太田述正コラム#14968(2025.5.27)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その27)>(2025.8.22公開)

 では、楚が全面的に協力するという大前提の下、一体、どの国を正面に立てて、かかる理念を実現させるべきか。
 荘王が目を付けたのが秦であった、と、私は見るに至っている。
 どうして秦なのか?
 理由の第一は、秦が半分西戎・・周時代に西夷から改名
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%B7
・・であり、そういう目で、それ以外の拡大中原(華夏)諸国から見られていたし、秦自身もそう自覚していた。
(そもそも、「孟子は『孟子』において、「<殷末の周の>文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」としているし、「山西省で発見された周代倗国遺跡の人骨からは、ハプログループQ (Y染色体)が約59%の高頻度で観測された。なお、現代漢民族の晋語話者にも約14%程度のパプログループQが観測されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
「倗国,先秦西周时期的诸侯国。在今山西省运城市绛县,其范围在晋国附近」
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%80%97%E5%9C%8B
といったことから、周や周の公室ないし重臣を祖とする諸国もまた、支配層は西戎出身であったと考えられ、目糞鼻糞を笑う類のことながら、秦は中原(華夏)化の時期が周に比して大幅に遅かったために差別された、ということだろう。)
 そのことが窺えるのが、「懐嬴(かいえい、生没年不詳)は、秦の穆公の娘<だが、>・・・紀元前645年、晋の恵公が韓原で秦軍に敗れて捕らえられると、太子圉<(ぎょ)>(後の<晋の>懐公)を人質とする条件で解放された<ところ、>秦の穆公は懐嬴を太子圉の妃としてめあわせた。紀元前638年、太子圉は晋に逃げ帰ろうとして、懐嬴に同行を誘った。懐嬴は父の命にそむくことになるので同行はできないが、計画を漏らすようなことはしないと約束した。そこで太子圉は晋に逃げ帰った。紀元前638年、晋の公子重耳(後の文公)が秦にやってくると、秦の穆公は公女5人を重耳に妻として与えたが、懐嬴もその中に含まれていた。あるとき懐嬴は水差しを捧げもって重耳に手を洗わせたが、重耳は手を振るって水を切り、水滴が懐嬴にかかってしまった。懐嬴は「秦と晋は対等の国であるのに、なぜ私をいやしめるのか」と怒った。重耳は衣服を換えて謝罪した。・・・<彼女>は文公の妃の中で9番目の地位にあり、公子楽を生んだ。紀元前621年、晋の襄公が死去すると、狐射姑は公子楽を晋君に立てようとしたが、趙盾は公子楽の母は2代の国君と結婚したことがあり、しかも文公の第9夫人にすぎず、地位が低いという理由で、断った。後に公子楽は趙盾に殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E5%AC%B4
という、懐嬴の生涯から透けて見える秦晋の歪な関係を示す挿話だ。 
 だから、荘王としては、秦には蚊帳の外的な者同士の与し易さがある、と、踏んだとしても不思議ではない。
 理由の第二は、そんな秦が、楚の殆ど隣国だったことだ。
 遠隔であればあるほど、楚と秦の間で重要な調整を行おうとする時に漏れる危険性が大きくなる。
 だからこそ、楚と秦は、荘王(在位:BC614~BC591年)の時に、両国のかかる調整がうまくいった後、間髪を入れず、殆ど隣国ではなく、文字通りの隣国同士になるための行動を行った、と、見るわけだ。
 すなわち、その頃に、「現在の陝西省・湖北省にまたがる小国<の>・・・庸<を>、秦・巴と共同した楚の荘王の攻撃により、紀元前611年に滅亡<させ>」ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B8_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
わざわざ小国の巴を噛ませたのは、目的を韜晦するためだった、と考えられる。
 これら関係諸国の位置関係を下掲の春秋時代の地図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg
で確かめて見よ。
 この地図を見ると、鄖も滅亡させなければ、楚と秦は隣接しないではないか、と、言われそうだが、鄖については、荘王の時の記録が残っていない・・B.C.701<に>鄖は、随・絞・州・蓼と連合して楚を討ったが、破られる。B.C.528<に>楚平王、闘辛を鄖の地に居住させる。
https://chinahistory.web.fc2.com/timei1u.html 
という具合に、BC701年とBC528年の間の記録がない!・・けれど、「<(前700年)>年,楚征伐羅國(先在今房縣,後在今宜城市,滅國後遷往沿江地區)。楚莊王熊旅(楚第十九代第二十五位君主熊侶,一名熊旅,春秋五霸之一,前613年—前591年秋季在位)及其父親楚穆王伐糜絞和庸,到達今鄖縣境。這也是楚國北上東進之前,穩定西北西南方向的一段關鍵時期。<を、Google英訳したコレ。→>In the following year<(前700年)>, Chu<(楚)> conquered the Luo<(羅)> Kingdom (first in present-day Fang County, then in present-day Yicheng, and moved to the area along the river after the destruction of the country). King Xiong<(荘王)> Brigade of Chuzhuang (the twenty-fifth monarch of the nineteenth generation of Chu, a bear brigade, one of the five tyrants of the Spring and Autumn Period, reigned in the autumn of 613 BC – 591 BC) and his father King Chu Mu<(穆王)> cut Mi and Yong<(庸)>, and arrived at the border of present-day Yun<(鄖)> County. This was also a critical period for the Chu State to stabilize the northwest and southwest directions before it moved north and east.
https://www.newton.com.tw/wiki/%E9%84%96%E5%9C%8B
から、荘王が、庸を討伐してその鄖との国境までを併合していて、併合したのは上述のように、秦と巴との共同作戦の結果だったのだから、楚だけではなく秦も巴も領土を拡張した筈であり、旧庸の西方は秦の領土になって楚と秦は地続きになった、と見るのが自然だろう。
 (ちなみに、巴は、その後、「(前477年),巴人伐楚,敗於鄾。・・・前316年,巴國與蜀國交戰,秦惠王應巴國的請求,使張儀、司馬錯率大軍南下滅了蜀國。但緊接著順道向東滅了巴國,在江州設立巴縣,成為秦始皇36郡之一。」
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%B7%B4%E5%9B%BD
という経過を辿り秦に征服される。)

(続く)