太田述正コラム#14040(2024.2.18)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その2)>(2024.5.15公開)

 「約1万年前・・・<、>北はアワ・キビ、南はイネという異なる作物が、それぞれ独自に栽培されるようになった。・・・
 <やがて、>文明が発祥しはじめた。・・・
 しかし前3000年紀後半、・・・中国の各地に興っていた「文化」が衰退する現象が生じた。
 原因はわからない。・・・
 この断絶の後、北の中原に二里頭(にりとう)文化<(コラム#10982)>が登場する・・・。
 前2050~前1600年ころにあたり、中国史上最初の王朝に数えられる「夏」に比擬する学説の有力な「文化」にほかならない。・・・
 こうした二里頭文化の・・・青銅器<等の>・・・器物発見は、長江流域はもちろん、ベトナム北部にまで及んだ。
 このように以後の中原「文化」は、南方に大きな影響を及ぼしつづける。・・・
 たとえば、甲骨文字で有名な殷は、南方からもたらされたタカラガイ(子安貝)が遺跡で大量に出土したことなどから、その勢力が長江流域にまで伸びていたとみられている。・・・
 <そして、周の時代の江南の>楚が前7世紀半ばには、「王」を自称しているのが興味深い。
 もちろんそれは、中原の記録にみえることだから、楚の「王」は周の「王」を中心とする諸侯連合の「中国」と並立、敵対する存在だと「中国」側が認めていたことになる。
 以後「中国」で斉の桓公・晋の文公らがあいついで「覇者」となり、連合を強化したのは、楚への対抗をめざす面が強かった。
 象徴的なのは、楚の荘王<(注1)>(そうおう)の事跡である。

 (注1)?~BC591年。在位:BC614~BC591年。「荘王は全く政治を見ず、日夜宴席を張り、「諫言する者は全て死罪にする」と宣言した。王がその様なので、悪臣は堂々と賄賂を取ったりするようになり、風紀は乱れた。家臣達は呆れ返ったものの諫言も出来ずに見守っていたが、遂に3年目となって伍挙(伍子胥の祖父)が両側に女を侍らせていた荘王に進み出て、「謎かけをしたいと思います。ある鳥が3年の間、全く飛ばず、全く鳴きませんでした。この鳥の名は何と言うのでしょうか?」と言った。荘王は「三年飛(蜚)ばない鳥は、飛べば天を衝くほど高く飛び、三年鳴かない鳥は、鳴けば人を驚かすだろう。挙よ退りなさい。私には(お前が言いたいことは)分かっている」と答えた。その後も淫蕩に耽ったが、大夫蘇従が諌めてきた。荘王は気だるげに「法(諫言すれば死罪)は知っているな」と問うたが、蘇従は「我が君の目を覚まさせることができるならば、本望です」と答えたので、荘王は「よくぞ申した」と喜び、これを機にそれまでの馬鹿のふり(仮痴不癲)を解いた。
 荘王は3年間、愚かな振りをする事で家臣の人物を見定めていたのである。悪臣を数百人誅殺し、目を付けておいた者を新たに数百人登用して、伍挙と蘇従に国政を取らせた。民衆の人気は一気に高まり、国力も大きく増大。楚は周辺諸国を脅かす存在となった。
 この故事からじっと機会を待つ状態の事を「鳴かず飛ばず」と言うようになった(ただし現在では長い間ぱっとしないと言う意味で使う事が多い)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)

 前7世紀末から前6世紀はじめの君主で、「中国」に対する圧力をいっそう強め、ついには周王に「鼎の軽重を問う」ことさえした<(注2)>。・・・

 (注2)「荘王8年(紀元前606年)には兵を周の都・洛邑の郊外にまで進めそこに駐屯した。周から使者が来ると、荘王は使者に九鼎の重さを問いただした。九鼎とは殷の時代から受け継がれた伝国の宝器で、当時は王権の象徴とみなされていたものである。その重さを問うということは、すなわちそれを持ち帰ることを示唆したものに他ならず、周の王位を奪うこともありえることを言外にほのめかした一種の恫喝である。周の使者・王孫満は、これにひるむ事なく言った。問題は鼎の軽重ではなく、徳の有無である。周の国力は衰えたとはいえ、鼎がまだ周室のもとにあるということは、その徳が失われていないことの証に他ならない、と。これには荘王も返す言葉がなく、その場は兵を引かざるを得なかった。この故事から、「面と向かって皇位をうかがうこと」、ひいては「面前の相手の権威や価値を公然と疑うこと」を、「鼎の軽重を問う」、また略して「問鼎」(もんてい)と言うようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)

 さらに春秋時代の後期、前6世紀後半から前5世紀にかけては、長江下流域の呉・越という新興国が、にわかに勢力を拡大した。・・・
 呉も越も楚と同じく、「王」号を称した・・・。
 やはり「中国」の埒外であった。」(vii、ix~x、xii)

⇒「注2」で、「兵を引かざるを得なかった」のが不思議でなりません、楚の荘王は洛邑を落として周を滅亡させ、引き続き、諸侯国を征服することをどうしてやらなかったのでしょうか?(太田)

(続く)