太田述正コラム#14730(2025.1.28)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その15)>(2025.4.25公開)
「・・・<その>後に金紗を着た信長<が、>・・・唐冠<(注31)>、蜀江錦(しょっこうにしき)<(注32)>の小袖、白熊の越蓑、猩々緋という黒みを帯びた深紅色の毛織物と唐錦<(注33)>でできた沓など、外国産の貴重でめずらしいものを身につけて、人々を圧倒した。
(注31)とうかん/とうかんむり/とうかむり。「後方が前方より高く、纓(えい)が左右に張った古代<支那>の冠の形を取り入れたかぶりもの。能装束の冠としては、大きな巾子(こじ)と、左右に張り出した朴葉形の翼が特色。主に<支那>を舞台とする「皇帝」「咸陽宮」などの曲や、<支那>人に扮する「白楽天」のワキなどに用いられる。舞楽装束の冠としては、左右に大きく張り出した平纓(ひらえい)を特色とする。」
https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E5%86%A0-579774
(注32)しょっこうきん。「漢代には蜀の成都の南を流れる流江で洗った染色は特に鮮麗で美しいとして,以来その都を錦城,その川を錦江と呼ぶようになった。三国時代には,当時錦の産地として最も著名であった襄邑の錦織をも圧倒するほどの発展をみせ,その後歴代王朝の絹織物の産地として重要な地位を保持してきた。宋代の〈錦院〉,明代の〈織染局〉といった官営工房もまた蜀の地に設けられた。蜀錦の特色は織技の精緻さと,文様の多様性にあるが,特に赤染が美しいことで知られている。」
https://kotobank.jp/word/%E8%9C%80%E6%B1%9F%E9%8C%A6-80502
(注33)「錦は2色以上の緯糸で文様を織り表したものをいう。平織地浮文錦,地と文が異なる斜文組織のものや,文が浮織となった唐錦(からにしき)といわれるもの,地と文が同じ斜文組織で,緯糸で地色と文様を表した大和(倭)錦と呼ばれるもの,などがある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E9%8C%A6-467570
信長は安土城と同じように、意識して唐様を用いたと思われる。・・・
信長の天下には中国を含む東アジアが含意されていたことはまちがいなかろう。
⇒堀/池上、いや、少なくとも池上、にとっての「天下」がそういう意味であることをもっと早い段階で記してもらう必要がありました。
というのも、「室町時代以後は、「天下」の語は畿内・近国とその周辺の領域のことを主として意味していたことがほぼ確実になりつつある。織豊政権期以降、武家社会の進展に伴って「日本」とほぼ同義の意味で使用されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B
ことに照らせば、それは、極めて特異な「天下」の用法であると言わなければならないからです。(太田)
太田牛一は、さながら住吉明神<(注34)>が姿を現したようにみなが感じたと記している。・・・
(注34)大阪の住吉大社の祭神は、底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱と神功皇后だが、3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE
住吉大神の画像(典拠不詳)。↓
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/1f/aed6173e8ea3abfe72c0a649d3df10fd.jpg
住吉・・・<神>社には、熊襲を討つため九州に行き、さらに進んで新羅を服属させたという伝説の人物神宮皇后を祀り、同社の神がそれを助けたという伝承がある。
西日本の征服と海外派兵の願望を託したといえようか。
⇒池上は、信長を、私の言うところの、信長流日蓮主義者、と、見ていることになります!(太田)
天皇は、これほど面白い遊興はないと喜んで、もう一度やってくれと頼んだので、信長は3月5日とさらに8月1日にも行って群衆を魅了した。
天皇をこれほど無邪気に喜ばせ、他方で武士・民衆にみずからを皇帝とも神とも映る天下人として印象付けたという二重の意味において、馬揃ははかりしれないほどの成功をおさめた。・・・」(127~128)
⇒正親町天皇(1517~1593年)は、「永禄8年(1565年)には、キリスト教宣教師の京都追放を命じた」その人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
であり、太田牛一同様、信長を信長流日蓮主義者と見、信長を、その力でもって神功皇后をして戦わずして三韓を従わせしめた住吉大神
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E4%B8%89%E7%A5%9E
、的な人物・・信長流日蓮主義者!・・と見たに相違ないのであって、だからこそ、馬揃が大いに気に入ったと思われるのです。
すなわち、信長が、自分を、天皇の上に立つ「皇帝」や「神」、だなどと思っていたはずがないのであり、武士・民衆もまた、そんな勘違いをするわけがないのです。(太田)
(続く)