太田述正コラム#14944(2025.5.15)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その15)>(2025.8.10公開)
[改めて江南人について]
このシリーズの中で、「日本列島でのプロト日本文明/日本文明の担い手も、支那での漢人文明の担い手も、主体は水田稲作文化を生んだ江南人で同じであって、漢人と日本人は一卵性双生児的な間柄だというのに全く異なった文明を形成した」「概ね弥生的縄文人であった江南人」と述べ(コラム#14918)、また、この「日本人(≒歴史上の弥生人)江南人説は、説と言うより、両者の、DNA/水田稲作文化、の共有という事実、の、確認、に過ぎない」(コラム#14937)と述べたところ、この際、若干の補足をしておきたい。
「残念ながら弥生時代の草創期や早期のゲノムというのは、現時点ではほぼとれていない状況で<あり、>今、手元にあるもので、これは典型的な弥生人、つまり渡来系弥生人だといえるものは、早くても弥生時代中期、大部分は、後期から<のもの>になってしま<う。>」
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/19/042300056/051400006/
ということから、縄文時代晩期や弥生時代の草創期や早期の日本列島に水田稲作文化をもたらした人々が江南人であったことの直接的な証拠はない。
しかし、「5000年から4000年前の竜山文化に属する山東省膠州市趙家荘遺跡で・・・水田跡が発見されており、現在では小麦地帯に入る山東半島で稲作が行われていた<ことが判明している>他、・・・紀元前3000年以降にはさらに北方の遼東半島、同2000年以降には朝鮮半島まで伝播した<ことが>明らかになってい<て、>・・・<その朝鮮半島の慶尚南道と慶尚南道の東端境に位置する>蔚山<(うるさん)>市<
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA%E7%94%BB >
にあるオクキョン遺跡(紀元前1000年頃)<が>、日韓合わせて最古の水田遺跡である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
ところ、日本列島で「現在、確認されている最古の水田跡は今から約2500~2600年前・・紀元前930年頃・・の縄文時代晩期中頃の佐賀県の菜畑遺跡<だが、その>・・・遺跡からは、韓国慶尚南道<の>・・・大坪里遺跡出土土器の系統から影響を受けた「朝鮮無文土器系甕」や、朝鮮式の石包丁、鍬などが出土している<一方で、>朝鮮半島の無文土器文化の担い手は、長江文明の流れを汲んだY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)<の人々・・つまり、長江人(太田)・・>であり、朝鮮半島に水稲農耕をもたらしたのも同集団であると考えられている」(上掲)ことから、日本列島に水田稲作文化をもたらした人々もまた江南人であった可能性が極めて高いと言えよう。
いずれにせよ、「ゲノムから見た弥生時代の特徴は、遺伝的に非常に多様だったこと」とか、「縄文時代、弥生時代、古墳時代の人骨から得たゲノムを比較して、古墳人には、弥生人にはない別の渡来要素がある」とか
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/19/042300056/051400006/ 前掲
は、「プロト日本文明/日本文明の担い手」の「主体」が、(仮に私の指摘のように弥生時代を創始/形成したのが江南人であったとして、その)江南人であることを否定することにはならないのであって、それは、私が、漢人文明の担い手の主体が江南人である、と、主張していることの意味を想起していただければ、自ずから明らかだろう。
[覇者体制の歴史]
吉本道雅の覇者体制論に近いものを唱えていると思しき落合淳思の説を紹介したコラムを見つけたので、その内容をかいつまんで紹介しておく。↓
「楚は西周の支配領域の外にあった勢力で、春秋時代に入ってから中原に進出していた。
これ対して諸侯たちが結束するために同盟が必要だった。・・・
これに周王朝が覇者と認めることによって本来の「諸侯の<同盟の>長」としての覇者が成立する。そういうわけで、形の上だけでも勤王・尊王でなければならなかった。
この意味では<、覇者は、>征夷大将軍のイメージに近いかもしれない。
「五覇」という言葉が初めて現れるのは、『孟子』である。しかし『孟子』には「五覇」がどの諸侯を指すのか書いていないので後世の史書などに幾つかのヴァリエーションができてしまい、・・・五覇候補は8人いる・・・。
8人とは、斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王、呉闔閭、呉夫差、越句践。
結局のところ、これらは「単に軍事的に強い者」を並べただけで、本来の意味の「多数の中小諸侯を支配した大諸侯」の意味ではない。・・・
斉の桓公と晋の文公だけを指して「二伯」とする用語<も>ある。どうしても覇者を数えたければ、「春秋の五覇」ではなく、「春秋の二伯」の方がよいだろう。
さらに言えば、晋の文公の子孫は、文公が確立した覇者の地位を継承しているが、覇者として挙げられていない。晋の文公以下、<その子孫は>……合計11人にわたり、<事実上の>覇者として多くの諸侯を支配していた。
したがって、より厳密に春秋時代の覇者を数えると、斉の桓公に晋の11君をあわせた12人ということになる。・・・
覇者が中小諸侯を会盟に強制参加させて支配する体制のことを、「覇者体制」と呼ぶ。
中小諸侯は覇者への貢納も義務付けれていて、諸侯たちはその重さに難儀した<が、>この見返りとして、楚(またはその他の夷狄)からの攻撃に対しては、同盟国が迎撃することになっていた。・・・
<なお、>「尊王攘夷」<なる言葉は、>・・・<こういったことに>後代の人がつけたスローガンだ。」
https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/syunnjuu-hasya#%E8%A6%87%E8%80%85%E4%BD%93%E5%88%B6%E8%A6%87%E8%80%85%E3%81%A8%E5%90%8C%E7%9B%9F%E3%81%AE%E5%AE%9F%E6%85%8B
(続く)