太田述正コラム#14050(2024.2.23)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その7)>(2024.5.20公開)


[大土地所有の進行と均田制等]

 「後漢末から南北朝時代をつうじて、地方社会の有力者として豪族は各地で力を強めた。・・・
 後漢末以来の戦乱や豪族・貴族による大土地所有の発展によって、土地を失った農民は郷里を離れて流民となり、あるいは豪族・貴族の奴隷や隷属民になるものも現れた。これは、国家が直接支配する土地と人民とを減少させることを意味し、必然的に国家の財政、さらには軍事力の基盤を危うくするものであった。
 このような事態への対応策としておこなわれたのが、三国の魏王朝の屯田制、西晋の占田・課田法、北魏の均田制である。
 屯田<制>は、漢代、辺境で守備兵に戦闘の合間に耕作させることから始まった制度である(軍屯ぐんとん)。これに対して、魏の曹操は軍屯とは別に、後漢末の戦乱のために生じた中原の所有者のいない荒地を国有地とし、それを流民や一般農民を募って耕作させ、収穫の5〜6割を小作料として徴収する土地制度をはじめた。これが魏の屯田制(民屯みんとん)である。魏の財政は、主にこれに依存していたといわれる。なお、呉でも民屯がおこなわれた。

⇒敵対したわけではない、既存の豪族の荘園(大土地所有)には手を付けていない!
 単に、「所有者のいない荒地」を国が豪族に倣って荘園化した(※)と解すれば足りるだろう。(太田)

 西晋の武帝(司馬炎)は、呉を滅ぼした直後の280年に占田・課田法といわれる土地制度をおこなった。このうち、占田は、土地所有の最高限度を定めたもので、男子70畝、女子30畝を上限とし、官人には官品にしたがって上限がそれぞれ定められた。なお、課田の解釈には、農民に国有地を割りつけ耕作させたとする説など種々のものがある。

⇒「しかし占田・課田制は実質的な効果はほとんど挙げられず、また司馬炎自身が統一後は堕落し、西晋は司馬炎死後の300年(永康元年)に起った八王の乱により国力を大幅に減退させる。この時期には最早、占田・課田制は有名無実となっていたと考えられる。占田・課田制は西晋の滅亡と共に消滅し、東晋および南朝に於いては受け継がれなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E7%94%B0%E3%83%BB%E8%AA%B2%E7%94%B0%E5%88%B6 ※
というのだから、詮索しても致し方あるまい。(太田)

 均田制は、北魏の孝文帝によって始められた土地制度である。五胡十六国時代の戦乱のため荒廃した華北の農業生産力を回復し、税収を確保することを目的としたもので、一定の基準で土地を農民に支給し、自作農をつくることを目指したが、その効果は一部にとどまった。
 なお、特徴的なことは、奴婢・耕牛をも対象にして土地が支給された点で、これらの土地は、当然、奴婢・耕牛の所有者である豪族に帰属することになったわけであり、北魏の均田制が豪族に有利な側面をもっていたことは確かである。こののち、均田制は北朝を経て隋に受け継がれ、唐で整備された。

⇒均田制は、そもそも、「華北の・・・荒廃した<荒地>」において、豪族の荘園(大土地所有)を再建するために始まった、と解せそうだ。(太田)

 このような土地へのさまざまな対応策も、国家がある程度の数の農民を確保し、税収の基礎を固めるのには役立ったが、豪族・貴族による大土地所有の進行をさまたげるまでにはいたらなかった。
 とりわけ南朝では華北から流入する人々によって長江中・下流域の人口が急増し、江南の開発が進んだ。こうした状況のもとで、荘園や隷属民を所有する豪族・貴族は穀物、野菜、畜産、水産物、手工業製品などを自給する総合的な経営を推し進めた。そのため、一般民衆との経済力の差はますます開いていった。」
https://sekainorekisi.com/world_history/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96/

⇒こんな均田制を日本の天武朝は継受を試みたわけだが、それは、支那における均田制の真の狙い/実態を全く無視した試みだったのであり、だからこそ、天武朝自身、それを事実上絵に描いた餅にとどめざるをえなかった、と見る。(太田)

(続く)