太田述正コラム#14940(2025.5.13)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その13)>(2025.8.8公開)

 「・・・殷代には、すべての青銅製武器がでそろい、戦国時代末期までの戦争は青銅製武器をもって戦うことが一般化した。
 また殷代後期には、戦車が出現し、殷末にはひろく戦争に使用されるようになった。・・・
 <やがて、>前541年には、晋国で本格的な歩兵戦が登場する<(注22)が、>まだ歩兵を主力とした山戎など異種族との山間地での戦闘に限られた。

 (注22)魏 舒<(ぎじょ。?~紀元前509年)>は、・・・春秋時代の晋の武将、政治家。姓は姫、氏は魏<。>・・・紀元前541年の大原の戦いでは、相手の狄軍が山岳戦と言う事で歩兵隊を揃えたのに対して、自軍も戦車隊から歩兵隊へと再編成する事でこれに対抗し<、>・・・見事に打ち破った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E8%88%92
 「魏の始祖は周の武王の弟である畢公高(ひつこうこう)である。父文王を初めとした周歴代の君主の遺体が埋葬された畢に封じられたために畢公の高(名前)と呼ばれる。その後春秋時代に入り、子孫の畢万が畢を奪われた後に晋まで一族を率いて流れてきた所を、晋の分家の曲沃の武公[・・後に晋宗家第18代君主。姓は姫、諱は称。・・]に拾われて仕官する。その後、次代の献公のもとで軍功を挙げた事で魏の地に奉ぜられ、以後畢万は魏万と名乗るようになった。・・・
 魏家は、畢万の孫の魏犨の頃から徐々に晋の中で力を持つようになり、春秋時代末期の魏舒の代には政治を行う大臣の六家(六卿)の一つとなり、紀元前453年に魏駒が同じく晋の大臣の一族である智氏を滅ぼして、韓・趙と共に晋から独立した。
 紀元前445年に即位した文侯の治世では、内政の李克・西門豹、軍事の呉起・楽羊らの働きで、周辺諸国を討って国力盛んとなり、七雄の中の最強国となった。紀元前403年、韓・趙と共に諸侯の列に加えられると、これより戦国時代が始まる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E6%88%A6%E5%9B%BD)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%85%AC_(%E6%99%8B) ([]内)

 前6世紀末・前5世紀初には、辺境諸侯の呉・越両国で独立歩兵部隊が登場する。
 呉・越勢力の北進にともない、この歩兵部隊が中原諸地域に拡大するとともに、百姓小農がこれを軍役として負担するようになる。

⇒このくだりについては、ネット上では、学術的とは言えそうもないもの(注23)を超える裏付けが取れませんでした。(太田)

 (注23)「孫武・伍子胥の呉が農民歩兵の大量動員を始め、他国がこれに倣うと、戦争の風景は一変します。平地の戦いでは密集隊形の歩兵が出現し、また、平地だけでなく丘陵・森林地帯等の広汎な地形で戦争が行われ、奇襲・伏兵、何でも御座れの騙し合いになります。この戦争のノウハウ本が、『孫子』や『六韜』等。また作戦区域の急拡大により、守る側も国中を城郭だらけにしたことで、その争奪戦が主になります。それまでの堅苦しく古めかしい戦争の流儀も、互いにそれを遵守することで、国家レベルでは軍縮になり得将兵の目線では戦地では命が助かる等して互恵的な関係の維持に役立っていた訳ですが、各国が互いに禁断の果実を舐めたことで、後には退けなくなります。」
http://paulbeauchamp.org/2017/10/03/%e6%88%a6%e5%9b%bd%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%81%ae%e9%83%a8%e9%9a%8a%e7%b7%a8%e6%88%90/

 秦国では、前408年に百姓に帯剣を許可するようになる。
 それは庶民に対する武装の公的認可を意味し、秦国における庶民の軍役への大量動員と歩兵への編入とをものがたっている。
 それは、ほぼ50年後の商鞅変法によって実現される「耕戦の士」の前提条件となった。

 (注24)「二千年まえに漢王朝を簒奪した王莽は、儒学に基づいて今日までに至る「中華帝国」の模範となる国制を形作り、これはその後「漢魏の法」として完成された。<渡辺信一郎>はこれを<支那>の「古典国制」と呼んでいる。「古典国制」は、一人の皇帝が残りの人々すべてを支配する体制である。もともと紀元前3-4世紀に<支那>華北で確立した、農民の小家族が政府から給付された田畑を耕し生計をたてるとともに、建前として皆が等しく租税、賦役、兵役をまかなうという社会(「耕戦の士」)が基盤となっていた。
 「古典国制」と「耕戦の士」の社会は、4世紀に戦乱で華北が荒廃し漢人が華北から逃散したためいったん崩壊するが、代わりに移住してきた北方遊牧民と残った漢人の融合により再建される。隋唐帝国の時代である。
 唐帝国時代の半ばで「耕戦の士」は名実ともに維持することができなくなり、貧富の格差と兵農分離を前提とした社会に移行していく。これが「唐宋変革」の内実であることが、第二巻を合わせ読むとよくわかるようになっている。また、続けて第三巻を読むと唐帝国の領域拡大は伝統的な「耕戦の士」によるものではなく、北方遊牧民の戦力によるものであったことがわかってくる。また現代に至るまで「古典国制」への指向が形を変え品を変えて政治史に現れてくる様子が岩波新書「中国の歴史」シリーズの各巻で描かれている。」
https://myzyy.hatenablog.com/entry/2021/04/06/184037

 小農経営の広汎な形成とかれらをにないてとする歩兵の出現により、経営をもち軍役をになう家の主体が、これまでの首長層である世族から百姓小農へ転換したのである。」(52~54)

⇒秦/漢帝国は、そもそも「耕戦の士」の社会ではなかったのではないか、という疑問を私は抱いています。(太田)

(続く)