太田述正コラム#14084(2024.3.11)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その24)>(2024.6.6公開)

 「唐宋変革の時期に<は、>・・・城郭都市と村落という二本立てのほかに、市場町が独立してできるようになった。
 従前は城郭都市内の一区画に押し込められていた市(マーケット)、ないし産物をやりとりする農村内の定期市が、あるいは外にあふれだし、あるいは発達を遂げて、いずれも個別の聚落に成長するようになった。
 それまで存在しなかった、いわば無城郭の商業都市・・市鎮<(注38)>・・の勃興であり、商業の発展に転じたありようをうかがうことができる。」(100~101)

 (注38)「「鎮」とは、本来軍事的経済的要地に派遣された軍団のことを指し、その長を鎮将(ちんしょう)と呼んだ。古く遡れば南北朝時代には辺境部を中心に存在していたが、国内が群雄割拠状態に陥った晩唐から五代十国にかけて<支那>国内の至る所に鎮が設置されるようになった。
 鎮の置かれた土地には戦乱を避けた人々が移り住み、やがて鎮市(ちんし)と呼ばれる市場を形成するようになり、中には小規模な都市を形成するものもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE a
 「鎮は元来は節度使の駐屯地であり、藩鎮が置かれた場所であったが、節度使は軍事面だけではなく、民政一般と租税徴収権も持っていたので、人々の集まるところに置かれた。宋の文治主義で節度使は解体されたが、その駐屯地の鎮は都市を意味する言葉として残った。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-063_1.html b
 「唐宋変革期の商業革命の下で,はじめて鎮と呼ぶ町が多発し,政府は財政の便宜上鎮の大半を公認し,宋の半ばで1135県下に1815鎮があった。鎮は徴税・治安面では政府より農村並みに待遇されたが,数千戸にも及ぶ人口,その商工活動,内地税や専売の機関の存在は,政府をしてその住民を都市民扱いとし,監鎮官を派遣して半都市行政の対象とするに十分であった。鎮の誕生で民衆は経済的には鎮に出入りし,政治的には農村並みの一元支配の下に立つという二重構造にとらえられ,唐以前に比べれば自律の幅を広げた。
 鎮は県城レベルの都市間商業の下位に立つことで,全国規模の商業の影響を受ける一方,鎮の下位に多数に存在する村市(そんし)を介して農民の生産を吸い上げ,かつ塩・茶・繊維などの遠隔地流通品を配給する仲介者となった。ふつう一鎮に数個の村市が帰属し,一村市には十数村が帰属して,社会は鎮・市の交易圏でブロック状の細胞の網の目にとらえられ,農民の経済生活の過半は市鎮との取引に巻き込まれた。こうした状況の最盛期は明末~清末であ<る。>・・・
 9~20世紀に市鎮が発達し持続したことは,<支那>社会の早熟性と進化の緩慢性の反映である。社会の分化が進み,唐・宋以後生産増と商業化が進んだことがその促成因であるが,一方,県城レベルの都市数が政府の意図で人口増と無関係に1500内外に固定されて都市化が頭打ちとなり,交通の革新がないままに全国の地域統合がおくれたことが持続を促した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%82%E9%8E%AE-1171727 c

⇒著者は、「注38」のa、bに出てくるところの、鎮市が駐屯地起源であることへの言及を怠っています。
 これは、漢及びそれ以降の支那の統一諸王朝が、城郭都市や軍の駐屯地以外では、治安機能等を提供しない一方で、一般住民による城郭建設や武器所有を認めなかったからだと思われます。
 こんな環境下では、駐屯地ではなくなった鎮市においても、自治組織は形成されなかったことでしょう。
 欧州のケースを思い起こせば、都市は自治組織の下にあったけれど、それは、都市が、城郭を建設し武器を保有して軍事・治安機能を保持できたし、保持する必要があったからこそ、独自の法と裁判所を持つ政府・・(少なかったが)独裁制、寡頭制、共和制、がありえた・・を形成していた
https://sekainorekisi.com/world_history/%e9%83%bd%e5%b8%82%e3%81%ae%e8%87%aa%e6%b2%bb%e6%a8%a9%e7%8d%b2%e5%be%97/
からです。(太田)

(続く)