太田述正コラム#3198(2009.4.6)
<世界不況四方山話(その2)>(2009.5.22公開)
3 G20サミットについて
 「・・・<先般のG20サミットで締めくくられることとなった>今次G20の一連の会合は、昨年、サルコジ仏大統領の執拗な求めに応じて始まったものであり、そのプロセスにはフランス的アクセントがはっきり見て取れる。
 テーマに見え隠れしているのは、欧州人の頭の中では現在の経済危機の根本的原因であるところの、英米流(Anglo-American)の経済モデルへの批判だ。
 サルコジのねらいは、最低限、全地球的資本主義の諸ルールを欧州大陸モデルの、より文明化された規範に合致させることだ。
 他方、ゴードン・ブラウン英首相は、一連の国際金融危機を回避することに失敗し、全地球的経済との適合性を完全に欠いているように見えるところの、ブレトン・ウッズ金融諸制度を新たな全地球的金融機構(architecture)によって置き換えることに心を砕いていた。
 米国人からすると、これらはやりすぎであって、余りに野心的過ぎた。・・・
 結局、4月1日の<G20サミットの>コミュニケでは、全地球的な規制的介入(regulatory crackdown)が約束され、関係国すべてが満足することができた。
 サルコジとアンゲラ・メルケル独首相は、野放図の英米流資本主義に対する勝利を宣言することができるだろうし、オバマは、彼の諸提案を水で薄めようと試みるところの、銀行・ヘッジファンド・格付け機関、私的投資会社(private-equity firm)と切り結ぶための新たな政治的手段(ammunition)を得ることができたからだ。
 これは英米流資本主義の転換点にはなるかもしれないが、その終わり(death knell)は意味しないだろう。
 <いずれにせよ、>ゴードン・ブラウンは、4月1日の議論を経て、「古きワシントン・コンセンサス」・・長きにわたって世界銀行とIMFのお気に入りであったところの、開放経済・変動通貨交換レート・抑制的財政、という政策的処方箋に対する軽蔑的表現・・の終焉を宣言するに至った。
 しかしながら、G20サミットを総括するとすれば、それは革命ではなく改革を志向した、ということだろう。
 G20サミット参加国は、財政的困難に陥った諸国を救済するためにIMFと地域開発諸銀行が使える資源に、8,500億ドルを追加投入することを約束した。
 そして、救済にあたっては、カネが、債務の借りつなぎ、銀行への資本注入、国際収支への支援といった伝統的目的のためだけでなく、もっと「柔軟」な目的、例えば景気刺激的支出・インフラ投資・貿易金融・社会的支援にも使えることとした。
 古いG7が拡大されたG20にとって代わられたように、IMFと地域諸銀行のガバナンス(=統治)構造は、発展途上諸国に、今やふさわしいところの、より大きな権限を与えるべく修正された。・・・
 <なお、>欧州諸国の指導者達は、彼らが成功裏に彼らの国々の経済を刺激するためにもっと努力せよとの要求を拒否できたと雄叫びを上げているけれど、それは必ずしも正しくはない。
 4月1日のIMFへの巨大な資金提供に関する合意は、西欧諸国の指導者達が、政治的理由から、直接提供することを渋っていたところの、東欧諸国への何千億ドルもの新たな資金供与につながる可能性が大いにあるからであり、かつ、4月1日のコミュニケでは、注意深い言葉遣いで、G20の全ての国(フランスとドイツ、と読む)は、IMFが現在の諸政策ではG20参加諸国の経済を再び成長軌道に乗せるには不十分だと考えるに至った場合には、刺激的支出を増やすことを約束したからだ。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/04/02/AR2009040203743_pf.html
(4月4日アクセス)
 「・・・先週のロンドンでのG20サミットの最も重要な産物は、頭でっかちのアングロサクソン金融資本主義の不正義と非効率性に対する死の儀式が執り行われたということだろう。
 突然、金融規制、税金を払うこと、そして公正さの規範の受容、が新たなる常識となったのだ。
 もしこれらと純粋な富の創出へのコミットメントが資本主義を裁く諸価値であるとすれば、ロンドンのシティーはそのテストをパスすることはできない。
 <資本主義を>改革することは、国内にとどまらず、国際的に重要なこととなったのだ。
 それが君主であれ、独裁者であれ、はたまた左翼と右翼の民主主義者であれ、公正さは、G20<サミットに参集した>全ての指導者達が同意できる共通の価値だった。
 それは平等も、いや、正義の共通の水準すら求めはしない。
 ただし、いかに条件付きのものであれ、それは包含性、比例性、及び寛大さを求める。・・・
 <G20サミットが>自分自身で勝手にメンバーを選んだ排他的な先進国のグループであるG7サミット・・その会合は陳腐さと平凡さで特徴づけられる・・といかに対照的であるかは歴然たるものがある。
 例えばだ。中共とサウディアラビアがG20のメンバーでなかったとしたら、IMFの資源を5000億ドル増やして3倍にするなんて芸当はできなかっただろう。
 同様に、タックスヘイヴン、債務格付け機関、貿易及び金融システムに対する全地球的金融規制に係るイニシアティブは、あらゆる主要な国家がそれぞれの名前をこのイニシアティブに書き込むことなくしては効果的なものにはなりえなかっただろう。・・・
 いずれにせよ、より多くのメンバーを包含することは公正さを構成する観念の集合のほんの一部に過ぎない。
 もう一つは比例性だ。つまり、我々は自分が投入したものと自分が必要とするものに比例して<みんなが投入したものを>引き出す必要があるのだ。
 更にもう一つは寛大さだ。つまり、我々は寛大さでもって不利な立場にある国や貧乏な国に対応しなければならないのだ。・・・
 <ところが>ドイツは、その経済力に見合ったところの、より大きな財政赤字を受忍して欲しいという圧力に抵抗した。・・・
 また、銀行家達は、自分達が我々を破局へと陥れたというのに、いまだに自分達の給与が他の産業よりもはるかに高くなければならないと思いこんでいる。
 彼らはいいことはちゃっかりいただくが悪いことは引き受けようとしない。
 彼らは、フツーの給与表とボーナスが適用されたら「能ある人々」が逃げ出してしまうと泣き言を言う。しかし、彼らは、すこぶるつきに「能ある人々」がこのような災害を引きおこしたのはどうしてなのかを説明しようとは決してしないのだ。・・・」
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/apr/05/will-hutton-g20-banks
(4月5日アクセス)
3 終わりに
 結局、サルコジのイニシアティブやメルケルの抵抗はあったものの、G20サミットは、英米アングロサクソン「同盟」(この中には米国の属国のわが日本も含まれている)の思惑通りの結果となったと言えそうです。
 すなわち、英米がそれぞれ「古き自由主義」国から「修正古き自由主義」国への転換・・正確には復帰・・を決意し、共闘を組み、発展途上国を巻き込んで、G20諸国の経済政策を「修正古き自由主義」で染め上げた、ということです。
 G20サミットの開催は、恐らく、21世紀最初の世界不況がもたらした画期的出来事として、後世、歴史に記されることになることでしょう。
(完)