太田述正コラム#2675(2008.7.18)
<ハセガワとベーカーの本(その6)>(2009.1.27公開)
 (Tsuyoshi Hasegawa, Racing The Enemy: Stalin, Truman, & the Surrender of Japan, Belknap/Harvard University Press, 2005(コラム#819)の紹介を続けます。)
 「ポツダム宣言から<ソ連が>除外されたことは、スターリンに巨大な問題をつくりだした。中立条約違反をして対日宣戦をすることの正当性を奪ったからだ。」(PP163)
 
 「米国が原爆を保有することとなり、かつトルーマンがポツダム最後通告を操作した<(ソ連を除外した)>ことで、スターリンはソ連の<対日>攻撃の時期を変えた<(=早めることにした)>。」(PP177)
 「<広島に投下される原爆(Little Boy)を積むB-29爆撃機エノラ・ゲイの乗組員の前で、>一人のプロテスタントの従軍牧師が、・・全能の神に対し、「勇ましくも天空を翔け、敵に向けて戦いを挑む人々と共にあっていただきたい」という文句を読み上げた。」(PP179)
 「広島と長崎・・・で、110,000人の文民と20,000人の軍人が即死した。1945年末までには140,000が死亡した。」(PP180)
 「・・・原爆が広島に投下されたとのニュースに接した瞬間の、トルーマンの反応は、欣喜雀躍だった。後悔や痛みをうかがわせるものは何一つなかった。」(PP181)
 「トルーマンは急いでいた。彼は原爆投下とソ連の参戦がどちらが早いか競争していることを自覚していた。だからこそ彼は、日本によるポツダム宣言の「速やかな拒絶」というストーリーをでっちあげたのだし、だからこそ彼は、広島への原爆投下のニュースに接した時に欣喜雀躍したのだ。原爆は、トルーマンが直面していたあらゆるジレンマ・・無条件降伏、日本本土侵攻作戦、ソ連参戦・・への解を意味していたのだ。」(PP183)
 「<日本の>内閣は、日本が国際赤十字及びスイスの外交当局を通じて、米国による原爆の使用が毒ガスを禁止している国際法の重大なる違反であるとの強い抗議の声を挙げることに合意した。」(PP184)
 「スターリン・・は、彼が広島への原爆投下のニュースに接した8月6日、一切の面会を拒絶した。彼のこの態度は、1941年6月のナチスによるソ連侵攻の際の反応と極めて似通っている。」(PP186)
 「8月7日、<佐藤駐ソ大使>は、再び近衛使節団の受け入れに関し、モロトフ<外相>と面会したいとの申し入れを・・・行った。<この>8月7日の佐藤の申し入れは格別な意味がある。つまりそれは、東京が原爆投下にもかかわらず、降伏はしなかったということの紛れる余地のない兆候なのだ。このニュースを聞いて、スターリンはただちに行動を起こした。彼は<対日戦総司令官の>ヴァシレフスキー(Vasilevskii)に満州<侵攻>作戦を8月9日に開始するよう命じたのだ。これは攻撃期日を48時間繰り上げたことを意味する。」(PP187)
 「8月7日のスターリンと<蒋介石政権の外相>宋子文(T.V. Soong。コラム#178)との会談はスターリンの日本へのアプローチについて重要なことを教えてくれる。すなわち、スターリンが中国に対し、外蒙古、旅順(Port Arthur)、大連に係る利権を求めた背景には、日本の将来の再興への恐れがあったということを。彼のアプローチは、イデオロギーではなく、地戦略的(geostrategic)関心によって支配されていたということだ。」(PP189)
(続く)