太田述正コラム#14984(2025.6.4)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その35)>(2025.8.30公開)

 ここで、秦における、恵文王からの楚公族一覧を掲げておく。(⁂が楚の公族を示す。)

秦恵文王
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|-⁂宣太后(父母不詳)        | |
|-⁂魏冄(異父同母弟)(秦相国)   |
|-⁂華陽君羋戎(同父母弟)(秦左丞相)|
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↓ ⁂昌文君(楚考烈王同様、楚頃襄王の子。生誕秦。秦左丞相)
昭襄王
↓-娘(後の楚考烈王の妃)-⁂昌平君(生誕秦。華陽太后が養育。秦右丞相、後楚王)
↓-考文王-荘襄王-始皇帝
   ||
 |-⁂華陽太后(宣太后らの親族。後の荘襄王の養母)
|-⁂陽泉君(宣太后らの親族。呂不韋の要請で華陽太后の養子縁組を仲介した)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%A4%AA%E5%90%8E

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E
https://baike.baidu.com/item/%E9%98%B3%E6%B3%89%E5%90%9B/8408632
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E6%96%87%E5%90%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E7%83%88%E7%8E%8B

⇒宣太后(?~BC311年)は、「楚<が>韓を攻め、韓<が>秦に救援を請う<た際、>・・・秦にとってメリットが<ないとして、>これを拒否」している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%A4%AA%E5%90%8E
が、このことは、まさに、当時、既に、楚秦ステルス連衡が復活していたことを示唆している。(太田)

 ちなみに、上掲一覧中に出てくる楚の「頃襄王(けいじょうおう)は、・・・在位:紀元前298年 – 紀元前263年<であり、>姓は羋、氏は熊<、>諱は横<で、>懐王の子<だ>。
 [<付記すれば、それまで、秦では、昭襄王の>母である宣太后が摂政し、宣太后の弟であった魏冄と華陽君(羋戎)の2人が実権を握<っていたところ、・・・この>昭襄王<が、昭襄王>3年(紀元前304年)<に>冠礼(成人の礼)を行<うと、その>同<じ>年<に>、・・・楚の懐王は秦に盟約を求め<、>昭襄王は黄棘の地で盟約し、その際に楚に上庸の地を与えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%A5%84%E7%8E%8B ]
 懐王26年(紀元前303年)、楚が斉・韓・魏の攻撃を受けると、懐王は秦に救援を求めるため人質として太子横を秦に送った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%83%E8%A5%84%E7%8E%8B

⇒ここから分かるように、少なくとも秦で昭襄王が独り立ちした時点までは、楚秦ステルス同盟が(、仮に機能不全状態に陥っていた時期があったとしても、)復活し、健在だったわけだ。(太田)

(続く)