太田述正コラム#14964(2025.5.25)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その25)>(2025.8.20公開)

 この楚の「<22代目の君主である>文王・・・の子・・・<で24代目の>成王<(在位:BC672~BC626年)は、>・・・徳をしき、恵みを施し、諸侯と旧交を結び、人をつかわして周王に朝貢した。それにより周王から「南方を鎮定せよ」という言葉を賜り、それ以降積極的に周辺諸国を併呑して千里を拓いた。楚が急速に力をつけるのを危ぶんだ斉の宰相管仲は桓公に進言してこれを討つことにした。さすがの成王も覇者・桓公の軍には敵わず、和睦して斉の主宰する会盟に加わった。・・・その後、・・・<BC638年の>泓水(おうすい)の戦い<で、晋の桓公の死後、次の覇者になろうとした>・・・宋の襄公<を>・・・打ち破<り、>・・・<また、>・・・楚に放浪中の晋の公子重耳(のちの文公)がやってくると、その大器を一目で見抜き、自分と対等の諸侯の礼を持ってもてなすよう家臣に命じて饗応し<、>・・・重耳に手厚い贈物をして晋に帰らせるために秦に送った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
という具合に、晋と秦に気を遣っていた様子がうかがえる、
 その背景には、以下のような事情があった。
 「穆公(ぼくこう)は、・・・春秋時代の秦の第9代公。・・・徳公(第6代)の子で成公(第8代)の弟。兄弟相続により秦公となる。隣国晋の献公の娘を娶り、その時に侍臣として百里奚が付いてきた。穆公は百里奚を召抱え、以後は百里奚に国政を任せるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
 「夷吾<は、>・・・紀元前652年、驪姫によって<父>献公暗殺の疑いをかけられると(驪姫の乱)、・・・梁に亡命し、・・・翌紀元前651年、里克ら晋国内の大夫たちによって奚斉やその後を継いだ卓子が相次いで殺害されると、秦の穆公の後援を得て帰国し、紀元前650年に晋公となる。君主となった夷吾こと恵公は盛名のある<、兄の>重耳の帰国を恐れて刺客を放ち、自分に従わなかったり、奚斉と卓子を殺害し恵公を迎え入れた里克ら大夫たちを厳しく弾圧した。また晋では連年凶作が続いたので、紀元前647年、即位の際に後援してくれた隣国の秦に支援を求めた。恵公<が>即位時の約束である領土割譲を反故にしていたにもかかわらず、秦の穆公は快くこれに応じ、大量の食料を河に流して晋に届けた。翌紀元前646年は秦が凶作になったので穆公はその年は豊作だった晋に支援を求めた。これを聞いた恵公は、あろうことか秦を叩きのめすのは今だと喜び、翌紀元前645年、秦に出兵した。穆公は怒り、秦と晋は韓原(現在の陝西省韓城市)で激突することになった。戦いは秦の圧勝に終わり、恵公は捕虜となった。穆公は恵公を秦につれて帰り祖先の霊に犠牲として奉げようとしたが、穆公の妃の穆姫は晋の献公の娘で恵公の姉であったため、穆公に身を挺して命乞いをした<ので、>・・・穆公は恵公を助けた。しかし、太子圉<(ぎょ)>を人質としてとり、・・・晋は秦に従属する形をとることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
 恵公の妃は、彼が梁・・秦の穆公がBC641年に併合する・・に亡命中に迎えた梁の公女梁嬴だが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
太子圉は、恵公とこの梁嬴との間に生まれ、秦の人質になってから秦の穆公に<その公女>懐嬴を正夫人としてめあわされた<・・「後にその叔父文公の第9夫人になった。・・・<すなわち、>紀元前638年、太子圉は晋に逃げ帰ろうとして、懐嬴に同行を誘った。懐嬴は父の命にそむくことになるので同行はできないが、計画を漏らすようなことはしないと約束した。そこで太子圉は晋に逃げ帰った。紀元前638年、晋の公子重耳(後の文公)が秦にやってくると、秦の穆公は公女5人を重耳に妻として与えたが、懐嬴もその中に含まれていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E5%AC%B4
・・>紀元前638年、太子圉は秦から逃げ出して晋に帰国した。翌年に恵公が死去すると、晋侯として即位した。懐公が勝手に逃げ出した事に怒った秦の穆公は、当時楚の成王のもとにいた晋の公子重耳(のちの文公で懐公の伯父)を迎え・・・紀元前636年1月、秦軍は重耳の帰国を送った。重耳が曲沃に入ると、懐公は高梁で殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
 以上、少し先走ったが、秦は隣国たる大国の晋への接近を試みており、秦と晋が盟友関係になって、かつ、晋公が覇者になって、この盟友関係を軸に中原(華夏)内外諸国に号令するようになった場合、楚の立場は著しく不利になってしまうが、そうなってしまうことを回避するためには、秦と晋のどちらとも隣国である楚が、秦と晋のどちらとも敵対関係に陥らないことで、両国が対楚の観点から盟友関係の確立を妨げることが至上命題だったわけだ。
 そう見れば、「文公<(BC697~BC628年。在位:BC636~BC628年)となった重耳が、>・・・文公5年(紀元前632年)、楚に攻められた宋を救援するため軍を発<し、楚の>成王と対陣したが<、>成王は分が悪いと見て軍を引き上げた<けれど、楚軍の中でも子玉だけは退かず晋軍と決戦した<ところ、>戦いが開始され、文公は約束通りまず全軍を三舎退かせた。その後一旦撤退し、城濮<(じょうぼく)>の地で子玉と対決しこれを打ち破った。これを城濮の戦いと呼び、これにより文公の覇者としての地位が決定付けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
という「史実」における、成王の、かつての公子時代と今回の晋文公時代における重耳への配慮、の説明がつくというものだろう。
 かかる、楚の成王の画策もそれなりに功を奏し、下掲のような具合に、秦と晋の関係は、もつれあいつつも、団結に向かうどころか、軋轢が次第に増していくことになるわけだ。↓

 「<秦の穆公が晋の文公に娶らせた5人のいずれの公女の子でもないけれど、正室の文嬴が嫡母であったところの、晋の>襄公 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%84%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
「が即位すると、秦の穆公が晋に攻め入ってきたのでこれを迎撃し、秦の三人の将軍を捕虜とした(殽の戦い)<ので、>襄公は三将軍を斬ろうとしたが、嫡母の文嬴<が>将帥を釈放してほしいと要請し、「穆公は三人を恨むこと骨髄に徹しています。どうか三人を秦に帰し、秦の君に思う存分に煮殺させてください」<と述べたところ、>襄公は<こ>の言葉に従い、三将軍を秦に帰した<のだが、>・・・三人が帰ると穆公は郊外に出迎え、「老臣たちの忠言を聴かずに出兵したわたしが悪かった」と泣いて謝り、三人を許した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AC%B4 

(続く)