太田述正コラム#15002(2025.6.12)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その43)>(2025.9.7公開)
さて、いよいよ漢人文明論だ。
それは、皇帝論に帰する。
漢人文明を始めたのは始皇帝であり、同文明は始皇帝と分かちがたく結びついているからだ。
(2)範例化a:独裁者たる皇帝
中原文化(華夏文化)には、従って拡大中原諸国にも、殷由来で儒家が受け継いでいる民主的要素が、そして、江南文化にも、従って同文化出身の楚等にも、その縄文性に由来する民主的要素があったけれど、どちらの文化にも、確立された民主制度はなかったところ、天下統一のためには総動員体制が支える恒常的戦争状態の確立、維持が求められてそれには君主独裁制が不可欠である一方、民主的要素が強く君主独裁制の確立がほぼ不可能であった楚が、君主独裁性が既に確立しているか容易に確立できる、拡大中原諸国、の中から秦を選んで連携し、この君主独裁制の秦を前面に出して天下統一を実現しようとしたわけだが、最終段階で秦単独で成し遂げられた天下統一後、総動員体制の解除は、始皇帝の公私の大土木工事や大行事実施のために進まなかったことに加え、義の統一のためにも、君主独裁制、改め皇帝独裁制、の維持は当然視された。
そして、この皇帝独裁制は、楚による秦への復讐とも言うべき漢の成立後、総動員体制は解除されていったにもかかわらず、義の統一維持のため、そして、楚には民主的要素こそあったけれど、その楚を含め、支那のそれまでの歴史の中に確立された民主的制度が存在しなかったため、継受されることになる。
爾後の歴代漢人文明諸王朝・・元は含まれない・・の中には、民主的制度を有した騎馬遊牧民系のものがいくつもあったが、いずれも、その都度、急速に漢人文明化してしまい、民主的制度は消えてしまうことになる。
(一番最近の例を挙げよう。後金が清に国号を変えたのは初代目の女真人のヌルハチを継いだ2代目のホンタイジだが、中共は、3代目の順治帝・・廟号が世祖・・を清の初代皇帝としているところ、彼は有力部族長の合議で、つまりは民主的制度で、選出された(コラム#14981)唯一の漢人文明王朝皇帝ではなかろうか。
但し、そんな順治帝(1638~1661年。在位:1643~1661年)も、形の上ではまだ騎馬遊牧民らしく「狩猟を好み、年に2、3度、張家口、独石口へ狩猟に行った」というが、「漢文化に心酔していて非常な読書家であり、臣下にも積極的に漢文化の習俗を取り入れさせ<ると共に、>四書五経や『資治通鑑』『貞観政要』を精読して歴史を研究し<、>書道、山水画を趣味とした文化人でもあった。」という具合に中身は漢人になり切ってしまい、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E6%B2%BB%E5%B8%9D
第三子である後の康熙帝を、当然のように自分一人で後継指名して亡くなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%B8%9D )
(3)範例化b:義の統一者たる皇帝
始皇帝による焚書から始めるが、「博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、・・・先王尊重の思想<に基づき、>・・・古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった。始皇帝はこれを群臣の諮問にかけたが、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可した。その内容は、農学・医学・占星学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出す。政権への不満を論じる者は族誅するという建策を行い、認められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
というのは、単一基準、制度に基づく天下統一という(墨家の言うところの)義に異議を唱える者は排除したということだ。
但し、「<支那>を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)はいずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる。しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された。」(上掲)というのだから、先王尊重の思想自体を政秦王/始皇帝が排斥していたとまでは言えまい。
次に坑儒についてだが、「方士<の>・・・盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。・・・始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って監察に命じて方士らを尋問にかけた。彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる。『史記』には「儒」とは一字も述べられておらず「諸生」と表記しているが、この行為を諌めた長子の扶蘇の言「諸生皆誦法孔子」から、儒家の比率は高かったものと推定される。」(上掲)
というのだから、坑儒は焚書の延長線上の措置であると言えよう。
なお、そもそも、儒家は仁を義としているところ、そのこと自体を政秦王/始皇帝嫌っていた、と見ることもできる。
この、政秦王/始皇帝なる国家機関の義の統治者的側面の補佐をしたのが李斯だった、ということではなかろうか。
(4)非範例化:人格欠陥者たる皇帝
秦の四大工程の万里長城・始皇帝陵・秦直道・阿房宮の中で基本的に軍事目的である万里長城と秦直道を覗く始皇帝陵と阿房宮、及び、永久の生への執念、から、政秦王/始皇帝が、儒家の仁とも墨家の兼愛とも無縁どころか、君主としてあるまじき、単なる普通人・・エゴイスト。漢人文明における阿Q・・だったことが分かる。↓
「秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。」(上掲)
また、「滅ぼした国々から娼妓や美人などが集められ、六国の珍宝は尽く咸陽に運ばれた。その度に宮殿は増築を繰り返し、宮殿の装飾に莫大な貴金属・宝石が使用された。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった。」(上掲)
そして、「始皇帝は死後の世界を信じていた。だからこそ死後の魂を守護する兵馬俑を作らせたのだ。・・・
活人俑が始皇帝陵の兵馬俑には多数含まれている・・・
活人俑は外見は陶器であるが中には死体が入っている。この死体は誰かを殺して調達したものなのだ。つまり活人俑を作ることは実質的には殺殉と同じことなのである。
しかも活人俑を作ることによって殉葬の事実を隠蔽することができる。
始皇帝の時代にはすでに殉葬の習慣は廃れつつあった。しかし始皇帝が大規模な殉葬を命じれば再び殉葬の習慣が広がる可能性があった。
そうなると多数の殉死者によって守られる自分自身の優位性が崩壊する。そこで始皇帝は実際には殉葬を行いつつ、その事実を隠蔽したのだ。」
https://chkai.info/huorenyong
しかし、「始皇帝<は、念には念を入れて、万一、死後の世界がない場合に備え、皇帝就任後、>国内各地で不死の薬を探すよう命じた・・・
<この関連で、>斉の出身である徐巿は、東の海に伝説の蓬萊山など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人の安期生を伴って帰還する<と宣言したので、>・・・数千人の童子・童女を連れた探査を指示した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
そして、始皇帝は、「人並みな寿命とは無縁で、死は遠い先のこと、なにより今を生きることに強く傾斜することで、彼なりの心の平安を得ていた。だからこそ、自身の死が前提となる後継者の指名は、先送りにされ・・・<、>生前に後継ぎを決めなかった<。>・・・<その>結果、彼の死後に愚鈍な末子が二世皇帝となってしまった<。>」(コラム#14955)
https://news.yahoo.co.jp/articles/d4745566edcdad45a9f3d82d4ab3bc95f26d424d
また、「始皇帝の后妃については、・・・不明<で>、『史記』秦始皇本紀に、「始皇帝が崩御したときに後宮で子のないものがすべて殉死させられ、その数がはなはだ多かった」と<あり>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
これは始皇帝が病的なミソジニストであったことを示すと同時に、皇后等に他国の公室を含む有力氏族出身者を迎えることで、自分のエゴに基づく独裁権力の恣意的行使に掣肘が加えられることを回避したいという理由もあったのではなかろうか。
このように、あるまじきエゴイストであること↑だけでも、政秦王/始皇帝の人格の歪みを示すものだが、彼は、その他にも、独断専決大好き、強い猜疑心、冷酷/残忍、という、人格の歪みのデパートだった。↓
「尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用されたが、<彼は、>・・・秦王政<は、>・・・恩を感じることなどほとんどなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、<支那>統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる。」(上掲)
「<将軍>王翦は政の猜疑心の強さと冷酷さを良く理解していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BF%A6
「方士の盧生<(ろせい)>と侯生<(こうせい)は、>・・・始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
「ある時、丞相の行列に随員が多いのを見て始皇帝が不快がった。後日見ると丞相が随員を減らしていた。始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった。」(上掲)
冷酷/残忍さに関しては、個人的な恨みに起因する、趙と燕征服時における一般市民虐殺行為(前述)も思い起こされる。
人格の歪みについて更に言えば、女性蔑視もあげられよう。
この政秦王/始皇帝の人格の歪み・・普通人性・・に基づく「個人的」言動を補佐したのが趙高だった、ということではなかろうか。
しかしながら、さすがに、以上のような人格欠陥者たる始皇帝は批判され否定され、当然のことながら、範例化されることにはならず、漢からの歴代王朝の皇帝は私人としても人格者であることを少なくとも装うことが求められるようになった。
(続く)