太田述正コラム#14046(2024.2.21)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その5)>(2024.5.18公開)

 「漢の創業にあたって、旧「六国」の範囲に諸侯国を建てねばならなかったのは、東南を併呑、包摂しながらも、直轄しきれなかったためである。・・・
 劉邦は・・・、情勢が安定してくると、諸侯王に任ぜられた・・・功臣たちを次々に粛清した。
 <ただし、>リーダーを敵性の異姓から、血縁の同姓にすげ替えただけで、異質な諸侯国の存在まで否定はできなかった。・・・
 かくて前154年、長老の呉王劉濞<(注10)>を中心とする諸侯王連合による反乱、いわゆる「呉楚七国」の乱<(コラム#13790)>にまで発展する。・・・

 (注10)りゅうび(BC215~BC154年)。「劉喜(高祖劉邦の兄)の長男。・・・
 呉王として任地に赴いた劉濞<は、>・・・国内整備に邁進することとなる。その結果として呉国は、その領域内から産出される銅と塩の生産と、それの他国への販売によってもたらされる巨万の富を背景に、国民に税をかける・・・必要もなく、労役に国民を駆り出した際にはかえって手間賃を払うというような、一種の別天地の様相を呈するようになる。さらに、税役を負担しきれず他国から逃亡してきた者を国内に迎え入れ、彼らに銭を盗鋳させるなど、朝廷でも統制できないくらいの勢力を誇るまでになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%BF%9E

 <しかし、>反乱は短期間で鎮圧され、失敗に終わる。
漢王朝の統治は史上に卓抜していた、とは後世の称賛である。

⇒ここも典拠が必要です。(太田)

 実際に400年にもわたって同一の王朝政権が続いたことは、以後の歴史にもないし、その間概ね平和だったのだから、そうした評価になるのも無理はない。
 
⇒新
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0
によって分断されている前漢と後漢が、たまたま君主が、かなり遠いものの血縁者であったからといって、同じ王朝であったと言えるかどうかは微妙ですし、呉楚七国の乱や新末後漢初の赤眉の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%9C%AB%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E5%88%9D
もこれあり、「その間概ね平和だった」とは、なおさら言えそうにもないのですが・・。(太田)

 それなら卓抜たらしめた要素とは、いったい何なのか。
 その要素は漢が倒れるまでの間に、どうなっていったのか。
 卓抜ないし拙劣を分かったものは、いったい何か。
 大きく二つに分けて考えることが可能である。
 一つは社会構成の変化であり、いわば階層的なタテの分岐分化、いまひとつは対外関係の変化で、いわば空間的なヨコの分立割拠であった。」(46~49)

(続く)