太田述正コラム#14742(2025.2.3)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その21)>(2025.5.1公開)

 「秀吉は天正19<(1591)>年に京都の洛中と大和郡山、大坂の城下に対し地子を免除した。・・・

⇒この目的は、豊臣氏の三拠点・・同年に秀長が亡くなるまでは大和郡山は秀吉の弟の秀長の本拠の郡山城の城下町だった・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%83%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82
において、豊臣氏による物品の調達を迅速化、容易化することだったと思われます。(太田)

 <京や大坂で>の秀吉の都市政策は、城を中心とした新しい都市空間の創造であり、・・・商人・職人<の>・・・町人地と武家屋敷地、寺町など身分ごとの町の形成と分離をめざしたものであったといえよう。
 それは士と農と町人の身分の分離政策と連動していたこともちろんである。・・・
 <これは、各>大名の城下町に<も普及した。>・・・
 それは重商(主義的)政策をとろうとした政権であったが故に、都市を必要とした権力の、権力増と密接不可分の都市像なのであった。

⇒兵農分離は士のプロ化と兵站上重要な米等の生産の安定化を図るためであり、都市における寺町の設置は寺を町の特定地域に集中させることで、敵襲の際に防壁的要塞として使用するためであり、武家屋敷と町人地の分離は、士の緊急招集体制の確立、と、士からの政治軍事情報の洩れの防止等、士の規律の維持向上、を図るため、と、見るべきではないでしょうか。
 ここでも、池上は、手段を目的視してしまっています。(太田)

 <秀吉は、併せて>領内外の商人・職人を城下あるいは直轄の都市に集めて町人とする政策<もとったが、それ>は、従来からあった多くの町を町としては認めず、村として把握し、その居住者を百姓とする政策と表裏であった。
 たとえば代表的な寺内町の近江金森(かねがもり)、河内富田林(とんだばやし)、大和今井などは寺内町当時の地割や景観を残しながら村となった。
 しかしながら住人が商業や手工業を営むこと自体を否定することはできず、富田林村は江戸時代にも商工業の拠点として、在郷町という性格をもち続けるのである。・・・

⇒地子が免除され、安全も高まることから、商人や職人で城下町に移住する者も多かったので、彼らのそれまでの居住地が廃れる場合もあった、というだけのことでしょう。(太田)

 商人の側も、都市や流通ルートにおける特権の付与<を願っていたが、>信長も秀吉も自分から熱心に商人の側に接近した。
 その両者を媒介したのが茶道具・茶会であった。
 茶の湯の精神世界が堺の商人の中で「侘茶(わびちゃ)」として追求され、村田珠光<(注40)>(1423~1502)、武野紹鷗(じょうおう)(1502~55)を経て千利休(せんのりきゅう)(1522~91)によって大成されたといわれるように、茶の湯は商人たちの世界で育まれた文化である。

 (注40)「室町時代中期の茶人、僧。・・・11歳の時、奈良の浄土宗寺院称名寺に入り出家。・・・珠光の・・・わび茶・・・創始説<は、否定されつつある。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E7%8F%A0%E5%85%89
 (注41)「紹鴎は若狭武田氏の出身とされる。・・・和泉国の堺の舳松村(現・堺市堺区協和町)に定住し、皮屋(かわやの屋号・皮革・武具に関する商い)を営むようになった。父が皮革商(皮多)だったことから「賤民出身」とされる場合もある。大永5年(1525年)、父の元を離れ、京都の室町通四条で暮らし始め<、>・・・30歳になるまで連歌師をしていたとされる・・・。享禄5年(1532年)2月、禅宗である臨済宗大徳寺の古嶽宗亘のもとで出家し、紹鷗の法名を受ける。・・・天文11年(1542年)<や>・・・22年(1553年)<に、>・・・茶会<を開催した記録が残っている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%87%8E%E7%B4%B9%E9%B4%8E

⇒詳しくは「注40」の典拠の全体を読んで欲しいけれど、珠光の茶は、茶道発祥の臨済宗の僧が俗人を茶でもてなしていたのを他宗派の僧ながら珠光が真似をしただけだったのではないでしょうか。
 また、紹鷗も、商人であった時期はそう長くなく、もっぱら臨済僧として生きた人物です。
 千利休はまさに商人でしたが、この3名を商人として一括りにするのはいかがなものでしょうか。(太田)

 そこに新興の武家勢力が仲間入りさせてもらったというべき関係であろう。

⇒ですから、そうではなく、単に茶の文化が武家勢力にも普及して行ったというだけのことでしょう。(太田)

 天皇・公家らの保持する伝統文化の枠外にある新しい文化であることが信長・秀吉にとって重要であった。・・・」(272、275、277~278)

⇒以上を踏まえれば、信長や秀吉がそう考えていた、とは必ずしも言えないのではないでしょうか。(太田)

(続く)