太田述正コラム#14746(2025.2.5)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その23)>(2025.5.3公開)
「・・・信長も征明構想を述べていたが、秀吉は関白になった直後の天正13<(1585)>年9月、直臣の一柳市介<(注43)>宛の書状で日本国は申すに及ばず「唐国まで仰せつけ」る(支配する)意思を表明し、その後もことあるごとに表明した。・・・」<(コラム#12328)>(294)
(注43)一柳直末(ひとつやなぎなおすえ。1546/1553~1590年)=市助=市介=末康。「美濃国厚見郡西野村(あるいは今泉村。現在の岐阜県岐阜市西野町)の住人・一柳直高の子として誕生。・・・母は稲葉一鉄の姪(姉の娘)。・・・。豊臣秀吉に早い時期から仕えて黄母衣衆の一人となり、豊臣政権下で美濃国大垣城主・軽海城主などを務めたが、・・・小田原征伐<の際、>・・・山中城の戦いで戦死した。・・・
陣中にあった秀吉は直末討死の報告を聞いて「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日間ほど口をきかなかったという・・・。・・・
大垣城主(美濃の蔵入地代官を兼ねる)への移転については、前任の加藤光泰が秀吉の勘気を蒙ったのに替わるもので、光泰の罪状を記した末安(直末)宛の書状は、部将たちに示した公開訓戒状であるとともに、「唐国」征服の意思を示したものとしても知られる。・・・
弟<の>・・・直盛は尾張国葉栗郡の黒田城主となり、関ヶ原の合戦を越えて近世大名としての地盤を築くことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9F%B3%E7%9B%B4%E6%9C%AB
「直盛の子孫は、江戸時代初頭に伊予国に3つの藩(西条藩、小松藩、川之江藩(のち播磨小野藩))を立て、大名として続くことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9F%B3%E7%9B%B4%E9%AB%98
「室は黒田職隆の娘(黒田孝高(如水)の異母妹)で、・・・直末との間に一男二女があったが、・・・直末の遺児である松千代は、黒田家に引き取られて孝高(如水)に養われた。・・・「松寿」と呼ばれている(なお、黒田長政の幼名も「松寿」である)。・・・慶長8年(1603年)3月1日に14歳で夭折・・・。
如水は松寿をかわいがり、隠居後には遺品を松寿に譲るべく、諸道具に松寿の名を入れさせたという。文禄2年(1593年)8月9日、秀吉の勘気を被った黒田家隠居の如水は、当主長政に宛てて万一の場合の遺言状をしたためているが、長政に実子ができなかった場合、松寿が黒田家を継ぐよう指名されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9F%B3%E7%9B%B4%E6%9C%AB
ちなみに、黒田長政は、松寿時代の「天正5年(1577年)10月・・・に<父の>孝高<が>秀吉に対して起請文を提出し、松寿・・・を人質として秀吉に預けている。これは信長が播磨諸侯に人質の提出を命じたものの、<孝高の旧>主君の<小寺>政職が嫡子・氏職が病弱であることを理由に、松寿・・・を代わりに提出させたためとされる。松寿・・・は秀吉の居城・近江長浜城にて、秀吉・おね夫婦から人質ながら、我が子のように可愛がられて過ごしたという。・・・天正6年(1578年)、信長に一度降伏した荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)。父の孝高は、懇意であった村重を翻意させるために有岡城へ乗り込むも説得に失敗し逆に拘束された。この時、いつまで経っても戻らぬ孝高を、村重方に寝返ったと見なした信長からの命令で松寿・・・は処刑されることになった。ところが、父の同僚<でやはり秀吉の部下の>竹中重治(半兵衛)が密かに松寿・・・の身柄を居城・菩提山城城下に引き取って家臣・・・の邸に匿い、信長には処刑したと虚偽の報告をするという機転を効かせた。有岡城の陥落後、父が救出され疑念が晴らされたため、姫路へ帰郷した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
という次第であり、黒田父子ともども秀吉との関係は極め付きに深い。
⇒本能寺の変(天正10<(1582)>年6月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
のわずか3年後に秀吉が唐入り宣言をしたということは、秀吉が信長の部下であった当時から唐入りを考えていた可能性が大であるということであり、池上も認めているように、信長自身もまた唐入りを考えていたのですから、秀吉のこの考えは信長譲りであると見ていいでしょう。
信長の部下であった有力武将達のうち秀吉だけがこの信長の考えに強く共感したのは、両者が共に日蓮宗信徒ならぬ日蓮主義者であったからだ、というのが私の見方であるわけです。
なお、どうして、秀吉が、公開されるであろうところの、この唐入り宣言を兼ねた書状、を、一柳直末に与えた(託した)かですが、「注43」後段から分かるように、当時、秀吉の筆頭参謀であってかつ秀吉との関係が極め付きに深かった黒田孝高と密談の上、黒田の異母妹の夫でかつ秀吉の最腹心とも言うべき一柳に白羽の矢を立て、唐入りについて観測気球を上げさせたのではないでしょうか。
その折、それに対して雑音が一切奏でられることがなかったので、秀吉は、唐入りが現実化した時に「世論」に反対されるようなことはない、と、判断し、その後も唐入りの話を人々の間に浸透させるために、そのことを折に触れて表明し続けることにしたのではないか、と。(太田)
(続く)