太田述正コラム#14802(2025.3.5)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その3)>(2025.5.31公開)
「・・・潘漢年が上海でスパイ活動に走りまわっていたころ、中共の特務機関の事務所(地下組織)の一つが香港にあった。
そこには毛沢東の命令を受けた中共側の廖承志<(注2)>と潘漢年らが勤務しており、駐香港日本領事館にいた外務省の小泉清一<(注3)>(特務工作)と協力して、ある意味での「中共・日本軍協力諜報組織」のようなものが出来上がっていた。・・・
(注2)1908~1983年。「中国国民党の幹部であり孫文の盟友で片腕だったあった父の廖仲愷と、同じく中国国民党の幹部であり後に中国国民党革命委員会中央執行委常務委員となった母の何香凝の間に東京の大久保で生まれた。・・・
暁星小学校に入学し、・・・1919年に帰国し嶺南大学(現・中山大学)に入学。[要出典]1925年に父が暗殺されると、再来日して早稲田大学附属第一高等学院で学んだ。1928年、済南事件をきっかけに帰国、中国共産党に入党。1928年から1932年の間に渡欧してヨーロッパの中国人船員のオルグ工作を担当した。1930年には、モスクワ中山大学に学ぶ。そこでのちに中華民国総統になる蔣経国と机をならべた。
1932年に帰国し中華全国総工会宣伝部部長に就任。一時逮捕されたり反革命の嫌疑で党籍を剥奪される時期もあったが、党の宣伝関係などの要職を歴任。1937年より香港において抗日戦争を戦う華僑の組織化の責任者となる。
1942年に国民党政府に逮捕され1946年まで入獄。1946年に米国の仲介で成立した国共両党間の捕虜交換により出獄し、1949年の中華人民共和国建国まで、新華社社長、党南方局委員、党宣伝部副部長などを歴任。建国後は政府の華僑事務委員会副主任、党中央統一戦線工作部主任など対外工作の要職に就いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%96%E6%89%BF%E5%BF%97
(注3)不詳。遠藤が典拠をしばしば手抜くのは困ったことだ。
江沢民の父親は日本が指揮する汪兆銘傀儡政権の宣伝部副部長であった。
その出自がばれそうになったので、江沢民は愛国主義教育を反日教育の方に傾けていき、自分がいかに反日であるかを中国人民に見せようとした。・・・
⇒江沢民が中共中央委総書記/中共軍事委主席になったのは1989年であるのに対し、例えば、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館が開館したのは1985年、中国人民抗日戦争紀念館が開館したのは1987年であり、鄧小平(~1997年)が中共の実質的な最高権力者であった時で、これらの開館は、当然、彼の指示に基づくものでした。
江沢民はこの鄧の方針を踏襲しただけであり、このくだりの遠藤の筆致は、江沢民にへの中傷に等しいと私は思います。(太田)
実は毛沢東は生きている間、ただの一度も「抗日戦争勝利記念日」を祝ったことがない。
それを祝うことは蒋介石を讃えることになると明確に認識していた。
抗日戦争勝利記念日を全国レベルで祝い始めたのは、やはり江沢民だ。
1995年9月3日に「世界反ファシズム戦争勝利記念日」と併せて祝ったのが最初である。」(16~17、20~21)
⇒鄧小平が最後に公に姿を現したのは1993年10月末ですが、1996年12月に人民解放軍の病院に入院し、翌年2月に逝去する
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%82%93%E5%B0%8F%E5%B9%B3
までの間にも、重要国策が彼の承認なくして行われ得たとは私は思わないのであって、これも、江沢民ではなく、鄧小平が決裁して行われた、と見ていいでしょう。(太田)
(続く)