入れ替わったが、その中で馮道は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐・後晋・後漢・後周)と、後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった。
 馮道は自分の仕えた主君たちを「五朝八姓十一君」と称している。・・・
 宰相としての在任期間は20年に及ぶ。節度使出身である五代の武人皇帝や北方の遼の皇帝たちには、農民に対する哀れみの心が少なかったため、時に暴走する皇帝を諫め続け、時の民衆に敬仰された。
 一例を挙げれば、遼の耶律堯骨が開封に入った時に漢族を虐殺し、略奪を行いそうになった。
 その時、馮道は「今、仏陀がここに現れても民衆を救うことは出来ず、ただ皇帝である貴方だけが民衆を救うことが出来るのです(此時仏出救不得、唯皇帝救得)」と耶律堯骨の気持ちを持ち上げて、漢族への虐殺行為を止めた。・・・
 朱子学的見地からは売国奴、変節漢と呼ばれ、司馬光なども「貞女は二夫に従わず、忠臣は二君に仕えず」と痛切に批判している。・・・
 また、馮道が遼の皇帝を「仏以上」とおだてたことも批判されている。
 しかし一方で、馮道は当時の人々には大いに尊敬された。また後世の歴史家の中でも、馮道を弁護する者がいる。
 中でも異端の歴史家といわれる李卓吾は「孟子は『社稷<(国家)>を重しと為し、君主を軽しと為す』と言っている。馮道はこれを体現し、民衆を安寧にした」と絶賛している。ただし「これは五代のような時代だから許されることであって、他の時代の変節漢がこれを言い訳としてはいけない」とも述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E9%81%93 

 さて、「中共の現在の東北工程史観では、遼人だって支那人であって、もはや馮道や李卓吾の時代のように異民族とはみなされていない以上、馮道が遼の皇帝に胡麻を擦ってもso what?でおしまいだが、それはともかくとして、後晋や北宋が遼に燕雲十六州を取られっぱなしになってしまったのは、漢以来の歴代漢人王朝(漢人化王朝を含む)の軍事軽視の結果であり、そのことを無視して馮道を月旦すること自体が空しいことである上、「「二帝之北狩」とは徽宗・欽宗が金軍に拐われた靖康の変を指し、「南渡之苟安」とは靖康の変の後、宋室が南渡して南宋を興したことを指・・・す<が、>宋王室が被ったこれらの屈辱的な事件に憤った施・羅の二人は、梁山泊の好漢たちが「忠義」を尽くし、遼国征伐や方臘討伐を果たす物語を描くことでその憤懣を晴らした、というのが李卓吾の解釈」
https://picosuiko.hatenablog.com/entry/2021/05/19/080000
であるところ、梁山泊の好漢達以外の宋人達も「童心」を失ってさえいなければ、北宋は燕雲十六州を回復できたし、況や、南渡して南宋化する憂き目にも遭わなかった、と、李卓吾は主張しているわけだが、彼は、「童心」すなわち「仁」、と、「武」、とが両立し難いどころか、「仁」は「武」を促進する、と、思い込んでいた、ということになりそうだ。
 これでは、(以前、コラム#14102・・・で記したよう<ところの>)李卓吾も軍事を軽視していた、というのは<むしろ>彼に対する過大評価であって、・・・彼は軍事音痴であった、と、断じるべきかもしれない。
 ところで、「「明<は、永楽帝当時とは打って変わって>・・・海禁政策をとっ<てい>た<ところ、>唯一日本<だけ>は勘合を用いた朝貢貿易(日明貿易)を許されていたが、これも1523年の寧波の乱によって破滅的な終焉を迎えた。またまったく同時期には、南方から進出してきたポルトガル人が九龍半島の屯門を占拠する事件(西草湾の戦い)が発生するなどして、<支那>沿海は秩序を失い始めていた。
 明政府が対外貿易を取りやめたため、日明貿易に従事していた海商は大打撃を受け、海賊化した。こうして登場した後期倭寇は、日本人ばかりによるものではなく、むしろ王直のような<支那>人が主であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%99%9C%E5%8D%97%E5%80%AD
といった倭寇問題、や、慶長文禄の役、といったことを通じ、役人生活も長かった李卓吾が、日本に強い関心を持たざるを得なかった上に、日本の為政者達同様、ポルトガル/キリスト教とも取り組まざるを得なかった、ということもあり、日本に造詣が深くなった、としても不思議ではない。
 「李卓吾は儒教・仏教・道教の三教の融合を唱えていた」という<(前出)>が、これは、彼が、日本では儒教・仏教・神道の三教が融合している、と、マテオ・リッチ等のイエズス会員から聞き、それをヒントにした可能性を、あながち、と否定できないのではなかろうか。
 「童心」についても、程顥の「万物一体の仁」(<前>出)をベースに、(人間以外の生物や自然の話は捨象しつつ、)リッチ等から日本人(の大部分である縄文人)の国民性を聞き、それもヒントにして、より焦点を絞ったところの意味もより明確なものにした、とも。
 なお、「<清の当時の大学者である>阮元<(1764~1849年)は、>日本人の著作を読んでいたことが・・・分か<っている>が、このことからも、私が、程顥や李卓吾が日本や日本人の著作の影響を受けている可能性を指摘したことの信憑性が増すというもの<だ。>」(コラム#14124)
 話を元に戻そう。
 吉田松陰は李卓吾を日本に逆輸入したわけだが、本居宣長もまたそうした可能性・・例えば、「童心」もヒントにして「もののあはれ」を言い出した、といった可能性は大いにある、と、私は思う。
 一つだけつけ加えると、この李卓吾もまた、軍事に関心を持ったり、日本の弥生性に注目したりした形跡がないのは、李卓吾ですら、統一支那時代が始まって以来の支那知識人の致命的限界を乗り越えられなかったと言うべきか。(太田)」(コラム#14102)

 「野山獄中に於いて李卓吾の『焚書』を読んで非常に感激したという吉田松陰は李卓吾に深い思い入れを持っていた。吉田松陰は獄死する一年ほど前から李卓吾に関心を寄せ、彼が<支那>の史書から言葉を抜き出したというノートには李卓吾に関係するもの(『焚書』や『続蔵書』など)が多く残され、その印象を入江杉蔵や品川弥二郎をはじめとする多くの門下生へと書き送ったという。『焚書』の抄録については、これを形見として残し実読を勧める旨記された書簡とともに高杉晋作に届けるよう久坂玄瑞に命じたことが知られている。
 吉田松陰は、李卓吾の時代や思想とは異質性はあったものの、その思想の中から自らを投影しその文章などを自己表現の一つとした。
 明治に入って李卓吾を顕彰したのは三宅雪嶺著『王陽明』(1894年)に寄せた陸羯南の跋文「王陽明の後に題す」であり、また内藤湖南は遺著『支那史学史』(1949年)に「李贄の史論」の章を立て「古今未曾有の過激思想」と評したが、それ以前に早く「李氏蔵書」(「読書記三則」の一、初出1902年。『目睹書譚』所収)で「但だ此は激薬の若し、以て常食とはすべからず」としながら一読を奨めていた。これらが清末<支那>人留学生の眼に触れて李卓吾再発見の一つの機縁をなした可能性が、島田虔次によって示唆されている。
 「神の道」を提唱した本居宣長も、李卓吾の提唱した「童心」と似た思想を展開している。本居宣長は「道」の根本的な意味が「真心」にあり、それは童心と同じように成長する過程で得る知識や学習などにより失ってしまうと<い>う。この真心も童心も、共に過ごし「生まれつき」「自然な状態」を強調している。本居宣長の「内なる自然」として人間の私欲を容認していると言う点は李卓吾の思想に通じる所がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%8D%93%E5%90%BE

⇒ここに出てくる、「本居宣長は「道」の根本的な意味が「真心」にあり、それは童心と同じように成長する過程で得る知識や学習などにより失ってしまうと<主張した>」という宣長評、は、間違っていると思う。
 宣長が、例えば、『古事記』や『源氏物語』に関する「知識や学習」を、推奨こそすれ、否定するわけがないからだ(後述するところも参照)。
 いずれにせよ、「真心」(=「もののあわれ」等々=人間主義性)と「武」の両立可能性を武士ではない宣長が追究しなかったとしてもそれは必ずしも咎められないのに対し、松陰が李卓吾に心酔したことは理解はできる(注102)ものの、武士たる松陰が留保なしに李卓吾を推奨したのは無責任の誹りを免れまい。

 (注102)「李卓吾が「仮」として対抗しているのは、端的にいえば社会の既成観念、具体的には当時の朱子学的な道統観念であり、またそれにとらわれて自己のあるいは人間の真実の希求や欲求を忘却することです。それで人は、絶仮純真すなわち仮を絶ち純粋に真であるところの最初一念の本心、つまりぎりぎりやむにやまれぬ赤裸々な童心に依拠して、「真」の生、また真の生によって構築される「真」にあるべき社会関係や社会理念を自分のものにしなければならない、というのです。・・・(中略)・・・この「真」は既存の社会通念に対しては破壊的に、またあるべき未来の社会像に対しては創造的に作用することになります。このように社会関係に対して破壊的でありつつ同時に創造的に作用するというこの点が、李卓吾の「真と仮」を老荘や仏教のそれと区別します。現在の社会通念や社会関係を一時的な仮のものとする点では彼らは大ざっぱには共通するけれども、老荘や仏教が現在であれ未来であれ人間の社会関係そのものを仮のものとみなしてそれには価値を見いださないのとちがって、李卓吾の場合は否定するのはあくまで現在の「仮」の社会関係であって、あるべき未来の「真」の社会関係に対しては、むしろ希求は強いのです。」(溝口雄三「李卓吾 正道を歩む異端」(中国の人と思想10 集英社 1985年)より)
https://quercus-mikasa.com/archives/3017 ←より孫引き

(7)結論

 孔子の考えを孟子と荀子がそれぞれ、異なった部分で少し進めたけれど、爾後、孔子の思想を矮小化・迷信化して成立した儒教は、漢文明の国家イデオロギーとなり、漢文明の退嬰性・停滞性をもたらし、その結果として、儒教自身も、程顥の「万物一体の仁」以外の成果は皆無で、その中身こそ変わったけれど、孔子の思想を矮小化・迷信化したまま推移したと言ってよかろう。


[枢軸の時代再訪]

一 序

 「カール・ヤスパースは、・・・紀元前500年頃を中心とする前後300年の幅をもつ時代・・・には東西にすぐれた思想家が輩出し、その特徴は、「自己の限界を自覚的に把握すると同時に、人間は自己の最高目標を定め」、人びとが「人間いかに生きるべきか」を考えるようになった点にあり、これらの思想は、のちのあらゆる人類の思想の根源となったことを指摘し<た>」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%BB%B8%E6%99%82%E4%BB%A3
ところ、この指摘は、(後述の理由から、「前後300年」を倍の「前後600年」に変えた方がよいと思うに至っているがそれはともかくとして、)枢軸時代がどうして出現したかについては論じていないに等しい。
 私は、狩猟採集時代の人間は、基本的に人間主義的であったと考えており、農業革命以降、人口密度が飛躍的に高まると共に富の集積と偏在が生じたことによって深刻な紛争が多発するようになったことに危機意識を抱いた結果、農業革命の時期の違いに応じて、しかし、世界各地において「人間いかに生きるべきか」が模索され始めたところ、それを枢軸の時代、と、捉えたらどうか、と考えているわけだ(コラム#省略)。

二 孔子/孫武 

 支那に関しては、孔子が、世界で初めて人間主義の復活とその方法論を提示し、孫武が、世界で初めて軍事戦略論を提示したことが銘記されるべきだろう。
 孔子(BC552/551~BC479年)については上述した通りだ。
 この孔子と孫武(BC535頃~?年)は、ほぼ同時代人であって、孔子は魯で生まれ、高官を務め、斉滞在歴もあるのに対し、孫武は斉生まれで呉で高級将官を務めており、接点すらあった可能性が排除できず、少なくとも相互にその著作等に関心を寄せ合う関係にあったとしても全く不思議ではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90 ※ ←事実関係
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A6 ←事実関係
 孔子は軍事面でもしばしば魯王に意見具申を行ない(※)、孫武は「将とは智・信・仁・勇・厳なり。」(『孫子』第一 計篇)
https://esdiscovery.jp/knowledge/classic/china5/sonshi001.html
と仁にも言及している、にもかかわらず、孔子は軍事について語らず、孫武は厳と仁の両立方法について語らなかったのは、互いに相手の得意分野に立ち入ることを控えた、避けた、という可能性を想定してみたくなる。

三 イエス

 (一)前史1(ユダヤ教)

 「『創世記』によれば、人間はエデンの園に生る全ての樹の実は食べても良いが、知恵(善悪の知識)の樹の実だけは、ヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)により食べることを禁じられていた(禁断の果実)。なぜなら知恵の樹の実を食べると必ず死ぬからである。
 しかし人間を神に背かせようとする蛇に唆されて、初めにイヴが、その次にイヴの勧めでアダムが知恵の樹の実を食べたことによって、善悪の知識を得たアダムとイヴは、裸の姿を恥ずかしいと思うようになり、イチジクの葉で陰部を隠した。
 それにより神は事の次第を知り、知恵の樹の実を食べた人間が生命の樹の実までも食べ永遠に生きるおそれがあることから、アダムとイヴはエデンの園を追放される。この出来事を「失楽園」という。キリスト教ではこの出来事は神に対する不服従の罪であり原罪とされるが、ユダヤ教には「原罪」というものは存在しない。
 この出来事により、人間は必ず死ぬようになり、男には労働の苦役が、女には出産の苦しみが、もたらされるようになった。蛇は神の呪いを受け地を這いずることになった(蛇に足が無いことの起源)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%B5%E3%81%AE%E6%A8%B9
 「ユダヤ教においては、アダムとハヴァは全人類の祖とみなされてはいない。天地創造の際に神は獣、家畜、海空の生き物と同時に神の似姿の人間を創造し、アダムの誕生とは区別して記述されているからである。アダムはあくまでもユダヤ人の祖であり、その他の人類は魂(命の息)を吹き入れられていない、つまり本当の理性を持たない人であり、ゴイムとされる。神の民族がその他人類と交わり、子孫を残していく記述が聖書に散見されるが、その中でも律法を守り、神に従う者がアダムの直系であるアブラハムの民であり、イスラエル(ヤコブ)、ユダヤの民とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%90

 この失楽園話には、人間(一般)の堕落が描かれていないので、そこには、人間主義性の喪失の認識と回復への希求につながるものは何もない。
 但し、イエス、というか、キリスト教が、この話を、人間一般の堕落への神の怒り、と捉えなおした(すり替えた)ところ、その材料を与えたことから、ユダヤ教を「前史」に位置付けた次第だ。
 (同じ『創世紀』に出てくるノア箱舟の話は、「紀元前3千年紀に遡る可能性が極めて高い・・・『ギルガメシュ叙事詩』中の洪水物語を流用したものであり、神の怒りの内容が定かではなく、また、懲罰対象が人間を含む全動物であること、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%96%B9%E8%88%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%8F%99%E4%BA%8B%E8%A9%A9
等、から、取り上げなった。
 また、やはり同じ『創世紀』に出てくる、神天からの硫黄と火によって滅ぼしたソドムとゴモラの話は、人間(一般)どころか、特定の2都市の住民を対象としている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%89%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%82%B4%E3%83%A2%E3%83%A9
ことから、取り上げなかった。)

 (二)前史2(古典ギリシャ)

 古典ギリシャには、「人間」ないし「人類」なる概念がなかったと言っても過言ではない。
 まず、ヘレネス(ギリシャ人同胞)が分断されていた。↓

 「プラトンは、主著『国家』第4巻にて、国家にも個人にも共通して持たれるべき徳目として、・・・〈魂の三分割説に対応させて説いた〉[知恵,勇気,節制,正義]・・・の四元徳を挙げている。〈正義は<知恵、勇気、節制という>三つの部分に理性を中心にした支配と従属の関係が成り立ち、魂全体が秩序と調和のとれた状態になる徳である。〉また、『プロタゴラス』では、徳の部分に関して、この四元徳に「敬虔」も加えて言及している。また、『ゴルギアス』でもやはり同じように、徳に関して、この四元徳に「敬虔」を加える形で言及している。
 なお、『国家』の伝統的副題は「正義について」であり、「正義」という観点から議論が進められる。「節制」を主題に扱った対話篇としては『カルミデス』が、「勇気」を主題に扱った対話篇としては『ラケス』が、「敬虔」を主題に扱った対話篇としては『エウテュプロン』ある。
 <改めて後述するが、>アリストテレスも、『ニコマコス倫理学』や『弁論術』の中で、これらのみを強調しているわけではないが、当然のごとく主要な徳目の中に入れて説明している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%A6%81%E5%BE%B3
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%85%83%E5%BE%B3-1329780 ([]内)
https://hitopedia.net/%E5%9B%9B%E5%85%83%E5%BE%B3/#gsc.tab=0 (〈〉内)
 「プラトンは、理想的な国家のあり方について考えるために、国民を、「守護者」「補助者」「大衆」の3つの階層=「種族」に分けた。
 「守護者」とは、「優秀支配者」=政治家のことで、〝知〟を愛する者<・・哲人・・>が想定されている。
 「補助者」とは、「気概<(勇気)>ある軍人」のことで、戦争においてひるむことなく敵と戦い、自分が楯(たて)となって国家と国民を死守する者が想定されている。
 「大衆」とは、農夫、大工、職人、商人といった一般市民のことで、「守護者」と「補助者」を養う<節制のある>者が想定されている。・・・
 プラトンは、誰がどの階層に入るかは、血筋ではなく、本人の資質と能力によって決められるべきだと考えたのである。・・・
 「大衆」の階層に生まれても、「守護者」となるにふさわしい資質が認められれば、「守護者」としての教育を受け、「守護者」の階層へ移される。」
https://bookguide.site/basic-knowledge/plato/
 但し、このほかに奴隷がいた。
 やがて、「ヘレネスはすべて自由民であるべきであり,奴隷はバルバロイ<(下出)>だけから供給すべきだとの思想も生じた。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%8D%E3%82%B9-130935
 また、ヘレネスとバルバロイ(それ以外の異民族)・・野蛮人・・が二項対立概念として成立していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%AD%E3%82%A4
 ちなみに、「師であるソクラテスが民主政治下で不当な裁判によって処刑されたことから、プラトンは民主政治への疑念を抱くようになった。そして様々な思索を巡らせた結果、哲人政治の思想へたどり着いた。
 プラトンは哲人政治を実現させようと、いくつかの試みを行っている。
 アカデメイアを創設し、哲人王となる人材を育成しようとした。アカデメイアからは哲人王こそ現れなかったものの、優れた人材を多数輩出した。
 シラクサの僭主ディオニュシオス2世に哲学を学ばせ、哲人王に導こうとした。また、その親戚のディオンはプラトンに心酔し、その弟子となった(プラトンをシラクサに招聘したのは彼である)。結局ディオニュシオス2世にはプラトンの理念は根付かず、ディオンはクーデターを起こしたものの失敗し、暗殺された。
 プラトンの試みは結果として失敗に終わったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E4%BA%BA%E6%94%BF%E6%B2%BB
 このプラトンの遺志を継いで、この試みに成功したのが、プラトンの弟子のアリストテレスなのだ。
 (ここで注意すべきは、第一に、補助者たる軍人、には将校は含まれず、将校は守護者たる哲人に位置付けられていた筈だということだ。さもないと、何よりもまず軍人であったところの、エパメイノンダスもフィリッポス2世もアレクサンドロス3世も補助者たる軍人であって守護者たる哲人ではない、ということになりかねないからだ。第二に、プラトン/アリストテレスの「民主政治への疑念」は、直接民主制への疑念だったということであり、間接民主制・・議員が守護者たる哲人達よるなる、例えば理想的な議院内閣制・・への疑念ではなかったということだ。さもないと、直接民主制による王の選出を是としたフィリッポス2世は哲人王とは言えないということになりかねないからだ。
 参考までだが、「プラトン<は、>・・・最後の対話篇である『法律』第3巻では、スパルタ(ラケダイモン)の王家・長老会・民選の監督官から成る混合政体を、「調和」「適度」を保つことができる体制であるとして、クレタの国制と共に評価し、他方で民主制の下での自由追及に偏ってしまったアテナイと、君主制の下での専制に偏ってしまったペルシアを、両極端に偏ってしまった失敗例として言及している。」し、「アリストテレスは、『政治学』第3巻7章において、政体/国制を、「国民共通の公共の利益」(すなわち、国民全体を「最高善」へと導いて行くこと)を目的とした正しい国制としての
「王制」(バシレイア)
「貴族制」(アリストクラティア)
「共和制」(ポリテイア)
と、誤った逸脱的国制としての
「僭主制」(テュランニス) – 「独裁者の利益」を目的
「寡頭制」(オリガルキア) – 「富裕者の利益」を目的
「民主制」(デモクラティア) – 「貧困者の利益」を目的
に6分類している。)
 そして第3巻15章において、王制から寡頭制、僭主制、民主制の順で政体が変動する説を披露している他、第5巻において、各国制に変革が生じる要因・メカニズムや、勢力均衡・中庸などの重要性を説いている。
 また、第4巻11章-12章では、「中間層によって支配された混合政体」こそが、「極端な民主制」「極端な寡頭制」という両極端に走るのを防止し国制を安定させる、一般論として「現実的に最善の国制」であると指摘している。」ところだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E4%BD%93%E5%BE%AA%E7%92%B0%E8%AB%96 )

 アリストテレスは、かかる、プラトンの世界観/倫理学を所与の前提としていた。
 アリストテレスの『二コマコス倫理学』を、「自分が潜在的にもっている能力を十全に発揮することで「幸福」になっていくことを目指す倫理学。そう、これは、わかりやすい言葉でいうと、一般に「自己啓発書」といわれるものの元祖ではないか」
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/119_nicoma/index.html
と評するのはあながち間違っていないと思うが、そうだとして、肝心なのは、これは、「人間」一般のためではなく、あくまでも、ポリスにおける「統治者<(守護者)>階級」のための倫理学本であり、自己啓発書である、ということなのだ。
 そのことを間接的に示すのが、「マケドニア王国の支配下にあった・・・トラキア地方・・・<に>出生<し、>・・・アテナイ<の>・・・プラトン主催の学園、アカデメイア<で学んだという背景の下、アリストテレスが、>・・・紀元前342年、・・・<哲人王と目された(太田)>マケドニア王フィリッポス2世の招聘により・・・首都ペラから離れたところにミエザの学園を作り<、>・・・当時・・・<の>王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)・・・<と、マケドニアの>貴族<(守護者)>階級の子弟<達・・補助者階級や大衆階級の子弟達ではない!・・を>・・・教えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9
ことだ。
 補足しよう。
 「エパメイノンダス<(エパミノンダス。BC420?~BC362年)>はテーバイの貴族として生まれた。貧困貴族であったが、高い教育を受け、中でもピュタゴラス派の哲学を愛好した。
 重装歩兵として軍隊に参加し、紀元前385年にはギリシアの覇権を狙うスパルタの援軍として、マンティネイア攻略に神聖隊を率いて参加した。親友であったペロピダスが負傷、スパルタに救出されるまで彼を守り抜いた。
 紀元前383年、スパルタはテーバイを併合し、併合反対派の有力者を追放した。被追放者にはペロピダスが含まれていたが、危険がないとみなされたエパメイノンダスは追放を免れた。エパメイノンダスはアテナイで母国解放の機会をうかがっていたペロピダスの連絡を受け、テーバイの独立を計る。紀元前379年、ペロピダス一派によるテーバイ市民の決起が成功し、テーバイはスパルタの支配から脱した。
 テーバイはペロピダス指導の下、利害の一致したアテナイと結び、スパルタとの戦闘を避けつつ講和に有利な状況をつくりだしたが、次第にアテナイと反目するようになる。紀元前374年には講和会議が開かれたが、ボイオティア諸都市からの撤退を要求するスパルタ王アゲシラオス2世と決裂。スパルタはテーバイの攻略を決意する。
 紀元前371年、エパメイノンダスはボイオティア諸都市から集められた軍勢の総司令官として、スパルタ率いるペロポネソス同盟軍と対決した(レウクトラの戦い)。この戦いで彼は斜線陣を用い、神聖隊を率いて戦い、劣勢でありながら圧倒的な勝利をもたらした。
 その後ギリシアの覇権を求めて紀元前370年、ペロポネソス遠征を決行する。途中、指揮権の任期が切れたが進軍を続け、スパルタの要衝を攻撃した。しかしアテナイがスパルタの支援を決め、進軍も困難になったため、テーバイに帰国した。帰国後、母国の指擦官は、無許可の指揮権延長を違法とし、彼への死刑裁判を求めたが、エパメイノンダスは自身の演説によって窮地を脱した。この後、再び遠征し、スパルタとアテナイに打撃を与えたが、反撃の機会をうかがっていた国内の政敵により、戦果不足を糾弾されて政界から追放される。その後の戦闘では一兵卒として参加、自軍が敵の待ち伏せに遭い全滅の危機に陥った際には、彼は指揮権を委譲されて自軍の危機を救った。
 紀元前362年、テゲアの出兵要請に応えたテーバイは、マンティネイアと結んだスパルタ、アテナイと再び対立し、四度目のペロポネソス遠征を行った。エパメイノンダスはスパルタやマンティネイアを奇襲するも戦果が上がらず、会戦に訴えた(マンティネイアの戦い)。この戦いでエパメイノンダスは自ら突撃隊を率い敵を敗走させたが、自身は戦闘の最中に槍を受けて戦死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%91%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9
 「<このエパメイノンダスが率いていた>テーバイに3年の間人質として滞在し、その政治や軍事を学んだ<フィ>リッポス2世は、・・・ギリシア先進地帯を手本とし、ポリスを作ることによって牧羊民が安心して暮らせるようにし、市民共同体も創始した。また、同時に地域を支配する豪族を宮廷貴族とすることによって、中央集権的な体制も整えていった。・・・マケドニアでは、王があらゆる決定権を持つが、・・・マケドニア民会は、王位継承の際には、次王の後継者を多数決で選ぶことができ<るようにし>た。・・・
 そして紀元前338年、カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍に勝利し、翌紀元前337年にはスパルタを除く全ギリシアを統一するコリントス同盟を結成し、その盟主となった。・・・
 <その上で、>アケメネス朝を打倒すべく東方遠征の準備に取りかかる<が、>・・・紀元前336年、<フィ>リッポス2世が暗殺され、その息子アレクサンドロス3世(大王)が後を継いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
ところ、アリストテレスは、その「翌年の紀元前335年、・・・アテナイに戻り、・・・アテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9
ところ、これは、巨大ポリスたるマケドニアに自分が手塩にかけた(プラトンが夢見た)哲人王のアレクサンドロスが即位し、その独裁の下で、バルバロイ世界の征服/ヘレネス世界の拡大、に乗り出すお膳立てが整ったことから、自分の実世界での役割は終わったと考えたからだろう。
 次に、古典ギリシャには歴史がなかった。
 ヘロドトス(BC484?~BC425年?)は、西欧において「歴史の父」と呼ばれているが、その著作の『歴史』は、「ペルシア戦争を主題にした1種の同時代史」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%88%E3%82%B9
ならぬ、[重要事件の記録]でしかないし、トゥキュディデス(BC460?~BC395年)も歴史家とされているが、その著作の『戦史』は、「ペロポネソス戦争」の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%87%E3%82%B9
ならぬ、やはり、[重要事件の記録]でしかない。
 更に言えば、ホメロス(BC8世紀?)は、「『イーリアス』と『オデュッセイア』はホメーロスの作品と考えられ」ていて、「西<欧>において叙事詩というジャンルを確立した・・・西<欧>文学の父」とされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%82%B9
が、『イーリアス』と『オデュッセイア』は、トロイ戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
の印象論的スケッチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%A2
たる[歴史文学]である、と言えそうだ。
 つまり、古典ギリシア人の歴史書なるものは、「ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』<のような、>・・・歴史記述を目的としたわけではない重要事件の記録がのちに歴史書と見なされ<たものか、>・・・『三国志演義』など<のような>・・・歴史文学<、でしかなく、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%9B%B8 ([]内も)
個人の生涯や国や社会の変遷を論理的に叙述する、私の念頭にある歴史書ではないのだ。
 つまり、古典ギリシャ人には、人間の人間主義の喪失、なる意識を抱く前提であるところの、「人間」の観念も、「歴史」の観念も、なかったのであって、彼らの世界観は、ヘレネスの時間がひたすら経過して行くだけ、という、ジコチューかつのっぺりとしたものであったわけだ。
 しかし、人間はどう生きるべきか、を追求する倫理学の萌芽を見いだせることから、これもキリスト教の核心部分の成立に影響を与えたと考えられる故に、古典ギリシアについても、ユダヤ教と並んで「前史」に位置付けた次第だ。
 (古典ギリシャの最大の貢献は科学の形成であり、「第1にオリエントの科学が個別的事実を記録し収集するのにとどまったのに対し,ギリシア科学はそれを統一的原理により一般的に説明しようとした。第2にオリエントでは,ある事象が起こった原因を説明しようとする場合,それを神々の意志や行為に帰す神話(ミュトス)の形をとったが,ギリシア科学ではそうした超自然なものはいっさい排除して,あくまでも自然的なものに即して合理的説明(ロゴス)を貫徹した。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%A7%91%E5%AD%A6-1159858
ところが、そうなのだが、私見では、自然科学に比して人文社会科学では成果に乏しく、その唯一最大の成果は、上述したところの、民主主義的要素を包含しつつも、そうでない要素も含まれたところの、混合政体を最善、とした点だろう。
 さしずめ、イギリスが生み出した議院内閣制は、権威と権力の分離、間接民主制、オックスブリッジなる哲人為政者養成システム、等からなる、古典ギリシャ的混合政体の理念型的存在、と、言えるのかもしれない。)

(参考1)ユートピア

 ユートピアは、地理的意味での西欧で生まれたところの、古典ギリシャのアテネを理念型化したものであると言ってよさそうだ。↓

 「ユートピア<は、>・・・決して「自然のなかの夢幻郷」ではない。それは人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾「合理的」な場所である。西ヨーロッパにおいてはこの模範はギリシャ社会を厳格に解釈したものに求められる。こうして生まれた「ユートピア」自体にディストピアの種が内包されていたのであるという説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2

 (三)ナザレのイエス

 ナザレのイエス(BC6/4?~AD30年?)は、ガリラヤのナザレかユダヤのベツレヘムで生まれ、エルサレム城外ゴルゴタの丘で刑死したユダヤ人だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9
 イエスの諸福音書(言行録)中、新約聖書の筆頭に置かれる『マタイによる福音書』は最初からギリシャ語で書かれたという説が有力だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8
 すなわち、キリスト教における下掲の(私が考えているところの)教義の核心は、ユダヤ教と古典ギリシャ(注103)という二つの文明を止揚して生まれたものだ、と、私は見るに至っている。

 (注103)「『ソクラテスの思い出』(以下『思い出』と略)でクセノポンが繰り返し強調しているのは、ソクラテスは「神々が目に見えないと言う理由で信じない者は、自分の心も目に見えないものであるということを忘れている」としている。クセノポンのソクラテスの態度はキリスト教の伝統的神秘主義に近い。
 この書でのダイモニオンについてのソクラテスの解説はキリスト教の聖霊論に非常に類似している。また、「最高善」というものについては、ソクラテスが「人間は結局のところ何が最善なのか知り得ないのだから」と言って、神々にただ「善きものを与えたまえ」と祈るように勧めたという逸話もキリスト教の主祷文に通じる。根本的に違うのは、「敵を愛せよ」というナザレのイエスの教えがソクラテスにおいては、あたかも意図的であるかのように全く逆さまに書かれている点である(イエスの時代はソクラテスの時代の約四百年後)。これは、戦争に参加もしたソクラテスの根本姿勢がアテナイ民主制の伝統的価値観に依拠していることによるのであり、この点においてソクラテスをナザレのイエスよりも孔子に引き寄せて評価する立場もある。概して『思い出』におけるソクラテスはプラトンの登場人物としてのソクラテスよりも明瞭に宗教的人物である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9
 「ダイモーン(ギリシア語: δαίμων – daimōn; ラテン語:dæmon, daemon; 英語: daemon [diːmən], daimon [dáimoʊn])は、古代ギリシアおよびヘレニズムにおける神話・宗教・哲学に登場する、「人間と神々の中間に位置する、あるいは善性あるいは悪性の超自然的存在で、下位の神格や死んだ英雄の霊など」を指す(プラトン『饗宴』を参照)。和訳例は「鬼神」、「神霊」、「精霊」。
 ダイモーンはユダヤ・キリスト教のデーモン(人間を誘惑したり、苦しませたり、取り憑く悪霊)をも指し、デーモンに相当する西洋諸語(英: demon, 独: Dämon, 仏: démon)は、これより派生したものである。主として古代ギリシアやヘレニズム哲学におけるダイモーンに対して「ダイモーン」という呼称を適用し、ユダヤ・キリスト教におけるダイモーン/デーモンには「デーモン」という呼称を適用して、両者を区別するのが通例である。・・・
 ホメロスの著作では θεοί(テオイ=神々)と δαίμονες(ダイモネス=神的なるものたち)とは実質的に同義語であったが、後のプラトンらはこの2つを区別して扱うようになった。プラトンの『クラテュロス』(398 b) では、δαίμονες (ダイモネス) の語源を δαήμονες(ダエーモネス、「物識り」または「賢い」)としているが、実際にはこの言葉の語根は δαίω(ダイオー=配分する)である可能性が高い。ダイモーンは個人の運命を握っているとされ、いわば運命の配分者であった。
 プラトンの『饗宴』では、巫女のディオティーマがソクラテスに対して、愛(エロース)は神ではなくむしろ「偉大なダイモーン」であると説く (202d)。彼女はさらに「全てのダイモニオン(ダイモーン的なもの)は神と死すべき人間の中間にあるのです」(202d-e) と語り、ダイモーンは「人間に属する事柄を神々に、神々に属する事柄を人間に、解釈し伝達するのです。たとえば、人間から神へは嘆願と生贄を、神から人間へは法令と報酬を、ということです」(202e) と説明する。プラトンの『ソクラテスの弁明』の中でソクラテスは、自分には「ダイモニオン」(字義的には「神的な何か」)というものがあり、間違いを犯さないように「声」の形でしばしばソクラテスに警告したが、何をすべきかを教えてくれることはなかったと主張した。ただし、プラトンの描くソクラテスはダイモニオンがダイモーンだとは全く述べていない。それは常に非人格的な「何か」であり「しるし」であった。
 ヘレニズム期のギリシア人はダイモーンを良いものと悪いものとに分類し、それぞれエウダイモーン(またはカロダイモーン)、カコダイモーンと呼んだ。エウダイモーンは、ユダヤ・キリスト教的概念である守護天使や心理学でいう上位自我に似ている。それは死すべき人間を見守り、かれらが災難に遭わぬようにしている。このため、幸運はダイモーンのはたらきの賜物であるという考えから、字義的にはエウダイモーンを有している状を意味するエウダイモニアという言葉は、「幸福」を意味するようになった。これに類比しうるローマ人のゲニウスは、個人につきまとう守護神であったり、場所に取り憑いてそこを守るもの(ゲニウス・ロキ=土地の守護神)であった。
 <一方、>危険で、多くの場合、邪悪ですらある低級の精霊というダイモーンの観念は、プラトンとその弟子クセノクラテスがその起源である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%B3
 「聖霊<は、>・・・キリスト教において三位一体の神の位格の一つ・・・
 聖霊が鳩のかたちをとって降ったとされる聖書の記述(マタイによる福音書3章16節など・・・聖霊がイエス・キリストの弟子達に降ったとされる聖書の記述(使徒言行録2章3節)・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%9C%8A

 その教義の核心は、同福音書の中の、「山上の垂訓」のくだりがあり、その中に、「38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」 43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」」
https://www.bible.com/ja/bible/1819/MAT.5.%25E6%2596%25B0%25E5%2585%25B1%25E5%2590%258C%25E8%25A8%25B3
というくだりだ。
 以上のように、ナザレのイエス・・史的イエス・・は、ユダヤ教の改革を期し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9
古典ギリシャの(プラトンやクセノポンが描いたところの)ソクラテスの諸主張を採用しつつ、ソクラテスが帯びていた弥生性についてだけは完全に否定し、逆張りして、敵を愛せと唱えて人間主義(=慈悲≒仁)とは似て非なるものであるところの、愛=利他主義、を推奨し、後に、ユダヤ教由来のメシア/キリスト、と呼ばれることになった人物だ。
 (利他主義が人間主義に反することは、コラム#14143参照。)
 この結果、日本においては、弥生性を帯びた武家が縄文性を帯びた縄文人たる民衆を統治する体制が構築されたのとは違って、地理的意味での欧州では、弥生性を帯びたゲルマン人が民族大移動の結果、そこで権力を掌握して担い、ローマ時代以来の縄文性を帯びた、そして西ローマ帝国崩壊後に権力の軛から脱したところの、カトリック教会、が権威を担い、この分立した両者がせめぎ合いつつ、これまたローマ時代以来そこにいた普通人たる現地民衆を統治する体制が構築された。
 この日本の体制と地理的意味での欧州の体制の成立時期は、前者は12世紀末、後者は5世紀末だったが、前者は17世紀初には内戦状態を脱してしまったのに対し、後者では20世紀央まで内戦状態が続くことになった。後者における著しい科学技術の発展とほぼ全世界支配はその論理的帰結だった。
 イエスは、結果として、彼自身が全く意図しなかったところの、地理的意味での欧州の全世界の中での相対的な著しい隆盛、をもたらした、というわけだ。
 (なお、極度に単純化して言えば、正教が普及した地域では、上記分立が生じなかったため、縄文性が勝った方の東ローマ/ビザンツ帝国は徐々に衰退して消滅し、弥生性が勝った方のモスクワ大公国/ロシア帝国は侵略行為が習いとなり、途中でモンゴルの軛症候群に罹患してそれが更に嵩じた揚げ句破綻して消滅寸前の現在その断末魔の醜態を晒しているわけだ。)

四 法華経

 (一)前史1(釈迦)

 「縁起(=自然/生きとし生ける者が潜在的/顕在的相互依存関係にある)」(コラム#13759)
 「仏教では,すべてのものごとが生起したり,消滅したりするには必ず原因があるとし,生滅に直接関係するものを因と言い,因を助けて結果を生じさせる間接的な条件を縁として区別するが,実際に何が因で何が縁であるかをはっきり分かつ基準があるわけではない。因縁は〈因と縁〉と〈因としての縁〉の二通りに解釈されるが,この両者を一括して縁と呼び,因縁によってものごとの生起することを縁起(えんぎ)とも言い,また,生じた結果を含めて因果(いんが)とも言う。因縁,縁起,因果は仏教教理の最も根本的な考え方であるが,必ずしも因から果へという時間的関係のみを意味するだけでなく,同時的な相互の依存関係,条件をも意味している。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B8%81%E8%B5%B7-38034

 (二)前史2(法華経編纂者達)

 「慈悲」を発見。そのマーケティング目的で大乗仏教を構築。(同上)
 補足だ。
 「仏教において慈悲(じひ)とは、他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう<。>・・・慈はサンスクリット語の「マイトリー (maitrī)」に由来し、「ミトラ (mitra)」から造られた抽象名詞で、本来は「衆生に楽を与えたいという心」の意味である。悲はサンスクリット語の「カルナー」に由来し、「人々の苦を抜きたいと願う心」の意味である。大乗仏教においては、この他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し、「大悲」(mahā-karunā)と称する。
 これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は縁起の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2
 すなわち、「慈悲に(1)生きとし生ける者に対して起こすもの(衆生縁(しゅじょうえん))、(2)すべての存在は実体がないと悟り執着を離れて起こすもの(法縁(ほうえん))、(3)なんらの対象なくして起こすもの(無縁(むえん))の3種があり(三縁の慈悲)、このうち無縁の慈悲が無条件の絶対平等の慈悲であり、空(くう)の悟りに裏づけられた最上のもので、ただ仏にのみあるという。」
https://kotobank.jp/word/%E6%85%88%E6%82%B2-74800
 これは、情けは人のためならず=人間主義、と、=なのであり、AD100年前後に編纂された法華経において、人類史上初めて、(いかなる欠缺もない形での)人間主義の推奨がなされた、と、言えよう。
 (大乗仏教は、山のような、(むしろ人を惑わすところの)方便群、や、ゴミ、も抱えていたが・・。)

(参考2)ゾロアスター教・原始共産制] 

  A ゾロアスター教

ゾロアスター教においては、「人は、生涯において善思・善語・善行の3つの徳(三徳)の実践を求められる。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国か地獄のいずれかへか旅立つと信じられた。世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99
というのだから、「その来世観・終末論がセム的一神教や仏教などに影響を与えたという説もある」(上掲)ところ、私もこの説乗りではあれど、「人間<に>・・・は自由意志<が>あり、」堕落するか堕落しないか自分で決める(上掲)、という教義である以上、そこに、愛/仁/慈悲/人間主義の喪失だの復活だのといった観念の出番はない。

  B 原始共産制

 「マルクスとエンゲルスは、アメリカ<大陸>の先住民族の村落の構造を「古代氏族の自由、平等、友愛」や「生活における共産主義」と語ったルイス・ヘンリー・モーガンの大きな影響を受け<て、>・・・基本的な富に対する集合的な権利、社会的関係における平等主義、階層化と搾取の発生に先行すると考えられる権威的な統治や階級の欠如などを示<す>・・・原始共産制<なる>・・・人類の社会体制<の存在を主張した。>・・・
 原始共産制のモデルは人類の初期の社会である狩猟採集社会に見られ<が、牧畜と農業<が>・・・開始された・・・新石器革命<以後の>・・・原始共産制とされる主な例に・・・「使徒行伝」が記す限りでの初期イェルサレム教会<と>・・・古代から中世のゲルマン人<が挙げられる>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%88%B6
のは興味深い。

 私が、かつての狩猟採集社会は基本的に人間主義的社会であったと主張してきたこと、また、原始キリスト教団が「愛」を掲げたこと、かつまた、ゲルマン人のうちの少なくともアングロサクソンは人間主義的だった(コラム#省略)こと、を想起されたい。


[十七条憲法再訪]

 厩戸皇子(574~622年。皇太子在位:593~622年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
は、孔子の言説中「仁」の実践が基本で「礼」の実践は補助的なもの、また、大乗仏教の教説中「慈悲」の実践が全てで後は方便、と喝破するとともに、併せて「仁/慈悲」の社会おける「武」、すなわち、「仁/慈悲」の社会を防衛する方法論の確立・・後に「桓武天皇構想」において確立され、武士/封建社会が創出されることになった・・を提唱した。
 すなわち、聖徳太子コンセンサス(コラム#省略)を形成した。
 この際、皇子が策定したとされる十七条拳法を振り返ってみよう。
( 十七条憲法には、「武」の話は出てこないが・・。)↓

 「一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
 二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。・・・
 四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95

 私は、皇子は「一」で、人間主義を「和」(注104)と表現したと私は見ているところ(コラム#13759)、「仁」や「慈悲」を用いなかった理由は、「仁」は人間だけが対象、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81
「慈悲」は生物だけが対象、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2
であって、どちらも私の言うところの自然をも対象とする人間主義より対象が狭いので、孔子自身は「和」を「仁」と同値のものとして用いていたと思われるけれど、「和」は「仁」と違って人偏が用いられていないので、「和」を使うことにしたのではなかろうか。

 (注104)「礼之用和為貴。(礼はこれ和を用うるを貴しと為す。)— 『論語』学而12
 君子和而不同、小人同而不和。(君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。)— 『論語』子路23」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3

 そして、「二」で、「悟りの体現者である「仏」(釈迦、如来など)、仏の説いた教えを集大成した「法」、法を学ぶ仏弟子の集団である「僧伽」、といった理解がもっとも一般的である」ところの「仏法僧」を「敬へ」と諭している。
 私は、法華経を最も貴んだ皇子は、この「『法華経』と密接な関係があ<る>・・・大般涅槃経」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C
も読み込んでいた筈であって、同経の「「一切衆生はことごとく仏性を有する」(一切衆生悉有仏性)と<の>宣言」(上掲)を当然視するとともに、その「仏・法・僧の三宝は一体であって本来は区別されるものではな<い>」との考え方(上掲)を踏まえて「二」を論述したと私は見ており、皇子は、「仏・法・僧」の核心を「法」と考えていたからこそ、「二」で、「何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。」と論じているのだ。(「この法」=「仏・法・僧」、であることは明らかだろう。)
 傍証を一点付け加えれば、皇子が、『法華経<の>義疏』と併せ、それぞれ、女性の在家と男性の在家が説いた『勝鬘経<の>義疏』と『維摩経<の>義疏』を論述していることが示しているところの、在家主義者、であった以上は、「仏弟子<・・出家!(太田)・・>の集団」そのものを「敬へ」などと言う筈がない、ということだ。
 そして、「この法」とは、私見では、「縁起と慈悲」、すなわち、人間主義、なのだ。
 ここまで来ると、どうして、皇子が、「礼」に係る「四」を、こういった話と直接関係のない「三」の後にわざわざ持ってきたのかも推察できる。
 つまり、皇子は、孔子は、「礼」を、「仁」を回復したり維持したりするための補助的な手段として示したものである、と、正しく認識していたのではなかろうか。
 なんということはない。
 私が四苦八苦し、紆余曲折の上、やっとの思いで辿り着くことができたところの、孔子や大乗仏教の核心、を、厩戸皇子は、限られた諸文献等しか参照できなかった筈なのに、7世紀初頭に、私の理解では、的確に剔抉していたわけだ。
 ところで、皇子は、どうして十七条憲法を制定したのだろうか。

 世界最初の憲法であるところの、「<1776>年<7>月<4>日、<英>領アメリカの<13>植民地が本国からの分離・・・宣言文を大陸会議で可決、公表された<ところの>・・・<米>独立宣言<は、>・・・ジョン=ロックの自然法思想に基づいて、自由・平等・幸福の追求を人間の天賦の権利として主張、この権利を守るために独立すると宣言している」
https://kotobank.jp/word/%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80-583023
が、これは、7年戦争の結果、フランスからミシシッピ以東の領域を獲得した英国が、英領北米植民地住民達にこの新領域への進出を(アメリカ原住民との衝突を回避するために)禁じたことに対する不満を背景として、(外敵からの脅威が著しく減少したことから)この禁制順守を図るという、植民地住民達の利益に反する目的にも使用される英軍を維持するための諸新税を北米で導入されたことへの反発が独立戦争に繋がった(注105)
https://en.wikipedia.org/wiki/American_Revolutionary_War
ところ、かかる植民地住民達のホンネを隠蔽するタテマエが必要となったからだ。

 (注105)奴隷制維持目的もあったとかつて指摘していた(コラム#省略)が、この際、この指摘を撤回しておく。

 また、世界で2番目の憲法であるところの、1789年8月26日のであり、「フランス人権宣言は、米独立宣言を参照して行われたものであり、「人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖など17条からなる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%A8%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%81%AE%E5%AE%A3%E8%A8%80
ものだが、「フランス革命以前は国王がフランスの5分の1の領土を持つ最大領主だった。その国王のまわりで権力を組織していた宮廷貴族は国王に次ぐ大領主であり、減免税特権の最大の受益者であった。財政支出の中から宮廷貴族の有力者は、巨額の国家資金を様々な名目で手に入れた。しかし、[ルイ14世、ルイ15世の時代の相次ぐ戦争<の結果、>]国家財政が破綻し、もはや支払うべき財政資金がなくなった。権力を握っていた宮廷貴族は自分の減免税特権を温存し、ブルジョワジー以下の国民各層に対して負担をかぶせようとした。そこで「権力を取らないことには自分たちの破滅につながる」と感じた商工業者や金融業者が、国民の様々な階層を反乱に駆り立てて、領主の組織する権力を打ち破った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%A0 ([]内)
結果打ち出したものだった。
 ところが、十七条憲法に関しては、制定された背景について言及された史料が皆無であり、「第1回遣隋使での隋文帝の政治が未開だと改革を訓令されたものに応えた、603年(推古11年)小墾田宮新造、604年冠位十二階制定と同期の、政治改革の一環だとの指摘がある。」という石井正敏(コラム#13759)の説が一つあるにとどまる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
 私は、厩戸皇子は「聖徳太子コンセンサス」を密かに掲げ、このコンセンサスを完遂した暁に日本に確立するであろう弥生性の担い手達の縄文性(人間主義性)が毀損するであることを見越し、当時の日本の為政者達に代わって日本の新たな為政者達になるであろう彼らに、その縄文性の回復・維持の縁にしてもらうべく、当時の日本の為政者達にとっての常識(注106)を、文章に起こした、と、見るに至っている。

 (注106)別の文脈の中でではあるが、吉川真司(コラム#11554)は、「十七条憲法は<当時の(太田)>君主制・官僚制にとって当たり前のことばかりであ<る>」と指摘している(上掲)。

 それ自体に規範性はないが、その精神に則って、来るべき武家たる統治者達は法規を策定して欲しい、と厩戸皇子が要請したことが伝えられていたからこそ、「鎌倉幕府<の>・・・1232年<の>・・・御成敗式目<は、>・・・全51条である。この数は17の3倍であり、17は十七条憲法に由来する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%88%90%E6%95%97%E5%BC%8F%E7%9B%AE
と考えられる。
 このことは、室町幕府にも分かっていた。
 「室町幕府<の>・・・1336年<の>・・・建武式目<は、>・・・構成は2項17条であり、・・・聖徳太子の制定した十七条憲法に影響されたとも考えられている。・・・
 武家の基本法である御成敗式目に対して建武式目は武家政権の施政方針を示すもので、拘束力がある法令ではないとも、御成敗式目の改廃をともなう法令ではないともいわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E5%BC%8F%E7%9B%AE
 室町幕府は、規範性のない十七条憲法を補足する憲法的諸条文を「十七」掲げたわけだ。
 江戸幕府の、何度も改定が行われた武家諸法度はそうではないが、1615年の禁中並公家諸法度は17条である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6
のは、武家諸法度の条文数は十七ではないけれども、以上のことが分かっていることを表明するために、わざわざ十七条からなる禁中並公家諸法度を策定したのだろう。
 以下、余談1。
 問題は、明治政府が、大日本帝国憲法策定時に、Constitutionの訳語に「憲法」を充てたことだ。
 真意は不明だが、私は、このことが、大日本帝国憲法と日本国憲法の規範性のなさをもたらしさ、と、考えるに至っている。
 (両憲法の規範性のなさについての具体的説明は、ここでは繰り返さない。)
 以下、余談2。
 天皇の諡号(漢風諡号)に「仁」が用いられているのは、垂仁天皇、仁徳天皇、仁賢天皇、淳仁天皇、光仁天皇、仁明天皇、仁孝天皇、の7人いるが、「漢風諡号は明治時代になってから付けられたもの」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
なので、詮索しても仕方ないが、諱に初めて「仁」が用いられたのが惟仁こと56代清和天皇(850~881年。在位:858~876年))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
で、その4代後の敦仁こと60代醍醐天皇、懐仁こと66代一条天皇、を経て、親仁こと70代後冷泉天皇(1025~1068年。在位:1045~1068年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
・・その外祖父は藤原道長(コラム#14023)で、乳母は紫式部の娘の賢子だ(コラム#14097)・・からは、126代の今上天皇に至るまで、女性天皇と南朝の4人を除けば、例外が4人だけで基本的に「仁」が用いられるケースばかりである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

ことは、日本の支配層にとって、「仁」がいかに尊重された概念であったかを示している。 

[尊王攘夷と大義名分論]

一 尊王攘夷

 「尊王攘夷・・・とは、・・・国家存在の根拠としての尊王思想と、侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意。古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄・・・を打ち払うという意味で、覇者が用いた標語<。>・・・
 斉の桓公は周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させ、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を主に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。周の天子を「王」のモデルとしていたことから、元々「尊王」と書いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E6%94%98%E5%A4%B7
 「元来は中国の儒学に起源をもつ思想。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E6%94%98%E5%A4%B7%E8%AB%96-2130033
 「のち春秋の公羊学が理論づけ,南宋の朱熹によって大義名分,華夷峻別の理論にまで高められた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E6%94%98%E5%A4%B7-555956

⇒始皇帝時代の秦は半分楚だったというのが私の見解だし、その秦に取って代わった漢は楚人の王朝だったのだから、漢人文明の大部分の王朝のみならず、前漢人文明たる中原(華夏)文明もまた、尊王攘夷に失敗し、夷狄・・この場合は広義の南蛮・・によって滅ぼされたというわけだ。
 この尊王攘夷について、振り返っておこう。
 (以下、漢語論文の第三者による邦訳の引用がベースなので、読みにくい箇所が頻発するがご容赦を。)↓(太田)

 「・・・孔子の生きた春秋時代には、夷狄は<華夏(注107)>の外側に居住しているとは限らず、伊水・洛水に居住している戎、陸渾の戎、あるいは、赤戎や白狄と呼ばれた戎狄は、すべてまだ「<支那>」の内側に暮らしていた。

 (注107)「華夏という語は元来、関中の渓谷沿い、および黄河の河沿いに居住していた、新石器時代後期および青銅器時代初期の、現在の漢民族に連なる太古の諸民族が融合してできた農業部族をいう<。>西戎の黄帝とその後裔である夏王朝と周王朝を「夏族」とする、このうち周王朝は殷王朝の諸侯であり、後に殷王朝を滅ぼした、東夷に起源をもつ殷王朝とその末裔は周の一部の諸侯である為「華族」である、「華族」と「夏族」が相次いで中原に王朝を建てて融合したので、中原の王朝と配下の諸侯は先秦時代に「華夏族」と総称され、中原も「華夏」と呼ばれた。この概念は中国古代の戦国時代(紀元前443年~紀元前221年)に発展し、戦乱の最中に古代中国全土に広まっていった[8][9]。その頃になると、華夏は主に文明社会のことを定義するようになり、周囲の野蛮と見なしていた国々とは対照的な意味合いで用いられるようになった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%A4%8F

 西周の政治権力が弱体化すると、華夏内部における「下克上」の野望を喚起し、また、周辺部族には、<支那>に対して分不相応のことを希望する強い思いを呼び起こさせた。この内憂外患の連動は、自ずと中原王朝が、「八佾<(注108)> 庭に舞はす」(『論語』八佾)という(下克上による)礼楽の廃止壊滅をただ我慢して見ているほかなく、(また)「南夷と北狄と交こもごも々し、中国に絶へざること線(る)するが若し(夷狄の継続的な侵入)」(『春秋公羊伝』僖公四年)という華夏文明の危機に直面させた。

 (注108)はちいつ。「古代<支那>雅楽の舞隊編成の名称。その舞を〈八佾の舞〉という。佾とは隊列の意味で,その編成には2説ある。服虔(ふつけん)の説では1佾を8人と定め,天子の祭祀には8人8列で64人,諸侯は8人6列で48人,大夫(たいふ)は8人4列で32人,士は8人2列で16人とする。杜預(とよ)によると天子は8人8列で64人,諸侯は6人6列で36人,大夫は4人4列の16人,士は2人2列の4人と縦横同数に説く。また楽器も天子は東西南北の4面,諸侯は3面,大夫は2面,士は1面に限ったという。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E4%BD%BE-601903

 これは孔子に(臣下が君主の礼である八佾を舞わすこと)「是を忍ぶ可くんば、孰(いづ)れをか忍ぶ可からざらん」の態度で、(<支那>)内の「名を正」させようとし、周の王権の礼学秩序を防衛することで、さらに「夷狄の君有るは、諸夏の亡(な)きが如くならざるなり」・・・の「華夷の辨」により外患に抵抗させようとしたのである(『論語』八佾)。内憂と外患が自然に連関されているようであるが、孔子の(内の下克上に対する)「必ずや名を正さん」と(外の夷狄に対する)「華夷の辨」に関する行動が同時に現われたことで、折良く共通の文化主題が出てきたのである。すなわち、「周は二代に監(かんが)みて、郁郁乎として文なるかな。吾は周に従はん」という問題である。これは、「中華」の優越意識による文明の強さとそれと同一視する心理の切実さから発生しており、かえってそれは「天子 序を失ふ」(という下克上)と「夷狄 交々侵す」(という夷狄の侵入)を源として生まれていることを示す。形式的なことから見れば、非常に強化された「中華」の優越意識は、(夷狄に侵入されて)打ち出さざるを得なかった―それは死に瀕した場所に置かれて、そののちに生まれるという文明論の原理を証明する―ようなものである。
 そして、その中の論理は、むかし(周王に代わろうとせず)華夏の後ろをあえて望もうとしなかった(楚<(注109)>の荘王の)「中原に鼎を問ふ」行為は、反面から見れば華夏の礼楽の価値をたいへん尊重していることと自我(楚という夷狄の文化価値)を破棄した悪い結果と遺恨を明らかにした。

 (注109)「楚の成立に関しては、漢民族とは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説など、さまざまな仮説がある。現代の遺伝子調査では長江以南である<支那>南部の楚、呉、越の遺伝子は<支那>北部の遺伝子と相違する。・・・
 近年、楚墓発掘の進展で、おおかたの埋葬が王族庶民を問わず周様式の北向き安置ではなく南を向いて安置されており、当時の<支那>では珍しい形式であるため、土着ではないかとする説がやや有力になっている。・・・
 楚は鬻熊(媸酓)<(注110)>の代に興った国であり、『史記』楚世家はこれを周の文王の時代とする。元来は丹陽周辺で活動していた部族と考えられている。

 (注110)https://baike.baidu.com/item/%E9%AC%BB%E7%86%8A/10970861

 建国後は次第に西へ進出していった。その後、鬻熊の曾孫の熊繹が周の成王から子爵に封じられた。
 周の昭王の討伐を受けるが、これを撃退し、昭王を戦死、あるいは行方不明にさせたとされる。その後、熊繹から数えて6代目の玄孫の熊渠の時代に「我は蛮夷であるから<支那>の爵位にあずからない」とし、自ら王号を称するようになった。しかし周に暴虐な厲王が立つと、恐れて王号を廃止した。18代目の11世の孫の熊徹の時代に侯爵国であった随を滅ぼし、それを理由に周に陞爵を願い出たが、周に断られたために再び王を名乗るようになった。熊徹が楚の初代王の武王となる。

⇒ここに、華夏文明の周(とその諸侯国群)、と、長江文明の楚、の対峙が健在化した、というわけだ。(太田)

 文王の時代に漢江・淮河の流域に在った息・蔡・陳などの小国十数国を併合或は従属させ強大化を果たす。成王の時代になると中原の鄭を度々攻めたが、斉が中原に覇権を打ち立てると中原への侵攻は鳴りを潜め、替わって漢江・淮河中下流域の経略を進め徐・黄などの東夷諸国十数国を併呑して領国を拡張した。
 6代目荘王の時代になると、強盛な楚は陳・鄭などを属国化して中原を窺うようになる。晋の大軍を邲(ひつ)の戦いで破り、春秋五覇の一人に数えられる。また、荘王の時代に楚は呉と同盟を結ぶ。
 覇権を得た楚であったが、荘王の次の7代目共王の代に、鄢陵の戦い<(注111)>において晋に敗れて覇権を失ってしまう。

 (注111)えんりょうのたたかい。BC575年。「紀元前579年、晋と楚は宋の地で会盟を行い、晋楚両方に親交のあった宋の華元の仲介により、両者が共に宋と盟約を結ぶ形で停戦した(『史記宋微子世家』にはこの出来事を紀元前589年(宋の共公元年)としているが、『左伝』には紀元前579年(魯の成公十一年)としている。『史記』の元年は九年の誤りと見られる)。
 しかし紀元前577年、晋の盟下にある鄭が楚の盟下にある許を討ったので楚の共王は許を救うために鄭を討った。翌年、楚によって討たれた鄭は楚に領土を割譲して和睦し、楚の盟下に置かれることになった。晋の厲公は元々自分に従っていた鄭の背信を正すために、衛・斉・魯などを従えて鄭を討つことにした。鄭は楚に救援を求めたので、晋と楚は再び戦うことになった。これが鄢陵の戦いである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A2%E9%99%B5%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 11代目の平王の時代に伍員(伍子胥)を国外に追放したことにより、伍子胥の補佐を受けた呉王闔閭の軍に首都を陥落させられ、一時滅亡の危機を迎えたが、申包胥の必死の懇願により秦の援軍を取り付け、昭王が復帰することができた。
 紀元前334年、威王は攻め込んできた越王無彊の軍勢を破り、逆に越に攻め込んでこれを滅ぼした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)

 このような情況のもとでは、「周に従う」ことは、ただ「周に従う」というだけで、華夏文明に帰属することの優越感を示している。
 この一つの優越感は、(華夏文明に)帰属するための主要な前提と当面の実務の急と呼べるのだろうか。(これが)どのように「尊王攘夷」に至るのであろうか。「尊王」のうしろに隠れている「天→天子→天下」という言うまでもない論理によって、「尊王」は、実際には「天下一統」意識の絶対性を反映している。そして、「攘夷」自身は、「天下」にとって必ず設定しなくてはならない文明落差と「礼楽・征伐、天子より出づ」の行為の根拠の一つとなる。こうして、華夏文明に対する防衛と承認は、同時に「天下」を擁護する論理の上でも意義のあるものとして賦与された。そして、華夏の防衛のみならず、「桓公 中国を救ひて、夷狄を 攘うちはらふ」(『春秋公羊伝』僖公四年)の行為は、道徳の謳歌を受け、甚だしくは尊と攘の行為のどちらかを必ず選ばなくてはならない場合、後者が重要であることを最大限に明らかにするものである。孔子があれほど高く管仲を称賛した理由は、ここにある。それは、(下克上により)政治の権力と(夷狄の侵入により)文明の権威が同時に脅かされたときになって、孔子がまず優先して守ろうとしたのは、文明の権威であった。

⇒孔子は正しかった。
 結局、長江文明は華夏文明を打倒し、後者に内在していたところの、分権制に由来する発展性と近代性が失われ、支那において停滞性と非近代性の漢人文明が成立してしまうことになるのだから。(太田)

 そしてさらに内側の政治の矛盾を対外的な文明の論争に転じさせることに長けていた。そのような転化の中で、孔子は、もしその人自身が「夷狄」「禽獣」と称されることを希望するならともかく、そうでないならば討論の必要のない「中華の大義」に服従しなくてはならない、とした。

⇒皮肉なことに、漢人文明成立後、夷狄が新王朝を建てることは珍しくなかったものの、モンゴルを除いて、全て漢人文明に同化したため、停滞性と非近代性の漢人文明は20世紀初頭に至るまで、2千数百年にわたって維持されることになる。(太田)

 その相互から抑えられた論理は、以下のように説明することができる。礼楽政治の擁護自体は、華夏文明の擁護と同じである。礼楽を破壊する内部闘争は、自ら降格して夷狄となることに止まらず、自ら異類に堕ちるようなものである。さらに言うならば、「華夷の辨」の善悪論においては、華夏族内部にあるあらゆる論争と食い違いは、すべてこの最も重要な矛盾に地位を譲る必要がある。それは、効果的に「天→天子→天下」の体系を守るために、華夏人士の「大義」と「大節」も厳格に規定してきたのである。のち中原と周辺との紛争が起こるたびに、いつも孔子の「攘夷」思想は、重要な働きを発揮した。そして岳飛・文天祥・史可法といった民族的英雄が、次第に湧き出てくる価値基準とされていった。しかし、「被髪左衽」が表現する生活様式が夷狄を「中華」から隔てていく先駆けとなった。これにより、その後継者たちは、さらに一歩ずつ極端に表現されるようになっていく。<支那>の古典文化では、よく「室居」と「火食」であるか否かをもって、人類と動物界を区別する物質的な表象としてきた。「有巣氏」の「群獣を避く」と「燧人氏」の「腥臊を化す」(『韓非子』五蠹)こそ、この問題である。むかしの単純な生産生活方式の違いは、ここから進んで文明的か野蛮かという価値の色彩を帯びるようになっていった。『礼記』王制篇の規定は次のとおりである。「中國・戎夷、五方の民は、皆 性有りて、推し移す可からず。東方を夷と曰ひ、髮を被(かうむ)り身に 文(いれずみ)す。火食せざる者有り。南方を蠻と曰ひ、題(ひたひ)に雕(きざ)み趾(あし)を交(まじ)ふ。火食せざる者有り。西方を戎と曰ふ。髮を被(かうむ)り皮を衣(き)る。粒食せざる者有り。北方を狄と曰ふ。羽毛を衣て穴居す。粒食せざる者有り。」重要なのは、このように一度規定されると、その後はその先入観を変えることが難しいことである。長きにわたる時間的な問題もある。明朝になっても、謝肇淛が『五雑俎』の中で次のように述べている。
 「東南の人は水産物を食べる。西北の人は六畜を食べる。みな生臭いことを知らない。……聖人の教えを受けた者は火の通ったものを食べるので、中国と夷狄は異なり、人類と禽獣は差異がある」。それは生産方式上の農業と遊牧とに分けるものであり、さらに文明の程度によって、「人類」と「禽獣」の価値境界を区分けするものでもある。その「中国・戎夷、推し移す可からず」と「別(異なり)」と「殊(差異がある)」といった差別的な態度は、「出身」と「出自」の意義上の「血縁」と「地縁」の観念を絶対化させた。それについては、朱熹の『資治通鑑綱目』の中に、体系的に表わされている。
 しかし、上述の孔子の「攘夷」思想が極端で過酷で厳格な「華夷観」(経は原則のこと)へと進められていったこと以外、さらに変化していくことを許容し、他者の考えを包容する「華夷観」(権は権宜のこと)があった。この観念の提唱者であり、広めた人でもあるのは、孟子とその後学たちである。孟子が、孔子とは異なる「華夷観」を提示することのできた理由は、戦国・春秋時代の内部において、夷狄がすでに消滅しようとしていたからである。人々の意識の中で、夷狄はすべて「戦国の七雄」以外となり、さらに遙か遠くの存在となっていた。これは、「華夷の分」よりも、「天→天子→天下」の論理の下に「一」(統一)が発生し、それが天下の民たちの最も重要な価値が凝縮されたものとなっていた。

⇒孟子は、夷狄の影響を受けて漢人文明が変容を遂げていってもよいとした、ということなのだろうが、結果的には殆ど変容することはなかったのだが、いずれにせよ、漢人文明成立時点で華夏文明は滅亡してしまったのだから、そんなことを論じても詮無いことだったわけだ。(太田)

 そこで、梁の恵王<が、>「卒然」と(突然に)「天下 悪(いづく)にか定まらん」と述べたとき、孟子が「一に定まらん」と答えたのは、ほとんど意識的に用いたものであった(『孟子』梁恵王上)。ここでの「一」は、明らかに「天下」のすべてを占領する(という具体的な軍事行動により統一する)ことを指しているのではなく、(人を殺さない仁君によって統一されるという儒教の)総体的な意義を世界に賦与するために発せられた言葉である。この総体的なものの中には、所謂「外界」が論理的には存在しない。重要なことは、「天下一体」の原則が、孟子によって、むかしの「華夷の防を厳にす」な視野の狭い考え方を超越し、「華夏融合」の同質化運動として、無限の空間を賦与されていることである。それは、「舜は諸馮に生まれ、負夏に遷り、鳴條に卒す。東夷の人なり。文王は岐周に生まれ、畢郢に卒す。西夷の人なり。地の相 去るや、千有余里。世の相 後(おく)るるや、千有余歳なり。志を得て中国に行ふは、符節を合するが若し。先聖・後聖、其れ揆一す」(『孟子』離婁下)とあるように、孟子のこの見方は、東漢の何休の「公羊三世説」の「所見の世に至るや、治は太平に著はれ、夷狄 進みて爵に至り、天下の遠近・大小 一の若し」という説に比べて、四百年以上も早くに出されている。」
(韓東育(仙石知子訳)「清朝の「非漢民族世界」における「大中華」の表現–『大義覚迷録』から『清帝遜位詔書』まで」(島根県立大学北東アジア地域研究センター「北東アジア研究. 別冊en : Shimane journal of North East Asian research. [Special issue] : North East Asian region巻 4, p. 13-50, 発行日 2018-09-13」収録、より)
https://ushimane.repo.nii.ac.jp/records/1941

⇒孟子は、原初的東北工程論者だったと言えるかもしれないわけだが、繰り返しになるが、そんなことを論じても詮無いことだったのだ。(太田)

二 大義名分論

 「主として君臣関係などの国家道徳を父子などの家族道徳よりも優先すべき価値とみる考え方。大義は「春秋左氏伝」隠公4年に,名分は「荘子」天下編にそれぞれ典拠をもつ。<支那>には物事の名と実とを一致させることが政治の要諦であるとの考え方があり,孔子は「正名」すなわち「名を正す」こと,それぞれの地位・立場にある者がその地位にふさわしい責任をはたすことが政治秩序の安定を維持するうえで重要であるとし,・・・・〈北宋の政治家にして文人の〉欧陽脩(おうようしゅう)<のほか、>[・・華夷の峻別と共に北宋の政治家の・・]司馬光が・・・唱道し、・・・朱熹が『資治通鑑綱目』(しじつがんこうもく)で・・・大成・・・し<、>君臣父子の道徳を絶対視し,ことに臣下として守るべき節操と本分を明らかにした。その背景として,宋代は初め北辺の燕雲十六州が遼に占領され,やがて華北全域が金に統治されたため,いかに遼と金に対処すべきかという政策の検討がからんでいたことがある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%BE%A9%E5%90%8D%E5%88%86%E8%AB%96-90982
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E9%99%BD%E8%84%A9 (〈〉内)
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-073_5.html ([]内)
 「「名分を正す」とはどのような行為かは、以下の『論語』顔淵篇の孔子の教えに集約される。・・・
 斉の景公が孔子に「政治とは何か」を尋ねたところ、孔子は次のように答えた。「君主が君主であり、臣下が臣下であり、父が父であり、子が子である」ことである、と。・・・
 加地伸行は意訳して「主君は主君の本分を、臣下は臣下の務めを、父親は家長の責任を、子女は家族としての勉めを、それぞれ果たして安定していること」と訳している。・・・
 「名分を正す」という行為は、基本的にはここでいう「君主が君主であり……子が子である」ようにする行為をいう。朱熹の『論語集注』では、孔子の「正名」は「名分を正す」と解釈される。・・・
 「君主が君主であり……子が子である」状態とは、言い換えれば、上下関係、身分、職分、役割意識などが遵守されている状態である。一方「君主が君主ではなく……子が子ではない」状態とは、臣下による君主の傀儡化、僭称、弑逆、下剋上、職分侵犯、御家騒動などが起きている状態である。・・・
 <ちなみに、>「名分」の二字は、もともと儒家書でなく『荘子』『管子』『商子』『呂氏春秋』『尸子』『尹文子』などの諸子書で使われていた[48]。儒家で最初に「名分」を使ったのは司馬光『資治通鑑』とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%90%8D_(%E6%80%9D%E6%83%B3)

⇒孔子の唱えた尊王攘夷と大義名分論は、支那ではほぼ何の働きもしなかったけれど、これらを輸入した日本の(私の言うところの)秀吉流日蓮主義者達によって反日蓮主義の徳川幕府宗家を打倒するための有効な手段群として用いられた、と、言えよう。(太田)


[前漢人諸文明と漢人文明]

一 前漢人文明諸文明

 (一)遼河文明

 「<支那>東北部の遼河流域で起こった<支那>の古代文明の一つ。紀元前6200年頃から存在したと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E
 その中の紅山(こうざん)文化は、「河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃)に存在した新石器時代の文化。・・・
 南の黄河流域の仰韶文化の中期および晩期に相当する。・・・
 紅山文化では農業が主で、家畜を飼育しての畜産も発達しておりブタやヒツジが飼われた。一方では狩猟や採集などで野生動物を狩ったり野草を採ったりすることもあった。・・・
 仰韶文化初期の遺跡から発見された遺物が語るように、紅山文化の遺跡からも初期の風水の証拠とされるものが見つかっている。・・・
 内モンゴル自治区東部・・・は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの<支那>文化へと発達した可能性が指摘されている。・・・
 なお紅山文化時代の古人骨のY染色体ハプログループ分析によると、ウラル系諸族やヤクート人に高頻度で観察されるハプログループNが67%の高頻度で観察され、遼河文明の担い手がウラル語族と縁戚関係を持つ言語を話していた可能性も考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96

⇒「1反歩(10アール)当りのカロリー収量を見ても,米で約100万カロリー。これに対して麦類は,大 麦,小麦など大体40万カロリー程度,トウモロコシ,大豆などでは30万カロリー以下である。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/seikatsueisei1957/11/1/11_1_1/_pdf
というのは今の話だが、時代を遡っても米作の相対的優位性は動かないだろう。
 恐らく水稲栽培が困難、という背景もあって、遼河流域では、長期にわたり、農業(や採集)だけでは生活が成り立たず、狩猟や漁労による蛋白質摂取が欠かせず、狩猟目的の武器の使用に熟達していたこともあり、遼河流域民は強い弥生性を帯びた人々・・縄文的弥生人・・だったと私は見ている。
 黄河文明(下出)の東夷であった商(殷)は、本来は弱い弥生性を帯びた人々・・弥生的縄文人・・だったと私は見ているところ、遼河文明の後裔たるところの、黄河文明の北狄となっていたところの遼河文明の後裔の影響を受けて強い弥生性を帯びるに至った・・縄文的弥生人化した・・とも。(太田)

 (二)黄河文明(付:中原文明(華夏文明))

 「黄河の中・下流域で栄えた古代の<支那>文明の一つ。黄河の氾濫原で農業を開始し、やがて黄河の治水や灌漑を通じて政治権力の強化や都市の発達などを成し遂げていった。・・・
 新石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から龍山(ロンシャン)文化を経て、殷・周の青銅器文化に発展していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E

 仰韶(ヤンシャオ)文化は、「黄河中流全域に存在した新石器時代の文化である。仰韶文化の年代は紀元前5000年から紀元前2700年あたりである。・・・この文化が主に栄えた地域は、河南省、陝西省および山西省である。・・・
 仰韶の人々の自給自足生活はさまざまである。彼らは広く粟を耕作していた。麦や米を耕作していた村もあった。仰韶農業の正確な性質 — 小規模な焼畑農業か永続的な農地での集約農業か、は現在議論の余地がある。しかしながら、・・・中期の仰韶集落には、余剰の穀物を格納するために使われた可能性のある高床式建築があった。彼らは豚や犬、そのほか羊、山羊、および牛などの動物(家畜)を飼っていたが、食用の肉の大部分は狩猟や漁業で得ていた。

⇒黄河流域居住民は、農業革命以降の世界の大部分の人々と同じく普通人だったと私は見ている。(太田)

 彼らの石器は研磨されており、非常に専門化されていた。仰韶の人々は原始的な形態の養蚕も実践していた可能性がある。
 仰韶文化は彩陶で有名である。仰韶の職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で人面、動物、および幾何学模様を作成した。後世の龍山文化と異なり、仰韶文化は土器の作成にろくろを使わなかった。・・・
 西安に近い半坡村の考古学遺跡・半坡遺跡は、仰韶文化のもっとも有名な環濠集落<(注112)>(溝で囲まれた集落)の1つである。

 (注112)「環濠集落・・・とは、周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。・・・水堀をめぐらせた場合に環濠と書き、空堀をめぐらせた場合に環壕と書いて区別することがある。
 「環濠」と「環壕」のルーツはそれぞれ、長江中流域・・・<の>水田稲作農耕<理域>・・・と南モンゴル(興隆窪文化)・・・<の>アワなどを栽培する畑作農業<地域>・・・であると考えられており、日本列島では、弥生時代と中世にかけて各地で作られた。・・・
 古墳時代に入ると、首長層は共同体の外部に居館を置くようになり、環濠集落は次第に解体される。・・・
 戦国時代では戦乱が多発し、農村では集落を守るために周囲に堀(環濠)を巡らして襲撃に備えるところが現れ、中世の環濠集落として現在も各地に点在している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD
 「興隆窪(こうりゅうわ)遺跡は7000〜8000年前の最古級の環濠集落遺跡。・・・
 濠は家畜の逃亡防止用という。」
https://kotobank.jp/word/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD-48712

⇒上掲は、環濠集落のルーツに関し、長江中流域への言及はない。
 私は、環濠集落のルーツは遼河文明における家畜逃亡防止用途のもので、それが、北狄や西戎が黄河文明の稲作によって形成された富の略奪を行うようになってから、構成員たる普通人が縄文的弥生人化した同文明に継受され、それらに対する防禦用途に転用されるようになったのではないか、と、見ている。(太田)

 西安・臨潼区の姜寨と呼ばれるもう1つの主要な集落遺跡がその境界に発掘され、考古学者たちはこれらの集落が完全に環濠で取り囲まれていたことを確認した。
 これらの遺跡からは半坡文字<(注113)>と呼ばれる文字に近い記号も発見されている。

 (注113)「西安市の半坡遺跡から出土した、新石器時代の文字に近い形態の記号の一種である。これを漢字の起源であるとする研究者も存在している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%9D%A1%E9%99%B6%E7%AC%A6

 古人骨の遺伝子分析からは、北東部の6000-5000年前の遺骨からハプログループN (Y染色体)が確認されている(100%=3/3)。ハプログループNは遼河文明人に高頻度で観察されるウラル系民族のタイプであり、仰韶文化北東部では隣接する遼河文明からの影響があったことが窺える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B0%E9%9F%B6%E6%96%87%E5%8C%96

 龍山(ロンシャン)文化は、「 紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)は、・・・華北・・・の黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう。・・・
 龍山文化の後期には青銅器も出現しており、殷代・周代(あるいは殷の前にあったとされる夏代)の青銅器時代に入る過渡期であったと考えられる。
 龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴建物であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現した。また土を突き固めた城壁や堀が出土して<いる。>・・・

⇒仰韶文化の環濠集落が龍山文化で都市へと発展したわけだ。(太田)

 農業や手工業の発達も特徴である。陝西省の渭河周辺では農業と牧畜業が仰韶文化の時期に比べ大きく発展している。コメの栽培も始まっており、カイコを育てる養蚕業の存在と小規模な絹織物の生産の開始も確認されている。
 動物の肩胛骨を使った占いや巫術も始まっており、宗教も出現していたとみられる。農業などの発達により、社会の生産に余剰が生まれ、私有財産が出現し社会の階層化が進み、父権制社会や階級社会が誕生した。
 <支那>の新石器時代の人口は、龍山文化で一つのピークに達したが龍山文化の末期には人口は激減した。

⇒どうして激減したのか知りたいところだ。(太田)

 龍山文化は黄河流域のそれまで異なった文化が栄えていた地域に広がっただけでなく、長江流域など後に漢民族の文化が栄える地域一帯に影響を及ぼした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96
 「馬家窯文化(ばかようぶんか・・・紀元前3100年頃-紀元前2700年頃)は、中国西北の内陸部である黄河最上流部の甘粛省や青海省に存在した新石器時代後期の文化である。甘粛彩陶文化ともいう。陶器表面にさまざまな文様が描かれた彩陶が代表的であるほか、青銅でできた物品もすでに登場し青銅器時代の幕開けとなった。
 <これは、>仰韶文化が西へ向けて広がったものと考えられ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%AE%B6%E7%AA%AF%E6%96%87%E5%8C%96

 ちなみに、下掲のような最近の中共における「夏」実在説の存在にもかかわらず、私は、「夏」実在説には依然懐疑的であるわけだ。↓

 「二里頭文化(にりとうぶんか・・・紀元前2100年頃-紀元前1800年頃または紀元前1500年頃)は、<支那>の黄河中流から下流を中心に栄えた新石器時代から青銅器時代初期にかけての文化であり、都市や宮殿を築いた。殷初期と考えられる二里岡文化に先行する。・・・
 北京大学の劉緒と徐天進は、二里岡文化が早商文化であり、二里頭文化が夏文化であると推定した。
 また中国考古学会は一期から三期までは拡大期で四期は衰退期とし、一期から二期までが夏王朝、三期以降は殷に入るとしている。・・・
 <但し、>文献資料では、夏王朝の支配範囲が「九州」であったとされており、沿海地域の兗州・青州・徐州や、長江流域の揚州・荊州・梁州などが含まれており、黄河中流域のみを支配した二里頭文化の王朝の実態とは異なっている<。>・・・
 <なお、「夏王朝」についてだが、>「殷王朝」もまた殷を滅ぼした周王朝による命名であり、王朝の名前を付けるということ自体が周代に始まった文化である<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8C%E9%A0%AD%E6%96%87%E5%8C%96

⇒黄河文明は、北狄、西戎といった外からの脅威、や、とりわけ邑制社会が形成されて以降は相互の内からの脅威、への対処に追われ、殷や周も諸地方が半独立状態の分権的な邑制社会国家であったために内からの脅威も解消されず、戦国時代を招いてしまう、というわけで、紛争・戦争状態が長期にわたって続いたために、思想や技術の発展が促進され、戦国時代末には、殆ど近代社会と言っても過言ではないような社会が支那大陸に現出するに至った。
 なお、私は、黄河文明の最後期の「夏」・殷・(戦国時代を含む)周、の時代を、中原文明(華夏文明)と名付けたわけだ。(太田)

 (三)長江文明(日本との関係)

 既に、長江文明についても、その日本との関係についても取り上げ済みだが、この際、後者に絞って、もう一度取り上げておく。↓

 「春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)は「弥生時代<、すなわち、弥生早期、>が始まるころの東アジア情勢について、従来は<BC5世紀~BC221年の>戦国時代のことと想定してきたけれども、<BC1046年の>殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。弥生前期の始まりも、<BC770年の>西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」と述べている。また、医学者である崎谷満と研究者の宝賀寿男、心理学者の安本美典は弥生時代と長江文明の関連性について様々な説を提唱した。しかし、o1b2<(注114)>が<支那>南部には殆ど存在しないこと、弥生時代の墓制と関連性が見られないことによって、彼らの説は日本の歴史学者の支持を受ける説ではない。

 (注114)人類のY染色体ハプログループの分類のうち、ハプログループO-M268のサブクレード(細分岐)の一つで、「M176」の子孫の系統である。・・・稲作文化を伝えた弥生人(倭人)と推定される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O1b2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93) 

 また、彼らの説に対して「従来説では、<支那>の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。<支那>戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」との疑問も指摘されている。つまり殷は鳥・敬天信仰などの習俗から、もともと東夷系の種族(天孫族と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる百越系に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる。・・・ 
 <ちなみに、>長江文明における稲作は、長江中流域における陸稲が約10,000 – 12,000年前に遡り、同下流域の水稲(水田)は約6,000 – 7,000年前に遡ると言われている。・・・
 目覚ましい発掘調査の進展により、それまで弥生時代の特徴とされていた
・稲作および農耕
・高床倉庫と大規模集落
・木工技術や布の服
・渡来系の人骨の発掘には地域差がある
・人種の置き換えは起きていない
・渡来系の人骨の発掘には地域差がある
などが縄文時代に既に存在していたことがわかった。また、遺伝子の研究という新しいアプローチから下記の事が判明している。文化伝搬の地域差が激しく、人種も完全に入れ替わってはいないこともわかり、弥生時代と縄文時代を明確に分割することが困難となり、開始年代やそもそもの定義について議論が起きている。
 弥生時代の意義は稲作の始まりにあるのではなく、稲作を踏まえて国家形成への道を歩み始めることが重要とする見解が示されるようになり、水稲農耕を主とした生活によって社会的・政治的変化が起きた文化・時代を弥生文化、弥生時代とする認識が生まれていった。
 この新たな弥生時代の定義によれば、西日本の弥生文化こそが典型的な弥生文化であって、東日本のものはそれとは大幅に異なる別文化であるとする見解が示される様になった。この弥生併行期の東日本の文化については「縄文系弥生文化」、「続(エピ)縄文」、「東日本型弥生文化」など研究者によって様々な呼称が与えられており、定まった名称はない。ただしこの新たな定義については、自らの研究領域が弥生時代の定義から外れる事になる東日本の研究者からの強い反発がある。・・・
 <なお、現在>となえられている・・・水稲の伝来<説は、>・・・山東半島→朝鮮半島南部→九州<、という>・・・間接渡来説<が>考古学の通説であり、現在も広く支持されている。その根拠は、農具や稲作の伴う儀礼などが半島と列島、特に九州が酷似していたことによる。また、朝鮮半島から渡来したと思われる人々は、縄文人より面長で背が高いことが人骨からわかっている。・・・ <また、>・・・直接渡来説は、農政学者の安藤広太郎による、長江下流流域→九州<、というものであり、>・・・その根拠としては、
・紀元前十世紀といえば、殷が衰え周が黄河流域を統一した時期であり、この王朝交替による民族移動の余波が遠く日本列島にまで及んだ可能性があること。
・北方文化に属する朝鮮半島とは異なり、弥生時代の文化が照葉樹林文化に属すること。[要出典]
が挙げられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3

 「朝鮮半島における無文土器文化の担い手が現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。 これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしており、この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。・・・
 水田稲作の先進地帯でも縄文人が水稲耕作を行ったのであり、絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。・・・
 <ちなみに、>佐藤洋一郎は少なくとも稲の40%は中国大陸南部由来ではないかと主張している。また同氏によって中国大陸中南部に由来する稲は確認されたものの、その稲の収穫に必要な<支那>大陸式道具は全く発掘されていない。発見されたのは半島式の磨製石斧だけである。・・・
 <他方、>下戸遺伝子の持ち主は<支那>南部と日本に集中しており、水耕栽培の発祥と推測される<支那>南部での、水田農耕地帯特有の感染症に対する自然選択の結果ではないかとも推測されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA

⇒一見弥生時代に関する諸説は百家争鳴で混とんとしているようだが、私の仮説は、
一 原日本語族が朝鮮半島中・南部(縄文時代末期には朝鮮半島南部)と本州以西の日本列島に住んでいた、つまり、そこにおいてプロト日本文明圏が存在した。
 但し、これは、プロト日本文明圏に類似したハプログループの人々だけが住んでいた、ということを必ずしも意味しない。
二 長江文明の水田稲作文化とそれに関連する文化が、北回りで朝鮮半島を経由して日本列島に伝えられることは考えにくい。
というものだ。
 二について付言しよう。
 華北、満州、朝鮮半島北部、は、水田稲作に適した温暖・湿潤地域ではなく乾燥・寒帯地域
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E3%81%AE%E6%B0%97%E5%80%99%E5%8C%BA%E5%88%86%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%82%8B%E7%A8%B2%E4%BD%9C%E3%81%AE%E4%BC%9D%E6%9D%A5%E7%B5%8C%E8%B7%AF%E8%AB%B8%E8%AA%AC.png
だから、水田地帯が北回りで朝鮮半島に広がっていったはずがない。
 また、支那大陸における温暖・湿潤地域の北端は山東半島の付け根の箇所であり、そこからの距離は(琉球列島を含む)日本列島より、朝鮮半島南部の方がはるかに近い。
 だから、水田稲作文化とそれに関連する文化は、ごく少数の、しかも淮河以北の江南人、の手で、彼らから見て、貿易等の交流を通じて気候的によりジャポニカ米の栽培に適しているという知識が得られたところの朝鮮半島南部にまず伝播し、そこから、今度は朝鮮半島南部の原日本語族の人の手で、ジャポニカ米の水田稲作により一層適していると思われた日本列島へと伝播した、と考えるのが自然だろう。
 ここで銘記すべきは、長江文明中、狭義の稲作文化と「それに関連する広義の稲作文化」のみが朝鮮半島南部や日本列島に伝播したと考えられることだ。
 「それに関連する広義の稲作文化」とは、水田稲作に係る基本的な生産システム、ひいては水田稲作と密接に関わるところの自然観を中核とする世界観であって、水田稲作の対象米種や水田稲作に係る道具・・米種ごとに最適化したもの・・が異なっていたとしても、それは、必ずしも長江文明から朝鮮半島南部のプロト日本文明へ稲作文化が伝播しなかった、ということにはなるまい。
 江南の大部分の地域は、揚子江及びその支流という大河が何本も流れている地域であるところ、朝鮮半島南部や日本列島の河川は短く水量の変化も大きいし、江南では水田稲作と言っても、インディカ米(注115)が中心でこの点も朝鮮半島南部や日本列島においてとは異なるからだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E5%B6%BA%E3%83%BB%E6%B7%AE%E6%B2%B3%E7%B7%9A 

 (注115)「インディカ米(インディカまい)は、イネの品種群の一つ。世界のコメ生産量の約8割を占める。寒さに弱いため高温多湿な地域での栽培が適しており、インド・東南アジア・中国南部などが主な産地である。ジャポニカ米に比べ熱を加えても粘り気が少ない。
 名称はインドから栽培が始まったことに由来し、日本では俗にタイ米(タイまい)、南京米(なんきんまい)とも呼ぶ。またインディカ米の一種にバスマティ米、ジャスミン米などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AB%E7%B1%B3
 「ジャポニカとインディカの系統上の分岐は、栽培化以前の7000年以上前とされ、それぞれ独自に野生イネより栽培化されたと考えられている。・・・
 寒冷な気候に比較的強く、インディカに比べて冷害も少ない。湿潤な温帯や、夏期に比較的高温になる亜寒帯に適している。日長特性のある典型的な短日植物で、開花期に極端な高温下(36℃前後)に曝されると受粉障害を起こすため、熱帯での栽培は難しい。
 日本型イネともいわれるジャポニカは、日本、朝鮮半島、中国の淮河以北、台湾のほか、ベトナム、オーストラリアの南東部やアメリカ西海岸、エジプトで栽培されている。また、ジャポニカ米の一種であるアルボリオ米がイタリアで栽培されている。北緯30度以北及び南緯30度以南で、よく栽培されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%82%AB%E7%B1%B3 

 以上の私の考えは、「・・・弥生人の骨がもっとも多く出土する九州には、3タイプの弥生人がいたとされる。(1)縄文人の直系の子孫である縄文系(2)大陸から水田稲作を持ち込んだ渡来人(3)縄文系と渡来人が混血した渡来系-だ。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E6%9B%B8%E8%A9%95-%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%8C%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%99%E3%82%8B%E5%85%88%E5%8F%B2%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E8%97%A4%E5%B0%BE%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E-%E8%91%97/ar-BB1lbA8y?ocid=msedgntp&pc=U531&cvid=fbf33ba2c1ca4843af2c26618f536f2d&ei=29 」(コラム##14137)
という事実とも平仄がとれている。
 ここで、下掲を参照されたい。↓

 「・・・倭・倭人を日本列島に限定しないで広範囲にわたる地域を包括する民族概念として「倭族」がある。鳥越憲三郎の説では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である。鳥越は『論衡』から『旧唐書』にいたる史書における倭人の記述を読解し、長江(揚子江)上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、複数の倭人の王国があったと指摘した。その諸王国は例えば『史記』にある国名でいえば以下の諸国である。滇(てん)、夜郎(貴州省赫章県に比定され、現在はイ族ミャオ族ペー族回族などが居住)、昆明、且蘭(しょらん)、徙(し)、キョウ都(現在の揚州市邗江区に比定)、蜀、巴(重慶市)など。鳥越は倭族の起源地を雲南省の湖滇池(滇池)に比定し、水稲の人工栽培に成功したとし、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。
 この倭族論は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学の安田喜憲の長江文明論などとも重なっている。
 諏訪春雄は倭族を百越の一部としている。百越とは、長江・揚子江流域に住む諸々の種族の意で、春秋時代の呉・越も含む(呉は現在の江蘇省、越は現在の浙江省一帯)。
 岡田英弘は、倭国の形成について、現在のシンガポールやマレーシアのような「中国系の移民(華僑)と、現地住民とのハイブリッド状態である、都市国家の連合体」であるとして、現在の中国人(漢人)自体も使用言語の共通があるだけで、起源はさまざまな民族がまじっていることから、「漢王朝末期の衰退がなければ、日本列島も『中国文明の一部』になった可能性が高い」とも述べている。岡田は中国古代王朝の夏やその後継といわれる河南省の禹県や杞県などを参照しながら、「夷(い)」とよばれた夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であったこと、また禹の墓があると伝承される会稽山が越人の聖地でもあり、福建省、広東省、広西省からベトナムにかけて活動していた越人が夏人の末裔を自称していること、また周顕王36年(前333年、楚威王7年)越国が楚に滅ぼされ越人が四散した後秦始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる徐福の伝承などを示した上で、後燕人が朝鮮半島に進出する前にこれら越人が日本列島に到着したのだろうと推定する。
 現在では、紀元前450年頃の、つまり春秋時代(「呉越同舟」で有名な呉越戦争の時代で、呉が滅亡した時期)の組織的な大規模な水田跡が九州で見つかっており、また、「倭人は周の子孫を自称した。」という記録もあることから、長江文明の象徴でもある水耕稲作文化の揚子江一帯の呉人が紀元前5世紀頃、呉王国滅亡とともに大挙して日本列島に漂着していたという説も有力になっている。春秋時代の呉人は百越のひとつでもある。
 『宋書』楽志「白紵舞歌」というものがあり、その一節に「東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯曽城」(東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、昆崙に至りて曾城に戯る。)とある。この「(白)紵」というのは呉に産する織物であった。
 近年、遺伝子分析技術の発達によって、筑紫地方(『日本書紀』の「国生み」)と、呉人は極めて関係が深いということが明らかになってきた(日本人#系統参照)。1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)によって「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較した結果、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似していた。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県太宰府の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致したと発表された。
 律令制度では越国(越後・越中・能登・加賀・越前)として画定された。「越」は「高志」「古志」とも表記された。
 「越人」も「呉人」も、どちらも「百越人」と呼ばれ長江文明の稲作水稲文明を日本にもたらした弥生人の一種といえ、春秋時代末期に「越」によって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たちには入れ墨の文化があり(荘子内篇第一逍遙遊篇)、これは魏志倭人伝などの倭人の風俗と類似したもので、呉人が海路、亡命して漂着したという説も有力である(安曇族も参照)。
 崎谷満はY染色体ハプログループO1b1/O1b2系統を長江文明の担い手としている。長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方および北方へと渡り、山東半島、日本列島へ渡ったとしており、このO1b2系統が呉や越に関連する倭人と考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E4%BA%BA ←倭人

 私は、長江文明の江南人は、第一に、稲作の生産性が高く江南人同士で奪い合うインセンティヴが低かったこと、第二に、南蛮は文化が未開な上過疎だったことから脅威にならず、また、第三に、黄河文明は、上述したように、北狄、西戎といった外からの脅威、や、とりわけ邑制社会が形成されて以降は相互の内からの脅威、への対処に追われて、長江文明社会は黄河文明社会に比べれば人口が相対的過疎であったにもかかわらず、江南文明社会へ勢力を伸長させようとはしなかった、ことから、基本的に私の言う、縄文人(人間主義者)であり続けることが可能であったと見ているところ、このうち、黄河文明との境界地域に住んでいた江南人だけは、黄河文明の縄文的弥生性の影響を受けて弥生的縄文人化し、その中から、邑制社会国家たる楚や呉越が生れたり、朝鮮半島南部経由で、或いは直接、日本列島に侵攻的移住をしたところの、日本の歴史上の弥生人が生れた、と、考えるに至っている。(太田)

二 漢人文明

 黄河文明諸国及び楚が、半ば楚化したところの、黄河文明の秦によって統一され、すぐにその秦帝国が漢なる楚の弥生的縄文人勢力によって打倒され、ここに縄文的弥生人の支配層と普通人の被支配層からなるところの、発展的にしてほぼ近代を達成した黄河文明は滅び、ポスト長江文明たる、弥生的縄文人の支配層と普通人の被支配層からなるところの、退嬰的にして停滞的な漢人文明が成立する。
 この漢人文明の諸王朝は、黄河文明由来の孔子の思想ならぬ儒教を国家イデオロギーとしたがそれはタテマエに過ぎず、ホンネは、長江文明由来の墨家の思想に拠っており、統治は緩治にして軍事軽視、社会は一族郎党社会、という特徴を持つ。
 (長江文明下のかつての被治者たる弥生的縄文人達は、緩治にして軍事軽視の支配層の下で生きていくために、旧黄河文明の普通人/一族郎党文化を継受せざるをえなかった、と、見る。)
 この漢人文明の支配層たる弥生的縄文人は、プロト日本文明の支配層たる弥生的縄文人との間で近親者意識を抱き続け、この意識は、プロト日本文明転じて日本文明の支配層たる弥生的縄文人転じて縄文的弥生人との間でも維持された、とも、私は見るに至っている。
 なお、「<中共の>史学会では、<支那>が西洋に立ち遅れた原因は<明の>海禁<政策>に有ると考えられて<おり>、16世紀までの<支那>経済の発展は西洋に対しても大きな差がなかったが、国家間・地域間の相互刺激を通じて社会や経済の発展を促す貿易が海禁によって抑制されると<支那>の成長活力は減じられ、西洋に遅れを取ることになったとする・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E7%A6%81
が、明建国の14世紀中頃に、既に、支那は西欧に決定的に後れをとるに至っていたのだ。(コラム#14114、14116)

 中共当局は、そんなことは百も承知だと私は考えているところ、彼らは、支那を、この漢人文明から日本文明に切り替えるべく、日本文明総体継受戦略を遂行中である、と、かねてから私は指摘してきたところだ。

5 エピローグ

 まずII部について印象に残ったことから。
 一つ目は、支那が中原文明(華夏文明)の発展性と近代性から漢人文明の停滞性と非近代性へと転落したことが東北アジア、ひいては、世界にとっての悲劇であったことを痛感させられたこと、二つ目は、日支関係史が、支→日、の一方通行から、日→支、の一方通行、だったのではなく、広義の江南人を介して、常に双方向であり続けたことに気付かされたこと、三つめは、今回に限らないが、孔子学院のネーミングの前提としての中共当局の孔子評価の的確さを認めざるを得なかったことを通じて同当局のスゴさに改めて瞠目させられたこと、を挙げたい。
 なお、二つ目についてだが、後知恵的に申し上げれば、その悲劇の端緒は、孔子(BC552/551~BC479)と孫武(BC535~?)と晏嬰(BC578~BC500))がほぼ同時代人であったことにあった、と、言えるのかもしれない。
 役人よりも学者だった孔子は孫武のことを意識して武についても仁と武(軍事)の関係についても語らず、軍人よりも学者だった孫武は孔子のことを意識して仁についても武と仁の関係についても語らず、政治家だった晏嬰は孫武と孔子の両名のことを意識して仁や武について政治的スローガン的なもの羅列すれども語ることまでは差し控えた、と、私は想像しているところ、このことが、天下統一(帝国の形成)の弊害と相まって漢人文明の成立とその下での仁の矮小化と武の軽視を招いてしまったのではないか、と。
 また、余談ながら、漢文の解釈はむつかしいし、現代漢語の解釈もむつかしい、と、かねてから思っていたことが、各種翻訳ソフトも使ってみた今回、改めて身に染みた。
 これが、支那に対するその内外からの理解の障壁にならないわけがなく、それが、今後の支那にとって綜合的にプラスなのかマイナスなのか、むつかしいところだ。
 最後にエクスキューズを一言。
 II部については、冒頭で触れた今回の「講演」原稿のテーマはテーマとして、私の世界史観というか世界観というか、その総論を説明するとすればどんな感じになるのかを常に意識しながら論述したため、囲み記事がやたら増え、また、今回のテーマ固有の話をしている時も総論への関心に引っ張られて叙述ぶりが煩雑になったり難しくなったりした箇所が随所に生じたように思うが、大目に見ていただければ幸いだ。
 ここで、「日本文明が、<支那>・・・で復活する可能性がある」(始めに)かどうか、結論を書いていないじゃないか!・・というお叱りの声が聞こえてきそうだが、それは、ご自分で判断されたい。
 但し、私自身は、どちらかと言えば楽観的だ。

III 特別編–赤穂事件と漢学

1 序

 赤穂事件の対立軸は何か。
 既にコラム#13936で私見を申し上げたところ、改めて断定的に申し上げるが、反山鹿素行派と親山鹿素行派との対立に決まっている。
 私自身、3分の1世紀前の「アマチュア」時代に、赤穂事件についてのエッセー(コラム#29に転載)を書いたことがあって、その当時は皆目このことに気付いていなかったので汗顔の至りだが、今まで、赤穂事件ないし忠臣蔵について多数の学者や作家らのプロが取り上げてきていながら、誰もこんな明白なことに気付かなかったことに信じがたい思いでいる。
 というのも、忠臣蔵には山鹿流陣太鼓が登場することは良く知られているのに、それはフィクションだというところで思考停止してしまい、誰も、どうして山鹿素行がらみのものが忠臣蔵に登場させられているのかを考えなかったというのだから・・。
 ほんの少し考え、その上で山鹿素行についてわずかでも調べれば、冒頭に掲げた赤穂事件の対立軸がすぐ見えてくるというのに・・。
 但し、そこから先、反山鹿素行派と親山鹿素行派の実質的な対立理由は何だったのかを見極めるのは、太田コラムを読んできた人にとっても、必ずしも容易ではないだろう。
 そんな、太田コラムを読んできた人にとって絶好のヒントになったであろうと思われるのが、(私自身この「講演」原稿を書き終える少し前に知ったことながら、)孝明天皇家と維新政府の赤穂事件評価が正反対だった、という史実だ。↓

 「明治維新の藩閥政府は赤穂義士に厳しく、泉岳寺も荒廃の時期だった・・・。同様に大石神社も、創建が許可されたのは30年以上も経ってからであり、募金も集まらず大町桂月など国粋主義者による反対もあった[要・・・一次資料]。神社完成は大正を待たねばならなかった。
 <ところが、>1868年(明治元年)11月、<この維新政府の元首である>東京に移った明治天皇は<、政府とは反対に、>泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する宣旨と金幣を贈った。
 <このような背景の下、遅ればせながら辻褄合わせのためか、やっと、>1900年(明治33年)に<なって>赤穂に大石神社(赤穂大石神社)を創設する認可が<政府から>出<、>1912年(大正元年)に大石神社の社宇が完成し、鎮座し、1928年(昭和3年)には県社に昇格した。
 1933年(昭和8年)、京都市山科に大石神社(京都大石神社)の創立が許可され<、>1935年(昭和10年)、大石神社建設会などの寄付により社殿が竣工し、1937年(昭和12年)4月には府社に列格する<のだが、そこまでだった>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ※

 このような史実を知った瞬間、(一般用語の方ではなく私の用語としての)日蓮主義、を、「発見」した後の私であれば、直ちに、赤穂事件の実質的な対立軸は、この(今上天皇まで続く)孝明天皇家の非日蓮主義、と、維新政府の日蓮主義、という対立軸(コラム#省略)、と同じ可能性が高い、と、鼻ピクしたに違いない。
 実際には、史実を知るのが余りにも遅れたとはいえ、今回、ただちに鼻ピクはした。
 さて、赤穂事件が起こったのは、1701~1703年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
だが、当時の国際情勢を振り返ると、1637年には李氏朝鮮の「丙子胡乱<(へいしこらん)>敗北による清への服属開始」があり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE
1644年には清による明の滅亡があり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85
1683年には台湾の鄭氏政権が打倒され、明清交替が完了している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B8%85%E4%BA%A4%E6%9B%BF
 なお、「華中・華南では、明の皇族を擁立して「反清復明」を唱え、清への抵抗と明の再興を目指す南明勢力が形成された。彼らは近隣で相当の軍事力を保有していた日本に軍事支援を求め、連合して清軍を駆逐することによって明朝再興を果たそうと考えた。
 <いわゆる、>日本乞師 (にほんきっし)<だ。>・・・
 1645年に鄭芝龍及び崔芝が、相次いで日本に軍隊派遣を要請する使者を送った。以後、鄭芝龍の子・鄭成功及びその子鄭経と3代にわたって、軍事支援を求めて1674年(日本の延宝2年)まで30年間に10回の使者を日本に送った。また、この他にも黄宗羲ら明朝再興を働きかける人々によっても使者が派遣されたが、既に鎖国体制に入っていた江戸幕府は軍事的な支援には否定的であり、貿易などの形式で倭刀などの武器や物資の調達を許すことはあっても、支援そのものには黙殺の姿勢を貫いた。また、琉球王国(同国及び薩摩藩を経由した江戸幕府への支援要請も含む)や南洋諸国、遠くはローマ教皇庁まで乞師の使者を派遣したことがあったが、いずれも不成功に終わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B9%9E%E5%B8%AB
ということがあった。(注1)

 (注1)やや異なる話がネット上にあった。↓
 「明の遺臣が明復興の救援を要請する日本乞師(きっし)が、一六四五~八六(正保二~貞享三)年にかけて一七回行われた。
 その第一回目にあたる、一六四五年十二月、唐王政権の周鶴(しゅうかく、崔=さい)芝(し)が林高(りんこう)を長崎に派遣し乞師を行ったのに対し、翌年一月十二日、幕府は長崎奉行に、勘合 * (かんごう)が断絶して一○○年たっているという理由で乞師を断わらせた。・・・
  しかし、大名のあいだには明出兵論があった。
 幕府が乞師を断わらせたのと同じ日、京都所司代(しょしだい)板倉重宗(しげむね)が、甥の板倉重矩(しげのり)に明出兵の計画を述べている。
だが、これは幕府の社画ではなく重宗の個人的な構想であった。(小宮木代良「『明末清初日本乞師』に対する家光政権の対応――正保三年一月十二日付板倉重宗書状の検討を中心として――」)
 ほかに柳川藩の立花忠茂(ただしげ)が出兵準備を命じている。
 薩摩藩は幕府が明出兵を決定したら先陣を務めるといっている。・・・
 幕府は・・・清が朝鮮を征服し、さらに日本への侵攻を企てている<のではないかと>・・・恐れていた。」
http://ktymtskz.my.coocan.jp/A/ryuky2.htm

 この間、1624年にはオランダが台湾に進出し、1642年に台湾を植民地化したが、鄭成功により1662年に駆逐されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE 
 つまり、赤穂事件のわずか18年前まで・・「注1」を踏まえれば、わずか5年前まで!・・、徳川幕府及び関係諸藩の観点からすると東アジアは、驚天動地の大激動の時代だったわけだ。
 思い出して欲しいのは、この大激動の時代の始まりを告げる丙子胡乱が起こった1637年の39年前まで文禄・慶長の役(1592~1598年)が行われていたところ、この役を実行したのは豊臣秀吉以下の日本の日蓮主義勢力だったことだ。
 日本が試みて頓挫してしまったところの、明の征服、を、蒙古を彷彿とさせる女真(後金→清)がやってのけ、しかもその前には丙子胡乱で朝鮮がその女真に隷属させられ、また、そもそも文禄・慶長の役の究極の目的は欧州勢力のアジアからの駆逐だったというのに、この役が終わってからわずか50年後に(フィリピンだけではなく)台湾まで欧州勢力の手に落ちてしまった、ということに、日蓮主義勢力は危機意識を募らせていたに違いないのだ。
 そんな時だというのに、非日蓮主義氏であったこともあり、(本家の広島浅野氏も当然同様だったと思われるが、)赤穂浅野氏が、また、その藩士達も、太平楽の毎日を送っていたのだとすれば、ちょっとしたことがきっかけで、日蓮主義勢力との間で紛争の火の手があがらない方がおかしい。
 私の言いたいことは、もはや、お分かりだろう。

2 山鹿素行・荻生徂徠・熊沢蕃山

 (1)山鹿素行(1622~1685年)

 さて、その山鹿素行についてだ。
 彼は、「江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派<(注2)>の祖である。・・・

 (注2)朱子学を否定する江戸時代の儒教の一派。山鹿素行の「聖学」(これを特に古学(こかく)と言う)、伊藤仁斎の「古義学」、荻生徂徠の「古文辞学」の総称。徂徠の学派を「蘐園(けんえん)学派」と呼<ぶ。>・・・
 寛政異学の禁では「風俗を乱す」という理由で江戸幕府及びこれに倣う諸藩で公式の場での講義を禁止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%AD%A6
 
 <彼は、林羅山とは違って、>地球球体説を支持し、儒教の宇宙観である天円地方説を否定している。・・・

⇒林羅山のような、先入観にとらわれた頭の固い人物を寵臣として活用した家康は軽蔑に値する。(太田)

 キリスト教を嫌い、「耶蘇邪法をのべ、本朝の人民を害す」。また、一向宗徒についても「是を信ずること鬼の如し」と一念に憑りつかれた集団の危うさを指摘している(『山鹿語類』巻十一・信仰論)。・・・

⇒素行の感覚は素晴らしい!(太田)

 承応元年(1652年)に赤穂藩浅野家に君臣の礼を為す(ただし素行は、赤穂に7か月程度しか滞在せず江戸に戻っている)。・・・
 万治元年(1660年)には、浅野候からの処遇に不満があり自分から致仕し去る。また、「内匠頭(長直)<(注3)>は不要な家臣を二百人余も雇い、藩財政を圧迫し高年貢にて領民を苦しめた。しきたりや慣習にこだわらず、そしりを受けた」との批判も書き残している。

⇒日蓮主義の観点からの批判など、幕府批判を意味することから書くわけにいかず、当たり障りのない理由を揚げ足を取られない範囲ででっちあげたのだろう。(太田)

 (注3)1610~1672年。「下野国真岡藩主(のちに常陸国笠間藩主)である浅野長重(浅野長政の三男、広島浅野家の傍流の一つ)の長男として誕生。・・・
 1631年・・・、従五位下内匠頭に叙任された。・・・1632年・・・、父の跡を継いで笠間藩主となる。
 ・・・1634年・・・には幕府より駿府城城代に任じられ、・・・1636年・・・には江戸城西の丸の普請を手伝い、さらに大坂城の加番を命じられた。同年11月、朝鮮通信使の来聘につき、相模大磯にて饗応を担当する。・・・1643年・・・にも、朝鮮通信使を下野今市に於いて饗応を勤めている。
 1641年・・・、江戸京橋桶町から発生した大火災(桶町の大火)は、江戸市中の消火防災体制が未熟だったために大被害をもたらした。幕閣は対策を講じるために、「奉書火消」の長直ら6人を招いて相談させ、2年後の・・・1643年・・・に「大名火消」の制度が生まれた。 また、江戸において赤穂藩は大名火消としても評判が高かった。『松雲公御夜話』には長直自らが陣頭指揮を執り、延焼を防いだ逸話が記されている。
 ・・・1641年・・・には寛永の大火で焼失した泉岳寺を、幕命により御手伝い普請でほかの四大名と共に再建させ、菩提寺とした。
 大坂在番中の・・・1645年・・・、赤穂藩主の池田輝興が正室の黒田長政の娘を殺害する事件が起こり、池田家は改易となった(正保赤穂事件)。この改易処分の際、幕命により城受け取りに赤穂へ赴いた浅野長直は、そのまま国替え・赤穂藩主を命じられ、以降は孫の長矩の代に改易されるまで浅野家が赤穂藩主となった。
 ・・・1649年・・・から赤穂城築城工事を開始し、・・・1661年・・・に完成させた。城下の整備も進められ、上水道の設備などがおこなわれた。さらに姫路から浜人・浜子を入植させ、塩業村を興し、赤穂塩の経営を始めた。次いで、塩水濃縮法による入浜塩田法を導入して大量増産をはかり、やがて赤穂塩は日本全国の塩の7%のシェアを占めるようになる。この入浜塩田法は、赤穂のみならず瀬戸内の諸藩の塩田に伝わっていった。・・・
 また・・・1652年・・・から9年弱、山鹿素行を1,000石の高禄で・・・招いた・・・。 素行は・・・1653年・・・に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている。・・・
  ・・・1665年・・・に山鹿素行が幕府に睨まれて赤穂に流罪にされたときも、お預かりを担当している。
 ・・・1670年・・・、中風を発し半身不随・言語不明瞭の状態となる。 翌・・・1671年・・・に長男長友に家督を譲り、翌年・・・に死去した。・・・墓所は赤穂の花岳寺。江戸における菩提寺である泉岳寺にも墓がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E7%9B%B4
 「山鹿素行<は、>・・・1652年・・・より1660年・・・まで、門人でもあった播磨赤穂藩主浅野長直(あさのながなお)(1610―1672)に仕え、この間兵学上の主著『武教全書』(1656)などを著す。林家入門以来朱子学の訓詁に親しんでおり、のち老荘や禅にもひかれ、儒仏老三教一致的な見解を述べたこともあるが、35歳の『修教要録』では朱子学の立場にたつ。
 しかし朱子学の、日常から遊離した観念的な思弁と日常の生活行為と遮断された内面の修養に対する批判は、それ以後しだいに明確となり、門人たちが編纂した『山鹿語類』(1665成立)では、漢・唐・宋・明の書を媒介とせず直接古代の聖賢の教えにつくべきであるとする古学的立場が表明され、『語類』聖学篇の要約ともいえる1665年・・・に著された『聖教要録』では、古学転回後の素行学が体系的に展開された。しかし『聖教要録』は「不届成(ふとどきなる)書物」とされ、翌1666年幕府によって播磨赤穂に流され、1675年・・・許されるまで流謫(るたく)の身であった。その間、朱子の『四書集註(ちゅう)』を批判した『四書句読(ししょくとう)大全』、日本を中華とする日本主義の立場から神代・古代について述べた『中朝事実』、武家の百科全書ともいうべき『武家事紀』などを著し、配流から赦免された1675年には自伝的著作として有名な『配所残筆』を著した。その後江戸において主として兵学に関する講学・著述に努め、『原源発揮諺解』などを著した<。>・・・
 素行の門人・支持者のうち大名では、浅野長直をはじめ陸奥弘前藩主津軽信政(つがるのぶまさ)(1646―1710)、下野(しもつけ)烏山(からすやま)藩主板倉重矩(いたくらしげのり)(1617―1673)、肥前大村藩主大村純長(おおむらすみなが)(1636―1706)、同平戸藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ)・・・らが知られている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C-144029
 「中朝事実<は、素行が>・・・赤穂流謫中の1669年・・・に書き上げられ,81年・・・津軽藩から板行された。・・・本書は日本が天神の皇統がついに絶えることなく,また外国より侵されたこともなく,智・仁・勇の三徳において,外国,とくに<支那>よりもすぐれた国であることを,歴史に即して述べたものである。この比較は普遍的な基準によってなされており,後年誤解されたような国粋主義の書ではない。・・・
 江戸初期の<支那>崇拝から反発的ナショナリズムの成立を思想的に形象化した作品の一つとして意義をもつ。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E4%BA%8B%E5%AE%9F-97395#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

⇒素行が「注」に出てくる『中朝事実』の中で南蛮/欧州勢力に直接言及していないようであることは意味深だが、ここでは詮索しないことにする。(太田)

 「浅野氏は<、もともとは>尾張国丹羽郡浅野荘を本拠としており、浅野長勝は織田信長に仕え、早くから秀吉に属していたという。
 尾張国春日井郡北野の宮後城主・安井重継の子として生まれた浅野長吉(長政)は、長勝の婿養子となり、同じく杉原定利から浅野家へ養子に出されたおねとのちに関白となる木下藤吉郎(秀吉)との婚姻によって、浅野長政と秀吉は義理の兄弟となった。長政は秀吉の信任を得て大名に出世し、豊臣政権下において五奉行の一員に任ぜられた。・・・
 関ヶ原の戦いの際に幸長は徳川家康に付き功を挙げたことによって37万6560石で紀伊国和歌山に移封となった。幸長の跡は嫡男の長晟が継いだ。1619年・・・に安芸国広島藩主福島正則が無断で石垣の修復工事をしたとして改易になった後、代わって長晟が42万6千石で安芸国に入封した。以降浅野宗家の安芸国における領国支配は明治維新まで続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F
 「浅野長政<は、>・・・ 秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下(秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」とも述べた。秀吉は激怒して刀を抜いたが、長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという(『常山紀談』)。・・・

⇒秀吉に対して衆人の中で、秀吉の日蓮主義への真っ向からの異議申し立てを長政は行ったわけだ。
 いわば、命をかけてのこの長政の「諫言」が爾後の浅野氏の氏是となった、と、私は見ている。(太田)

 五大老筆頭の徳川家康とは親しい関係にあり、秀吉死後は同じ五奉行の石田三成と不仲であったとされているが、これには近年になって疑問も提示されている。しかし、佐竹義宣から父・義重への手紙において三成から長政の動向について密告があったことが記されていることからも、不仲と言えないまでも仲が良いとは言い難い状態であったことは確かである。・・・
 1599年・・・、前田利長らと共に家康から暗殺の嫌疑をかけられて謹慎し、家督を幸長に譲って武蔵国府中に隠居した。・・・
 白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康派から分離させようとした家康の陰謀、挑発であるという説を提唱している。長政の嫡子・幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。・・・
 1600年・・・、関ヶ原の戦いでは東軍につき、江戸城の留守居を務めた。この功により、・・・1606年・・・に常陸国真壁5万石を与えられ、真壁藩を立藩した。長男の幸長は関ヶ原の戦いで功をあげ、紀伊国和歌山37万石へ加増転封されている。長政自身は江戸幕府の成立後は家康に近侍し、・・・1605年・・・には江戸に移った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%94%BF
 「浅野幸長<(よしなが。1576~1613年)は、>・・・浅野長政(長吉)の長男として生まれる。・・・
 奉行衆筆頭で文治派の石田三成と激しく対立し、幸長・細川忠興・加藤清正・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・蜂須賀至鎮ら七人衆(七将)で徒党をなし、武断派と称され、五大老筆頭・徳川家康に与した。
 ・・・1599年・・・、三成と家康の争いの中では、幸長は家康の伏見屋敷を警備していた。閏3月3日に前田利家が亡くなると、翌4日に武断派の七将が三成の大坂屋敷を襲撃するという噂が流れて、三成は宇喜多秀家の屋敷に隠れ、前田玄以が城番を務める伏見城へ逃れた。七将も伏見へ押しかけて(伏見屋敷の)家康に三成追討の許可を得ようとしたが、家康は同調せず、調停すると称して、10日、三成を結城秀康を伴わせ、三成を佐和山城へ送って蟄居とした。・・・
 1600年・・・、家康が会津征伐へ出立するとこれに長政・幸長父子で従軍。下野国小山で三成が謀反を起こしたとの情報が入って数日滞陣している時、軍議の席で幸長は進み出て、上方の妻子が人質に取られているといって疑念を持たないでもらいたいと言って、家康と同盟を新たにして、先鋒の一つに任命された。東海道を進んで、8月22日、木曽川渡河に際して幸長・池田輝政は西軍の押さえとなり、西軍が攻撃してくると新加納川を渡って木造長政らを撃破した。23日、石田三成家臣・柏原彦左衛門の籠もる瑞龍寺山砦を攻撃し、彦左衛門の首を獲り、敵兵500余を討ち取った。・・・
 軍功を賞されて、紀伊国で37万6,560石を与えられ、和歌山城主となった。・・・
 1611年・・・3月28日、後陽成天皇の後水尾天皇への譲位に際して、秀頼が二条城に登城して千姫の祖父・家康と会見することになり、秀頼の親族の福島正則・加藤清正・幸長が警護役に指名されるが、正則が罹患を理由に辞退したため、清正と幸長の2人で家康と秀頼の対面の場に同席してその警備を行った。・・・
 1613年・・・8月25日、幸長は和歌山で病死した。・・・幸長には男子がなかったため、次弟の長晟が家督を継いだ。晩年は病気平癒を願ってキリスト教を信奉していたという。・・・

⇒このことでも、浅野氏は、亡き秀吉の意向に叛逆したことになる。(太田)

 1615年・・・幸長の死で破談になったと噂されていた<幸長の娘の>春姫と<徳川>義直の祝言<が>4月に行<われた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7

 さらに、「龍門三級波を超出すと見ゆ」と浅野家を去った後の慶昂、端夢を自身が池から大海に飛び出す龍に成ったと例えて記す。・・・

⇒山鹿素行は、非日蓮主義どころか反日蓮主義の藩論に凝り固まっていた浅野赤穂藩から「脱出」できたことを心から喜んだわけだ。(太田)

 ・・・1666年・・・に・・・『聖教要録』が朱子学批判であることを理由に播磨国赤穂藩へ配流となり、大石良重<(注4)>宅の一隅で蟄居させられた。・・・

 (注4)1619~1683年。「通称は頼母助(たのものすけ)。・・・赤穂浅野家筆頭家老の大石良勝の次男として誕生する。兄の大石良欽が大石家1500石の家禄と筆頭家老職を継いだが、良重も藩主浅野長直の信任を得て450石取りの家老となり、長直の娘・鶴姫を妻にした。その間に、又太郎(早世)・亀之助(早世)・女(浅野長直養女として松平定逸の室)・浅野長恒(分地により3000石の旗本)・浅野長武(3000石の旗本浅野長賢の養子)が生まれている。・・・
 ・・・1677年・・・に兄が死去すると、良重は19歳という若年で相続した良欽の子大石良雄の後見人についた。・・・1683年・・・2月に若き藩主浅野長矩がはじめて勅使饗応役に任じられたときには江戸にあり、長矩を補佐した。
 江戸で死去。・・・芝二本榎の国昌寺に葬られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E9%87%8D

⇒浅野長直の祖父の長政の唐入り反対は、近衛前久・信尹親子のそれ(コラム#省略)とは異なり、日本の対外戦争そのものに対する反対であり、反日蓮主義者であったと見てよく、にもかかわらず、秀吉が死ぬまで長政を重用し続けたのは、自身の係累が秀次一族を誅滅したこともあって少なくなったため、義理の係累を頼らざるをえなくなっていたからだろう。
 そんな長政・幸長父子は、秀吉の死後、家康べったりとなる。
 (ちなみに、加藤清正(1562~1611年)は、本国寺(本圀寺)の日蓮宗六条門流だが、反石田三成派の一員だった。
 「ところが、島津氏の重臣である伊集院氏が主家に反旗を翻した庄内の乱において、清正が反乱を起こした伊集院忠真を支援していたことが発覚した。庄内の乱は家康が五大老として事態の収拾を図っていた案件であり、清正の行動は家康からすれば重大な背信行為であった。家康は清正の上洛を禁じて、清正が上方に向かった場合にはこれを阻止するように有馬則頼に命じた。
 ・・・1600年・・・、清正は大坂に入り、2月13日に有馬則頼と会い(『鹿苑日記』)、その前後には家康とも対面しているようであるが、家康の怒りは収まらず、清正には会津征伐参加を許さず、国元に留まるように命じている。同年9月の関ヶ原の戦いの際に清正が領国である肥後にいたのは、家康によって事実上の謹慎を命じられていたためである。
 また、家康の会津征伐の発動に清正が強硬に反対したが、家康は同意せずに清正に対して立腹したとされている。
 こうした事情から関ヶ原の戦い当初は家康と疎遠となった清正が西軍につく事態も想定され、毛利輝元らによる説得工作が行われた。だが、清正は家康に懇願して大坂にいた家臣を会津征伐に出陣する家康の下に派遣しており、石田三成らの挙兵を知った家康はその家臣を肥後に帰して、清正の東軍加勢を認めた。その間にも清正は黒田如水と連絡を取って家康ら東軍に協力する約束を交わし、家康の書状を携えた家臣が帰国した8月後半から黒田軍とともに出陣、小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ、52万石(実質石高は79万石)の大名となる。・・・
 ・・・1603年・・・、豊臣姓を下賜されている。
 ・・・1605年・・・、従五位上・侍従兼肥後守に叙任される。
 ・・・1606年・・・、徳川四天王の一人榊原康政の嫡男・康勝に娘のあまを嫁がせた。だが、この年に康政が急死して康勝が館林藩を継いだため、清正がその後見人として藩政をみた。 また、江戸幕府の成立後、豊臣氏がかつて日本各地に設置した蔵入地は解体される傾向にあったが、清正が統治する肥後国の蔵入地は依然として残されて年貢が大坂城の豊臣秀頼の下に送付されていた模様で、清正の死の翌年に毛利氏が清正死後の熊本藩を内偵した記録である『肥後熊本世間取沙汰聞書』によれば同藩には(豊臣氏)蔵入地3万石が設置されたままであることが記されている。・・・
 ・・・1611年・・・3月、二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した。しかし、ここで重要なのは清正は秀頼の護衛役ではなく、既に次女・八十姫との婚約が成立していた家康の十男・徳川頼宣の護衛役であり、徳川氏の家臣として会見に臨んだことである。その一方で、清正は頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りに随行しており、家康としても徳川・豊臣の和解のために清正の役割に期待する側面もあったとみられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
 以上のような清正の晩年の事績から、清正が秀吉への敬意と豊臣家存続への熱い思いを抱き続けたことが見て取れる。
 いや、それだけではなく、娘を頼宣に嫁がせたのは、頼宣が、天下に名が轟く熱心な日蓮宗信徒であったお万(コラム#省略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2
の子だったからであると思われ、徳川家の中への日蓮主義の移植にも尽力した(注5)、と言えるのではないか。)(太田)

 (注5)お万の兄の三浦為春(1573~1652年)は、「妹の於万(養珠院)が新たに関東の支配者となった徳川家康の側室として寵愛を受けるようになると、為春は隠居した父に代わって・・・1598年・・・に召し出され、3,000石を与えられた。また、家康から正木姓を改めて三浦姓に復することを許され、以後は三浦為春と名乗り、三浦氏の祖とされる三浦為通の官名に肖って長門守と称した。
 ・・・1603年・・・に妹・於万が産んだ家康の十男・長福丸(のちの頼宣)の傅役を命じられ、・・・1608年・・・には常陸国内に5,000石を賜る。翌・・・1609年・・・に頼宣が駿府藩50万石に転封されると、遠江国浜名郡に8,000石を領した。同年9月、家康の命を受け、前年に加藤清正の五女・八十姫と婚約していた頼宣の結納使となり、清正の領国である肥後国に下って納幣。大坂の陣では頼宣に従って出陣。戦後は頼宣と共に京都に滞在し、京都では日蓮宗(法華宗)の僧で不受不施派の祖となった日奥の教化を受けている。
 ・・・1619年・・・には紀州藩55万5,000石に転封された頼宣の紀伊入国に随行した。為春は紀伊国那賀郡貴志邑1万5,000石を治める「万石陪臣」となり、貴志城を築城している。・・・1624年・・・に家督を嫡男の為時に譲って隠居。・・・1627年・・・に・・・剃髪入道して遁庵定環と号する。・・・1651年・・・には法号の妙善院日曜を大雲院日健に改めている。・・・
 晩年には常に法華経を読誦し、題目の書写を日課としたという。・・・1623年・・・に亡父・正木頼忠の菩提を弔うために紀伊国那賀郡上野山村(現在の和歌山県紀の川市)に了法寺を建立し、・・・1627年・・・には江戸麻布桜田町(現在の東京都港区)に妙善寺を建立している。・・・
 ・・・墓所は和歌山県和歌山市の了法寺。子孫は紀州藩(紀州徳川家)の家老を世襲し、三浦長門守家と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%82%BA%E6%98%A5

 ・・・1675年・・・、許されて江戸へ戻る。赦免された後に最初に会った諸侯(大名・旗本)は吉良義央<(注6)>である。・・・

 (注6)「鹿素行日記・年譜に吉良義央との交際が度々記されている。旅で同宿したり、吉良邸へ公卿とともに訪問した様子が記されている。吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が山鹿素行によって書写されて、松浦家に令和の御代まで現存しており、素行と義央とは朝廷での儀式・作法に関する重要文書の書写を許されるほど昵懇だったとされる。一方、義央の息子・上杉綱憲には素行の序筆による山鹿家秘伝の書『楠正成一巻書』が伝えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C
 「吉良義央<(よしひさ。1641~1703年)の>・・・本姓は源氏。清和源氏足利家支流。鎌倉時代に足利家から足利宗家継承権をもったまま分家した支族(長男でありながら母が側室であるため足利宗家を継承できなかった為に宗家継承権を持ったまま分家するという特例措置)であり、後に足利家が将軍家へと栄達した室町時代には足利将軍家が途絶えた際には次に吉良氏から将軍を輩出すると言われた程の名門であった。・・・
 足利家が上杉家と縁続き(足利尊氏の母が上杉家出身)であるため代々足利一族と上杉家は婚姻外交を繰り返しており、その関係で吉良家も上杉家とは古来からの縁者である。・・・
 義冬の母及び父方の祖母が高家今川家出身で、今川氏真と北条氏康の娘・早川殿の玄孫、武田信玄の傍系の子孫である。継母は母の妹。・・・
 1658年・・・、出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE
 「吉良氏<は、>・・・鎌倉時代の清和源氏足利氏の当主足利義氏の庶長子長氏が地頭職を務める三河国吉良荘を名字としたのに始まる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E6%B0%8F
 足利尊氏・直義兄弟の母の<上杉清子の>弟<は>日蓮宗・法華宗の六条門流の租の日静(にちじょう)<だった>。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9D%99
 「本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは・・・1345年)3月で、四祖日静上人の時である。日静は・・・尊氏の叔父であった。そのため、幕府からの支援もあり、日静は光明天皇より寺地を賜ると六条堀川に寺基を移転させた。また、天皇から「正嫡付法」の綸旨も受けている。寺地は北は六条坊門(現・五条通)、南は七条通、東は堀川通、西は大宮通までの範囲を占めた。以降も寺は足利将軍家の庇護を受けたほか、・・・1398年・・・には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている。比叡山延暦寺を御所の艮(北東・鬼門)とすると、本国寺は坤(南西・裏鬼門)に当たるため、皇室からも崇敬された。こうして本国寺は六条門流の祖山として隆盛を誇った。甲斐国の久遠寺が「東の祖山」と呼ばれるのに対し、京都に栄えた本国寺は「西の祖山」と呼ばれるようになる。
 ・・・1482年・・・に、後土御門天皇の勅諚により「法華総本寺」の認証を受けている。
 ・・・1536年・・・の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼き討ちされて焼失し、堺にある末寺の成就寺に避難した。・・・1542年・・・、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は・・・1547年・・・に六条堀川の旧地に再建された。
 ・・・1568年・・・、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌・・・1569年・・・には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件・本圀寺の変が発生した。本国寺はなんとか損傷を免れたものの、信長は本国寺の一部の建物を解体して二条御所(二条城)建築に用いることを決める。本国寺の一部の建物は取り壊され、それぞれの建築物は二条御所に運ばれて再組み立てされたという。さらには屏風や絵画などの本国寺の貴重な什器類までもが運び去られた。
 ・・・1585年・・・、豊臣秀吉により山城国菱川村(現・京都市伏見区)に朱印地177石が与えられた。・・・1591年・・・、日重により求法檀林(学問所)が開檀される。同年、豊臣秀吉の命により本願寺造立のため、寺地のうち南側の二町を本願寺に割譲している。
 加藤清正は当寺を篤く信仰し、開運門を寄進している。
 ・・・1615年・・・に徳川家康は本国寺の寺領を安堵している。水戸藩主徳川光圀が当寺にて生母久昌院の追善供養を行うと、・・・1685年・・・に光圀は自らの名から一字を本国寺に与え、本国寺は本圀寺と改称した。
 ・・・1711年・・・には徳川家宣の襲封祝賀のため来日した朝鮮通信使の宿舎となっている。天明8年(1788年)の天明の大火では経蔵(現存)を除いた本堂や五重塔など伽藍を焼失する。
 ・・・1863年・・・には鳥取藩士による本圀寺事件が起き、また水戸藩主徳川慶篤に率いられた尊攘派藩士が駐屯し、皇室や徳川慶喜の警固に当たって本圀寺勢(本圀寺党)と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA
 上杉氏は、藤原北家高藤流(勧修寺流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA%E6%B5%81
で、藤原高藤は「伊勢物語関連系図」(コラム#13549)の中で登場したところだ。
 (ちなみに、高藤の兄の利基-兼輔-雅正-為時-紫式部、だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%88%A9%E5%9F%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E8%BC%94
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9B%85%E6%AD%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E6%99%82 )
 「上杉景勝<は、>・・・1598年・・・8月、秀吉が死去すると、家老の直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあった事などの経緯から徳川家康と対立する。同年9月17日、秀吉の葬儀のため上洛。
 ・・・1599年・・・8月22日、会津に帰国した。帰国後、領内の山道を開き、橋梁を修理させ、浪人を集めた。また、領内にある28の支城の整備を命じた。・・・1600年・・・2月、直江兼続に新城(神指城)の築城を命ずる。
 4月、家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣し、景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。
 7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、家康が西上すると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った(慶長出羽合戦)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
 「景勝の母方の祖母(長尾為景の妻で仙洞院の母)は上条上杉弾正少弼の娘であり、また、景勝の父方の曾祖母(上田長尾房長の母)も上条上杉家の娘である。したがって、景勝は父母双方から本来の上杉氏(上条上杉家・越後守護上杉家)の血を引いていることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
 「上杉謙信<は、>・・・長尾為景(三条長尾家)の四男(または次男、三男とも)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
だが、仙桃院は異母姉だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E6%A1%83%E9%99%A2
 よって、謙信は、血筋的には上杉氏の一員とは言えない。

⇒繰り返すが、素行が播磨赤穂藩への仕官を打ち切ったのは、(安芸広島藩の宗家も当然そうだった筈だが、)赤穂浅野家の反日蓮主義に嫌悪感を抱いたためだったと想像される。
 そんな素行だからこそ、妻が上杉氏でこの妻との間の子が上杉氏当主であったところの、日蓮主義シンパであったと思われる吉良義央と親友の間柄であったわけだ。
 事実上一体であったところの、(吉良を含む)足利氏と上杉氏は、日静/本国寺(本圀寺)の縁で(不幸にして、日蓮主義を掲げたところの、後醍醐天皇や南朝と戦う羽目にこそなったけれど、)日蓮主義シンパであり続けた、拡大一族であったと見てよい。
 上杉氏が、越後から移封になっても、引き続き日蓮主義シンパであり続けたことの、ささやかな一証左が、「弘法山善立寺・・・は・・・1322・・・年2月、玉沢妙法華寺(注7)第四世大恵院日運上人を開山として越後国頸城郡高田に建立された<ものだが、>そののち上杉家の移封により、・・・1601・・・年、第8世日秀上人の代に米沢へ移転。・・・1690・・・年11月、第11世日遍上人の代に水戸徳川光圀公が帰依。その祈願所となり小本寺格の免許を得た。」
http://zenryuji.no.coocan.jp/enkaku01.html
という史実だ。(太田)

 (注7)「1284年・・・、日蓮の弟子日昭は・・・、鎌倉浜土の玉沢(現鎌倉市材木座)に法華堂を建立した。1538年・・・戦乱により、越後村田(現新潟県長岡市村田)の妙法寺に避難。さらに1594年・・・戦乱により、伊豆加殿(現静岡県伊豆市)の妙国寺に避難した。・・・
 その後、15代日産の時、1621年・・・に大木沢(現在地)に移転し、・・・再建された。大木沢は妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称された。1625年・・・には玉沢全地が徳川秀忠の朱印地として寄進され、下乗札が立てられた。徳川家康の側室養珠院(お万)[・・紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万(まん、旧字体:萬)。・・]や英勝院(お勝)らが寺の再興に力を尽くした。1630年・・・の身池対論には妙法華寺から日遵が臨んでいる。・・・
 [万<の>・・・墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺と静岡県三島市の妙法華寺<であり、同寺には、>・・・駿府城の万の居間が移築されて、妙法華寺奥書院・・・として現存している。駿府城で唯一の遺構である。]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2 ([]内)

 『基煕公記』では義央が刃傷され即日、浅野が切腹となったことについて、近衛<・・近衛家は日蓮主義の本家と言ってよい(コラム#省略)(太田)・・>が3月19日に「珍事珍事」と記しており、3月20日に近衛が参内した時に、松の廊下の事件について書かれた書状を東山天皇<(注8)>が見た際の様子については「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と天皇が喜んでいたこと、そして、近衛が高野前中納言と密かに刀傷事件について話した際に、高野が心中、歓悦している(大変喜んでいる)と述べたことなどが書かれている。

 (注8)「東山天皇<(1675~1710年。天皇:1687~1709年)>の治世は、朝幕間が融和し、また後水尾上皇以来の朝儀復興への努力が開花した時代であった。武家伝奏の人事権を幕府から朝廷に取り戻す嚆矢となり、皇室領はこれまでの1万石から3万石になり、朝廷は財政面でも著しく好転した。・・・
 天皇は・・・、大奥のルートを使って将軍徳川綱吉に直接働きかけた(近衛基熙と大奥上臈御年寄の右衛門佐局が縁戚になったことで天皇・・・と綱吉の間に非公式の意思伝達が可能になった・・・)。・・・
 <また、>武家伝奏や京都所司代による公式の交渉と並行して、近衛基熙と間部詮房の間でも秘密交渉<ルートが樹立された。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87

 なお、近衛が3月20日に参内した時、天皇や近衛に伝わった情報は『基煕公記』の3月20日に「浅野内匠頭は田村右京亮に預けられ、吉良の生死は未だ知られずと、先ず注進があり」と書かれている。事件の報告として浅野の切腹と吉良の生死不明な状態である事が先に伝わっていたことから、長矩の処分に喜んだのではなく、吉良が刃傷に巻き込まれた事について喜んだとも考えられる。
 ただ、のちに近衛や東山天皇が浅野家断絶に同情したり、赤穂義士の快挙に喝采した様子(日記への記載)は一切見られない。そのため、野口武彦は「武家同士の紛争もしくは幕府の不祥事を面白がったのだ」とする仮説を立てている。・・・

⇒近衛基熙の近衛家は日蓮主義の本家なのだから、彼は、吉良上野介に傷害を負わせた浅野内匠頭の切腹に喜んだに決まっている、と、私は思う。
 「吉良義央<は、>・・・1662年・・・には、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜る。以降、生涯を通じて年賀使15回、幕府の使者9回の計24回上洛した。父の義冬がまとめた吉良流礼法の後継という立場から、部屋住みの身でありながらも使者職を任じられており、通算24回もの上洛は高家の中でも群を抜いている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE
上、上野介が、天皇への武家伝奏の人事権の返還や皇室領の3倍増にも関与したと思われることもあり・・。(太田)

 これらの当時の朝廷に仕えていた者達の史料では、親幕府派であった基熙らは義央に対しては冷たかったともとれる。

⇒繰り返すが、そんなことはありえないと思う。(太田)

 一方、天照大御神の子孫である天皇陛下への信仰を尊王思想として体系化し、幕府寄りの基熙と敵対関係にある正親町公通<(注9)>は義央に同情している。

 (注9)おおぎまちきんみち(1653~1733年)。「妹に正親町町子(柳沢吉保の側室)がいる。・・・
 1693年)から武家伝奏役を務めた。・・・しかし、・・・1700年・・・に東山天皇から武家伝奏を罷免されてしまう。江戸時代の武家伝奏の任命権は江戸幕府が持っており朝廷が関与出来なかったが、東山天皇は伝奏の人事権は天皇にあるとして幕府に無断で罷免を強行したのである。親幕府派であった関白の近衛基煕は公通の垂加神道の布教に批判的であったためにこの決定を止めなかった。また、幕府でも京都所司代の小笠原長重は江戸に通報することなくこれに同意し、幕閣もこれに対抗措置を取らずに黙認してしまったために、武家伝奏の人事権が朝廷に移ることになった(ただし、公通が将軍徳川綱吉の不興を買って、綱吉から直接天皇に対して更迭の要請があったものの、公式な手続に依らない内々の要請であった為に天皇が自主的に罷免した体裁を取ったとする異論もある)。・・・1702年・・・に朝廷から5代将軍・徳川綱吉の生母桂昌院に対して従一位が下されたが、この異例の叙任の背景には義弟柳沢吉保から朝廷重臣への取り成しを依頼されたこの公通の働きが大きかったといわれる。・・・1712年・・・に従一位となった。・・・
 山崎闇斎の門下生の1人であり、闇斎が創設した垂加神道を朝廷に普及することに努めた。公通が唱えた垂加神道は俗に正親町神道などと呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%85%AC%E9%80%9A

⇒東山天皇や近衛基熙にしてみれば、教義なき神道を教義宗教化する試みなど、垂加神道であれ、何神道であれ、排斥すべきものであったはず(注10)であり、正親町公通は、その上、幕府に阿る動きをしていたのだから、基熙に排斥されて当然だろう。(太田)

 (注10)東山天皇の父親で先代の霊元天皇(霊元院)は、垂加神道の「影響を受けた可能性があると言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87

 高家という立場の義央は幕府による朝廷抑制政策の通達役に立つことが多く、朝廷側は義央ら高家に含むところがあったという見方もあるが、義央は霊元天皇の御代の・・・1676年・・・の年頭祝儀の上使の際には、後西上皇から直筆の「うつし植て 軒端の松の 千とせをも おなしこころの 友とち吉良む」という和歌を下賜されており、この時点では天皇家や親朝派から評価を受けている立場であった事がうかがえる。
 ・・・1701年・・・当時の幕朝関係から見れば、朝廷尊重を掲げていた綱吉<(注11)>の時代に入り、幕府嫌いといわれる霊元天皇に代わって親幕派であった近衛基熙らの補佐を受けて東山天皇が親政を行っていた時期でもあり、御料(皇室領)が1万石から3万石に増加し、朝廷と江戸幕府との関係はおおむね良好に推移していたとされている。・・・

 (注11)「綱吉<は、>・・・文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家たちの所領についてもおおむね綱吉時代に倍増している。
 のちに赤穂藩主浅野長矩を大名としては異例の即日切腹に処したのも、朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89

⇒「寵僧である護持院隆光を通じて、母の桂昌院と共に、・・・唐招提寺に帰依し<、>・・・<徳川家の家宗派たる浄土宗の寺ではない、天台宗の>寛永寺<を>・・・墓所<とした>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89
ことを含め、綱吉に日蓮主義の気があった形跡は皆無だし、儒教に詳しいことが即、尊皇を意味するものでもない。
 朝幕関係の改善は、あくまでも、基熙の功績だろう。(太田)

 吉宗は赤穂浪士の討ち入り以降の世情を見ていることや赤穂浪士を擁護したことで知られる儒学者の室鳩巣<(注12)>を重用・起用していたこともあってか、義央と当時の幕府の判断を非難している。・・・

 (注12)1658~1734年。「[江戸郊外の医者の子。15歳のとき加賀藩に出仕し,藩命で京都に遊学,木下順庵の門に入る。〈木門五子〉の一人に数えられる・・・儒学(朱子学)者で<あり、・・・>]1711年・・・、新井白石の推挙で、江戸幕府の儒[官]となる。徳川家宣、家継、吉宗の3代に仕え、・・・吉宗期には[侍講<たる>]ブレーンとして享保の改革を補佐し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E9%B3%A9%E5%B7%A3
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%A4%E9%B3%A9%E5%B7%A3-17058 ([]内)
 「赤穂浪士達が切腹した・・・元禄16年に・・・室鳩巣<は>赤穂事件に関する最初の「史書」である『赤穂義人録』を著し、義士を賛美した。本書では泉岳寺引き上げの最中にどこかに消えた寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命で浅野大学のもとへ向かったのだとし、寺坂を義士の一人に数え赤穂浪士は寺坂を含めた「四十七士」だとした。これにより「四十七士説」は生まれた。
 ただし、室は周の武王が殷を伐った行為とこれに抗議して餓死した伯夷兄弟の行為が後世ともに称えられた例を引き合いに出して義士への賛美と幕府の処分の正当性は矛盾するものではないとしている他、大石の忠義は称えつつも家老の職務は藩主が過ちを犯さないように補佐するものであると指摘して刃傷事件の原因は大石の家老としての能力不足にもあるという批判もしている。なお本書は「史書」として出されたものであるが、今日の目から見れば赤穂事件に関する虚伝俗説を信用して書かれたもので随所に史実とは異なる記述がある。・・・
 <ちなみに、>荻生徂徠<は>、『政談』のうち「四十七士の事を論ず」(宝永2年頃)において、内匠頭は幕府に処罰されたのであって吉良に殺されたわけではないから吉良上野介は赤穂浪士にとって「君の仇」ではなく、「内匠頭の刃傷は匹夫の勇による「不義」の行為であり、赤穂浪士の行動は、「君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとして死を与えるべき」と主張している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒そうではなく、「<甲府藩主・徳川>綱重・・・の子の家宣の下に、近衛家から近衛基煕の女子の煕子が正室として送り込まれ、・・・煕子の尽力で、6代将軍家宣の死後、7代将軍吉宗を紀州徳川家から、「条件付」で迎え、『大日本史』の将軍家による受納を実現させる運びとなる(コラム#省略)わけだ。」(コラム#12651)という事情から、吉宗は、日蓮主義シンパの紀州徳川家出身であるにもかかわらず、近衛家に含むところがあり、御用学者で兵学の素養ゼロの室鳩巣に、わざわざ赤穂浪士讃を書かせたのだろう。(太田)

 <(吉良義央の長男の)上杉綱憲の養女で吉良義央の長女
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%B1%E8%B2%B4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E7%B6%B1%E6%86%B2
の>鶴姫の<鶴姫を離縁した>元夫であった島津綱貴は元禄16年(1703年)に、鹿児島城下の島津家別邸に義央の供養施設(観音岩)を建立し供養したと伝わり、現当主の島津修久は、吉良義央の万昌院での12月14日の法要に参加すると共に、鹿児島の仙巌園(世界文化遺産)・観音岩でも翌日に供養儀式を行なっている(慰霊式は神道)。・・・

⇒近衛家≒島津氏≒津軽氏(注13)、という史実(コラム#省略)を踏まえれば、島津綱貴が離縁した継室の前義父に過ぎない上野介の供養にこれ務めたのが一体どうしてかが分かろうというものだし、津軽家の人々の赤穂事件の時の上野介側へののめり込んだような肩入れの所以も腑に落ちるというものだ。(太田)

 (注13)「大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、<大浦>為信は早くから近衛家に接近して折々に金品や米などの贈物をしており、上洛した際に元関白近衛前久を訪れ「自分は前久公の祖父・尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張した。近衛家に限らずその頃の公家は窮乏しており、関白職に就きたいが家柄の無い羽柴秀吉を猶子にして藤原姓を授けた近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子にした。このときから為信は本姓を藤原として、近衛家紋の牡丹に因む杏葉牡丹の使用を許され、姓を大浦から津軽に改めている。これで形式上は、秀吉と為信は義兄弟となった。・・・
 為信が着手して<その子である>信枚<(のぶひら)>が完成させた弘前城には、「館神」という守り神の社があった。この社は稲荷社であったが、実はその稲荷様の後ろに厨子があり、その厨子は一度も開かれることがなく、「館神」はその中に安置されていると言われていた。明治になってその「開かずの宮」の扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。為信は、幕府による改易の危険を顧みずに、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E7%82%BA%E4%BF%A1
 「石田三成の三女・・・辰姫<(1592~1623年)は、>・・・1598年)ごろ、豊臣秀吉の死後に秀吉の正室・高台院の養女となる。
 ・・・1600年・・・、関ヶ原の戦いで父・三成が徳川家康に敗れる。その直後に豊臣家中で親しくしていた津軽信建<(のぶたけ)・・信枚の兄・・>によって兄・<石田>重成とともに津軽へ逃されたとも、高台院の保護下にあり、高台院の側近・孝蔵主に従って江戸に下り縁組を整えたともいわれる(孝蔵主は三成の娘で辰姫の姉である岡重政室を通じて石田家と縁戚関係にある)。
 ・・・1610年・・・ごろ、信枚に嫁ぐ。2人の仲は良好であったとみられるが、・・・1613年・・・に家康は養女・満天姫(家康の異父弟・松平康元の娘)を信枚に降嫁させた。これに対し津軽家は、徳川家をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となる。辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得た上野国大舘に移され、大舘御前と称された。その後も、信枚は参勤交代の折は必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、・・・信枚の長男・平蔵(のちの信義)が誕生する。
 ・・・大舘で死去し<、>・・・幼い平蔵は江戸の弘前藩邸に引き取られ、・・・信枚の死後に藩主を継いだ。・・・
 近年、辰姫が養女となっていたことも踏まえて、高台院は、関ヶ原の戦いでは徳川家康やいわゆる武断派諸将の東軍を支援していたという従来の説とは逆の、実際には三成らと親しく西軍寄りの姿勢であったという説を白川亨らが唱えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%98%E5%BE%A1%E5%89%8D

⇒「津軽信建<は、>・・・弟・信枚・・・と同じく、父・・・為信・・・の命によりキリシタンとなっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%BF%A1%E5%BB%BA
だけは、いまだに、腑に落ちないままで私はいるのだが、それはともかく、「注13」に出てくるところの、近衛前久がカネのために大浦為信を猶子にしたとか、大名にしてくれたので秀吉を祀ったとか、は、間違いではないかもしれないが、近衛前久や津軽為信を矮小化し過ぎというものだ。まともな人物は損得だけで動くものではないのであって、彼らの場合は、日蓮主義の同志達だったのだ。(太田)

 「山鹿素行日記・年譜」に山鹿素行と吉良義央との交際が度々記されている。旅で同宿したり、吉良邸へ公卿とともに訪問した様子が記されている。松浦重信は素行を通じて義央とも交流があったとされ、吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が山鹿素行によって書写されて、松浦家に令和の御代まで現存している。松浦家自身も柳の間で諸大名に江戸城での作法や礼儀を指南していること、義央と同時代人の松浦棟は奏者番を務めており、「履担斎遺文」にも義央との交際が記される。
 素行は流罪から放免されると本所に住み(山鹿平馬宅は吉良邸にも平戸藩下屋敷にも近い)、松浦家に仕官を試みたが実現せず、平戸藩は庶子の山鹿万助(高基)と弟・山鹿平馬を召し抱えている 。山鹿流に学んだ平戸藩主は総じて吉良寄りであり、特に松浦静は「甲子夜話」では吉良には敬称、赤穂義士は呼び捨てか蔑称で記す、など極端である。室鳩巣の言動や著作についても「腐れ儒者」、「笑止なる見解なり」と悪口が書かれている。
 津軽信建は関ヶ原で三成の遺児・石田重成と荘厳院を救出、弘前藩主には石田三成の血をひくものがおり(津軽信義・津軽信政など)、浅野氏はその三成を襲撃した七将のひとりでもある。
 弘前藩の支藩(分家)である黒石藩(当時は大名ではなく旗本)の当主・津軽政兕<(まさたけ)>は、事件直後に真っ先に自身の家臣や弘前藩士らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力したと伝わる。
 重臣の乳井貢が元禄赤穂事件を激しく批判する著作を発表したり、赤穂浪士に同情した北村主水を・・・1708年・・・に閉門、知行(1000石)没収の厳罰に処し、供養塔の破却を命じたりしている。また家中には大石良雄の一族もいたが、厚遇されている山鹿系家臣と対立し、騒動も起きている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE
 「<赤穂藩士だったが浪人をしていた>大石無人<にとって、>・・・大石良雄は・・・いとこ孫、赤穂義士大石信清・・・は・・・甥にあたる。・・・長男の良麿(郷右衛門)・・・<と>次男の大石良穀・・・は、陸奥国弘前藩津軽家に仕え<た。>・・・浅野長矩の刃傷事件後に、吉良邸討ち入りを計画する甥の大石信清をはじめとする赤穂浪士たちへ生活資金の援助をした<。>・・・討ち入りの際には無人は次男の・・・良穀と共に邸外の見張りについていたともいわれている。弘前藩屋敷は本所にあり、吉良邸とはそう遠くない。このことが、山鹿流に師事した津軽家重臣たちと弘前大石氏との対立を生む。・・・
 弘前藩筆頭家老の山鹿政実(山鹿素行の嫡男)と敵対した。元禄8年(1695年)4月17日、弘前藩世嗣・津軽信重(のちの信寿)が帰国の際には三平(良穀)を伴いわざわざ本所まで出かけて行き、信重の江戸出府見送りに出ていた山鹿政実に山鹿流の悪口を言い口論になっている。・・・
 父・無人とともに赤穂義士を支援した次男の大石良穀(三平)は、吉良贔屓の津軽家から放逐され、讃岐国高松藩松平家に仕えている。・・・
 長男の大石良麿(郷右衛門)の庶子・良饒も弘前藩で厚遇されている山鹿系重臣(山鹿素行の孫・山鹿校尉など)と敵対し弘前藩を離れ<た。>・・・
 <但し、>弘前大石氏は<続いていく。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E7%84%A1%E4%BA%BA

 江戸では弘前津軽家と平戸松浦家の支援を受け、・・・自宅で山鹿流古学(聖学)を教えた。・・・
 直系、血縁者で山鹿流を受け継いだのは、津軽藩の山鹿嫡流と女系二家、平戸藩の山鹿傍系と庶流男系の両氏である。・・・
 「注13」内で紹介済みだが、素行の嫡男・政実に学んだ津軽政兕は赤穂事件の直後に、真っ先に政実はじめ家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家と弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる・・・。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩<(後述)>にも記されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C

⇒耳タコだろうが、そもそも、日蓮主義信奉氏だからこそ、弘前津軽氏と平戸松浦氏(や薩摩島津氏)は吉良義央と入魂なのであり、だからこそ、この全てが山鹿素行とも入魂なのだ。(太田)

 (2)荻生徂徠(1666~1728年)

 「元禄赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡<(注14)>をはじめ室鳩巣<(前出)>、浅見絅斎<(注15)>などが主君のための仇討を賛美して助命論を展開したのに対し、徂徠は義士を切腹させるべきだと主張した(後述のように異説あり)。

 (注14)ほうこう(1645~1732年)。「儒学者・林鵞峰<(がほう)・・林羅山の三男で林家を継いだ・・>の次男として江戸に生まれ<、>兄・・・が早世したため林家を継いだ。・・・
 元禄4年(1691年)、それまで上野の不忍池の池畔にあった家塾が、湯島に移され湯島聖堂として竣工したのにあわせて大学頭に任じられた。このときまで儒者は仏僧の風にしたがい、士籍に入ることもできなかったが、鳳岡は強くこれに反対の意を表明した。これにより、同年、束髪改服を命じられ、従五位下に叙せられた。以後、鳳岡は聖堂学問所(のちに昌平坂学問所)を管掌し、大学頭の官職も林家が世襲することとなり、また、それまで僧形で勤めていた儒官の制度も終わりを告げて、儒学者は一般に士として扱われるようになった。・・・
 赤穂浪士が切腹を命じられた時に詠んだ漢詩がある。この詩は「江戸幕府の公式の見解・政策と、儒学者としての林家および個人の見解の間に違いはあるのか」という問いもはらみ、議論も生じさせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B3%B3%E5%B2%A1
 (注15)1652~1712年。「近江国(現滋賀県高島市)に生まれる。はじめ医者を職業としたがやがて山崎闇斎に師事し、後世、・・・崎門三傑の一人に数えられる・・・。後年に至って、闇斎の垂加神道の説に従わなかったために疎遠となった。闇斎の死後は、神道にも興味を示すようになり、闇斎の所説を継述するに至った。・・・その尊王斥覇論は徹底しており、関東の地に立ち入ることはなく、終生、諸侯の招聘を拒み在野にあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%A6%8B%E7%B5%85%E6%96%8E
 「《靖献遺言》8巻は忠志を貫徹した<支那>の志士8人の伝記を叙しその事業を顕彰したもので,近世勤王論の発展に大いなる感化を与えた。彼は人となり厳毅,常に長刀を帯し,鐔(つば)に赤心報国の4字を篆刻(てんこく)していたが,これは彼が単なる学者ではなく,実践を旨とした思想家であったことを示している。平生楠木正成の忠誠を仰薫し望楠軒と号した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E8%A6%8B%E7%B5%85%E6%96%8E-14533

⇒室鳩巣については既に触れたが、在官の林鳳岡も在野の浅見絅斎も、武芸にも兵学にも無縁であったにもかかわらず、武士に憧れ、前者は願って武士になることに成功し、後者は在野を通しつつも見かけだけは武士になった、という点が共通しており、何をかいわんやだ。
 この2人は、要するに、君主がどんな人間であれ、また、どんな理由で「殺され」ても、無条件で当該君主の遺志を忖度して、その成就に尽力しなければならない、と、言っているに等しく、識者としても、また、儒者としても、話にならない。(太田)

 『徂徠擬律書』と呼ばれる文書において、「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也。礼を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず」と述べている。これは、幕府の諮問に対して徂徠が上申したとされる細川家に伝わる文書だが、真筆であるかは不明。
 同じく、浅野家赤穂藩があった兵庫県赤穂市も『徂徠擬律書』は、幕府に残らず細川家にのみ残っていること、徂徠の「四十七士論」(下記)と徂徠の発想・主張に余りに違いがありすぎることから、後世の偽書であるとの考察をしている。
 一方、『政談』のうち「四十七士論」(宝永2年)では、「内匠頭の刃傷は匹夫の勇による『不義』の行為であり、討ち入りは主君の『邪志』を継いだもので義とは言えず」と論じている。
 徂徠の弟子・太宰春台が、「徂徠以外に『浪士は義士にあらず』という論を唱える者がなく、世間は深く考えずに忠臣と讃えている」と述べている点から徂徠の真筆であると思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0 前掲

 さて、この荻生徂徠についてだ。
 彼のウィキペディアもコトバンクも、兵学者たる彼を正面から捉えていない点に物足りなさを覚える。↓

 「江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0
 「江戸前期の儒者。古文辞学派の祖。・・・
 著書はほかに『論語徴(ろんごちょう)』『学則』『答問書』、および法律に関する『明律国字解(みんりつこくじかい)』、兵学に関する『鈐録(けんろく)』など、多方面にわたっている。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0-17726

 「丸山真男<(注16)>氏は周知のように徂徠学における「政治の発見」を説いた。・・・

 (注16)「丸山<が>・・・第二次世界大戦中に執筆した『日本政治思想史研究』は、ヘーゲルやフランツ・ボルケナウらの研究を日本近世に応用し、「自然」-「作為」のカテゴリーを用いて儒教思想(朱子学)から荻生徂徠・本居宣長らの「近代的思惟」が育ってきた過程を描いたものである。
 また、明治時代の思想はデモクラシー(民権)とナショナリズム(国権)が健全な形でバランスを保っていたと評価し[要出典]、特に日本近代を代表する思想家として福澤諭吉を高く評価し、「福澤惚れ」を自認した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
 「『日本政治思想史研究』・・・は様々な観点から批判されている。なかでも、尾藤正英『日本封建思想史研究』(1961年)や、渡辺浩『近世日本社会と宋学』(1985年、新装版2010年)は、朱子学が官学化した時期は、丸山の言うような近世初期の林羅山以降ではなく、近世後期<(1790年)>の寛政異学の禁以降である、という旨の批判をした。このことは、津田左右吉が『文学に現はれたる我が国民思想の研究 武士文学の時代』(1917年)で丸山より前に既に論じていた。丸山自身も1974年の英訳への序文で、官学化の時期について訂正している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%BF%E6%B2%BB%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6
 「江戸幕府による朱子学を中心とした儒学政策は、徳川家康の林羅山登用に始まり、徳川綱吉の湯島聖堂建設で最高潮に達した。その後、徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、加えて古学(山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠(古文辞学派))や折衷学派などが流行したこともあって朱子学は不振となり、湯島聖堂の廃止さえも検討された(『甲子夜話』)。
 松平定信が老中となると、田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、また当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として規制を図った。
 そこで・・・1790年・・・5月24日に大学頭林信敬に対して林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じることを通達し、幕府の儒官である柴野栗山・岡田寒泉に対しても同様の措置を命じた。更に湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけで行わせた。また、林信敬の補佐として柴野・岡田に加えて尾藤二洲や古賀精里を招聘して幕府儒官に任じ、さらに荒廃していた湯島聖堂の改築を行った。・・・1792年・・・9月13日には旗本・御家人の子弟を対象として朱子学を中心とした「学問吟味」を実施させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E7%95%B0%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A6%81
 「丸山は・・・『日本政治思想史研究』<で、>・・・朱子学に代表される政治秩序を「自然」と見なす前近代的思惟様式に対して、荻生徂徠が政治秩序は「作為」的であると考えたとし、近代的思惟様式の幕開けと論じ、日本人の思想の中に近代西洋思想を受け入れる素地があったと主張した。しかし、安保闘争を機に丸山の依っていた講座派理論のいう半封建的な社会が一向に民主化へ向かわない政治情勢に絶望して、「歴史意識の『古層』」が収められた『忠誠と反逆』以降は、古代から流れる「つぎつぎとなりゆくいきおひ」という日本人の思考方法がある限り近代化は不可能であるという結論に至った。丸山は藤田省三、植手通有、松本三之介、渡辺浩など多くの後進を育てた。狩野亨吉の発掘した安藤昌益は、エドガートン・ハーバート・ノーマンの『忘れられた思想家』で再度取り上げられ、封建制批判の先駆者として称賛された。
 尾藤正英は『日本封建思想史研究』で朱子学と封建制を直接結びつける丸山を批判し、日本朱子学の中にも幕府の支配体制を擁護する山崎闇斎と批判する中江藤樹・熊沢蕃山という二つの流派が存在することを主張した。吉川幸次郎や加地伸行らの<支那>文学者や<支那>哲学者は、丸山の漢文読解に誤りが多いことを指摘している。安丸良夫は『日本の近代化と民衆思想』を著し、大思想家ばかりを取り上げるのでなく、民衆史の視点から幕末から近代にかけての民衆思想を研究した。子安宣邦は『「事件」としての徂徠学』で丸山の「自然と作為」という見方を批判し、丸山は自身の近代主義的な歴史哲学に合わせて荻生徂徠をはじめとする思想家たちを実際のあり方から変形させてしまったとする。渡辺浩は『近世日本社会と宋学』で、<支那>近世と日本近世で同じ儒学用語でも意味が異なることを指摘した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%80%9D%E6%83%B3

⇒「注16」から、丸山の助手論文は、やっつけ仕事もいいところであって、学術論文のレベルに達していないと言うべきであり、こんな丸山に持ち上げられた荻生徂徠はいい迷惑だった。(太田)

 <しかし、そもそも、>近世儒学の中から、なぜ徂徠学のような政治的な儒学が生れ得たのか・・・。・・・
 武内義雄<(コラム#11199)>氏はかつて次のようにのべた。
 「日本の儒教は孫子と手を握ることによって、さらに広義には兵家思想を接種することによって、その実践力を高めて国家の進展に寄与しようとしたことは注意すべきである」(『孫子の研究』)。
 近世儒学の需要層が主要には武士であって、中国の士大夫、朝鮮の両班と異なっていた事実を斟酌するとき、この武内氏の指摘は注目すべきであろう。
 ここで想起されるのは、徂徠が儒者兼ね兵学者であったことである。
 徂徠学において、兵学は儒学の単なる余技ではなかった。
 反徂徠学の朱子学者尾藤二洲は、「彼(徂徠–筆者)ハ聖門ノ学者ニアラズ。功利ノミ事トセル事ナリ。孫子ヲ好ミテ<孫子>国字解ヲ作レルハ、基本志ノ注グ所ナリ」(『正学指掌』)とのべ、徂徠の本質が『孫子』の兵学にあると看破している。・・・
 荻生徂徠は物茂卿と自称したように、大和朝廷の武臣物部氏<(注17)>の後裔であることを誇りにした。

 (注17)「神武朝より大王家に仕えた氏族で、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。・・・
 物部氏の職掌について、本位田菊士は<、>屯倉の設置と管理、軍事と外交(主に朝鮮)<、>医療と呪術<、>狩猟・飼育と食物供献儀礼<、>殯儀礼<、>を挙げている。<但し>、大伴氏とともに古代軍事氏族の雄といいながらも、攻伐への参加が乏しいとして、その軍事的性格に疑問を呈する意見も存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F

 鈐録<(けんろく)>序によれば、彼は「幼少より武義<好>み読者の片手間には心を是に用」い「我国諸家の軍法を粗々学び、異国の兵書をも多く」渉猟し、更に戦国時代の合戦を物語る物師に接したという。
 こうした幼少以来の兵学愛好は、『先哲叢談』に躍如として伝えられている。・・・
 『孫子国字解』・・・は、・・・徂徠が朱子学徒を自認していた時期の著作である。・・・
 <彼の>テキストに即す態度は、時に著作当時の朱子学の価値観と抵触した。
 殊に対象が『孫子』だけに、それは著しかった。・・・
 徂徠は『孫子』に即すことによって、道徳的価値観の桎梏から解放されたと言えよう。
 ここから『国字解』の独自な『孫子』解釈が生み出され、われわれはその解釈の中に徂徠学の原型を認め得るのである。」(前田勉(注18)「徂徠学の原型–『孫子国字解』の思想」より) 
http://ajih.jp/backnumber/pdf/16_02_03.pdf

 (注18)1956年~。東北大卒、同大院博士課程、同大博士(文学)、同大文学部助手、愛知教育大助教授、教授、2010年『江戸後期の思想空間』で角川源義賞受賞。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%8B%89

⇒「『日本政治思想史研究』を読む」シリーズ(コラム#11141~11161)を続けておれば、私が繰り出していた可能性が高かったところの、武内・前田の合わせ技、によって、(今の今まで気づかなかったけれど、)既に、丸山の徂徠論は完膚なきまでに笑いものにされてしまっていたわけだ。(太田)

 「吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。人口問題の記述や身分にとらわれない人材登用論は特に有名である。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。服部南郭をはじめ徂徠の弟子の多くは風流を好む文人として活躍したが、『経済録』を遺した弟子の太宰春台や、孫弟子(宇佐美灊水弟子)の海保青陵は市場経済をそれぞれ消極的、積極的に肯定する経世論を展開した。・・・
 また、本居宣長は古文辞学の方法に大きな影響を受け、それを日本に適用した『古事記』『日本書紀』研究を行った。徂徠学の影響力は幕末まで続き、西洋哲学者の西周は徂徠学を学んでいた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0

⇒欧米の近代とは、ヴァイキングを含むゲルマン人が、かつて半移動的総力戦体制にあった(コラム#省略)ところ、かかる総力戦体制を定住化社会において実現したものである以上、兵学者であった徂徠(や素行)が近代人的であったのは当然なのであり、このことに全く気付かなかった丸山・・だからこそ、彼は、福澤諭吉についても、完全に的外れの評価をしてしまった・・には、ただただ呆れるほかない。
 もっとも、これは、丸山だけの責任ではなく、発足以来の東大政治学科の責任でもある。(太田)

 (3)熊沢蕃山(1619~1691年)

 「<熊沢蕃山の当時、>内は島原の乱(1636)が起こって鎖国政策は強化され,外は清国の朝鮮侵略があって,日本侵寇も予想憂慮された。・・・
 4代将軍家綱の文治主義的政治に・・・熊沢蕃山・・・は期待し,朝廷復興に努力したが,容れられず,京都追放処分(1667)を受ける。5代将軍綱吉には批判的で,大老堀田正俊に幕府へ出仕するよう要請されるが,拒否。ただし 清国の侵寇近しとの判断から,大和郡山在住期の貞享3(1686)年幕政改革案を含む総合的防衛策を幕府に上申。そのため古河藩へ幽閉となり同地で客死する。・・・
 <その>学問の特徴は,政治,経済に関する具体的な考察に傾いている点にあり,「時処位」の3要素を勘案して実際に応じた方策を立てることの必要性を説いた。この「時処位論」はのちに古学派に影響を与える」
https://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1-16500
 「著書<のうちの一つに>・・・『源氏外伝』(源氏物語の注釈書)<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1
 「一般に、日本の儒学者は日本固有の文化を<支那>のものより低いものとして見ており、中でも『源氏物語』のような男女の愛憎関係を描いたようなものは「好色淫乱の書」とされてまともに取り上げるに値しない蔑視の対象でしかなかった。そのような中で『源氏物語』を愛読したとされる熊沢蕃山は、『源氏物語』を「礼楽及び人情世態を教化するための良書である」として儒学による価値観と日本の伝統文化の融合を図ろうとして本書を著したと考えられている。・・・
 <但し、>本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』において、本書が主張している勧善懲悪説をかなりの量を裂いて批判している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%A4%96%E4%BC%9D
 「蕃山の儒学は朱子学と陽明学の折衷的なものであり、老子の影響もみられる。神道、和学にも造詣(ぞうけい)が深く、<上述のように>『源氏物語』の特色ある注釈書『源語外伝』も著している。彼は、兵農分離に基づく幕藩体制下の武士がしだいに商品経済にからめとられていく状況に強い危機感を抱き、武士の土着、参勤交代の緩和などを主張した。・・・
 賢君による「仁政」の論以下,兵備,治山治水,農兵制,貿易制限,宗教政策,文教政策論などを展開。・・・
 治山治水事業の遺跡は万治3(1660)年に民政指導のために招かれた豊後岡藩(大分県)や古河藩領(茨城・栃木)に現存する。その事業の背景には自然破壊を強く警告する「天人合一」の政治哲学があり,蕃山の日本文化独自性論の根底には「時処位」(時代,国土,地位)の思想がある。・・・
 当時・・・その学問<は、>・・・〈心学〉とよばれた<。>・・・
 死後1世紀を経た18世紀末には新井白石と並称された。その影響は儒学者以外にも広く思想家,文人におよび,文楽,浄瑠璃,歌舞伎などの主役に仕立てられて民衆にも人気があった。・・・
 16歳で岡山藩主池田光政の近習となり,20歳で致仕,近江に移住。 23歳のとき,中江藤樹に入門を請う。 27歳のとき再び池田家に仕え,やがて番頭となって藩政に参加するが,同僚のねたみを避けて禄を辞す。浪人生活中京都で学を講じたが,江戸幕府に朱子学への対立者であると疑われ,追放された。のち明石藩主松平信之に預けられ,大和郡山,下総古河と転々とする。古河で書いた政治への意見書『大学或問』 (1686) が浪人の身で政治を論じる不埒を犯したとして禁錮の処罰を受け,古河城内で病気のためその生涯を閉じた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1-16500
 「幕末、蕃山の思想は再び脚光を浴びるところとなり藤田東湖、山田方谷、吉田松陰などが傾倒し、倒幕の原動力となった。また、勝海舟は蕃山を評して「儒服を着た英雄」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1


[心学]

 支那では王陽明の知名度が高くなかったこともあって、陽明学よりは心学という用語が用いられた、と、私は見ている。

 「中国思想史には,禅心学と陸王(陸象山<(注19)>と王陽明<(1472~1529年)(前出)>)の心学とがある。

(注19)「陸象山<(りくしょうざん=陸九淵。1139~1193年)は、>・・・南宋の儒学者・官僚。・・・朱子と全く同じ時間を生きた<。>・・・
 [鵝湖 (がこ) 寺で行なった朱子との論争は「鵝湖の会」として有名。]
 象山の思想は「心即理」ということばで特徴づけられることが多い。朱子学では心を「性」(人が本来持つ善なる本性)と「情」に分け、「性」こそ「理」(ものごとをあるべくしてあらしめる天のことわり)であるとした(すなわち「性即理」)が、象山はこれに対し、心を分析してその中に性・情や天理・人欲を弁別することを良しとせず、心そのものが「理」であると肯定した。象山の思想を心学と称する所以である。これは程明道(程顥)の「善悪みな天理」という考えを敷衍したものに他ならない。心=理とする思想は、心以外のものに束縛されないことを意味し、これを推してゆけば六経や孔子・孟子その人すらも、そこに先験的な価値を置かない姿勢を導き出す。果たして象山は「六経、みなわが心の注釈なり」と述べて、権威ある六経よりも自らの心を上位に置いた発言をしている。・・・
 象山自身は明確な師弟関係を持たなかったが、その学統は程明道―謝上蔡(謝良佐)と受け継がれてきた「万物一体の仁」に連なるものである。それはやがて明代に至り王陽明へと受け継がれ、「陸王学」あるいは「心学」と呼ばれ一世を風靡するのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%B1%A1%E5%B1%B1
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B8%E8%B1%A1%E5%B1%B1-148523([]内)
 なお、「謝良佐<は、>・・・その出身地,河南省上蔡にちなんで上蔡と号した。ために謝上蔡<(しゃじょうさい)>とも称呼される。程(程顥,程頤)門の高弟だが,生気はつらつとしたその学風は程顥(明道)に近い。」
https://kotobank.jp/word/%E8%AC%9D%E4%B8%8A%E8%94%A1-1334520

 心,学の字は先秦の古典にすでに多くみられるが,心学と一語として使用されたのは仏教が中国に渡来してから以後のことである。当初,戒・定・慧の三学の一つとして,戒学,慧学に対する定学=心三昧の学というほどの意味であった。仏教が<支那>伝統思想と対決して禅心学が形成された。ここではもはや心三昧の学ではない。人間存在の全分を一心にかけ,既成のいっさいの教義や,伝統的規範から自由になって,心に転迷開悟の決定的契機をつかもうとする。そのため禅心学は無の哲学をその中核に保有する。
 これに対抗して宋の程朱学(朱子学)は理学(性理学,道学)を主唱した。彼らは禅心学を,定準なき心に安易に依存し容易に私意妄行に陥り,これでは主体性を確立し人格的に自立することも不可能であり,経世済民の責任を担うこともできない,と激しく非難した。
 しかし,この理学が心の背理可能性を考慮するあまり,定理の先験的超越性を強調すると心の自主性を阻害し畏縮固定させるおそれがある。禅心学の私意妄行と空疏無内容を回避しつつ,既成の権威から自由なところは摂取し,理学の膠着性は拒否しつつ,実理の創造と歴史の形成に参加する点は吸収するという,禅学と理学を止揚して新たな実践哲学を樹立したのが,陸象山,王陽明の心学である。
 とくに・・・朱熹(朱子)を批判し,陸九淵を評価し<た>・・・王陽明<、>の創唱した<ところの、>・・・学とは心を究極の原理とし,心内で完結すると規定し,〈心即理〉を根本的教理とした・・・良知心学は,・・・その実現のために簡易な実践徳目を掲げたので,儒仏道三教の融合,学問の権威道徳からの解放と庶民化に役立<ち、>・・・<支那>,日本の思想界に大きな影響を与えた。近世思想史において主要概念として活用された心(現存在する人格の統一主体)と理(天理,理法)の両者の関係は他者を欠いて一方だけでは存在する意味がない。だから,心学と理学の両概念も排他的概念ではないことに注意しなければならない。・・・心学と理学とを分かつのは,実践論として,心と理のいずれに究極的価値をおくか,換言すれば,心に基づくか天に基づくかによって思惟構造の差異が顕著だからである。・・・
 なお,のちには,朱子学も心学と呼ばれることもあった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BF%83%E5%AD%A6-81373

⇒禅心学もそうだが、朱子学にせよ陽明学にせよ、その形而上学的側面はバカバカしい限りであるところ、それはともかくとして、陽明学(心学)が江戸時代の日本の、広義の日蓮主義系の武士達の間で流行った理由として、それが万物一体の仁の学統に属していたことや、王陽明が軍人でもあったこと、もあったと想像される。
 なお、この心学と、石門心学(注20)とは、全くの別物だ。(太田)

 (注20)「神道・儒教・仏教などの諸説を融合,職業・身分に相違はあっても人間の尊さにおいては平等とした。商人の存在理由と商業による利潤追求の正当性を述べ,勤勉・倹約・勘忍・正直などの徳目を,道話・道歌・子守歌など平易な言葉を用いて庶民のうけ入れやすい方法で説いた。梅岩の没後も弟子手島堵庵 (とあん) ,その弟子中沢道二らによって道舎が各地に建てられ,全国に普及,武士層にも浸透していった・・・が,社会批判は希薄になり一部を除いて思想的深化はみられなかった。」(上掲) 

 
 熊沢蕃山は赤穂事件の時は既に他界していたのだが、私は、彼の思想が当時の毛利藩の赤穂事件への姿勢に影響を与えたと見ている。↓

 「毛利綱元<(1651~1709年)>は、長門国長府藩3代藩主。・・・正室:房姫(1653-1686) – 祥雲院、池田光政の娘・・・宝永4年(1707年)、長男の吉元が本家の長州藩主を継いだ。宝永6年(1709年)3月1日、60歳で死去し、跡を吉元の長男の元朝が継いだ。・・・
 倹約を主とした「天和御法度」を制定する。元禄10年(1697年)には窮民の救済に尽くし、さらに文武奨励や覚苑寺建立など、藩政に尽くしている。
 また、文芸・和歌を好み、「歌書尾花末」や「和歌視今集」にもその歌が収められるほどであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%B6%B1%E5%85%83
 この「毛利綱元<は、>元禄15年(1702年)12月15日、赤穂浪士が吉良義央を討つと、47士のうち岡島常樹、吉田兼貞、武林隆重、倉橋武幸、村松秀直、杉野次房、勝田武尭、前原宗房、間光風、小野寺秀富の10士のお預かりを命じられ<た>。
 毛利家は浪士たちを通常の罪人として扱い、護送籠に錠前をかけ、その上から網をかぶせた。到着後は収容小屋に五人ずつ分けて入れ、窓や戸には板を打ち付けた。さらに、収容小屋の周りに板塀を循らし二重囲いにした。戸口と塀の所々に昼夜交代で複数の番人が見張った。本家の長州藩からも監視として、志道丹宮・粟屋三左衛門らが数十人の小者を引き連れ派遣されて来た。
 毛利綱元は赤穂義士には遂に会うことは無かった。暖を取るための酒や煙草といった要求も拒否し、火鉢の提供も無かった。切腹には「扇子腹」として扇子を十本用意させた。幕閣御目付から「其れでは打ち首と大差なし」と注意され、「小脇差を出すようにというお指図」を受けたと記録されている。間光風が本当に脇差を腹に突き立ててしまい、武林隆重も一度で首を落とせなかったが、介錯人はあわてず対応したので騒ぎにはならなかった。
 義士切腹後に、綱元は「首尾よく仕舞ひ、大慶仕り候」と慶び、重臣の田代要人・時田権太夫に命じて収容小屋の破却及び、切腹跡地を清めて藩邸内の何処で切腹したか、判らないようにすべく指示している。 また、検使より「御預人の死骸・道具の処分につき勝手次第」との指図を受け、そのようにしようとしたが、泉岳寺の酬山和尚が全て引き取る旨あったので、荻野角右衛門配下の足軽・手明中間ら十数人が葬送した。のちに酬山は、この時に受け取った義士遺品も売却して金に換えてしまう。
 その後も、綱元は江戸で没したにもかかわらず遺体を長府に送らせ、秀元が菩提寺とした泉岳寺<・・父親の毛利光広に墓所あり・・>にて赤穂義士と併葬されるのを嫌った。これが長府藩が泉岳寺を避け、最終的には絶縁にまで至る嚆矢となった。
 六本木ヒルズの毛利庭園内には他のお預かり大名家と異なり、一切の供養塔や顕彰碑の類は存在せず、義士切腹地の場所は、令和の御代になっても全く不明のままである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%B6%B1%E5%85%83
 
⇒毛利綱元は、「倹約を主とした「天和御法度」を制定する。元禄10年(1697年)には窮民の救済に尽くし、さらに文武奨励や覚苑寺建立など、藩政に尽くしている。また、文芸・和歌を好み、「歌書尾花末」や「和歌視今集」にもその歌が収められるほどであった。宝永4年(1707年)、長男の吉元が本家の長州藩主を継いだ。」(上掲)という名君であり、上掲の赤穂浪士の処遇は、強い思想的信念の下で行われたと見るべきだろう。
 私は、熊沢蕃山の思想を綱元が信奉していた、と、見ている次第だ。
 それは、蕃山を重用した池田光政の娘であるところの、正室の房姫、を通じて光政、ひいては蕃山の謦咳に間接的とはいえ接したためではないか、とも。
 熊沢蕃山(1619~1691年)は、以下のような人物だ。↓
 「浪人であった父・・・の長男として<京で>生まれる。・・・
 正保2年(1634年)池田輝政<(注21)>の女婿であった丹後国宮津藩主京極高広の紹介で、輝政の孫である備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕する。

 (注21)1565~1613年。「本能寺の変で信長が明智光秀に討たれる。中国攻めから引き返して尼崎に到着した羽柴秀吉と合流した恒興<・・輝政の父・・>は、このとき、秀吉の甥・秀次を恒興の婿に、輝政を秀吉の養子とすることを約束した。・・・
 文禄3年(1594年)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。・・・
 文禄4年(1595年)、関白・秀次の失脚時、その妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若政所(秀次の正室)は例外的に助命されており、特別丁重に扱われている(秀次事件)。豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇されていた。・・・
 慶長4年(1599年)閏3月3日、武断派と文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政らと共に石田三成襲撃事件を起こした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF

 寛永14年(1637年)島原の乱に参陣することを願い出たが受け入れられず、一旦は池田家を離れ、近江国桐原(現・滋賀県近江八幡市)の祖父の家へ戻る。寛永19年(1642年)伊予国大洲藩を致仕し郷里の近江国小川村(現・滋賀県高島市)に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶ。・・・
 正保2年(1645年)再び京極氏の口添えで岡山藩に出仕する。光政は陽明学に傾倒していたため、藤樹の教えを受けていた蕃山を重用した。 正保4年(1647年)には側役、知行300石取りとなる。慶安2年(1649年)には光政に随行し江戸に出府する。
 慶安3年(1650年)鉄砲組番頭、知行3,000石の上士に累進。慶安4年(1651年)・・・全国初の藩校・・・「花園会<(花畑教場)>」の会約を起草し、これが蕃山の致仕後の岡山藩藩学の前身となった。承応3年(1654年)備前平野を襲った洪水と大飢饉の際、光政を補佐し飢民の救済に尽力する。また、津田永忠とともに光政の補佐役として岡山藩初期の藩政確立に取り組んだ。零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた(しかし、新田開発に対しては一貫して否定的であった)。しかし、大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらした。また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である蕃山は、保科正之・林羅山らの批判を受けた。
 このため、1657年(明暦3年)、39歳で岡山城下を離れ、知行地の和気郡寺口村(現・岡山県備前市蕃山)に隠棲を余儀なくされた。・・・
 明暦3年(1657年)幕府と藩の反対派の圧力に耐えがたく、遂に岡山藩を去った。
 万治元年(1658年)京都に移り私塾を開く。万治3年(1660年)には豊後国岡藩主中川久清の招聘を受け竹田に赴き土木指導などを行った。寛文元年(1661年)京都に居を移し、多数の家下・武士・町人に師事された。その名声が高まるにつれ再び幕府に監視されるところとなり、とうとう時の京都所司代牧野親成により京都から追放された。
 寛文7年(1667年)には大和国吉野山(奈良県吉野郡吉野町)に逃れた。さらに山城国鹿背山(現・京都府木津川市)に隠棲する。寛文9年(1669年)51歳の時、幕命により播磨国明石藩主松平信之の預かりとなった。このとき太山寺(現神戸市西区)に幽閉される。以後著述に専念した。『集義和書』を1672年(寛文12年)に刊行し、山・川・森を治めることを国土経営の基本とする考えをといた『集義外書』を1679年(延宝7年)に著した。
 延宝7年(1679年)信之の大和郡山藩転封に伴い、大和国矢田山(現・奈良県大和郡山市)に移住する。天和3年(1683年)には大老堀田正俊の招聘を受けたが辞退している。岡山藩致仕後、浪々の中で執筆活動とともに幕府の政策、特に参勤交代や兵農分離を批判し、また岡山藩の批判をも行った。
 貞享4年(1687年)、『大学或問』が幕政を批判したとされ、蕃山は69歳の高齢にもかかわらず、幕命により、松平信之の嫡子である下総国古河藩主・松平忠之に預けられ、古河城内の竜崎頼政廓に蟄居謹慎させられた。しかし、蕃山の治山治水の技術は古河藩でも頼りにされ、家老や藩士たちを指導することがあったらしい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1
 ちなみに、池田光政<(1609~1682年)>は、以下のような人物だ。↓
 「播磨姫路藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩主<。>
 水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之と並び、江戸時代初期の三名君と称されている。・・・
 正室<の>・・・勝姫<は>、徳川秀忠養女、本多忠刻と千姫の娘<。>・・・
 幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学<(>心学<)>を藩学とし・・・仁政に心がけた・・・。この陽明学は自分の行動が大切であるとの教えで、これを基本に全国に先駆けて藩校を建設、藩内に庶民のための手習所を数百箇所作った。・・・
 のちに手習所を統一して和気郡に閑谷学校を造った。・・・
 <また、>諌箱(いさめばこ)を設置した。これは家臣からの諫言を受け入れるためのものである。・・・
 光政の手腕は宗教面でも発揮され、神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。儒学的合理主義により、淫祠・邪教を嫌って神社合祀・寺院整理を行い、当時金川郡において隆盛を極め、国家を認めない日蓮宗不受不施派も弾圧した。・・・
 遺言<で>・・・池田家の存続・安定に尽力すること、学問や武備の重要性から貯蓄・倹約のあり方など17か条あったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF
 蕃山と光政が、いかに軍事も重視したか、つまりは、この両者が孔子的要素と孫武的要素を兼ね備えた人物・・理念型的な縄文的弥生人!・・であり、かつ日蓮主義者であったことについては、コラム#12303参照のこと。(太田)

3 赤穂事件関係各藩について

 (1)吉良方の津軽藩

 近衛家≒島津氏≒津軽氏、という史実(コラム#省略)を繰り返しておこう。
 だから、津軽氏は、当然、日蓮主義氏であり、日蓮主義に沿った行動をとるわけだ。↓

 「安倍貞任が討ち死にした後、弟・宗任は降伏し、源義家によって助命されて肥前国に流罪となり、渡辺久(松浦久)に身柄が預けられた。久は宗任に娘を娶(めと)らせて下松浦に住まわせたとする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B0%8F
 「『今昔物語』には、安倍頼時(貞任の父)は陸奥国の奥に住む「夷」と同心したため源頼義に攻められ、貞任・宗任兄弟らは一族とともに「海の北」(北海道)に船で渡り河の上流を30日余り遡った当たりで「湖国の人」の軍勢に遭遇した、と伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%B2%9E%E4%BB%BB
 「津軽地方の豪族・安東氏(のち秋田氏)は貞任の子、高星(高星丸)の後裔を称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%B2%9E%E4%BB%BB
 「諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とする」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%B0%8F
 「1268年、津軽の十三湊を本拠地とした安藤氏が、アイヌの蜂起によって討たれました。日蓮の書状にはこのできごとへの言及があり、北方世界にも強い関心を持っていたことがうかがえます・・・。
 また、文永の役で蹂躙された対馬の模様も、日蓮の書状には出てきます。「男たちは殺されるか捕虜になり、女たちは手のひらに穴をあけられ、船に結びつけられた」などと記されています。」
https://note.com/toubunren/n/n9eaa21b428b5
 「『日蓮聖人遺文』の「種種御振舞御書」には建治元年(1275年)のこととして「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」との記載がある。これを、真言宗に改宗したためアイヌに殺害されたとする意見もあるが、この頃元が樺太アイヌを攻撃したことが元史に記録されていることから、ここでいう「ゑぞ」をアイヌではなく広く北方の異民族と解・・・する説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%B0%8F 前掲

 「津軽氏の系譜には諸説あるが多くの系図では、甲斐源氏の流れをくむ南部氏の庶家・南部久慈氏の一族、大浦光信を祖とする津軽大浦家として家系を開始しており、延徳3年(1491年)、・・・安藤氏残党の反抗に対処させるために久慈から津軽西浜種里に移封したと『可足記伝』、『津軽一統志』などで伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E6%B0%8F
 「本行寺 (弘前市)<は、>・・・天正6年(1578年)津軽為信(津軽藩藩祖)が京都から妙覚院日建を迎えて堀越城城中に創建した。慶長16年(1611年)の弘前寺町移転を経て、慶安2年(1649年)現在地に移転した。現在の本堂は平成4年(1992年)に再建されたもの。
 かつて弘前藩に仕えた大石氏の墓があったが、山鹿校尉(山鹿素行の孫)らが大石氏と敵対し、大石家の墓は撤去され、現在は更地になっている。
 境内<に、>本堂<と>護国堂<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A1%8C%E5%AF%BA_(%E5%BC%98%E5%89%8D%E5%B8%82)
 津軽藩三代藩主の津軽信義の次男で四代藩主となった信政の弟の信経、この分家における信経の子の政模(津軽藩家老)について。信経の室とその母は本行寺(日蓮宗)に埋葬されている。信模は、1711年、本行寺に五番善神・日蓮上人座像を寄進し、これを納める護国堂(祈祷堂)を建立しており、日蓮宗に入信し、本行寺を菩提寺に定めた。また、その室も本行寺に埋葬されている。また、信経家は松浦家との婚姻がある。(篠村正雄「津軽家一門の法華信仰と女人法華について」より)
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=2703307da6e2b7a9JmltdHM9MTcwNzM1MDQwMCZpZ3VpZD0wY2Y3Mjg5Ny03ZjUyLTZiZTUtMjg1YS0zYzg5N2ViODZhMzcmaW5zaWQ9NTIxMA&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=0cf72897-7f52-6be5-285a-3c897eb86a37&psq=%e7%af%a0%e6%9d%91%e6%ad%a3%e9%9b%84%e3%80%80%e6%b4%a5%e8%bb%bd%e5%ae%b6%e4%b8%80%e9%96%80%e3%81%ae%e6%b3%95%e8%8f%af%e4%bf%a1%e4%bb%b0%e3%81%a8%e5%a5%b3%e4%ba%ba%e6%b3%95%e8%8f%af%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6&u=a1aHR0cHM6Ly9oaXJvc2FraS5yZXBvLm5paS5hYy5qcC8_YWN0aW9uPXJlcG9zaXRvcnlfYWN0aW9uX2NvbW1vbl9kb3dubG9hZCZpdGVtX2lkPTY4NDcmaXRlbV9ubz0xJmF0dHJpYnV0ZV9pZD0yMCZmaWxlX25vPTE&ntb=1

 (2)吉良方の平戸藩

  ア 始めに代えて

 松浦(まつら)氏の平戸藩の山鹿素行推しと赤穂事件における上野介へのシンパシーのよってきたるゆえんを解明する手掛かりを、その当時の当主だった松浦隆信を中心に、その祖先、祖父、を通じて探った上で、その後の平戸藩についても触れておきたい。
 まずは、松浦氏の祖先の話からだ。
 能の「白楽天」という演目についてのコラム#14070の記述を読んで欲しいが、ここで補足しておく。↓

 「蒙古襲来などたびたび脅かされた九州の海岸線。外敵に対する穏やかならざる状況がこのような能を生んだ背景にあったのだろう。国を外敵の侵攻から守るということであれば、神、神風によって守られていることはありがたいことである。だが、この能ではそれを詩歌の遣り取りに変えてきている。だから、神も武の八幡神ではなく、文の住吉神だったのである。歴史的、政治的な状況が能の背景にある。文永の役、弘安の役といった元寇の時代、また世阿弥の生きていた時代の応永の外寇が人々の記憶に残っている。それが「白楽天」を生み出した遠因になっている。詩歌で白楽天に勝つということが、文芸的に昇華された神国日本の姿だったのだろう。
 <ちなみに、住吉神についてだが、>「筑前一之宮住吉神社」は日本で最も古い住吉三神を祀る神社で、博多湾に面し、航海・海上の守護神である。一方、「住吉大社」の祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神と神功皇后。王朝時代には和歌・文学の神として仰がれていた。」
https://estela.hatenadiary.jp/entry/2018/08/27/104604
 「白楽天」の「詞章に・・・、「国も動かじ、万代までに」「よも日本をば、従えさせたたまわじ」「動かぬ国ぞ久しき」・・・「神と君が代の、動かぬ国ぞ久しき」・・・と言った文言<が出てくる。>」
https://blog.goo.ne.jp/harunakamura/e/198ca15a1828cd559288084bbdd5b860
 「生きとし生ける物いづれも歌を詠むなり<・・という詞章も出てくるところ、>・・・この部分、本説は古今<和歌集の>序の「花に鳴く鶯、水に棲む蛙の声を聞けば、生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける」という一節である(ちなみにいえば、今でも用いる「生きとし生けるもの」という言いまわしはここから出たもの)。――ただし、古今序を書いた紀貫之のつもりとしては、『白楽天』にあるような意味ではなくて、単純に「鶯は花に鳴き、蛙は水に鳴く。その鳴声もまた一種の〈歌〉と呼ぶべきものではないか」というくらいのことだったのだろう。」
https://plaza.rakuten.co.jp/sekkourou/diary/200512050000/
 「白楽天」の「舞台が肥前国松浦であるのには理由があって、万葉の昔からこの地は遣唐使が九州で最後に停泊する港(さらに対馬に停泊することもあったが)ということになっている。いわば奈良朝の長崎とでもいうべき異国情緒あふれる土地柄ということになっていて、かつて大伴旅人が太宰府に赴任したときには、松浦の仙女と一夜を契ったことを歌につくり、漢文の序につくった作品が万葉集に残っている。仙女と一夜を契ったというのが味噌で、これは当時<支那>から舶載されてきて人気を集めた恋愛小説『遊仙窟』の趣向をそのままなぞっており、つまりは松浦を『遊仙窟』の舞台<支那>になぞらえているのであって、もって当時の松浦がどのような意味を持つ地名であったかを理解することができる。むろん室町ごろにはただの港町になっていたのだろうが、文学上のトポスとしての松浦のイメージは能においてもきちんと受継がれており、だからこそ白楽天は唐から船に乗って松浦に上陸するのである。」(上掲)

⇒残念ながら、この能の演目の作者は不明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E3%81%AE%E7%8F%BE%E8%A1%8C%E6%BC%94%E7%9B%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
だが、下掲から、松浦氏の関係者である可能性が高いと思う。↓

 「鎌倉時代の初期、嘉禄元年(1225年)頃より松浦党は高麗に押しかけ、倭寇の源をなした。・・・
 13世紀の元寇の時には・・・肥前国松浦郡で蒙古軍と戦った佐志房と三人の息子の直・留・勇は揃って戦死し、松浦党数百人が討たれ、あるいは生け捕りにされ、松浦は壱岐や対馬同様に蒙古軍に蹂躙されたという。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%85%9A
 「松浦党のうち下松浦党の本来の嫡流は松浦直の嫡男の松浦清の末裔(まつえい)の一族であるが、松浦氏の数多くの傍流のうち、松浦直の五男の峯披の子孫から平戸を本拠とする平戸松浦家(平戸氏・峯氏とも)が興った。これが次第に惣領家や他の庶家をしのぐようになり、平戸氏から松浦氏に復姓した。
 松浦弘定<(1466~1515年)>、松浦興信<(?~1541年)>の時代には内紛もあったものの、興信の子の松浦隆信の代には、惣領家や上松浦党をも従えて松浦半島を統一する戦国大名となった。隆信とその子の松浦鎮信は豊臣秀吉に従い豊臣政権の下で近世大名としての道を確立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B0%8F#%E5%B9%B3%E6%88%B8%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B0%8F
 「平戸市<の>・・・本成寺<は、>・・・1615年建立、日蓮宗。松浦家28代隆信が京都本能寺から隆遥院日治師を招き建立した。」
https://www.hirado-net.com/see/hokubu/see40/

⇒つまり、松浦氏は、隆信の代までに、ひょっとしたら、元寇前後には既に、日蓮主義氏になっていたと思われる。(太田)

  イ 松浦鎮信(1549~1614年)

 「<隆信の子の>松浦鎮信<は、>・・・文禄・慶長の役では、まず前進基地のひとつとして壱岐国に勝本城の築城を指示された後、宗氏と共に朝鮮通として期待され、嚮導役を任された。弟信実、子の久信と共に出征し、大村喜前(純忠の子)、有馬晴信、五島純玄ら肥前の諸将は小西行長の一番隊に属して渡海し、緒戦より7年間に渡って活躍した。鵲院関の戦い、蔚山城の戦い、順天城の戦い、露梁海戦などで功を挙げている。朝鮮の役では24戦無敗であり、あまり注目されていないが、抜群の戦歴を残している。
 ・・・平戸とは船が往来して戦利品をたびたび持ち帰っており、朝鮮人奴婢を数百人連れて帰って領内に帰化させたが、このなかには熊川<(注22)>(こもがい)陶工も含まれていた。

 (注22)現在の「大韓民国慶尚南道昌原市の・・・鎮海区(ちんかいく/チネく)・・・。韓国最大の軍港の町として知られる(鎮海海軍基地)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E6%B5%B7%E5%8C%BA_(%E6%98%8C%E5%8E%9F%E5%B8%82)

 これらが三川内焼<(注23)>の祖となった。」(α)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%8E%AE%E4%BF%A1
こと、と、「慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、大坂にいた久信が西軍に組したが、本国に在国していた鎮信は、肥前の神集島に大村喜前、有馬晴信、五島玄雅の肥前諸将を招集し、自身らの去就会議を開<き、>鎮信は大村喜前の言葉に従って、東軍に与することを決定した。

 (注23)「三川内焼(みかわちやき)は、平戸焼(ひらどやき)ともいう、長崎県佐世保市の三川内で生産される陶磁器である。・・・
 朝鮮の役が終結した際、各地の大名は朝鮮の陶工を連れ帰った。平戸藩藩主である松浦鎮信も多くの陶工を連れ帰った。慶長3年(1598年)、巨関(こせき)という陶工は、帰化して今村姓を名乗った後、平戸島中野村の中野窯で藩主の命により最初の窯入れをした。この中野焼が三川内焼の始まりといわれている。同じく朝鮮から来た陶工の高麗媼は、中里茂左衛門のもとに嫁いだ後、元和8年(1622年)に三川内へ移住した。また、巨関は1622年ごろ、中野村に陶土がなくなったために陶土を求め、息子の今村三之丞と共に藩内を転々とし、寛永14年(1637年)、最後に行き着いたのが三川内である。その後、慶安3年(1650年)に中野村の陶工が、平戸藩により三川内に移された。
 平戸藩では、隣接する佐賀藩の伊万里焼に匹敵する美術的な磁器を産出していたとされる。じっさい、近世期には、平戸藩から将軍家や朝廷・公家などへ盛んに平戸焼が献上されていた。ところが、近代に入って有田焼(旧伊万里焼)の名声が高まったのにたいし、三川内焼は知名度という点でも美術的な評価という点でも後塵を拝するようになってしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B7%9D%E5%86%85%E7%84%BC

 久信が西軍であったこともあり、徳川家康の疑念を招かないように建設途中の城の一部を焼却してみせた。これらの対応を賞した家康は、書を持って壱岐と松浦郡6万3,200石の所領を安堵し、鎮信は平戸藩初代藩主となった。久信にも咎は無かった。
」(β)(上掲)こと、そして、「平戸貿易は<松浦隆信の祖父の鎮信の>父<(孫と同じ隆信という名)>の代に、ポルトガル船が長崎に移ったことで貿易の主役の座を奪われていて、松浦の経済は往時の繁栄を失っており、鎮信はこれの再建を夢見ていた。これより前の慶長5年<(1600年)>、オランダはロッテムダムのファン・デル・ハーヘン社の5隻の貿易船の内の一隻、リーフデ号が豊後国に漂着していたが、その船員の一人クワッケルナックを帰国させるために、鎮信が自ら船を建造して与えたのはそのためである。クワッケルナックは家康の親書を携え慶長10年(1605年)に平戸を出立し、パタニ(マレー半島)で東インド会社の東洋遠征艦隊指揮官マテリーフ・デ・ヨンゲに報告。親書とは別に、クワッケルナックは鎮信に頼まれた日本貿易の振興を総督に訴えたので、デ・ヨンゲは平戸に来航することを約束した鎮信宛ての書を和船に託した。
 慶長14年(1609年)、約束より2年遅れたが、ローデレーフ号とフリーフン号の2隻が長崎沖に現れ、水先案内人の導きで、5月31日に平戸港にオランダ船が初めて入港した。鎮信はオランダ使節を駿府(家康の隠居地)に連れて行って国書を奉じさせ、貿易の許可を得た。平戸にはオランダ商館が開設され、ヤックス・スペックスが初代館長となった。また慶長18年(1613年)、イギリス東インド会社のジョン・セーリスが平戸に来航。国王ジェームズ1世の国書を持って、家康より貿易を許可する朱印状を得て、鎮信と隆信は平戸の木引田町にイギリス商館を開設させ、リチャード・コックスが初代館長となった。また同年アダムスも平戸に招き、(対外貿易が幕府独占になるまで)平戸貿易の再興を果たした。」(γ)(上掲)こと、を、念頭に置く必要がある。
 αから、松浦氏が、もともと、東アジア情勢に精通していたこと、そして、恐らくは、文禄・慶長の役での出征を通じて秀吉流日蓮主義に賛同するに至っていたことが推測でき、βから、実際、秀吉流日蓮主義を賛同していたからこそ、関ヶ原の戦いの時に、同主義に否定的な家康側の東軍ではなく、西軍側に軸足を置いて臨んだと考えられる。
 γは、同氏が、秀吉流日蓮主義を行動指針としつつ東アジア情勢に精通していたことを活かして平戸藩の隆盛を図るためには、明の海商/海賊勢力及び西欧の非カトリック勢力と提携して国際交易に注力する必要があると考えたことを示していると考えられる。

⇒関ヶ原の時の松浦鎮信の行動は、「津軽為信<が、>・・・関ヶ原の戦いでは領国の周囲がすべて東軍という状況から三男・信枚と共に、東軍として参加した。しかし、嫡男・信建は豊臣秀頼の小姓衆として大坂城にあり、西軍が壊滅すると三成の子・重成らを連れて帰国している。これらを考えると、つまりは真田氏らと同様の、両軍生き残り策を狙ったとも考えられる。そのためか戦後の行賞では上野国大舘2,000石の加増に留まった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E7%82%BA%E4%BF%A1 前掲
ことと好一対だ。(太田)

  ウ 松浦隆信(1592~1637年) 

 ところが、(1614年に鎮信からその孫の隆信へ実質的な代替わりがあったわけだが、)「1622年、オランダ東インド会社(The Dutch East India Company)はまず明の支配下にあった澎湖を占拠し、東アジアでの貿易拠点を築いた。その後1624年には明軍と8ヶ月に渡る戦火を交えた(en:Dutch pacification campaign on Formosa)。両国の間で和議が成立し、明は澎湖の要塞と砲台を破棄し、オランダ人が台湾に移ることを認めた。このようにして台湾を占拠することとなったオランダ人は、一鯤鯓(現在の台南市安平区)に熱蘭遮城(Zeelandia)を築城し、台湾統治の中心とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE
ことで、松浦隆信は、西欧の非カトリック勢力も危険であることを察知し、方針の転換を図ったのではなかろうか。
 ちなみに、「松浦久信<(1571~1602年)は、>・・・大村純忠の<キリシタンの>五女・・・と祝言をあげた。・・・関ヶ原の戦いでは、大坂にあって西軍に与して、伏見城攻めと伊勢国安濃津城攻めに参陣した。・・・
 父から家督を継いだ時期は判然としないが、長命であった祖父隆信が亡くなった・・・1599年・・・から関ヶ原の戦いの翌年(1601年)までの間ぐらいだと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E4%B9%85%E4%BF%A1_(%E5%B9%B3%E6%88%B8%E8%97%A9%E4%B8%BB)
 「久信の長男<の>・・・松浦隆信<(1592~1637年)は、>・・・1612年・・・9月<の時点で、>・・・本姓が豊臣姓であることが確認される。・・・
 隆信は幼少時に父によって受洗していたが、この年に江戸幕府の禁教令が出たことで棄教した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%9A%86%E4%BF%A1_(%E5%B9%B3%E6%88%B8%E8%97%A9%E4%B8%BB)
が、久信のキリスト教入信や息子の隆信の受洗は正室の影響だろう。
 その隆信は、「臨済宗に深い信仰を寄せ、後に受戒(出家)し、向東宗陽の法名を授かっ<ている>。」(上掲)
 さて、鄭芝龍(ていしりゅう。1604~1661年)は、「福建省南安市に生まれる。18歳の時に父が死亡し、母方の叔父を頼りマカオに赴き、黄程の元で経済学を学ぶ。この頃、カトリックの洗礼を受け、Nicholas という洗礼名を授けられる。・・・
 1621年には、台湾や東南アジアと朱印船<(注<24>)>貿易を行っていた<支那>系商人の李旦<(注<25>)>、または、顔思斉の傘下に加わる。日本の肥前国平戸島(現長崎県平戸市)に住むうち、平戸藩士田川七左衛門の娘であるマツ<(注<26>)>と結婚。息子の鄭成功が生まれている。・・・

(注24)「徳川家康は・・・1601年以降、安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム、パタニなどの東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立し、1604年に朱印船制度を実施した。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。
 朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎であった。なお、明は日本船の来航を禁止していたので、(ポルトガル居留地マカオを除けば)朱印船渡航先とはならず、朝鮮との交易も対馬藩に一任されていたので、朱印状は発行されなかった。・・・
 朱印船貿易家<に、>・・・大名<では、>松浦鎮信<(、後にその孫の松浦隆信、らが、>・・・明人<では、>・・・李旦<がいた。>・・・
 朱印船に乗り組むのは船長以下、按針航海士、客商、一般乗組員らであるが、とりわけ航海士には<支那>人、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人が任命されることが多く、一般乗組員にも外国人が入った。もちろん日本人もいた。・・・
 [幕府の禁教令などキリスト教を排除するムーブメントにより、1624年スペイン船来航禁止、1639年ポルトガル船の来航禁止となり、南蛮貿易が終わ<る>。]
 1633年の通達(「第1次鎖国令」)では、奉書船以外の渡航や、東南アジアに5年以上永住している日本人の帰国を禁止した。1635年の通達(「第3次鎖国令」)では、すべての日本人の東南アジア方面への海外渡航と帰国が全面的に禁止され、その結果、朱印船貿易は終末を迎えた。
 この措置によって東南アジアで朱印船と競合することが多かったオランダ東インド会社が莫大な利益を得、結局は欧州諸国としては唯一、出島貿易を独占することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%8D%B0%E8%88%B9
https://nihonsi-jiten.com/syuinsen/ ([]内)
(注25)Andrea Dittis(?~1625年)。「<支那>人貿易商人(海商)。キリスト教徒でもあったので、アンドレア李旦・唐人カピタンとも呼ばれる。福建省泉州府同安県の人。はじめマニラを拠点とするが、のちに日本の平戸に移住。海商である王直の配下であったが、王直の死後、彼が築いた貿易ルートを受け継ぎ、幕府から朱印状を得て朱印船貿易に携わり、12隻の船を渡航させた。平戸における中国人商人の首領であり、イギリス商館にも彼の屋敷が使われた。李旦の死後その勢力は鄭芝龍が継承した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%97%A6
 (注26)1601~1647年。「鄭成功・・・と<の間で>、田川家を継ぐ次郎左衛門・後に七左衛門・・・の2人の子を生んだ。鄭成功が7歳になったころ、鄭芝龍の故郷の福建省に、親子ともども移り住む。1647年、清による福建侵攻の際、清軍に邸内に攻め込まれ自害した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B7%9D%E3%83%9E%E3%83%84
 1624年には活動拠点を日本から台湾笨港(現:北港付近)に移した。1625年、リーダーである李旦か顔思斉の死亡により、彼の船団を受け継ぐ。船団は千隻もの船を保有して武装化も進めるなど海賊としての側面も有していた。

⇒これは、松浦隆信の「指示」を受けてのものであった、と、私は見るに至っている。
 その最大の目的は、オランダによる台湾植民地化の妨害であり、1619年に明が後金(後の清)に大敗をサルフの戦いで喫していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
とはいえ、まだ(1644年に滅亡することとなる)明は健在だったので明救援は松浦氏の念頭にはなかった筈であるし、そもそも、そんなことを考える義理は(慶長・文禄の役で明と戦った)松浦氏にはゼロだった筈だ。
 李旦と鄭芝龍がこの「指示」に承服したのは、それまで松浦氏に多大な恩義を被ってきたことに加えて、(この時点では、幕府の貿易政策の転換については、そのきざしが見えていただけであることから、)幕府のキリシタン弾圧政策・・「キリスト教徒の大量捕縛を行うようになり、元和8年(1622年)、かねてより捕らえていた宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たち計55名を長崎西坂において処刑する(元和の大殉教)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%95%99%E4%BB%A4
が、キリシタンであるこの2人を不安にさせたこともあったのではなかろうか。(太田)
 台湾南部にオランダ人の入植がはじまると(・・・Dutch pacification campaign on Formosa)、妻子を連れて<支那>大陸へと渡る。当時、福建省周辺でもっとも強い勢力をもった武装商団となる。
 1628年、福建遊撃に任命され、李魁奇、鐘斌、劉香などのかつての仲間たちを征伐する。福建省に旱魃が襲うと、移民をひきつれて台湾へと向かい、豊富な資金<で>・・・、開拓を進めた。
 当時、台湾南部はオランダ東インド会社が統治しており、オランダとの国際貿易で巨万の富を築いた。芝龍はオランダ東インド会社と<支那>との通訳をしていた経験から、商船がいつ出港し、どこを通るかを知ることができたため、最適なタイミングで襲撃することができ、17世紀の中国において最も成功した海賊のひとりとなった。

⇒鄭芝龍は、「指示」に忠実に、台湾に関して、対オランダ・ゲリラ戦争を遂行し続けた、と、解すべきだろう。(太田)

  エ 松浦重信(鎮信)(1622~1703年)

 <1637年に隆信からその子の重信(注27)への代替わりがあったところ、鄭芝龍は、>1644年には亡命政権である南明の福王から南安伯に封じられ、福建省全域の清朝に対する軍責を負う。

 (注27)「松浦隆信の長男<の>・・・松浦重信/鎮信<(しげのぶ。1622~1703年)は、>・・・1639年・・・、元藩士の浮橋主水が江戸幕府評定所に平戸藩にキリシタンの嫌疑があると訴え出た浮橋主水事件が起こり、幕府按検を受けた。訴えは誣告であるとして浮橋主水は伊豆大島に流罪とされたが、平戸に立ち寄った松平信綱は、平戸藩がオランダとの独占的な交易によって得た強力な兵備を持っていることに驚き、幕府は警戒を強めた。・・・1641年・・・、平戸商館の閉鎖が命じられ、以後は開港地は長崎の出島に限定された。
 このために、諸国で最も豊かだった平戸藩は巨利を失い財政が苦しくなり、土地を持てない武士が増えたが、以後は新田開発を始めとして畜産など諸産業の振興に力を入れ、後には九州第一の善治良政と讃えられるまでになる。
 好学の人で、神道を橘三喜、吉川惟足に、天文を秋山忠右衛門、横川才菴、国典漢籍を文庵、玄覚に学び、禅を隠元、木庵、道者超元、沢庵に師事。法話を盤珪禅師、周易を不破慈庵に、書道を里村玄陳に、かつ蘭学にも通じ、特に茶道は若い頃から愛好して、様々な流派の茶人と交流して研究を重ねた上、片桐石州や藤林宗源に師事して石州流の皆伝を受け、独自に流派を開き、鎮信流として知られる茶道の一派を立てるに至った。重信は、行政手腕もさることながら、文化人としても知られている。
 家臣から、諸将の逸話を聞き書きした『武功雑記』を著した。
 儒学者山鹿素行とは意気投合して交友が深く、その助言をよく聞いていた。素行が亡くなるとその子山鹿平馬を千石で召し抱えている。
 また、素行を通じて吉良義央とも交流があったとされ、吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が松浦家に伝わり、今も写しが平戸市に現存する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%87%8D%E4%BF%A1

⇒この重信(鎮信)が、赤穂事件の時の松浦氏の当主だったわけだ。(太田)

 1646年には黄道周との対立などで南明政権から離れる。この時、意見の違いから子の成功らとも別れ、清朝に降伏する。成功は父の勢力を引き継いで台湾に拠り、明の復興運動を行い清に抵抗したため、芝龍は成功の懐柔を命じられるが、成功がこれに応じなかったため、芝龍を寧古塔(ニングタ)へ流罪することが議論されたが、実施されず、謀反の罪を問われて、1661年に北京で処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E8%8A%9D%E9%BE%8D

⇒鄭成功は、「父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな成功のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、鄭成功は決して朱姓を使おうとはせず、鄭姓を名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺<(こくせんや)>」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる。
 隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、<1646年、>隆武帝は殺され、父鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたが、鄭芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90%E5%8A%9F 前掲
たわけだが、これは、明の亡命政権から「朱」姓を賜ったこと(上出)によるのだろうが、に加え、1647年に清軍に母親を殺害されたこと(前出)、でもって確固たるものになったのだろう。
 なお、鄭芝龍の清への投降についても、私は、スパイ目的だったのではないか、と、想像していて、それについても、松浦重信の了解をとってのことだったのではなかろうか。
 その根拠だが、鄭成功は、その後も、平戸藩士たる実弟との交信を続ける、等、松浦氏との関係を維持しており、松浦氏も、鄭成功への物心両面の支援を続けたと思われるからだ。
 以上については、元寇の折、松浦地方が大きな被害を受け、松浦党が激戦を展開したこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
ヌルハチを継いだホンタイジ(太宗)が1636年に元の皇帝位を継承し(、国号を大清とし)たこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85
が背景にあった、と、私は見ている。
 いかに、鄭成功と松浦氏が緊密な関係を維持したかは、有田焼(伊万里焼)誕生のいきさつが如実に示している。
 すなわち、「1660年代から生産が始まった有田焼の柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたもので、初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、この種の磁器は柿右衛門個人の作品ではなく、明の海禁政策により景徳鎮の陶磁器を扱えなくなった鄭成功が有田に目を付け、景徳鎮の赤絵の技術を持ち込み有田の窯場で総力をあげて生産されたものであることが分かっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90%E5%8A%9F 前掲
からだ。
 有田(伊万里)は、鍋島氏の佐賀藩ではないか、と、疑問を呈す向きもあるかもしれないが、現在の有田町が、現在佐賀県に属する松浦山代家領(注28)、と、現在長崎県に属する旧平戸藩領、旗本の松浦家領、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%83%A1
、の双方またはどちらかに隣接していることに注目すべきだろう。

 (注28)「松浦山代氏は、肥前国西松浦郡山代(現・佐賀県伊万里市北西部)を根拠に活躍した松浦党の一族。同氏の系図・年譜によれば、貞(さだむ)の代の天正7年(1579)、龍造寺隆信に従ったが隆信没後は鍋島直茂に臣従。朝鮮出兵などで活躍し鍋島の姓を許された。江戸時代には杵島郡芦原(現・佐賀県武雄市)などに2250石を与えられ、藩政に参与する「着座」の家格であった。
 松浦山代家文書は建久3年(1192)に山代固が山代浦の地頭職に補任された旨が記されている」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/210366

 つまり、松浦一族が、有田焼で裨益したであろうことが分かろうというものだ。
 だから、有田焼は、焼き物に詳しい松浦氏(前述)が鄭成功に持ち掛けて実現させたプロジェクトだった、と、私は見ているわけだ。(太田)

  オ 松浦清(静山)(1760~1841年)

 その後の幕末・維新期の松浦氏についても紹介しておく。↓

 「松浦清<は、>・・・平戸藩の第9代藩主。・・・
 <父>誠信までの松浦家の当主のほとんどは二字名であったが、有職故実を重んじる清は、代々一字名を特徴としていた嵯峨源氏の先祖にあやかって再び一字に戻したのだという。なお、清以降、松浦家の名は現在の当主まで一字名で通されている。・・・
 1779年・・・藩校・維新館を建設して人材の育成に努め、藩政改革の多くに成功を収めた。藩校の名称に関して幕府より「維新とはどういうことだ」と問責を受けたが、校名は変更していない。この校名の「維新」は『詩経』の一節に由来すると言われている。明治維新の「維新」と出典は同じであるが、清の正室の兄・松平信明は老中経験者でもあり、当時の社会情勢、平戸藩の状態からも、清に幕府転覆の意思があったとは考えにくい。・・・
 隠居後に執筆した江戸時代後期を代表する随筆集『甲子夜話』で著名である。大名ながら心形刀流剣術の達人であったことでも知られる。・・・
 剣術書『剣談』(野村克也が座右の銘としていた「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」はこれが出典で、清本人の発言である。・・・
 蘭学にも関心があったようで、静山が入手した地球儀が現在も松浦史料博物館に保管されている。一方で、史料博物館には戯作や黄表紙など卑俗な絵入り小説も多く含まれ、静山の多方面な関心が窺える。昭和初期の5度にわたる売立や人を介して間接的な競売で散逸したが、肉筆浮世絵を特に熱心に蒐集したらしく、多くの名品をコレクションしていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B8%85
 「中山愛子<(1817~1906年)は、>・・・<この>松浦清の11女として平戸に生まれる。・・・姉の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、3男2女(忠愛・忠光・公董・栄子・慶子)を産んだ。
 娘・慶子が孝明天皇に仕え、やがて愛子の孫にあたる皇子・祐宮睦仁親王(のちの明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任された。のちに、曾孫・明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育にもあたっており、天皇2代の養育に関わったことになる。
 玄孫・迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が生まれた約5年後の明治39年(1906年)、死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%84%9B%E5%AD%90
 「中山忠光<(1845~1864年)は、>・・・1863年・・・2月、朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられた。2月9日には攘夷の障害であると考えた岩倉具視と千種有文の暗殺計画を轟武兵衛・久坂玄瑞・寺島忠三郎に打ち明け、協力が得られなければ一人でも実行すると述べた。久坂らから相談を受けた武市瑞山は、二人はすでに譴責を受けている身であるから暗殺は道理に合わないと反対し、代わって轟らによる関白鷹司輔煕への建白書提出で話を収めた。
 3月19日、忠光は密かに京都を脱して長州藩に身を投じた。このため3月30日には官位と国事寄人の職を返上することとなった。このため長州では森俊斎(秀斎)と改名し、久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。7月5日には京都に戻り、東久世通禧や烏丸光徳らと連絡を取った。7月18日、水戸藩士吉成勇太郎らと面談。生野の変に参加した水戸藩士関口泰次郎等を、長州へ送る計画について話した。・・・
 8月13日に大和行幸の詔(みことのり)が出されると、忠光は「攘夷実行が求められているなか、それに応える行動をせず引き籠もっていることはできない」と言い残して8月14日に家を飛び出した。攘夷先鋒の勅命を奉じる組織として京都にて『天誅組』を立ち上げ、大和国五條代官所に打ち入って挙兵した(天誅組の変)。
 しかし八月十八日の政変によって京都の尊攘過激派は一掃され、幕府により鎮圧を命じられた彦根藩や紀伊藩兵から逆賊として追討される事となる。8月28日には忠能は忠光を義絶している。9月24日、吉野鷲家口で幕府軍による大規模な包囲網に捕捉され、天誅組は壊滅した。それでも那須信吾、宍戸弥四郎ら天誅組の志士達の決死の奮闘のおかげで、忠光は奇跡的に幕府軍の包囲網を抜ける事に成功し、大坂へ脱出した後、長州に逃れた。
 長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、江戸幕府方の密偵に隠れ家を突き止められたため、忠光と侍妾であった現地女性の恩地トミ、長府藩から派遣された従者2人で響灘沿いの山間部の庄屋や寺を転々とする。その頃トミの妊娠が分かり、実家から母チセを呼び寄せて助けを受けながら、忠光と行動を共にする。
 ・・・1864年・・・の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、同年11月15日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村(現、下関市)で5人の刺客によって暗殺された。・・・
 長府藩潜伏中、トミは忠光死後に唯一の遺児となる娘・南加を産む。南加は中山家に引き取られたのち、中山家と縁の深い嵯峨家に嫁ぐ。南加の孫で忠光の曾孫にあたる浩は、清朝最後の皇帝でのちに満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E5%85%89
 「最後の平戸藩主松浦詮<(あきら。1840~1908年)(清のひ孫)>は、1868年(慶応4年)1月に京都に着いてから又従兄弟にあたる明治天皇の側近くにあり続け(明治天皇国母中山慶子の母愛子は松浦清の娘)、2月3日に天皇が二条城に入城したときや大阪親征にも供をした。五箇条の御誓文の場にも立ち会い、歴史の転換を見届けた。4月21日に京都を発ち、平戸へ帰っていったが、平戸藩軍は戊辰戦争に官軍で従軍した。
 詮は平戸藩兵の凱旋間もない1869年(明治2年)3月に再び京都に赴き、明治天皇の東京行幸の供をし、東京でも参内が続くなど天皇からの厚い信頼ぶりがうかがえる。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B0%8F
 <父方の叔母の松浦>富子<は、>中山忠光<の正>室<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E7%86%88

⇒松浦氏は幕末に向けてどんどん過激化していったように見えるが、そういうことではなく、松浦鎮信の時代に、既に、確固とした日蓮主義信奉氏だったのだろう。
 その中でとりわけ注目されるのが、松浦清だ。
 松浦清は、1775年2月に祖父の誠信の隠居により家督を相続すると、「誠信までの松浦家の当主のほとんどは二字名であったが、有職故実を重んじる清は、代々一字名を特徴としていた嵯峨源氏の先祖にあやかって再び一字に戻したのだという。なお、清以降、松浦家の名は現在の当主まで一字名で通されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B8%85 前掲
のは、御先祖様である嵯峨天皇が、私の言うところの、桓武天皇構想、の完遂に向けて重要かつ不可欠な役割を果たしたこと、そして、その結果生まれた自分達武士が、日蓮主義に基づく世界史的使命を果たすべき時期が目前に迫っていることを自覚したからこそだ、と、私には思えてならない。

 かかる考えに立ち、松浦清は、家督相続の4年後に、1779年に藩校・維新館を創立した。
 「藩校の名称に関して幕府より「維新とはどういうことだ」と問責を受けたが、校名は変更していない。この校名の「維新」は『詩経』の一節に由来すると言われている。明治維新の「維新」と出典は同じであるが、清の正室の兄・松平信明は老中経験者でもあり、当時の社会情勢、平戸藩の状態からも、清に幕府転覆の意思があったとは考えにくい。」(上掲)とされているが、幕府が抱いた懸念は正しかった、と、私は考えている。↓

 藩校「維新(いしん)とは、すべて改まり新しくなること。和訓では「これあらた」と読む。古くは「惟新」とも書いた。
 <支那>最古の詩篇『詩経』の「大雅・文王篇」に「周雖旧邦其命維新(周は旧邦なりといえども、その命(めい)<(天命)>は維(これ)新(あらた)なり)」とあり、これが最古の用例とされる。
 また『書経』の「胤征篇」にも「舊染汚俗咸與惟新(旧染の汚俗は咸(みな)与(とも)に惟(これ)新(あらた)にせん)」とあり、「咸與惟新」は成句として魯迅の『阿Q正伝』でも使われている。
 一方、日本における最古の用例は『日本書紀』である。大化2年(646年)3月の記事に、大化改新の詔に応じた皇太子(中大兄)の言葉として「天人合應厥政惟新」とあり、「天も人も合應(こた)へて、厥(そ)の政(まつりごと)惟(これ)新(あらた)なり」と訓まれている。・・・
 また幕末の論客では藤田東湖が「維新」を愛用したことが知られている。天保元年(1831年)の日記『庚寅日録』の4月21日の条には「中興維新之責実在足下(中興維新の責、実に足下にあり)」、25日の条にも「去年以来国事維新百度将復(去年以来、国事維新百度も将に復す)」とあ[<り、嘉永3年(1850年)6月19日の藤田東湖宛横井小楠書簡に「近年来尊藩御維新之御政事赫赫と天下に響聞仕」とあ]るなど、多用と言っていい頻度で用いられていたことが裏付けられる。・・・
 <その他>の使用例<として、>・・・維新館(平戸藩)<という>平戸藩主の松浦静山が安永8年(1779年)に設立した藩校<と>維新館(長州藩)<という>長州藩宇部領主の福原越後が元治元年(1864年)に設立した道場<がある>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%96%B0
 「尾佐竹猛によれば、新政府は・・・慶応3年12月9日(1868年1月3日)の・・・王政復古の大号令においては「王政復古、国威挽回」を述べ、根本的大改造という意味で「百事御一新」と宣伝したが、この「御一新」が「維新」という語になり、初めは「王政維新」と言っていた。「明治維新」の語が現れたのは1890年に憲法が公布される数年前のことと見られ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0 ([]内も)

 つまり、維新に向けての大号令を松浦清(平戸藩)が分かる人には分かる形で発し、それが、→藤田東湖(水戸藩)→横井小楠(熊本藩/福井藩)→長州藩→新政府、と、伝播していった、と、見てよさそうだ。
 ちなみに、「長州藩士・杉家の次男として生まれ、その後叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり山鹿流兵学者としての第一歩を踏み出」したところの、吉田松陰は、[1850<年>、]「山鹿流兵学者としての関係から、山鹿流の宗家があること、松浦清山が開設した楽歳堂があり沢山の文物が収蔵されていたこと、平戸の[山鹿流兵学者<でかつ>]儒学者[で平戸藩家老でもあった]葉山佐内が全国的に名前が知られていたことなどが平戸に遊学にきた理由と考えられる。吉田松陰は山鹿流の学問道場、積徳堂に参加したり、葉山佐内にも教えを請い、傾倒している。吉田松陰は平戸に53日滞在し、読破した蔵書は80冊に及ぶ、平戸遊学は吉田松陰の生涯におおきな影響を与えた。」なお、その後、[肥後熊本を遊歴し、山鹿流兵学者で志士の宮部鼎蔵<(注29)>と出会います。]そして、翌[1851<年>には東北遊学、通行手形が間に合わず、手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を犯してしまいました。この遊学で水戸藩士の会沢正志斎に面会、会津では日新館の見学をしています。]
https://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin_yugaku.html ([]内)
http://hirado.nmy.jp/?eid=783224 (「」内)
ということから、松陰は、平戸藩で藩校・維新館のいわれを改めて噛み締め、それを契機として過激な維新の志士の魁となることとなった、そして、そのことを裏付けるのが、平戸藩訪問以降の松陰の行脚の経路である、と、思うのだ。
 ([山鹿流兵学学祖の山鹿素行は会津若松出身]!)

 (注29)1820~1864年。「医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となる。山鹿流軍学を学び、30歳の頃には熊本藩に召し出され、林桜園に国学などを学ぶ。長州藩の吉田松陰と知り合い、・・・1850年・・・、東北旅行に同行する。松陰と鼎蔵は・・・1851年・・・、山鹿素水に学んでいる。・・・1861年・・・には肥後勤皇党に参加する。・・・1862年・・・には清河八郎も宮部を訪ね肥後に来ている。その後、京都で活動する。・・・1863年・・・に起きた八月十八日の政変で、長州藩が京より追放されると宮部も長州藩へ去るが、・・・1864年・・・には再び京都へ潜伏し、古高俊太郎のところに寄宿する。
 ・・・1864年・・・6月5日、池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦するが自刃する(池田屋事件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9%BC%8E%E8%94%B5
 「山鹿素水<(?~1857年)は、>・・・山鹿流の祖である山鹿素行の宗家(直系子孫ただし女系を挟む)津軽山鹿氏(惣祖・高恒)の末裔で、遠祖(山鹿素行)から6代目の子孫。
 1808年・・・、津軽藩主・津軽寧親に拝謁し家督相続。 1828年・・・、諸国遍歴の旅に出る。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E6%B0%B4


[嵯峨家再訪]

 中山南加は嵯峨家に嫁いだわけだが、嵯峨家は維新時点では正親町三条家だったものが改名されたという経緯がある。
 正親町三条家は、「左大臣三条実房の三男の権大納言公氏を家祖とする<ところ、>当初の家号は三条であったが、屋敷が正親町東洞院に面していたことから、本家の三条家と区別するため「正親町三条家」と呼ばれるようになった<ものだが、>公氏はこの正親町三条のほかにも、菩提寺や別宅があった地名の嵯峨(さが)や西郊(にしむら)を名乗ることがあ<り、>このことを先例として、明治時代に入ると漢字5文字の長い家名が至便性に劣ることを痛感した28代実愛が家名を嵯峨家と改め<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%B6
とされている。
 正親町三条家は、「近衛家の家札」(上掲)だったことから、当然、日蓮主義家だったのだろうが、実際、「幕末から明治の28代実愛は議奏や国事御用掛を務め、当初公武合体運動の立場をとったため尊皇攘夷派から敵視されて一時失脚したが、復官後には岩倉具視や中山忠能、中御門経之らと共に王政復古や討幕の密勅に携わり倒幕に貢献し<た>」(上掲)という次第であり、その軌跡は、近衛家/薩摩藩のそれと完全に同期している。
 この幕末の時に中山忠能と濃厚な接点があった正親町三条実愛は、忠能の夫人である中山愛子・・松浦愛子・・を通じて、忠能やこの2人の子である忠光が過激化し、ついに忠光が王政復古を目指して先駆け的暴発をしたことに強い感銘を受け、松浦氏が、嵯峨天皇に発する嵯峨源氏の末裔であること、と、たまたま、先祖で嵯峨を名のった者もいたこと、から、嵯峨へと改名した、ということではなかろうか。
 また、松浦清のひ孫である中山南加を息子の嵯峨公勝(きんとう)に迎えたのも、南加の伯母である中山慶子の勧めもあったという
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%8D%97%E5%8A%A0
が、だからだろうし、公勝の子の実勝(さねとう)が、その長女に浩という一字の名前を付けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%AE%9F%E5%8B%9D

のも、だからだろう、と、想像を逞しくしている次第だ。

4 吉良方の上杉藩のその後

 (1)上杉富子(1643~1704年)

 「1643年)、第2代・・・米沢藩主・上杉定勝の四女として生まれる。母は生善院(近衛家家司・斉藤本盛娘)[で米沢藩第3代藩主の上杉綱勝(注30)は同母兄。]。・・・

 (注30)定勝は米沢藩士に対して「他家の風をまねすることなく、万事質素律儀を作法を旨とし、衣服は小袖上下や桐袴などは無用であり、もっぱら文武忠孝に励むこと」という法令を出しており、この法令は後に上杉治憲の初入部の際の「御条目」の添書に使われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%9A%E5%8B%9D ([]内も)

 吉良家に嫁いだ後、富子と改名する。義央との間には二男四女に恵まれた。長男・吉良三之助(後の上杉綱憲)は綱勝の養子に入って上杉家を相続し、長女・鶴姫は綱憲の養女に入って70万石の薩摩藩主・島津綱貴に嫁いだ。三女・阿久理姫と四女清姫も綱憲の養女となり、それぞれ旗本・津軽政兕<(注31)>と旗本・酒井忠平(忠平は急死したため、代わって公家・大炊御門経音)に嫁いでいる。

 (注31)まさたけ(1667~1743年)。「旗本。陸奥国弘前藩分家・黒石領(4000石)3代当主。・・・
 上杉綱憲の養女・・・<にして実父が吉良義央である>阿久理と婚姻するが、翌・・・1687年・・・に阿久理は死去した。<(正室は彼女のみ。)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E6%94%BF%E5%85%95

⇒義央との間の四女が津軽氏に嫁いでいることに注目。(太田)

 一方、次男・吉良三郎と次女・振姫は夭折した。特に三郎の死は吉良家に世継ぎが居なくなったことを意味していたため、元禄元年(1688年)12月に綱憲の次男・上杉春千代(後の吉良義周)を養子に迎えた。・・・
 富子<は、>眼病を患って、その治癒の祈祷のため身延山久遠寺に赴いた<ことがある。>・・・

⇒眼病云々は名目であり、
 「死後に吉良家菩提寺である<曹洞宗の>万昌院ではなく上杉家菩提寺の<臨済宗妙心寺派の>東北寺に埋葬された<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%B6%BA%E9%99%A2
という立場もあり、上杉氏の他の人々同様、大っぴらに日蓮宗信徒であることことを表明できず、日蓮宗寺院に赴く際には、韜晦目的の理由を付けた、ということだろう。
 とまれ、富子は、「その後」をほんのわずかながらも生きたわけだ。(太田)

 (2)上杉綱憲(1663~1704年)

 「上杉綱憲<は、>・・・吉良義央の長男として誕生する。幼名は三之助。母は上杉綱勝の妹で、義央の正室・富子。・・・
 正室<は、>栄姫(紀州藩主徳川光貞の娘、8代将軍徳川吉宗の姉)(子なし)・・・
 <娘に>豊姫<(瑞耀院)、>・・・養女<に、いずれも父の吉良義央の娘であるところの、>・・・鶴姫(島津綱貴継室)、阿久利姫(津軽政兕室)、菊姫(酒井忠平室→大炊御門経音室)<がいる。>・・・
 1664年・・・閏5月10日に、米沢藩3代藩主で伯父の上杉綱勝が嗣子の無いままに急死した。米沢藩は無嗣断絶により改易されるべきところを、綱勝の岳父であった陸奥国会津藩主・保科正之の計らいによって、義央と富子の間に生まれたばかりの三之助を末期養子とすることで存続を許された。義央は扇谷上杉家の上杉氏定の血を引いている。「会津松平家譜」によると、幕閣では綱勝の後継者に保科正之の子の正純を据えることも検討されていたが、正之が謝絶したとされている。・・・
 末期養子による相続の代償として、信夫郡と伊達郡を削られ藩領は置賜郡のみとなり、30万石の所領は15万石に半減された[<が、>保科正之による要請により藩士の召し放ちが不徹底になった]・・・ため米沢藩は恒常的な財政逼迫に悩まされることになった。・・・

⇒「保科正之<(1611~1673年)>・・・は熱烈な朱子学の徒であり、それに基づく政治を行った。身分制度の固定化を確立し、幕藩体制の維持強化に努めた。山崎闇斎に強く影響を受け、神儒一致を唱えた。・・・また、朱子学の徒であったがために、正之は他の学問を弾圧した。岡山藩主・池田光政は陽明学者である熊沢蕃山を招聘していたが、藩政への積極的な参画を避けた。加賀藩主・前田綱紀が朱子学以外の書物も収集していたことに苦言を呈していた。また、儒学者の山鹿素行は朱子学を批判したため赤穂藩に配流された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B
ということからして、素行嫌いの正之の上杉氏「救済」は悪意交じりのものだった可能性がある。(太田)

 1689年・・・11月、実家の吉良家に後継者がいなくなっていたことから、次男の春千代(のちの吉良義周)を父・義央の養子とした。こうした3重の縁により、吉良家と上杉家の関係は親密なものとなった。吉良家の普請や買掛金は上杉家が負担するのが恒例となった他にも、毎年6,000石の財政援助が吉良家に対して行われた。・・・
 財政面に関しては、<後>述の学問所や米沢城本丸御書院、二の丸御舞台、麻布中屋敷新築などの建設事業や、参勤交代を華美にし、豪華な能遊びを行うといった奢侈により、所領削減により減収した藩財政を悪化させた。このため、藩の軍用貯金を一般財政に流用することとなる。さらにこの財政状況で吉良家を援助してい<たわけだ。>・・・
 この負担の大きさに、上杉家の江戸勘定方・須田右近は、米沢の重臣に宛てた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と嘆いている。・・・
 その後、上杉家の財政逼迫は深刻化し、建て直しは曾孫に当たる上杉鷹山の藩政改革を待つことになる。・・・
 風紀取締りには厳罰を持って対処し、治世中は家事不正による譜代家臣の追放が多く、・・・1683年・・・に領内に博打した者を死罪とする法令を出す。
 ・・・1692年・・・に、支城のうち4箇所を「役屋」、城代を「役屋将」に改めている(館山城・高畠城は例外)。
 ・・・1697年・・・、米沢藩学館の始めとなる<ところの、前述の>聖堂・学問所を藩儒兼藩医の矢尾板三印の自宅に建設し<た。>・・・
 また、・・・1698年・・・塩野毘沙門堂や禅林寺(後の法泉寺)の文殊堂などの社寺の大修理等を行った。
 その一方で財政面に関しては、前述の学問所や米沢城本丸御書院、二の丸御舞台、麻布中屋敷新築などの建設事業や、参勤交代を華美にし、豪華な能遊びを行うといった奢侈により、所領削減により減収した藩財政を悪化させた。このため、藩の軍用貯金を一般財政に流用することとなる。さらにこの財政状況で吉良家を援助しているので、当然非難の的となる。
 米沢藩では謙信への思慕の念が強く、綱憲の外祖父・上杉定勝が制定した「他家の風を真似ず、万事質素にして律儀ある作法を旨とする」という法令もあって、綱憲はそのため家臣から必ずしも熱心な支持を得られていなかった。・・・
 <但し、彼の>藩政は、教学振興や風俗統制、役職整備、歴史編纂といった文治政治に力を入れてい<れたことから、後の>七家騒動<(後述)>で<の>千坂高敦ら<のように、>上杉治憲らの改革を批判する<目的で>、「風俗もよく、政治もよし」と綱憲の治世を評価<する向きもあ>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E7%B6%B1%E6%86%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E7%B6%B1%E5%8B%9D ([]内) 

⇒綱憲の育ての親は、故上杉綱勝・・正室は保科正之の長女・・の継室たる四辻公理(注32)の娘の冨姫であったと考えられるところ、四辻家は、高台院(ねね)、小早川秀秋らの旧杉原家、高台院(ねね)の義父の家である浅野家の浅野長政らと姻戚関係で繋がっていて、四辻家出身の冨姫は、上杉氏への四辻家からの二度目の輿入れであり、反石田三成/反日蓮主義の強い影響下にあったと思われるところの、当時の四辻家の考え方、の下で綱憲を養育したと考えられる。

 (注32) 「四辻公理は四辻公遠の孫」(上掲)。四辻公遠-女子(上杉景勝継室)-上杉定勝-綱勝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%BE%BB%E5%85%AC%E9%81%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%9A%E5%8B%9D
 「室町家<は、>・・・鎌倉時代西園寺公経の四男、実藤によって創立された。藪内や四辻とも号する。また今出川家の邸宅が菊亭と呼ばれたことと同様に、室町家の邸宅は花亭と呼ばれた。公家としての家格は羽林家、旧家、内々。
 室町季顕以降、「室町殿」を名乗った足利将軍家を憚り四辻を称したが、明治期に家名を室町に戻した。なお足利将軍家には室町家本邸であった「花亭」も譲っている。
 江戸時代初頭、四辻公遠の娘・与津子は後水尾天皇の典侍となり、天皇の寵愛を受けて皇子(夭折)と皇女(後の文智女王)を儲けたが、徳川秀忠の娘和子の入内を企む江戸幕府の圧力によって無理矢理天皇から遠ざけられて落飾させられた。
 また、これに先立って与津子の姉(死後「桂岩院」と称される)は上杉景勝の継室となり、嗣子定勝を出産したが、百日余り後に死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%AE%B6
「西園寺・・・公経は源頼朝の同母姉妹の坊門姫の娘の全子を妻とし、加えて摂家将軍藤原頼経の祖父に当たることから、鎌倉幕府との関係は緊密であった。そのため、承久の乱に際しては幕府に内応する恐れがあるとして朝廷によって幽閉されるが、かえって乱後に幕府の信任を受けて朝廷の実権を掌握し、太政大臣にまで昇進して家格を高めることに成功した。公経より公宗までは朝幕間の交渉役である関東申次を務めた他、娘を次々と入内・立后させ、天皇の外戚として一時は摂関家をもしのぐ権勢を振るった。実兼は大覚寺統に接近し、亀山法皇や後醍醐天皇に娘を入れたが、子の公衡以降は反幕府的態度を取る大覚寺統からは離反し、次第に持明院統との関係を深めている。・・・
 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が始まると、後ろ盾を失った西園寺家は退勢に陥る。公宗は北条氏残党である北条泰家(時興)をかくまい、後醍醐天皇を暗殺して持明院統の後伏見上皇を擁立する謀叛を計画したが、弟公重の密告によって発覚したために処刑され、家は公重が継承した。やがて公重が南朝へ参候したため、公宗の遺児実俊が右大臣に昇って家名を再興したが、往時の権勢は失われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%B6
 四辻家は近衛家の門流、西園寺は一条家の門流。
https://geocity1.com/okugesan_com/yougo.html
 「杉原定利<(?~1593年)は、>・・・妻は杉原家利の娘のこひ(朝日殿)で、婿として杉原家に入った。子女は嫡男の木下家定、三折全友の正室長慶院(くま)、豊臣秀吉の正室高台院(ねね・寧々・お禰)、浅野長政の正室長生院(やや)、男子1人らがいる。当初は織田信長に仕え、後に秀吉に仕えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%88%A9
 「高台院<は、>・・・浅野長勝の養女となる。・・・秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E9%99%A2
 浅野長勝の子が浅野長政。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E5%8B%9D
 「杉原氏<の女が>・・・四辻公遠<の>・・・妻<となり、>・・・<この2人の間の女子が>上杉景勝側室<となり、>・・・[米沢藩2代藩主<の>・・・上杉定勝<の母となった。>]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%BE%BB%E5%85%AC%E9%81%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D ([]内)

 「上杉綱勝<(1639~1664年)は、>・・・父<は、上杉景勝の子の>上杉定勝<、>母<はその定勝の側室たる>・・・ 近衛家家司斉藤本盛の娘<で、>・・・正室<は>・・・保科正之の長女<で、>・・・妹<が>・・・三姫(吉良義央正室)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E7%B6%B1%E5%8B%9D
であるところ、この「上杉定勝<(1604~1645年)は、>・・・米沢藩士に対して「他家の風をまねすることなく、万事質素律儀を作法を旨とし、衣服は小袖上下や桐袴などは無用であり、もっぱら文武忠孝に励むこと」という法令を出しており、この法令は後に上杉治憲の初入部の際の「御条目」の添書に使われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%9A%E5%8B%9D

 上杉定勝は、側室として、日蓮主義本家の近衛家との関係構築を図るためだろうが、近衛家の家司の娘を迎え、彼女との間に世子の綱勝を儲け、娘を日蓮主義家の吉良家との関係構築を図るために義央の正室に送り込み、そして、上杉氏が日蓮主義氏であるからこそ、文武両道に励めとの家訓を綱勝に残した、と思われるが、自身も当然日蓮主義者であった筈の綱勝は、近衛家の門流であった四辻家(室町家)も、祖母(上杉景勝の側室)がその出身でもあることから、日蓮主義家であると誤解していたのではなかろうか、同家から継室を迎えてしまい、自身が亡くなった後、その継室が吉良家出身の綱憲を日蓮主義から遠ざけてしまうことまで予見できなかったのだろう。
 他方、綱憲の実父の吉良義央は、物心がつくようになってからの綱憲に日蓮主義を叩き込むために、山鹿素行の著作を詠んだりその謦咳に接したりすることを勧め、それにある程度綱憲も応えたおかげで、少なくとも、上杉綱憲は反日蓮主義者にまではならずに済んだのだろう。
 山鹿素行も、親友の吉良義央の気持ちに応えて、自らが序文を書いた『楠正成一巻之書』を綱憲に贈っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E7%B6%B1%E6%86%B2
ところだ。
 (なお、この挿話は、素行が熱烈な楠木正成ファン(注33)、すなわち、熱烈な日蓮主義者だったことを紛れもなく示すものだ。)

 (注33)「楠木正成<は、>・・・『法華経』の写経(『今田文書』(湊川神社宝物))・・夫法華経者、五時之肝心、一乗之腑蔵也、拠斯三世之導師、以此経為出世之本懐、八部冥衆、以此典為国之依憑、就中本朝一州円機純𤎼、宗廟社稷護持感応、僧史所載縡具縑緗、爰正成忝仰朝憲敵対逆徒之刻、天下属静謐、心事若相協者、毎日於当社宝前、可転読一品之由、立願先畢、仍新写一部所果宿念如件。・・や、その裏書からわかるように、仏教への帰依が篤く、また深い知識を持つ人物だった
 江戸時代において、正成は忠臣として見直された。・・・
 湊川・・・神社創建以前から存在した墓所には、[1693年、]徳川光圀[・・正室は近衛尋子・・]によって墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立されている。・・・
 佐賀藩では1663年・・・に『楠公父子桜井の駅決別の像』を製作し毎年祭祀を行っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80 ([]内)
 「光圀は神仏習合の真言宗と一向宗をきらい、不受不施派ではない日蓮宗を庇護した」
http://saki-archives.com/2017/religious_domination.html

 その結果、綱憲は世界観の軸が定まらず、心理的にも不安定な人生を歩んだと思われ、学問所を作ったことはよしとしても、朱子学と古学のどっちつかずの教科内容となり、外祖父の残した家訓に背いて軍事を蔑ろにし、公的私的な散財を重ね、藩の財政を破綻状況に陥らせてしまった、と言えよう。
 (藩士の削減を妨げる干渉を行った保科正之にも責任の一端があるが・・。)(太田)


[吉田松陰の米沢行]

 「<その後の>米沢藩では山鹿流古学が揮<っており>、吉田松陰も訪れて治世を評価している。
 反対に会津藩は、素行が批判した朱子学が日新館では主流だった。・・・
 福島県会津若松市山鹿町の直江兼続屋敷跡には、素行を記念する「山鹿素行誕生地」としるした[大正15<(1926)>年春<に設立された>]石碑がある<(注34)>。撰文は松浦厚、文字揮毫は東郷平八郎による。当地には「直江清水」と呼ばれた井戸があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C
https://aizu.welcome-fukushima.com/co/naoe/ ([]内)

 (注34)「1598年・・・、秀吉の命で蒲生氏郷が会津92万石から宇都宮18万石で移封されると、続いて会津に入った上杉景勝も会津若松を拠点としています。
 直江兼続は米沢領を支配し、神指城の築城を差配、関ヶ原合戦後の上杉家米沢移封まで、ここに直江兼続屋敷があったのです。
 関ヶ原合戦後、蒲生秀行(がもうひでゆき=正室の振姫は、徳川家康の三女)は陸奥に60万石を与えられて会津に復帰。
 その子、2代藩主・蒲生忠郷(がもうたださと)の時代にはこの地は蒲生三奉行のひとりで岩代猪苗代城の城代という重責を担った、町野左近(祖は近江六角氏の家臣団出身)の屋敷があり、屋敷内で・・・1622年・・・、赤穂四十七士の生みの親、山鹿素行が生まれています。
 父は伊勢亀山城主・関一政(蒲生氏郷の配下)の家臣・山鹿貞以(やまがさだもち)で、同僚を切った罪で浪人となり、町野左近邸に身を寄せていました。」
 現在、一帯が山鹿町という町名なのはもちろん、山鹿素行誕生地だから。」
https://tabi-mag.jp/hs0114/

⇒「注34」から、いまだに「赤穂四十七士の生みの親、山鹿素行」という真逆の通念に捉われている人が多いことが分かるが、山鹿流兵法学者の松陰は、当然正しい素行観、赤穂事件観を身に付けていたはずであり、その上で、素行の生誕地を訪れたのだろう。
 石碑の撰文が旧平戸藩の松浦厚、文字揮毫が旧薩摩藩の東郷平八郎である理由は改めて説明の要はあるまい。
 注目すべきは、(直接の典拠は付されていないが、)松陰訪問当時の米沢藩では山鹿流古学が揮っていたらしいことだ。(太田)

 「吉田松陰は23歳の時、米沢を訪れたことがある。
 松陰が江戸の長州藩邸を出発したのは嘉永4年(1851年)12月14日だが、当初は翌15日に立つ予定だった。わざわざ12月15日を選んだのには理由があった。
 松陰の旅には南部(現在の岩手・青森県)藩士の江幡五郎という同行者がいた。江幡の兄は南部藩の内紛で自害に追い込まれていた。その仇と目される家老を討つため江幡は帰郷しようとしていたのだ。
 仇討ちの成功を祈願するため、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日と当時は考えられていた12月15日を吉日として旅立とうとしたのだった。
 米沢に向かう途中、松陰は宿屋で浄瑠璃語り芸人を2日にわたって呼び、人形浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」を語らせ、赤穂浪士の運命に憤り、涙している。」
https://www.yamacomi.com/9823.html

⇒だから、松陰が赤穂浪士にシンパシーを寄せていたはずがない以上、出発日を選んだのも忠臣蔵の人形浄瑠璃を語らせ、憤り、涙したのも、江幡五郎で、松陰はそれにつきあっただけではなかろうか。(太田)

 「1851・・・12月14日午前10時、松陰は江戸桜田の長州藩邸を水戸に向かって出発しました。思えば米沢藩の江戸屋敷も桜田にあり、上杉邸と毛利邸は隣合っていたのでした。・・・

⇒ほぼ、どうでもいいこととはいえ、赤穂事件の時の反浪士藩藩邸が隣同士だったというわけだ。(太田)

 この旅には2人の同行者がいました。熊本藩士の宮部鼎蔵(ていぞう)と盛岡藩士の江幡五郎<(注35)>です。・・・

 (注35)1827~1879年。大舘の医師の次男で遠祖は藤原秀郷。18歳の時、盛岡藩主南部利剛の近習として出仕したが、内憂外患の当時の国情を憂え、1845年に脱藩して江戸に上った。その後、江戸、京都、西国を巡って学識を深め、その過程で、久坂玄瑞、桂小五郎、吉田松陰らと知遇を得たが、盛岡藩の奥医師として江戸に在勤していた兄が政争に巻き込まれて投獄され拷問の上服毒死に追い込まれたことに憤り、仇討の途に出、松陰と宮部が五郎を道中を共にしたところ、仇の人物が別件でお役目御免、家財没収となったことから、五郎は江戸にもどり再び学問の道に専心し、やがて脱藩の罪も許され、盛岡の藩校明義堂の教授として迎え入れられた。
 その後も、戊辰戦争で危うい目に遭ったけれど、東京でかつての那珂姓に戻し、那珂通高として、大蔵省、文部省に務めた。
 東洋学の先駆者と言われる那珂通世は五郎の養子であり、五郎に師事した内藤十湾の子が内藤湖南である。
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwizmpaI-MWCAxXKZ94KHSgDB00QFnoECBEQAQ&url=https%3A%2F%2Fsoka.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F40702%2Ffiles%2Fsokahogaku51_2_06.pdf&usg=AOvVaw0O0AYR1QSsnMD18wCCt8_-&opi=89978449

 その日、3人は水戸で合流します。宮部はのちに・・・1864・・・、池田屋事件で新撰組に襲われ自刃します。・・・

⇒ということは、水戸で合流したのは宮部だということになる。
 ちなみに、宮部も山鹿流兵法者で藩(長州に対するに肥後)兵法師範だ。
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9%BC%8E%E8%94%B5-139604 (太田)

 松陰の東北への旅は、藩の許可を証する関所手形という通行証が必要でした。パスポートにあたるでしょうか。しかし、松陰は前述のように出発の日取りも決めてしまい、事務手続きの不手際から、なかなか<出>ない通行証を待つことができませんでした。
 結局処罰覚悟の亡命を決断してしまいます。北はロシア、西は満州に近い東北は、国の防衛上重要性を増しつつありました。すでに松陰は、九州に赴き、江戸に上るのに際し、畿内・山陽・西海・東海と旅していましたが、東北は未知の地であり、直接見聞を広げたい思いが募っていました。
 松陰は松野他三郎、江幡は安芸五蔵と変名しての旅です。越後を目指す松陰らは、白川(河)で江幡と別れました。会津を経て雪の越後路から荒れ狂う日本海を佐渡にわたり、再び新潟に戻り、舟で秋田に向かおうとしましたが、折からの悪天候のため舟が出ず、海沿いの陸地を北上し、久保田城下(秋田市)に入ったのは閏2月24日でした。
 さらに津軽街道を弘前城下、そして津軽半島まで足をのばし、青森、七戸、盛岡、一ノ関、石巻、仙台と南下し、七ヶ宿街道から二井宿峠を越えて米沢に入ったのは、3月25日のことでした。

⇒もとより、地誌研究も目的としていただろうが、弘前に赴いたのは、それが津軽藩の城下町だから、で間違いなかろう。(太田)

 ・・・米沢には長崎で医学の修行をした高橋玄益<(注36)>(げんえき)がおり、彼を訪ねて米沢藩士と語ろうとしたのです。

 (注36)高橋玄勝(げんしょう。1822~1870年)。
https://ameblo.jp/yonezu011/entry-12018145792.html

 米沢から桧原峠を越えて会津若松へ、田島を経て江戸に戻ったのは、<1852>年4月5日でした。23歳の松陰の140日間にわたる旅でした。
 ・・・1852<年>3月25日、高畠から亀岡を経て、河井(米沢市川井)に至り、花沢の関を過ぎ、米沢市内に入りました。
 松陰が記した『東北遊日記』には、「(前略)花沢の関を過ぎ、橋を渡りて市に入る、即ち米沢なり。上杉弾正大弼(だんじょうだいひつ)十五万石の都なり。荒町に宿す。廿六(にじゅうろく)日晴。高橋玄益を訪ひ、藩の諸学士に介(とりつ)がんことを求む。会ゝ(たまたま)藩侯将(まさ)に明日を以て発し江戸に朝せんとす。ここを以て諸士繁劇、相見るを得ず。(後略)」――と記されています。・・・
 松陰が訪ねた高橋玄益(玄勝)は、代々藩医の家系で、祖父の桂山は杉田玄白に師事し、十代藩主上杉治広(はるひろ)の侍医を勤めています。父の松丘は十二代藩主斉憲(なりのり)の侍医となり、娘婿の三潴玄寿(みずまげんじゅ)と次男藁科松伯は、大坂の適塾で緒方洪庵に学びました。嫡男が玄益で、その子孫は代々玄益や玄勝を襲名しています。
 玄益は上杉斉憲の学友で、江戸勤学後の・・・1841・・・6月から2年間、長崎で修業をしています。戊辰戦争中は病院頭取として負傷兵の治療にあたっています。また、藩医筆頭として米沢藩の医学校「好生堂」の近代化に努め、英学を通して新しい病院に医学校を併設する構想の実現に力を注いだ人物でした。
 3月26日、玄益を訪ねたものの目的を達成することができなかった松陰は、領内視察を行ったとみえ、その見録記録は詳細です。
 領内の村々と役所や役人などの支配体制、高家、分領家(上級武士)、馬廻組、五十騎組、与板組からなる三手組(中級武士)、下級武士など米沢藩の家臣団についても詳細で的確です。原方衆と呼ばれた下級武士の住した「南原(みなみはら)」の地名も出てきます。藩主の側室や奥女中の出自などについても触れています。
 さらに産業について、国産の大なるものが蚕と漆であって、その使用法や数量、売買、納税方法等まで細かく記しています。最後に、明日が藩主の出立日とあって市街の巡視警戒は宵から暁まで止むことがなかったと。
 3月27日辰ノ刻(午前8時)、米沢藩主上杉斉憲は米沢城を発し、行列は米沢藩の参勤交代の道、板谷街道をいつものように江戸に向けて旅立ちました。松陰らは大町でこの行列に出くわし、一行を見送る形で会津街道を江戸に向かい出発したのでした。」
http://okibun.jp/yosidasyouin/

⇒以下、松陰の東北旅行終了までの半生を振り返っておこう。(太田)

 「吉田松陰<は、>・・・1834年・・・、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。・・・1835年・・・に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。松陰は子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」「神国由来」、その他頼山陽の詩などを父が音読し、あとから兄弟が復唱した。夜も仕事をしながら兄弟に書を授け本を読ませた。
 ・・・1850年・・・9月、九州の平戸藩に遊学し、葉山左内(1796-1864)のもとで修練した。葉山左内は海防論者として有名で、『辺備摘案』を上梓し、阿片戦争で清が敗北した原因は、紅夷(欧米列強)が軍事力が強大であったことと、アヘンとキリスト教によって中国の内治を紊乱させたことにあったとみて、山鹿流兵学では西洋兵学にかなわず、西洋兵学を導入すべきだと主張し、民政・内治に努めるべきだと主張していた。松蔭は葉山左内から『辺備摘案』や魏源著『聖武記附録』を借り受け、謄写し、大きな影響を受けた。
 ついで、松蔭は江戸に出て、砲学者の豊島権平や、安積艮斎、山鹿素水、古河謹一郎、佐久間象山などから西洋兵学を学んだ。・・・1851年・・・には、交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水にも学んでいる。

⇒松陰が、山鹿流兵法から始まり、それを中核として爾後も兵学の勉強を続けたことが良く分かる。(太田)

 ・・・1852年・・・、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎<(注37)(コラム#12651)>と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子などを見学した。

 (注37)「正志斎は『新論』において尊王攘夷論を唱えた人物として知られるが、同時代の多くの知識人は『新論』に含まれる神話的な国体論に関心を示さず、思想書というよりも海防論の書として評価した。長州藩の吉田松陰も当初はその一人だったが、・・・1851年・・・の水戸来訪の際には正志斎に6度に渡り面会し、以後「日本」の自覚を主張するようになった。 松陰の『東北遊日記』には、「会沢を訪ふこと数次、率ね酒を設く。…会々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記されている。
 幕末期になり、尊皇攘夷論が盛んになると『新論』は多くの志士たちに読まれるようになるが、正志斎の思想をそのまま受容することは無く、「国体」や「祭政一致」といった言葉や部分だけを換骨奪胎する形で受け入れられた。水戸学の中での正志斎の評価が高まらなかった理由として、戦前の水戸学研究では、光圀と斉昭・東湖を水戸学の2つのピークとする認識が一般的だったことと、最晩年に著した『時務策』の中で「今時外国と通好は已むことを得ざる勢なるべし」と述べたことが、変節・転向と受け取られたことが後々まで影響したことが挙げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E

⇒「水戸藩の後期水戸学の学者たちは廃仏論者であ<り、>著名なところでは会沢正志斎、藤田東湖、豊田天功<(注38)がいる>。」
http://saki-archives.com/2017/religious_domination.html

 (注38)1805~1864年。「庄屋・・・の次男として・・・生まれる。・・・
 14歳のとき、青藍舎に入門して藤田幽谷の門人となった。翌年、幽谷の子・藤田東湖とともに江戸に出て、亀田鵬斎・太田錦城に儒学を学び、岡田十松に剣術を学んだ。・・・1820年・・・に彰考館見習いとなり『大日本史』編纂事業に携わった。・・・
 1833年・・・に『中興新書』を著して藩主徳川斉昭に上呈し、藩政改革の成否は人材登用にあると訴えた。天保12年(1841年)、再び彰考館に入って『大日本史』編纂事業に従事した。翌年、『仏事志』を著したが、わずか80日間で書き上げて注目された。ペリー来航後は、常に西洋諸国の脅威と警戒の重要性を説き、斉昭の攘夷論・海防論に学者としての知的裏付けをした。・・・1856年・・・、彰考館総裁に就任し、『大日本史』の志・表の編纂を主宰した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%A4%A9%E5%8A%9F

 しかし、そのうち、(東湖と豊田の墓所は常磐共有墓地
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%A3%90%E5%85%B1%E6%9C%89%E5%A2%93%E5%9C%B0
だが、松陰が会った会沢正志斎は、水戸の本法寺に葬られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E
 この本法寺は現在廃寺になっているようであるところ、宗派をネット上で確認することができなかったけれど、徳川光圀同様、会沢正志斎も日蓮主義者だったと思われるので日蓮宗の可能性が高い。
 水戸藩の廃仏・・具体的には光圀と斉昭の廃仏・・は、(日蓮宗以外の、恐らくは天台宗を除く、あらゆる仏教宗派を排斥した)日蓮の観点からの廃仏であったが故に、日蓮宗信徒だった者以外は共有墓地に葬られた、と考えればよさそうだ。(太田) 

 秋田では相馬大作事件の現場を訪ね(盛岡藩南部家の治世を酷評している)、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。
 山鹿流古学者との交流を求め訪問した米沢では、「米沢領内においては教育がいき届き、関所通過も宿泊も容易だった。領民は温かい気持ちで接し、無人の販売所(棒杭商)まである。さすがに御家柄だ」と驚いている。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0

⇒直接の典拠が付されていないが、複数と目される山鹿流古学者が当時米沢にいたとすれば、鷹山の晩年(後述)以降の米沢の知的状況が幕末の頃には様変わりしていたことは間違いなさそうだ。(太田)

 (3)上杉治憲(鷹山)(1751~1822年)

  ア その生涯

 時代はずっと下るが、上杉治憲は、「日向高鍋藩主秋月<(注39)>種美<(注40)>の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)<(注41)>の手元に引き取られ養育された。

 (注39)「秋月氏の本姓は大蔵氏であり、同氏は後漢の霊帝の玄孫高貴王が日本に帰化したのに始まると伝承される。・・・
 秋月氏は九州に敗走してきた足利尊氏を迎え撃った多々良浜の戦いに、菊池氏の傘下で阿蘇氏、蒲池氏などと共に宮方として戦い、敗れる。・・・
 1557年、大内氏を滅ぼした毛利氏の勢力が北九州にまで進出してくると、当時の秋月氏の当主文種は大友氏から離反して毛利氏と手を結び、このため同年7月、大友軍の猛攻に遭って文種と嫡子晴種が討ち死にし、秋月氏は一時、滅亡した。
 しかし文種の次男・種実は毛利氏のもとに落ち延び、のちにその庇護のもと再興を果たし大友氏に対し反抗した。さらに大友氏が衰退すると薩摩の島津氏と手を結ん<だ>。・・・
 1600年の関ヶ原の戦いで、種実の子・秋月種長は西軍に属して大垣城を守備していたが、9月15日の本戦で西軍が敗れると東軍に内応して大垣城にて反乱を起こし、木村由信らを殺害した。
 戦後、その功績を認められて徳川家康から所領を安堵され、その後の秋月氏は江戸時代を通じて、日向高鍋藩として存続した。・・・
 幕末の秋月種樹は幕末の・・・1863・・・に外様大名世子の立場ながら異例の幕府若年寄格に任じられた。・・・1867年・・・に若年寄に任じられたが、幕府にすでに力なしと見て一切出仕せず半年で辞職、死に体の幕府と関わるのを回避した。
 秋月種樹は維新に際して王事に奔走。その功績で明治元年(1868年)に維新政府に参与として参加。さらに明治天皇の侍読、公議所議長、大学大監、左院少議官、元老院議官などを歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E6%B0%8F
 (注40)あきづきたねみつ(1718~1787年)。「日向国高鍋藩6代藩主。・・・種美の治績は文武を奨励し、藩士子弟の遊学を許して広く人材を求め、藩の軍備を充実させると同時に、民政においても代官には人格ある学者を起用するなど、人事制度に大きな治績を残している。種美は「国家の至宝は人材に有り」と述べているが、その好学と人材重視の姿勢は長男の種茂(7代藩主)、次男の鷹山にも受け継がれ、二人がともに名君として大成する土台となった。・・・
 正室<は、>春姫 ー 黒田長貞の次女<で、種茂、鷹山の母。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E7%A8%AE%E7%BE%8E
 (注41)「黒田長貞<の>・・・正室<が、春姫の母で>・・・上杉綱憲の娘<の>・・・豊姫<たる>瑞耀院」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E8%B2%9E
 「秋月種茂<(1744~1819年)は、>・・・日向国高鍋藩7代藩主。・・・
 藩主になると藩政改革に臨んだ。改革に必要なものは人材登用であると考え、・・・1778年・・・に藩校明倫堂を創設し「教育の高鍋藩」の基礎を築いた。このとき、種茂は藩校に通える者を武士だけに限らず、民百姓に対しても開いた。・・・
 [5代藩主・秋月種弘の時に学問・武芸の稽古所があった高鍋城三の丸(現在は宮崎県立高鍋農業高等学校の一部)に位置し、従来からの武芸稽古所と併設して藩士の子弟に文武を兼学させた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%80%AB%E5%A0%82 ]
 また、大坂から優秀な産婆を呼び寄せ、安全な出産方法を藩内に普及させるとともに、日本で初めて子供手当を支給するなど、現代でいう児童福祉にも心を配り、財政再建政策も行った。
 名君として名をはせた弟の上杉鷹山は、「兄は僻遠の藩主ゆえ名を知られていないが、もし兄が(私に替わって)米沢の藩主になっていたなら、米沢は今よりもずっと繁栄していただろう」と種茂の政治手腕を高く評価している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E7%A8%AE%E8%8C%82 

 ・・・1759年・・・、この時点でまだ男子のなかった上杉重定<(注42)>に、我が孫ながらなかなかに賢いと、<重定の娘の>幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが、重定の叔母<で、前出の上杉綱憲の娘>にあたる瑞耀院である。

 (注42)<前出の>上杉綱憲の庶長子の吉憲の長男の宗憲が米沢藩第6代藩主、<同母庶>次男の宗房が第7代藩主、そして、<同母庶>四男の重定(1684~1722年)が第8代藩主。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%90%89%E6%86%B2

 ・・・1760年・・・、米沢藩主上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。・・・1763年・・・より尾張国出身の折衷学者細井平洲<(注43)>を学問の師と仰<いだ。>・・・

 (注43)1728~1801年。「尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市)の農家に生まれた。・・・
 1751年・・・24歳の時、江戸へ出て嚶鳴館(おうめいかん)という私塾を開き、武士だけでなく、町民や農民にもわかりやすく学問を広めた。この功績によって西条藩・人吉藩・紀伊藩・大和郡山藩等の藩に迎えられた。・・・
 ・・・1764年・・・上杉治憲(後の鷹山)の師となる。治憲は後に米沢藩主となり、平洲の教えを体現して米沢藩の財政再建を成功させた。・・・
 3次に渡り米沢に下向し、講義を行っている。藩校興譲館は平洲が命名した。[要出典]・・・
 1780年・・・、53歳の時、御三家の筆頭・尾張藩に招かれ、徳川宗睦の侍講となり、藩校・明倫堂・・・の督学(学長)になった。
 ・・・1796年・・・、69歳の時、第3次米沢下向。・・・この時、鷹山は米沢郊外の山上村関根(米沢市関根)まで師を出迎え、普門院にて旅の疲れをねぎらった。これは当時の身分制度を超えた師弟の姿として江戸時代中から知れ渡り、明治時代以降は道徳の教科書にも採用された。米沢市関根の羽黒神社境内と普門院は、昭和10年(1935年)、「上杉治憲敬師郊迎跡」として国の史跡に指定されている。・・・、江戸尾張藩藩邸で死去。墓所は東京浅草の天嶽院(てんがくいん)。・・・
 平洲が遺した言葉として、米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。要は「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味である。また、「先施の心」すなわち「自分のして欲しいことを先に他人に対してすべきである」という教え・・・<や>「學思行相須つ(がくしこうあいまつ)」(学び、考え、実行 することの三つがそろって、初めて学んだことになる)という言葉・・・も遺している。[要出典]・・・
 <また、>『嚶鳴館遺草』序文で、「君主は、臣民の父母であって、非常時に自ら節倹すべきことは、親が子に愛情を示すのと同じく為すべきことである」という趣旨のことを示している。松下村塾の吉田松蔭は、「この書は経世済民の書であって、士たるものは必ず読むべきである。」と発言している。また、西郷隆盛は沖永良部島に流されていた折に、「民を治める道は、この一巻で足りる」と発言しており、彼の敬天愛人思想へ影響したとも考えられる。[要出典]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E4%BA%95%E5%B9%B3%E6%B4%B2
 「折衷学派とは、江戸中期の儒学の一派。古学・朱子学・陽明学など先行各派の諸説の長所のみをとるという折衷穏当な説を唱えた学者たちの総称。学派といっても朱子学派のように一定の学説に基づく流派ではなく「一人一学説」が特色。
 古学派全盛の後、18世紀後半、当時高名の儒者10人のうち8、9人は折衷学といわれるほど流行した。代表的な学説は、折衷学の提唱者である井上金峨の『経義折衷』(1764年)、片山兼山の『山子垂統』(1775年)等にうかがえる。全体の傾向として、特に徂徠学派(古文辞学派)を批判し、朱子学的な倫理重視の思想への回帰が見られる。折衷学派の自由な学風は、寛政異学の禁(1790年)で禁圧対象となったが、折衷的学風はその後の儒学界に深く影響し、またその文献実証の方法は幕末の考証学派に受け継がれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E8%A1%B7%E5%AD%A6%E6%B4%BE

⇒「上杉家の養子になることが決まった鷹山に確かな学問を身につけさせようと,米沢藩の儒医藁科松伯は良師<として推挙し>・・・たのが,後に尾張藩(徳川御三家筆頭)藩校明倫堂の督学(学長)となる儒学者細井平洲<だっ>た。」
http://okibun.jp/youzan/
とされている(注44)が、お墨付きを与えたのは江戸住まいだったと思われる、鷹山の育ての親の瑞耀院ではなかろうか。

 (注44)「藁科松伯(わらしなしょうはく<。1737~1769年>は、)・・・上杉重定の御側医<だったが、>・・・1764<年>・・・、江戸両国橋のたもとで辻講釈をしている細井平洲を知り、その人物に打たれ家老の竹俣当綱に入門を勧め、続いて米沢藩中興の志を同じくする成年政治家が続々入門後、この人こそ鷹山公の御師範たるべき人である・・・・・・として、平洲を鷹山公の師として推挙した。」
http://zenryuji.no.coocan.jp/e_wa01.html

 というのも、吉良上野介の子の上杉綱憲が正室に紀州藩主徳川光貞の娘を迎えた縁で、瑞耀院が、紀州藩でも教えたことがある細井平洲の令名を聞いていても不思議ではないからだ。
 しかし、細井平洲が鷹山の師とされたことが、結果として、米沢藩に、マクロ的に見て、負の方向への大きな転機をもたらすことになった、と、私は見ている。(太田)

 曾祖父綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所[・・1697年・・・に上杉綱憲が以前から孔子を祀る行事である釈奠を行っていた儒臣矢尾板三印の邸宅に学問所を設置、同年・・・には同じ邸内に釈奠の会場となる聖堂を完成させ、翌年3月22日には綱憲臨席のもとで釈奠が実施されて、以後ここで藩士子弟教育を行わせたが、これが興譲館の前身となる。しかし、米沢藩の財政窮乏により、1724年・・・に藩による釈奠が中止され、以降は矢尾板に代わって藩士子弟教育を行っていた片山家の私的行事として釈奠(自分釈奠)が行われることになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E8%AD%B2%E9%A4%A8_(%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E8%97%A9) ・・]を藩校・興譲館・・・として細井平洲・神保綱忠<(注45)>によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。・・・

 (注45)「神保家は上杉景勝の時代に御膳部組として取り立てられ、綱忠の高祖父、作兵衛俊忠の時分に五十騎組となった。父の作兵衛忠明は剣豪として知られ、桜田御屋敷将より五十騎組物頭200石に取り立てられるまでとなり、斎藤法信・真島清房・大峡助信・依田秀復、棒術では南斎市兵衛・中村当常らを育てたが、嫡男の綱忠が「忠昭門弟の第一人者」と呼ばれる程の力量であり、その将来を嘱望された。だが、鷹山の学友となり、後に儒学者として大成したため、その剣術が伝わらなかったという。
 父が桜田屋敷将となり、米沢藩江戸藩邸上屋敷勤務となったために江戸に上り、・・・1759年・・・細井平洲の門人となる。・・・1761年・・・に米沢藩世子である上杉治憲(後の鷹山)の学友に選任され、治憲に近侍した。治憲が藩主を継いだ後も綱忠は平洲の下で学問を重ね、師の代わりに塾長となり講義するまでになった。
 30歳で米沢に戻ると、鷹山から藩校設置のための御用掛に任じられる。鷹山と細井の元を往復して藩校興譲館構想の実現と平洲の米沢招聘に尽力し、興譲館の提学として藩士の教育にもあたった。天明2年(1782年)に父の死により家督を相続して200石(後に375石)を与えられるが、5年後に鷹山の改革は中断。その後の志賀祐親の緊縮策に伴い一時失脚する。一説には藩財政の立て直しのために削るべき無駄な支出について意見を求められて自らの提学としての俸禄を挙げて辞したものであるという。
 ・・・1789年・・・に復職し、・・・1791年・・・には50石加増されて、町奉行次役となり、・・・1793年・・・には六人年寄の1人として藩政改革にも関与した。また、・・・1796年・・・には興譲館の督学に任じられて席次は大目付の上位となり、藩校の運営を一任され、嗣子上杉斉定の侍読も兼ねた。・・・
 藩政策において反主流派として退けられたものの、興譲館の督学の地位は解かれず、一時怠勤したものの、鷹山が師礼をもって遇したため、政事参与を完全引退後は、興譲館の督学の職務に専念した。・・・1817年・・・に興譲館の職務を退き、其の身一身15人扶持を支給され、隠居号として「蘭室」を賜る。晩年は私塾を開いて門人の育成にあたった。・・・
 他方、莅戸政以の薦めで古賀精里の門人になった香坂昌直が藩校内で出世し、忠綱が死去すると香坂が藩校総監となるに及び藩学は折衷学から朱子学に転換された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E7%B6%B1%E5%BF%A0

 [正面に聖堂があり、聖堂左手に講堂、聖堂右手に文庫があった。学寮は20余室、その他に当直室、食堂、主宰局、番人室などで構成されていた。後に友于堂が増設される。・・・
 入学生の大部分が20歳代で、上士子弟で占められたが、中・下士出身でも才能があれば選ばれて入学した。諸生の定員は先述のとおり20名だ<った。>(上掲)]
 <また、>当時、米沢藩で奸臣と見なされていた直江兼続<(注46)>[要出典]の200回忌法要に香華料を捧げたという。このことから、20世紀に入り一転して兼続が称揚されるようになると、鷹山が兼続を再評価したとされ、鷹山の施政の多くは兼続の事業を模範にしたものとされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2

 (注46)「直江状(なおえじょう)は、・・・1600年・・・に上杉景勝の家老・直江兼続が、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に送った書簡。・・・
 当時使われない文法や不自然な敬語の使い方など内容に疑問があるため後世の改竄・偽作とする見方もあるが、増田長盛・長束正家等が家康に送った書状や『鹿苑日録』(鹿苑院主の日記を中心とする記録集)の記録から、承兌が受け取った兼続の返書が存在し、それにより家康が激怒したことは確かのようである[要出典]。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6
 「米沢への転封の際に、上杉家は大変な財政難のため、老臣の中には家臣の減員を提案した者もいたが、兼続は断じてこれに反対し、「かくの如き際は人程大切なるものはいない、一同協力して復興を計るべきである」として新季奉公の牢人連の去る者は追わなかったが、旧来の家臣は一人も去る事を許さなかった『天雷子続』。米沢はかつての領国の4分の1の石高の地で、上杉家を待っていたのは厳しい暮らしであった。しかし、兼続はここで家臣と家族3万人を養おうと、自らは質素な暮らしをしながら、国造りに取り組む。米沢市の郊外には、兼続の指示で土地を開いた武士の子孫が今も暮しており、その家の周りには栗や柿そして生垣にはウコギが植えられている。いずれも食べられる食用の木である。兼続は実用的な植物を植えさせることで、人々の暮らしの助けになるよう心を配っていた。・・・
 兼続の死後、主君を誤らせ徳川家康に刃向かう、上杉家を窮地に陥れた奸臣とされていたが、米沢藩第9代藩主の上杉鷹山が兼続を手本に藩政改革を行なったことから次第に再評価が高まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%B6%9A

⇒細井平洲は折衷学派だったのだから、少なくとも朱子学者よりはまともだったとも言えるが、問題は、山鹿素行とは違って、平洲は農民出身であることから、武術や兵学の素養が皆無だった点だ。
 この平洲を師とした鷹山は、米沢藩第2代藩主の上杉定勝を模範としたにもかかわらず、定勝の言う「文武・・・に励むこと」のうち、武を蔑ろにしてしまうことになった、と、見る。
 その傍証の第1が、同じく平洲を師としたところの、「鷹山の学友となり、後に儒学者として」鷹山に用いられた、神保綱忠の、剣豪の父を持ちながらその技を継承しなかった、という軌跡だ。
 傍証の第2が、藩校であり、秋月種茂と鷹山の父の秋月種弘の文武両道の武芸所を種にして文武両道の藩校作った種茂に対し、鷹山は、釈奠プラス(儒教)学問所がかつて米沢藩にあったことを徒に踏まえ、武抜きのいわば片肺非行の藩校を作ってしまったことだ。
 傍証の第3は、鷹山の事績の中に、武・軍事、そして、その系としての(医学以外の)科学・技術に係るものが皆無であることだ。
http://okibun.jp/youzan/ 前掲
 例えば、上掲には、「そもそも上杉家は,直江兼続以来,医学に熱心だったと言われています。米沢藩の藩医たちは探究心が強く,1764・・・年には刑死体の解剖もおこなわれています。その土台の上に,細井平洲の実学(現実に即し役立つ学問)を学んだ鷹山は,解剖の実施のほか,西洋医学も積極的に導入しました。(<支那>で生まれ発展した儒学では,西洋は「夷狄」とされ蔑視されていましたが,鷹山は実証的な西洋医学を評価し,人々のために積極的に導入したのです。) 鷹山は優れた藩医を長崎や杉田玄白のもとに送り,学ばせました。蛮社の獄で追われる身となった高野長英が,米沢の蘭医堀内素堂(そどう)のもとに身を寄せたのは,二人が学友だったからです。また,鷹山は,杉田玄白の斡旋でオランダの外科医療機器類を購入して医学館「好生堂」に与えています。」というくだりが出てくるが、蘭学一般に関心を示した形跡はない。
 そして、米沢藩の隣の仙台藩では、藩士の林子平(1738~1793年)が、ロシアの南下政策に危機感を抱き、1791年に『海国兵談』を敢行している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%9B%BD%E5%85%B5%E8%AB%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AD%90%E5%B9%B3
が、林とほぼ同一世代の鷹山(1751~1822年)は、(米沢藩は海に面していなかったとはいえ、)ロシアの南下にも林子平のことにも関心を示した形跡がない。(太田)
 
  イ 鷹山と儒教

 「江戸時代初期、朱子学をきわめた藤原惺窩の弟子林羅山が、幕府の儒官に迎えられます。


[林羅山の矮小性]

姜沆(キョウコウ=カン・ハン。1567~1618年)。「1593年、朝鮮王朝における文科に合格したが、1597年の慶長の役(丁酉再乱)では刑曹佐郎という要職に就いており、全羅道で明の将軍・楊元への食糧輸送任務に従事していた。しかし日本軍の進撃によって全羅道戦線が崩壊し、一族で避難中に鳴梁海戦後に黄海沿岸へ進出していた藤堂高虎の水軍により捕虜とされ、海路日本へ移送された。
 日本では伊予国大洲に拘留され、のち伏見に移され、この頃に藤原惺窩と交流した。
 約3年にわたる俘虜生活の見聞(日本制度や情勢)は『看羊録』にまとめられた。・・・
 韓国の百科事典『斗山世界大百科事典』は、姜沆を「丁酉再乱の時に義兵を起こして戦い、倭軍の捕虜として日本に捕まった。日本の学者に性理学を教える一方、倭軍の軍事情報などを故国に伝えたが、日本の性理学の元祖といわれる」と解説している。・・・
 日本について、「日本はどんな才能、どんな物であっても必ず天下一を掲げる。壁塗り、屋根ふきなどにも天下一の肩書が付けば、多額の金銀が投じられるのは普通だ」と綴っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E6%B2%86
 藤原惺窩(1561~1619年)。「公家の冷泉為純の三男として下冷泉家の所領であった播磨国三木郡(美嚢郡)細川庄(現在の兵庫県三木市)で生まれた。
 長男でもなく、庶子であったため家は継がず、上洛し相国寺に入って禅僧となり、禅と朱子学を学んだ。儒学を学ぼうと明に渡ろうとするが失敗に終わった。その後朝鮮儒者・姜沆と交流し、その助力を得て『四書五経倭訓』を著し、それまで五山僧の間での教養の一部であった儒学を体系化して京学派として独立させた。・・・
 後に姜沆が朝鮮に帰国する時に「明と朝鮮の連合軍で日本を占領して欲しい」と願い出たことで知られる(『看羊録』)。・・・
 朱子学を基調とするが、陽明学も受容<したり、>・・・仏教に<も>寛容であった・・・など包摂力の大きさが特徴である。近世儒学の祖といわれ、門弟のなかでも特に林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵の4人は惺門四天王と称された。和歌や日本の古典にも通じており、同時代の歌人木下長嘯子とは友人であったと言われる。豊臣秀吉・徳川家康にも儒学を講じており、家康には仕官することを要請されたが辞退し、門弟の羅山を推挙した。・・・
 実家の下冷泉家は、播磨の所領において戦国大名の別所氏に攻められ当主が戦死し没落した。このため、惺窩が尽力し弟の為将を新たな当主に擁立することで下冷泉家を再興させた。惺窩自身は庶子でもあり、自ら下冷泉家の当主の座に就くことはなかったが、為将の死後、長男の為景が勅命により当主となった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%83%BA%E7%AA%A9
 林羅山(1583~1657年)。「京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。父は加賀国の郷士の末裔で浪人だったと伝わる。・・・
 (1604年)に藤原惺窩と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。・・・
 惺窩は、自身は徳川への仕官を好まなかったので、翌慶長10年(1605年)には羅山を推挙して徳川家康に会わせた。・・・羅山は才を認められ、23歳の若さで家康のブレーンの一人となった。・・・
 慶長12年(1607年)、家康の命により僧形となり、道春と称して仕えた。・・・
 学問上では、儒学・神道以外の全てを排し、朱子学の発展と儒学の官学化に貢献した。・・・
 宇宙の原理である理は、人間関係では身分として現れるとして上下定分の理を説いて士農工商の身分制度を正当化した・・・
 羅山の朱子学は<支那>から直輸入したものではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に流入した朝鮮朱子学を自覚的、選択的に摂取したものであるとされている。なお、「羅山」の号も、朝鮮本の『延平問答』に由来するものである。・・・
 「徳川時代の最初のエンサイクロペディスト」であったという評価がある。『神道伝授』や『本朝神社考』においては朱子の唱えた鬼神論にもとづいて古代以来の日本の神仏習合を批判した。<支那>の本草学の紹介書『多識編』、兵学の注釈書である『孫子諺解』『三略諺解』『六韜諺解』、さらに<支那>の怪奇小説の案内書『怪談全書』を著すなど、その関心と学識は多方面にわたっている。日本史にも造詣が深く、日本の国祖としての太伯説に関心を寄せている。・・・
 羅山は、慶安4年(1651年)に後水尾上皇が突然出家して法名を円浄と称した際、そのことを「ああ驕子の父にしたがわざる。これをいかんともするなし。他年武門これを愛惜せんと欲するも、いずくんぞ得べけんや」と評している
 和辻哲郎は、地球球体説を頑なに否定するなど羅山はハビアンとの論争でも科学に全く興味を示さず視野が狭い、ヨーロッパでは近代的な思想家が出ていた時代に古代<支那>の理想に帰っていくという時代錯誤など、羅山は鎖国とともに保守的反動的な偏狭な精神を跋扈させ、長きに渡り日本人の自由な思索活動を妨げた「不幸」であったと論じている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%BE%85%E5%B1%B1

⇒和辻哲郎の林羅山批判に、私が付け加えることは何もなさそうだ。

 羅山とその師の惺窩の朱子学は朝鮮の儒者姜沆経由のものだったわけだが、秀吉の朝鮮出兵がそれをもたらしたところ、かかる朱子学が後に徳川幕府の正統儒学になったことは興味深い。(太田)

 それ以後幕藩体制が整えられていくにつれ、名分論に基づく君臣関係、身分差別の重視、治国平天下を目的とする朱子学は、封建支配の思想的支柱となり、封建支配者の正統教学の学問としてその地歩を固めていきます。
 一方、朱子学とは対照的に主客の対立を認めず、ひたすら個々人が良知に至る工夫を説き、主観的な哲学の色彩の濃い、知行一致知識と実践の一致をテーゼとする陽明学が中江藤樹(1608〜48)により提唱され、やがて儒学の主要な潮流となります 。
 この陽明学が、江戸後期に、佐藤一斎(1771~1859)や大塩平八郎のような著名な学者を輩出します。
 佐藤一斎門下からは、安積艮斎・渡辺崋山・佐久間象山・中村正直・横井小楠らが現れその教えの実践者として育っていきます。
 更に象山に師事した吉田松陰をはじめ西郷隆盛なども陽明学の影響を受け、幕府は、陽明学派の学者たちを異端視して抑圧します。
 陽明学派の学者や蘭学者たちが、幕府から敬遠され、果ては蛮社の獄に見られる弾圧すら受けた要因として、個の尊重と批判精神が上げられるでしょう。
 知行一致といい合理的科学性といい、いずれも批判精神を助長し、到達するところは、封建的幕藩体制の矛盾認識であります。
 しかし主観的内省という観点では、朱子学も陽明学も共通しており、これを儒学本来の精神からの遊離と批判したのが山鹿素行(1622~85)です。
 素行は客観的な道を孔孟の原経典のなかに直接求め、それを生活の規範として社会組織の中に具現しようと試みました。
 これが「古学派」であり、その特徴は、実学を重視し、社会の変遷に対処する基本として歴史的理解を根拠とした点であります。
 この学風は、伊藤仁斎・東涯父子及び荻生徂徠によって高められ。国学にも影響を与えました。
 元禄時代が全盛期で、素行の「古学派」、仁斎の「古義学派」、徂徠の「古文辞学派」を総括して「古学派」と呼んでいます。
 古文辞学の特徴は、経世の学つまり政治論であったことです。
 江戸中期になると、古学・朱子学・陽明学 それぞれの長所を選択折衷した穏当な学説が提唱されます。折衷学派です。
 宝暦・明和年間(1751~71)に荻生徂徠への批判を主眼として、井上金峨・片山兼山らが提唱し、老中田沼意次が権勢をふるった時代に全盛期を迎えます。
 旧来の格式にとらわれぬ新しい政治形態の中で、功利的な殖産興業政策が推進された時代で、銅や俵物の専売による外国貿易の拡大や蝦夷地關発計画など、鎖国体制下とは思えぬ積極さが見られた時代です 。
 米沢藩の場合は、幕府の文治政策に倣い元禄10年に学問所が設立されますが、朱子学のほかに古学派の儒学も研究されていました。

⇒繰り返すが、学問所を設置したのは、吉良上野介の実子の上杉綱憲であり、既述したように、朱子学を正面に立てたけれど、山鹿素行が創始した古学も教育したわけだ。(太田)

 特に、宝暦の飢饉、藩主重定の無気力、郡代森平右衛門の専横による側近政治の弛緩等々が重なり、藩主・奉行ともども、領土返納の決定も余儀ない事態に陥った藩政低迷期には、「修身斉家」よりはむしろ「経国済民」の政治哲学を説く徂徠学が、儒医の藁科松伯を中心に研究されていました。
 鷹山の世子時代、藩の現状を憂える竹俣当綱以下少壮の志士たちの間に、古学派の儒学が広まっていました 。
 賓師の折衷学派細井平洲(1728〜1801)も、米沢の国情に配慮して徂徠学派の滝鶴台<(注47)>を鷹山の師の一人として推挙している事実に注目すべきでしょう。

 (注47)たきかくだい(1709~1773年)。「長門国(山口県)萩の人。・・・初め藩校明倫館で山県周南に徂徠学を学び、のち江戸に出て服部南郭に学ぶ。儒学のほか国史、和歌、律令、仏教にもくわしく、また古医法を修めて医術にもすぐれた。宝暦一二年(一七六二)藩主毛利重就に召されて儒官となり、藩政にも参与した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BB%9D%E9%B6%B4%E5%8F%B0-92855

⇒むしろ、藁科松伯らにとっては、滝鶴台が意中の人物だったが、前述したような事情もあり、平田平洲に甘んじた、ということではなかったか。(太田)

 折衷学派の細井平洲招聘と上杉鷹山の藩政改革の功業の関係を考えるとき、このような時代背景と儒学諸派の関係を無視する訳にはいきません 。
 鷹山の治世時代も<その養父上杉重定の子で自分の養子にした>治広の後見として政治に携わった時代にも、細井平洲とその弟子神保蘭室の学流が藩学の主流でしたが、文化13年(1816)神保蘭室が督学を致仕して片山一興が総監に就任、次いで山田政章が総監、幕府儒官古賀精里の門人香坂昌直が提学に挙げられたころから、米沢の学風も次第に、幕府の御用学朱子学一辺倒に傾いていきます 。

⇒この時点で、鷹山はまだ存命(~1822年)であった以上は、もともと、宗教としての儒教の信徒であった鷹山は、かかる儒教と親和性の高かった朱子学が興譲館の館是となることに賛成だったと見てよかろう。(太田)

 文政9年(1826)蘭室が没し香坂昌直が総監に就任すると、興譲館の学風は一変して朱子学以外の学派はすべて排除されます。
 そして、この朱子学一辺倒の学風は、教育方針のみならず人材登用の面にも大きな変革を招来します。穏健着実で軽佻浮華の風潮が醸成されない点は是としても、稜々たる気骨を消磨し万事に消極的な〈事なかれ主義〉の傾向が広がり、学館創設時代の進取性は影を潜め、〈よらば大樹の下〉式の事大思想や功利主義が勃興してきます。
 このような風潮が権門に対する賄賂の横行や姑息偸安の士風を生むのは自然の勢いであります 。
 この傾向は幕末まで続き、戊辰戦争に直面して初めて、藩の要人たちは日和見主義の弱点を暴露するのです。この約50年の間、からくも鷹山の進取性・開明性を維持して、明治の近代化の時代に逸早 く英学を興して時代に即応する人材育成 に寄与したのが、開明的な蘭方医たちだったのです。
 鷹山関係の著者は、誰もが儒教思想の影響がその言行に反映していることについては触れていますが、
(1)35歳で隠艦した時に、一見仰々しい「伝国の辞」を何故贈ったのか。
(2)7代藩主宗房までは死後火葬であったものを、何故鷹山は養父重定を土葬をもって葬ったのか。
(3)多少驕慢の振る舞いがあったとは言え、何故藩政改革の立役者竹俣当綱を罷免の上隠居押込め という苛酷な処罰をしなければならなかったのか 。
(4)(直接鷹山の言行事績とは関係ないが)重定の寵臣森平右衛門誅殺の背後にあった思想は何か 。
の諸点について、儒教思想の本質との関連で論述している著者はほとんどおりませんが、上記の事についての私の意見は、次のとおりです。
 鷹山が治広(養父重定の次男)に贈った「伝国の辞」とは、次の3力条です。
一、国家は先祖より子孫へ伝る国家にして我私すべき物には無之候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物には無之候
一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民には無之候
右三条御遺念有間敷候事
 封建藩主の言葉としては、実に民主的な斬新な「君主観」が読み取れます 。
 しかし、『孝経』の説く「民入を和す」という〈諸侯の孝〉の精神からすれば、儒教信奉者の鷹山としては、極めて当たり前のことで、ここには孟子の思想の影響が見られます。
 鷹山としては養父重定が凡庸な藩主であったことは重々承知していたことでしょう。そして 大酒飲みで藩主の器には縁遠い義弟勝熈<(注48)>の日頃の行状から推して、その弟治広も、改革途上の藩政を任せるには不安があったと想像されます 。

 (注48)1760~1807年。「藩主上杉重定の長男として米沢にて誕生するが、既に内約が進み、庶子として生まれたので、同年に上杉治憲(鷹山)が重定の養子になった。このため、治憲の養弟と『寛政重修諸家譜』では扱われている。・・・
 勝煕は文化4年(1807年)まで生存していたが、天明2年(1782年)に治憲は勝煕の同母弟である勝意(後の治広)を養子とし、勝煕が米沢藩主になることはなかった。しかし、治憲の実子・顕孝と寛之助、治広の子・久千代が早世し男系が絶えたのと対照的に、勝煕の子である斉定や勝義が米沢藩主や支藩の米沢新田藩主を継ぎ、以後この両家は廃藩置県の後に至るまで(上杉宗家は現在まで)勝煕の血筋で続くこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%8B%9D%E7%86%99

 しかし、いったん藩主の座に着けば、凡庸であればあるほど権力を意識するものです。
 後謙役として鷹山の目の色の黒いうちはまだしも、自分が死んだ後の上杉家はどうなるか鷹山は<諸侯の孝〉の命題「社稷の護持」が達成できないことを恐れました。
 そこで、上杉家の憲法ともいうべき「伝国の辞」を治広に贈ることにより、治広はもちろん士大夫一般にも自分が理想とする藩主像を示し、治広が当然持つであろう「親(鷹山)への尊崇」に期待をかけたと、考えられるのです。
 藩祖謙信は別として、第7代藩主宗房までは仏教の慣例に従っていずれも火葬だったのです。
 だが儒教信奉者の鷹山は、死と共に肉体は消滅するという仏教の理念を採らず、死と共に抜け出す霊魂が、再び遺体に戻って来て憑りつく可能性を説く儒教の理念を基に、養父重定の遺体を土葬にしたのだと思います。
 孝心深い鷹山が養父を火葬にするに忍びなく土葬にしたという気持ちも分かりますが、根幹には儒教本来の宗教性があったことを見逃すべきではないでしょう。
 大名家・武家一般に儒教の影響が現れてきたのが、丁度鷹山の前後の時代だったのです。
 執政の竹俣当綱は、鷹山の片腕として奸臣森平右衛門を誅殺して側近政治の停滞を救い、豪商三谷三九郎らの資金ルート回復に成功して殖産興業を軌道に乗せ、江戸桜田・麻布両邸の大火類焼に際しては陣頭指揮を執り、原木の伐採運搬に当たる手伝いの諸士を督励して江戸藩邸の再建を果たし、財政不如意の情勢下にあって鷹山宿願の藩校設立・細井平洲招聘を実現、ようやく藩再興の兆しが見えてきたころ、領内巡視中に近郷小松の豪農宅で酒宴に興じ、藩祖謙信の命日にまで酒宴を続けるという失態を演じるのです。その頃、当綱には驕慢の行状が見えてきたことは確かですが、奉行筆頭としての累功を考慮すれば、酒宴に興じた一件で罷免に加えて隠居の上押込めという処刑は、一見苛酷に思えるかも知れません 。
 しかし鷹山にとっては、家老が酒宴に興じて藩祖謙信の命日を無視した振る舞いは、見逃し難い一大事件一一儒教の根本理念に背く<祖先の祭祀を蔑ろにした罪〉だったのです。
 この泱断は、細井平洲の礼教的儒学の教えからではなく、鷹山自身が身につけた〈儒教の宗教性〉の顕れともいうべきものであったのです 。
 儒教成立時代から中央集権国家の成立に伴い〈孝〉の概念が拡大され、経学時代に入ると〈孝〉の概念の上に〈忠〉の概念が付与され、『孝経』では〈天子の孝〉〈諸侯の孝〉といった儒教思想の拡大解釈が行われます。それが日本では江戸時代の将軍家御用の朱子学の根本思想として定着します。この朱子学に則る限り、5代将軍綱吉の論外とも言うべき「生類憐みの令」のような、 是々非々 を無視した絶対的権威がまかり通る事態が生じてきます。
 森平右衛門の専横も、そもそもその原因は重定の不明にあるのですが、奉行といえども藩主の絶対権威の前には如何ともし難い朱子学の〈忠〉の規制があったのです 。
 鷹山襲封前の米沢藩は、重定の寵愛を笠に着て側近政治を牛耳った郡代森平右衛門の専横は目に余るものがありました。
 凶作・財政不如意の状況のさなか、藩政の挽回を願う者はひとしく森平右衛門の排除を願望していたのです 。
 為政者が「経国済民」の政治を優先させるのは当然のことです。
 しかし乱舞にふける重定は、政治には無関心で側近の森平右衛門に任せっきり。
 竹俣当綱以下少壮憂国の士は、藩主の権威を越える何か拠りどころとなるものはないものかと思案しながら、徂徠学派の思想に傾倒する藁科松伯の書斎「菁莪館」に集い、経書の勉強会を開いていました。

⇒鷹山によって、藩学は朱子学とされたけれど、藩士達の間では、山鹿素行の古学と親縁性がある荻生徂徠の古文辞学、そしてもちろん山鹿素行の古学そのものについても、火がともし続けられた、というわけだ。(太田)

 そして彼ら(菁莪社中)の到達した結論は、崩壊寸前の米沢藩を救う道は「経国済民 」「治国平天下 」であり、そのためには上ナル人二学問ナク、聖人ノ道ヲ知ラザレバ、世界早ク老衰シテ、末々二至リテハ権勢下二移リ、大海ヲ手ニテ防グ如クニ成り、上ノ威力次第二薄ク成行キ、乱ヲ醸スコト速力也、ソノ兆シ今巳二見工侍ルという徂徠の「太平策』の一節を知って共鳴し、「タトヒ道理ニハヅレ人二笑ハルベキ事ナリトモ」
 まず実践優先を説く、徂徠の果断な行動的な政治論に出逢って欣喜するのです。
 松伯・当綱らが、藩主の寵臣を殺す〈不忠〉は覚悟の上で、血判まで押して「君命に抗して国家の患害を救う」という名分の下に森平右衛門 誅殺を断行したのは、「経国済民」を優先させたからに ほかなりません。
 藁科松伯以下鷹山を補佐した人達の思想・行動は、決して細井平洲の(折衷学派の)思想に拠ったものではなかったのです。
 内村鑑三が「鷹山の受けた支那的[儒教的 ]教育は、彼を支那人たらしめなかった」(『代表的日本入』)と述べる理由は、那辺にあるのでしょうか 。
 日本人は、招魂再生の儒教も、輪廻転生の仏教も、不老長生の道教も、すべて受け容れ、古来の神道ともうまく融合してきました 。
 鷹山の師匠細井平洲は、儒学諸派の特徴利点を折衷したいわゆる〈折衷学派〉あるいは〈実学派〉と呼ばれる儒者の代表的碩学でした。
 その思想は「学問と今日と二途ならず」という言葉に集約できると思いますが、この平洲の実学思想を政治に実践活用したのが鷹山であります 。
 西洋医学奨励もこの鷹山の実学思想の顕れです。・・・
 島津斉彬の侍医・幕府医学所教授・大学東校教授として最後の蘭方の名医と言われた坪井為春(大木忠益、坪井信道の女婿)は、米沢藩郷医大木松翁の子で当初堀内忠寛に師事したのですが、忠寛の薦めで坪井信道の安懐堂に学び、やがて塾頭として信道の片腕として塾務を担当、その実力を買われて島津斉彬の侍医として抜櫂されるのです。」(松野良寅(注49)「上杉鷹山とその残照」より)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasj/55/2/55_KJ00001457130/_pdf

 (注49)よしとら(1926~2012年)。「米沢中学から、海軍兵学校入校。松野は海兵75期で、在校中に第二次世界大戦の終結を迎え卒業証書を授与されている。
 戦後は東北大学法文学部英文科を卒業し、母校の教員や山形県教育庁主事などを務める。1967年(昭和42年)から山形大学工業短期大学部助教授、同教養部教授、1992年・・・から東北芸術工科大学教授を歴任。
 英学者としては『興譲館世紀』で第1回豊田實賞を受賞。また日本英学史学会会長を務めた。『米沢市史』編纂委員会委員長をつとめ、郷里の先人たちの事績をめぐる著作を刊行している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E8%89%AF%E5%AF%85

 (4)上杉斉憲(なりのり。1820~1889年)

 勝煕の子である第11代藩主上杉斉定の子で第12代藩主の斉憲は、「藩政改革に努め、軍隊の洋式訓練方法を取り入れるなど、藩政に大きな成功を収め、慶応2年(1866年)にはこの功績を賞され屋代3万7千石の加増を受けている。上杉家の領地が増やされるのは実に2世紀半ぶりのことで、豊臣政権時代に越後国から会津に加増転封になって以来のことである。この一事が非常な喜びとなったか、かつての名君・上杉治憲(鷹山)に次ぐ名君とまで呼ばれた。開明的な人物で、開国にも積極的だったという。

⇒斉憲の正室は土佐藩12代藩主の山内豊資の娘であるところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E8%B1%8A%E8%B3%87
山内豊資の嫡男で土佐藩第13代藩主の山内豊熈(とよてる)・・義理の従兄弟にあたる・・の正室は島津斉彬の妹・・よって義理の従姉妹にあたる・・であり、斉憲は、斉彬の日蓮主義の影響を受け、それが、藩士達の間での古文辞学や古学の影響でもって強化されたのではなかろうか。
 軍事重視一つをとっても、そのことが推し図れる。(太田)

 慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起きて会津藩と共に米沢藩も討伐の対象とされたが、当初は斉憲は新政府の意向に従って恭順を考えていた。しかし、その嘆願を望んで送った書状を新政府に握りつぶされたため、これに抗議し仙台藩に次ぐ奥羽越列藩同盟の副盟主となり、新政府軍と戦った。米沢軍は一時は新政府軍を圧倒し、新潟港を奪い返すまでに至ったが、慶応4年(1868年)5月に新発田藩の寝返りもあって新政府軍の猛攻を受け敗走する。・・・
 その後、旗色が悪くなったこと、京都・江戸での甘粕氏・毛利氏(長州藩の本家筋)らと西国雄藩との外交工作などもあり新政府軍に降伏した。そして、それまで味方であった会津と庄内に兵を送った。奥羽越列藩同盟の実質的な盟主であったため「裏切り者」「甘粕狐に騙された」等とも称された。明治維新後、領地を14万7千石に削減された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%96%89%E6%86%B2
 「斉憲は佐幕派として・・・1863年・・・に上洛して京都警衛を果たし、翌年からは嗣子茂憲が上洛して2年間京都警衛を果たしたため、その功績により慶応2年9月(1866年10月)に屋代郷3万7248石を幕府より与えられ、米沢藩の知行高は19万石近くまで増加した。大政奉還が行われると、藩論は佐幕派と尊皇派に分かれた。開明派で西国雄藩とも近い軍事奉行の千坂高雅<(後述)>が、慶応4年(1868年)正月には薩長に従い3,000人を率いて上洛、弾薬の海上運搬もおこなったが、藩主斉憲は保科正之の旧恩があるとして幕府に味方した。
 慶応4年4月に江戸城の無血開城が成り、戊辰戦争がいよいよ東山道に波及し始めると、米沢藩はかつての保科正之への恩義もあることから会津藩と新政府軍の間に立って仲介に努めたが、その行動はかえって新政府軍から疑いの目を向けられる結果を招いた。するとこれを察知した米沢藩の方でも、新政府軍は会津攻撃が終了したあとも北進して東北の佐幕派諸藩を攻撃するらしいという風聞を信じて驚き慄き、双方疑心暗鬼のうちに米沢藩は奥羽越列藩同盟に加わって仙台藩や会津藩とともに新政府軍に対峙するという好ましからぬ状況にはまってしまった。仙台藩が奥州街道・常磐方面を担当したのに対し、米沢藩はその故地でもある越後を担当したが、長岡藩と共同して戦った北越戦争において新政府軍に敗退、羽越国境の大里峠まで迫られたところで、同年8月18日新政府軍方から思いがけない報せが藩主の正室 貞姫を経由して米沢藩にもたらされた。東山道先鋒総督府は土佐藩の迅衝隊を中心に編成された部隊だったが、その幹部である谷干城・片岡健吉・伴権太夫らは連名で米沢藩に恭順を薦める内容の書状を書き、これを土佐藩主山内豊資 → その三女で米沢藩主上杉茂憲の正室となっていた貞姫 → 藩主茂憲へと送付したのである。これを受けて米沢藩は24日までに藩論をまとめて恭順した。その後は新政府軍のために勤皇し、庄内藩攻撃のために兵を出し、会津藩に対してもその非を説き恭順することを諭した。
 米沢藩は戦後の処置で、明治元年(1868年)12月に4万石を減封されて14万7000石となった。・・・
 <ちなみに、>1878年(明治11年)に奥羽地方を視察旅行したイザベラ・バードは、置賜地方を「東洋の理想郷(アルカディア)」と賞賛し<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E8%97%A9

⇒バードによる賞賛は、上杉斉憲の仁政の賜物であると言えよう。
 しかし、上杉氏の、吉良義央の子の上杉綱憲に遡るところの、長年にわたる、山鹿素行/古学軽視にして朱子学事大、が、幕末における、煮え切らない米沢藩の行動をもたらしてしまった、と、言えそうだ。(太田)


[千坂高雅の先祖の、赤穂事件、上杉鷹山との関わり]

一 赤穂事件との「関わり」

 「千坂高房<(通称:千坂兵部。1639~1700年)>・・墓所<は>形県米沢市日朝寺・・<は、>『忠臣蔵』を題材にしたドラマでは、実際の千坂が赤穂事件の際にはすでに死去しているにもかかわらず、吉良邸討ち入りの際に実父吉良義央を助けるために出兵しようとする主君上杉綱憲を制止する役などで登場することが多い。これは、大佛次郎の小説『赤穂浪士』の影響である。当該作では、 山鹿素行の高弟である千坂が、堀田隼人や蜘蛛の陣十郎といった架空キャラクターを使い赤穂義士に対抗する。
 近年では、千坂が当時すでに死去していたことが知られるようになったため、かわって当時の上杉家江戸家老色部安長がこの役を代行することが多くなった。ただし、史実では色部もこの時父の喪中だったため出仕しておらず、実際に綱憲を諌止する役目を果たしたのは畠山義寧である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%9D%82%E9%AB%98%E6%88%BF

二 上杉鷹山との関わり

 「千坂高敦<(たかあつ。?~1793年)>・・墓所<は>日朝寺・・<は、>・・・江戸家老格の廣居清応(左京)の長男として誕生し、・・・1746年・・・8月3日、伯父千坂興親の養子として千坂氏の家督を相続。・・・1773年)に七家騒動に加担するが、同年7月1日の裁定により、色部照長(典膳)ともども奉行免職の上で隠居・閉門・石高半減を命じられる。・・・1775年・・・7月には色部ら同様に閉門を解かれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%9D%82%E9%AB%98%E6%95%A6
 「七家騒動(しちけそうどう)は、<1773>年6月27日・・・に出羽国米沢藩で起こったお家騒動。藩主・上杉治憲(鷹山)の改革政策に反対する藩の重役で、奉行の千坂高敦(対馬)と色部照長(修理)、江戸家老の須田満主(伊豆)、侍頭の長尾景明(権四郎)、清野祐秀(内膳)、芋川延親(縫殿)、平林正在(蔵人)の7人が、元藩儒で藩医の藁科立沢の教唆を受け、改革の中止と改革を推進する奉行の竹俣当綱<(注50)>(美作)一派の罷免を治憲に強訴した。

 (注50)「上杉重定<は、>・・・1760年・・・に・・・竹俣当綱・・・の出した進言に従い、尾張藩を通して、幕府に藩土返上の上、領主を辞めるということを相談し、・・・1764年・・・1月にはこれを諌められ取り下げている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%87%8D%E5%AE%9A

 重役7名の署名による45か条の訴状が提出されたので、七家訴状事件ともいう。・・・
 45か条にわたる訴状内容の要約は以下の通りであった。
1.治憲に対する「賞罰」の不明確さや、政策への批判。
2.竹俣当綱が他の重臣を無視し、莅戸善政、木村高広などの藩主側近とともに改革政治を専断することを先代の側近森利真と同類の出頭人政治として批判。
3.竹俣の人物及び細井平洲や最上地方の商人と竹俣との関係を批判。
改革政治自体が、国害であり、仙台藩や会津藩の出頭人政治失敗と古法復帰による藩政立て直し成功4.にならい、「越後風」の回復のために竹俣とその一味である治憲側近の即時退役要求。・・・
 千坂と色部の両奉行は、反対派を括って抑えておかないと暴発してお家騒動になると懸念しての一味加担であったとする説もある。少なくとも色部に関しては、
・治憲が改革を開始するに当たり、千坂を通して国許の重役たちに対し通達した趣意書『志記』の中で「このたびの改革は私自身が色部と論議の上、色部も賛同したことである」と述べられている。
・<1767>年9月13日・・・に治憲と共に白子神社へ倹約誓詞を納めに行き、誓詞の中で「他者が改革に反対しようとも、自分は改革を支持する」と述べている。
・<1771>年6月5日・・・早朝に治憲・竹俣と共に愛宕山に登って降雨祈願を行った。
ことから、改革に対してはむしろ協力的であったと見る説がある。・・・
 同年7月1日・・・に7重臣の裁決が下され、須田と芋川の切腹及び改易、残り5人の重役は隠居及び閉門または蟄居、石高削減となる。また、芋川の父・芋川正令も息子に連座して押込となる。9月には藁科が斬首並びに士分剥奪となる。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%9D%82%E9%AB%98%E9%9B%85

5 浪士方の浅野氏のその後

 (1)赤穂浅野氏

赤穂浅野氏は、実は再興されている。↓

 「浅野大学家(再興・赤穂浅野氏)<は、>・・・広島浅野宗家にお預けとなっていた浅野長矩の弟の浅野長広が・・・1709年・・・日に将軍綱吉の死去に伴う大赦で許され、・・・1710年・・・に改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を与えられ、旗本に復した。またこれとは別に、浅野宗家からも300石を支給され続けた。これにより、赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たした。
 以降、旗本として存続し、明治維新を迎えた。
 維新後の明治元年(1868年)・・・からは徳川幕府の推挙により、明治天皇より改めて禄高300俵を賜り、浅野長栄は弁官の支配とされた。赤穂浅野家は、長栄の孫である長楽の代まで存続したが、浅野長楽が妻帯せぬまま、1986年(昭和61年)に病死したため、赤穂浅野家は断絶した。
 若狭野浅野家(赤穂郡相生村)<は、>赤穂浅野家の分家旗本。浅野長恒が1671年に兄・長友から三千石を分与されて成立。
 家原浅野家(加東郡家原)<は、>赤穂浅野家の分家旗本。浅野長賢が同年、同じく三千五百石を分与されて成立。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F

 (2)広島浅野氏(浅野本家)

 また、なんと、浅野本家は、幕末・維新の際、官軍側で目覚ましい活躍をしている。↓

 「幕末、薩長同盟が成立すると浅野家の広島藩もこれに加わって薩長芸三藩同盟を締結し、倒幕に踏み切った。その一方で徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出するなどしたため、日和見藩と不信を買い、浅野家はその中枢からは除外される形となった。
 しかし戊辰戦争では官軍として奮戦し、広島藩士から成る応変隊、足軽の銃隊、庶民が主力の神機隊などの広島藩軍は会津藩軍や仙台藩軍との交戦で激戦を繰り広げた。・・・
 1876年・・・に家禄と賞典禄が代えられた金禄公債の額は浅野本家は63万5433円で8位だった(1位島津公爵家132万2845円、2位前田侯爵家119万4077円、3位毛利公爵家110万7755円、4位細川侯爵家78万280円、5位尾張徳川侯爵家73万8326円、6位紀州徳川侯爵家70万6110円、7位山内侯爵家66万8200円に次ぐ)。・・・
 <浅野宗家の>分家<は以下の通り。>
 三次浅野家(備後三次藩)<は、>・・・浅野長晟の庶長子・浅野長治を祖とする。1632年・・・、三次郡・恵蘇郡内5万石を分知され、三次郡に居館を建てて支配した。
 3代長経は1719年・・・に死去し、無嗣のため所領は宗家に返還されたが、長経の弟・長寔に改めて5万石を分知された。しかし、翌年長寔も死去したため、絶家となった。
 なお、赤穂3代藩主浅野内匠頭の正室阿久里は初代長治の娘である。
 青山浅野家(広島新田藩)<は、>宗家5代浅野綱長の三男・長賢が、1730年・・・に兄で宗家6代吉長から3万石を分知され分家した。定府(江戸常駐)の大名として列せられ、藩主家は江戸屋敷の所在地から青山浅野家(青山内証分家)と呼ばれた。
 1862年・・・6代長興(のちの宗家13代長勲)が宗家を継いだため、翌年1863年・・・に長厚が家督を継ぎ、翌年安芸国に帰郷して吉田郡の吉田郡山城跡の山麓に「御本館」(吉田陣屋)を建てて居住した。1869年(明治2年)に新田藩は宗家と併合した。なお、その際に当主が華族の地位を返上したため1884年(明治17年)に華族令が出た際には華族でなくなっていたので旧広島新田藩主浅野家には叙爵がなかった。」(上掲)
 第11代藩主の浅野長訓(ながみち。1812~1872年)は、「財政難に見舞われていた<広島藩の>・・・藩政改革を断行する。そして、政治刷新や有能な人材登用、洋式軍制の導入などで藩政を立て直している。慶応2年(1866年)、第二次長州征討が勃発した際は停戦を主張し、7月には岡山・徳島両藩主との連署により幕府・朝廷に征長の非と解兵を請願した。
 明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて諱を長訓に戻し、翌明治2年(1869年)正月24日には、広島新田藩主の浅野長勲に今度は宗家の家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)8月、長訓の東京移住に際し、それを阻止し引き留めようとする農民一揆「武一騒動」が起こっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E8%A8%93

 かつての赤穂浅野氏と同じ穴の貉の反日蓮主義氏だった筈の浅野本家に一体何が起こったのだろうか。
 第12代(最後)藩主の浅野長勲(ながこと。1842~1937年)は、「第7代広島藩主・浅野重晟の四男・浅野長懋(ながとし)の八男)の長男<で、>・・・伯父・浅野長訓の養嗣子とな<り、>・・・幕末期の動乱の中で養父の補佐を務め、江戸幕府と朝廷間の折衝に尽力した<のだが、>広島藩は頼山陽<(下述)>の尊皇思想を柱に平和的に倒幕を行う方向で意見を一致させていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E5%8B%B2
ところに、その秘密を解く鍵がある。
 すなわち、頼山陽ファクターだ。

 (3)頼山陽(1781~1832年)

 頼山陽は、「1781年・・・12月、<大阪の朱子学者の>父<の頼春水(注51)>が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町(現広島市中区袋町)で育った。

 (注51)1746~1816年。「安芸国竹原(現在の広島県竹原市)の紺屋を営む富商の・・・長男<。>・・・
 自らの信ずる朱子学をもって藩の学制を統一した。その後友人である古賀精里・尾藤二洲・柴野栗山と語り合い、元来は<荻生徂徠の>古文辞派であった彼らを見事に朱子学に転向させてしまう。この三人は後に寛政の三博士と称される。寛政9年(1797年)に松平定信が老中となると三博士らと働きかけて朱子学を幕府正学とすることに成功する。また林家の私塾を官学化し昌平坂学問所とした。いわゆる寛政異学の禁にはこのような背景があった。その後も隠然とした影響力を持ちつづけ寛政12年(1800年)には昌平坂学問所に召されて自らも書の講義を行っている。この寛政異学の禁は多くの学者(冢田大峯や赤松滄洲など)から徹底批判され、定信の退陣を早める一因にもなった。にもかかわらず、春水自身は一切矢面に立つことがなく傷ひとつ付かなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%BC%E6%98%A5%E6%B0%B4

 父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。・・・1788年・・・、広島藩学問所(現修道中学校・修道高等学校)に入学。その後春水が江戸在勤となったため学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学び、・・・1797年・・・には江戸に遊学し、父の学友尾藤二洲[・・その妻の姉が頼山陽の母・・]に師事した。帰国後の・・・1800年・・・9月、突如脱藩を企て上洛するも、追跡してきた杏坪によって京都で発見され、広島へ連れ戻され廃嫡の上、自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。なお『日本外史』の初稿が完成したのもこの時といわれる。謹慎を解かれたのち、・・・1809年・・・に広島藩学問所の助教に就任。・・・1809年・・・に父の友人であった儒学者の菅茶山より招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任した。
 ところが、その境遇にも満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、・・・1811年・・・に京都へ出奔し、洛中に居を構え開塾する。・・・
 易姓革命による秦(嬴氏、西楚の覇王に滅ぼされる)、漢(劉氏、新の摂皇帝に滅ぼされる)に代表される中華王朝の傾きに対比して、本朝の「皇統の一貫」に基づく国体の精華を強調している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%BC%E5%B1%B1%E9%99%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E8%97%A4%E4%BA%8C%E6%B4%B2 ([]内)
 頼三樹三郎(1825~1859年)は、「頼山陽の三男。・・・徳川将軍家の墓所である寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こし・・・た。この時には尊皇運動に感化されており、江戸幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。
 その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。弘化4年(1847年)に米沢藩を訪問、山鹿流古学・聖学者と交流した。・・・
 1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。嘉永3年(1851年)、再び米沢を訪れ興譲館で坂積翠、浅間南溝らと交り盛んに勤皇を論じている。・・・
 1858年・・・、幕府による安政の大獄で捕らえられ・・・江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らとともに斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%BC%E4%B8%89%E6%A8%B9%E4%B8%89%E9%83%8E

⇒頼山陽は、父頼春水の朱子学→尾藤二洲の(元々の)古文辞学(荻生徂徠)→山鹿素行の古学/日蓮主義、という変遷をたどり、『日本外史』をものしたのだろうが、そのことは、山陽の息子の三樹三郎の幕末古学の聖地とも言うべき米沢藩への二度の訪問から伺うことができよう。
 要するに、頼山陽を通じて、幕末の浅野本家は、ついに、かつての浅野赤穂藩の師範を務めた山鹿素行の思想を藩論とするに至ったというわけだ。
 以上、面白いことに、歴史のいたずらで、赤穂事件当時と、上杉氏と浅野家だけは、そのスタンスが、前者が90度前後、後者が180度前後ねじれてしまっていた、というわけだ。(太田)


[黄檗宗]

 龍渓性潜(りゅうけいしょうせん。1602~1670年)。「1627年(寛永4年)におきた紫衣事件では師の伯蒲<(注52)>にしたがって活躍した。伯蒲の没後、竜安寺の塔頭である皐東庵を自坊とし、以後、京都妙心寺の首座となった。・・・

 (注52)伯蒲慧稜(はくほえりょう。1543~1628年)。「俗姓は角倉氏で、豪商角倉了以は従兄弟にあたる。・・・
 石田三成およびその父正継の帰依をうけて、慶長4年(1599年)、妙心寺内に壽聖院を開き、始祖となった。また織田信包に請われて龍安寺塔頭西源院を復興した。・・・
 紫衣事件に巻き込まれて、妙心寺の硬派・・・と対立。妙心寺の行く末を案じる伯蒲は、幕府に従うべきとする軟派を率いて、本人と弟子が以心崇伝を介して幕府に直訴したが、<1629年、>これがもとで大徳寺の沢庵宗彭、玉室宗珀と・・・妙心寺・・・の単伝、東源の4人の僧が配流になり、幕府の決定で95人の高僧が紫衣をはく奪される結果になったので、他宗派の僧侶にも恨まれることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E8%92%B2%E6%85%A7%E7%A8%9C
 「この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している。
 天皇は寛永6年(1629年)11月8日、幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。
 寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許された。配流された僧のうち、沢庵は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍し、寺法旧復を訴えた。
 寛永18年<(1641年)>、事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も戻されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E8%A1%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 1651年(慶安4年)9月には、50歳で妙心寺の住持に就任し、紫衣を賜った。その後退隠し<てい>・・・た。
 1654年(承応3年)<支那>から隠元隆琦が来日すると、その弟子となる。1657年(明暦3年)には後水尾<上>皇<(注53)>に講説を行い、<上>皇の帰依を受け、大宗正統禅師の勅号を賜った。

 (注53)1596~1680年。在位:1611~1629年。「母親<は>近衛前子<、>・・・中宮<は>徳川和子<で、>・・・[同母弟は近衛信尋]
 遺諡により後水尾と追号された。水尾とは清和天皇の異称である。後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして実質的に廃位に追い込まれた陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称「水尾」の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。このような父子逆転の加後号はほかに例がない。徳川光圀は随筆『西山随筆』で、兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であり、この諡号を自ら選んだ理由であろうと推測している。遺諡は、鎌倉時代の後嵯峨天皇から南北朝・室町時代の後小松天皇にかけて多くあったが、その後7代にわたって絶えており、後水尾天皇の遺諡は後小松天皇以来約2世紀ぶりである。このことからも後水尾天皇の強い意志がうかがわれる。また、清和源氏を称する徳川氏の上に立つという意志も見て取れる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B ([])

 隠元のもとで宇治黄檗山萬福寺の建立を助け、日本における黄檗宗の開宗に尽力した。1663年(寛文3年)隠元から印可を受け名を性潜に改めている。
 1664年(寛文4年)1月には、法皇となった後水尾帝の勅願寺であった日野の正明寺の住持となった。1668年(寛文8年)4月、後水尾法皇に招かれ、内院にて菩薩戒を授けた。1669年(寛文9年)4月には、正式に隠元の法を嗣ぎ、日本人初の隠元の嗣法者となった。法皇からは、大宗正統禅師の師号を賜った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%B8%93%E6%80%A7%E6%BD%9C

⇒龍渓性潜は、紫衣事件の時の臨済僧としての彼の朝廷への背信行為を、黄檗宗導入の先頭に立つことで償うよう、近衛前子の子の後水尾上皇と近衛前子の孫の関白近衛尚嗣(ひさつぐ。1622~1653年)・・その妻は後水尾上皇の皇女・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%9A%E5%97%A3
から命じられた、と見る。
 その狙いは、天皇家/近衛家によって創出された武士の毀損された縄文性の修復・維持に大きな役割を果たしてきたに堕落してしまっていたところの、日本の臨済宗に、本家筋の支那の臨済宗でもってショック療法を施すことにあった、と。(太田)

 「日本の江戸時代元和・寛永(1615年 – 1644年)のころ、明朝の動乱から逃れた多くの<支那>人、華僑が長崎に渡来して在住していた。とくに福州出身者たちによって<いずれも黄檗宗の>興福寺(1624年)、福済寺(1628年)、崇福寺(1629年)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明僧も多く招かれていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%AA%97%E5%AE%97

⇒この情報が近衛家に伝わったルートは、長崎に土地勘がある平戸藩の松浦重信(鎮信)→義央の父の吉良義冬(於1651年の上京時)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%86%AC
→近衛尚嗣、であった可能性がある。
 この説が成り立つためには、山鹿素行が既に義冬の代から吉良家と親交があって、かつ、鎮信と義冬が素行を介して等の接点が江戸であったことが前提だが・・。(太田)

 「元妙心寺住持の龍渓性潜をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を江戸幕府にも働きかけている。万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、第4代将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治にあった近衛家の所領で、後水尾天皇生母中和門院<(近衛前子)>の大和田御殿があった地を与えられ、隠元の為に新しい寺が建てられることになった。

⇒いかに近衛家が本件に深くかかわっていたかが分かろうというものだ。(太田)

 ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。
 寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃にほぼ完成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E7%A6%8F%E5%AF%BA
 「幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、鉄眼道光(1630年 – 1682年)らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めた。また元文5年(1740年)に第14代住持として和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に<支那>から住職を招聘してきた。こうした活動から次第に教勢が拡大し、萬福寺の塔頭は33カ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%AA%97%E5%AE%97 前掲
 「その後万福寺は13世竺庵(じくあん)まで<支那>僧によって受け継がれたが、14世竜統(りゅうとう)以後は日本僧も住持するようになった。21世大成(たいせい)以後しだいに衰微し、33世良忠(りょうちゅう)が宗門を刷新し再興を図ったが、1874年(明治7)臨済宗に合併された。しかし、1876年にふたたび独立、1952年(昭和27)に宗教法人法による認証を受けた。今日、法系としては臨済宗の白隠慧鶴(はくいんえかく)の系統に変わったが、中国風の法式勤行(ごんぎょう)は現在も伝承されている。」
https://kotobank.jp/word/%E9%BB%84%E6%AA%97%E5%AE%97-38836

⇒赤穂事件の対立軸が親日蓮主義か否かであったことに気付いたついでに、かねてより首をひねっていたところの黄檗宗の突然の登場の理由も探ってみたら、案の定、日蓮主義者の工作の結果であることが判明した、というわけだ。(太田)


[本居宣長]

 「本居宣長の思想は、日本の古道を「惟神の道」としてとらえたことと、<日本の当初の(太田)>文芸の本質を「もののあわれ」として人間性を肯定したところにある。こうした日本古来の精神を理解するために、儒教や仏教などの「漢意<(からごころ)>」を捨てて、古典の実証的研究を通して、日本古来の道(古道)である「惟神の道」を理解し、汚れのない「真心」の世界を見つめることが必要である。それは『古今和歌集』に見られる女性的な「たをやめぶり」であり、文芸の本質としての「もののあはれ」に通じるものであった。」
https://hitopedia.net/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7/
筆者はHitopedia管理人
https://hitopedia.net/

⇒えいやっでまとめれば、本居宣長は、惟神の道(注54)=真心=(注55)もののあはれ[=大和魂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%84%8F ]=たおやめぶり、を持ち上げ、儒教や仏教などの「漢意」を貶した、というわけだが、前段こそ拍手されるべきも、後段は「漢意」の中に支那由来ではない仏教を含めた点で雑駁に過ぎる・・大乗仏教の核心部分は真心(人間主義)の追求だ・・し、支那由来の老荘思想を単に捨てるべきものとしている点もいかがなものかと思う。

 (注54)随神の道(かんながらのみち)。「神代の昔から伝わり、神慮のままで、まったく人為を加えない道。神代から伝えられた、日本固有の物の見方や考え方。神道(しんとう)。・・・
 「書紀‐大化三年四月二六日」の「惟神(「かみながら・かむながら」とよまれている)」の分注に「惟神者、謂下随二神道一亦自有中神道上也」とあるのがもとになって江戸時代後期頃から言い出されたもので、明治三年一月三日の「惟神の大道を宣揚し給へる詔」以後、一般的に用いられるようになったといわれる。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9A%8F%E7%A5%9E%E3%81%AE%E9%81%93-471069 
 「『惟神』という言葉の由来は、孝徳天皇(596-654年、第36代)の詔(みことのり=言葉)として日本書紀の記述に見いだすことができます。
 「惟神(惟神は神道(かみのみち)に随(したが)ふを謂(い)ふ。亦(また)自(おの)づからに神道有るを謂ふ。)も我が子治らさむと故(こと)寄させき。」という文章があり、意味は「神意により、皇孫にこの国を治めよとおっしゃられた」と解釈されます。
 さらに『惟神』とは「惟神とは神の道に従うことを言う、また天皇自ら神道の存在を仰せになった」とあります。
 ちなみに孝徳天皇は、姉の皇極天皇から譲位を打診され、断りきれずに天皇に就いた人物。日本で始めての元号「大化」を採用するなど、歴史に名を残しています。実務は甥(姉の子)の中大兄皇子(のちの天智天皇)が掌握、宮中では次第に蚊帳の外に置かれてしまいました。
 孝徳天皇の詔は、もしかすると宮中で孤独、無念だった自分の思いを「神意」に従うことで奮い立たせようとしていたのかもしれません。
 もうひとつの由来は、江戸時代中期の国学者「本居宣長」(1730-1801年)。彼が35年の年月を費やした大作『古事記伝』は、日本書紀と比較して古事記に書かれる「古代日本人の生き方や考え方」を研究しています。
 宣長によれば、『惟神の道』とは、日本古代が神意のまま天皇が国を治め、平和が保たれていた理想的な世界を指します。日神天照大神を祖神として、神意のままに統治された日本では人々は真心に生き、神を畏敬し素直に目の前の現実に向き合った暮らしを続けることが『惟神の道』。」
https://amaterasu49.com/media/spiritual/2498/2/
 (注55)「宣長のいう真心(まごころ)は、・・・善悪、賢愚、巧拙など、一切の価値判断に関わることなく、何よりも、事に触れて「動く」という心の純粋な機能を、何の障りもなく、十全に働かしている心をいうのです。より簡単に言えば、「うれしい時はうれしい、悲しい時は悲しい、恋しい時は恋しい、さびしい時はさびしい」と、事に触れてありのままに動く心を、「真心(まごころ)」というのです。
 従って、宣長においては、巷で良い意味でいわれる「不動心」などというものは、「真心(まごころ)」とは、およそかけ離れたものであることになります。」
https://ameblo.jp/jkkwf703/entry-12052532445.html
 「「世人(よのひと)も亦(また)其(その)如(ごと)くにて、産巣日神(むすびのかみ)の御霊(みたま)によりて、凶悪(まがごと)をきらひて、吉善(よごと)をなすべき物(もの)と生れたれば、誰が教ふとなけれども、おのづからそのわきため(弁別め=わきまえ)はあるものなり。然(しか)れども又(また)其(その)なすわざ、必(かならず)吉善(よごと)のみもえあらず、おのづから凶悪(まがごと)もまじらではえあらぬ、云々」(『古事記伝』)・・・
 「そもそも万(よろず)の物(もの)みな、産巣日神(むすびのかみ)の御霊(みたま)によりて成(なる)中(なか)にも、人は殊(こと)なる御霊(みたま)を蒙(こうむり)て生れたる物(もの)にて、鳥虫などとは遥(はるか)に勝(すぐ)れたれば、心も所行(しわざ)も、もとより鳥虫とは遥かに勝れたり。其中(そのなか)には、悪神のしわざによりて、心も所行(しわざ)も鳥虫に劣れる者もなきにはあらねども、悪はつひに善に勝(かた)ず、(中略) 世には物を傷(そこな)ひ他を殺すことを好む人は少なくして、物を育し人を生(いか)さんと思ふ人は多し。」(『くず花』)・・・
 「真心(まごころ)」とは、「事に触れてありのままに動く心」ですから、「漢意(からごころ)」というものがありません。これは宣長のいう「“もののあはれ”を知る心」とそのまま通じます。」
https://ameblo.jp/jkkwf703/entry-12317202625.html
 「「からごころ」とは何だろう。宣長の説明を聞こう。 「漢意」(カラゴコロ)というのは、<支那>の文化を好み、有り難がることだけを言うのではない。何でもその善悪や是非を論じ、物の理屈を考えようとする、儒学書のような物の考え方全部を指して云うのだ。だから、私は儒学の本など読んでいない、と言う人にも実は「漢意」の影響は及んでいる。なぜなら日本は<支那>を、またその中心となる儒学を尊重して1,000年にもなるのだから。知らないうちに、私たちの考え方にも「漢意」の影響が及んでいるのだ。(「からごゝろ」『玉勝間』巻1)」
https://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/kara36.html

 (その仏教観に関し、あえて宣長を弁護すれば、「10代頃は浄土教思想の強い影響下にあり、『直毘霊』成立前後から排除思想が強くなった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7
という背景から、彼が、仏教観を、私見では非仏教的な浄土教系諸宗派の色眼鏡を通して身に付けてしまった可能性が大だ。)
 とまれ、私が人間主義(人間主義性)と名付けたところのものに、殆ど日本で初めて、名を付与した・・しかも、どうやら5種類も!・・宣長は、それだけでも、賞賛に値する。(注56)(太田)

 (注56)最初に「ますらおぶり」とセットで「たおやめぶり」という言葉を用いたのは賀茂真淵だ。
 しかし、「真淵は、万葉のますらお<ぶり>の歌を「真の心」を述べるものだとのべている」のに対し、「宣長は、・・・「人の心のまこと」に迫るのは、「大丈夫の雄々しき心ではなくて、それ以後の恋する情」を詠んだ、たおやめぶりの古今集以後の歌だとい<った」のだ。>」
https://tankanokoto.com/2021/05/masurao.html
 つまり、たおやめぶりを人間主義性という意味で用いたのは、宣長が初めてなのだ。
 なお、孝徳天皇が初めて用いた惟神の道についても、同じことが言えそうだ。(太田)

 「馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん/からおさめのうれたみごと)は、本居宣長による歴史書。江戸時代以前の日本外交史について記述している。・・・
 1778年・・・に最終稿が完成して・・・1796年・・・に刊行された。・・・
 田中康二によれば「馭戎」すなわち「西戎を制馭する」という概念は、宣長以前にはみられず、「馭戎」自体