太田述正コラム#2983(2008.12.19)
<イタリアの第一次世界大戦(その2)/「桜」出演準備(続)>(2009.6.20公開)
 <では、それは何故に「必要なホロコースト」だったのだろうか。>
 「・・・フランスのシャルル・ウーディノ(Charles Oudinot)将軍は、1849年に、「イタリア人はどうやって戦ったらよいか知らない」と語ったが、このステレオタイプが1860年のイタリア統一によって「列強中の最低」となり、列強中で唯一、アフリカの土着軍に大敗を喫することによって、逆転するどころか、むしろ強まった。
 1915年におけるイタリアの第一次世界大戦参戦はこれらすべてを変えようとする意図で行われた。
 それは、軍事的敗北の汚名を晴らし、「未回復の」領域を回復するために行われたのだ。
 従ってこの戦争は、「第4次独立戦争」(または19世紀の「統一(Risorgimento)」のための累次の戦争の最終章)として言祝がれ、初期において、国民詩人のダヌンティオは、「我らの祭日前夜の徹夜の祈りは終わった。我らの狂喜が始まる … 大砲が轟音を轟かせる」と勝ち誇ったように宣言した。・・・
 トムソンに言わせれば、ファシズムは、この混沌、及びこの戦争が終わった時に超ナショナリスト達によって謳われた「だいなしにされた(mutilated)勝利」なる神話の中から生まれたのだ。トムソンいわく、「本当のところは、勝利はイタリア自身の指導者達によってだいなしにされたのだ」と注釈を加える。・・・」
http://www.historytoday.com/MainArticle.aspx?m=32482&amid=30259666
(12月18日アクセス。以下同じ)
 「・・・ファシズム(操り人形の議会、猿ぐつわを噛まされた新聞、ロマン主義的なナショナリズム、軍国化した国家)のルーツは、この戦争の政治的な遂行の仕方にあったのだ。・・・」
http://blueidol-notesofabookdreamer.blogspot.com/2008/09/white-war-life-and-death-on-italian.html
 「1909年にイタリアにおいて未来主義が創造され、ダヌンティオの諸作品で描かれたところの、流血、速度、殲滅への渇望、に絵画、デザイン、そして建築まで感染した。この戦争の狂気と悲惨さもイタリアを正気に戻すことはなかった。反対に、中央同盟諸国によって被った屈辱とベルサイユ<条約交渉>において感じた侮辱はすみやか、かつ直接的にムッソリーニとファシズムの創造をもたらしたのだ。・・・
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/the-white-war-by-mark-thompson-956434.html
3 無茶苦茶な戦争指導
 「・・・イタリア軍の最高司令官のルイギ・カドルナ(Luigi Cadorna)将軍の殺人的ふるまいはローマ時代の10分の1殺刑(decimation)の採用にまで及んだ。これは、勇気(pluck)と突撃精神(dash)の欠如を示したと目された部隊から10分の1の比率・・カドルナ自身はこの比率に固執したわけではなかったが・・で選ばれた兵士が処刑されるというものだった。
 この銃殺刑は、ヘミングウェイが『武器よさらば』の中で描いたように実施された。・・・
 このカドルナの命令は、スターリンのように、部隊を無条件の服従へと恐怖に震え上がらせる意図の下になされた。カドルナは、頂上に向けて突撃させる際にひるむ者を射殺するために、前線の後方に機関銃手達を配置するということまで行った。・・・
 ・・・イタリアは、それにふさわしい将軍を持ったというわけだ。ムッソリーニがドゥーチェ(Duce=頭領)という称号を独占するずっと以前に、ドゥーチェと呼ばれたカドルナは、父なるイタリアの聖なるエゴイズムの体現者だった。・・・
 
(続く)
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 –「桜」出演準備(続)–
<MS>
 「桜」出演でのフリップに関して。
 <コラム#2981の>最後の
『「何を守るのか」=「守るべきは、自由民主主義であり、
それと親和性のある日本文明である」』
もぜひフリップにさせてください。
 この認識が違うとその後の議論も全然違ってくると思うので、非常に重要なことだと思います。
 ただ、度々の質問で恐縮ですが、「日本文明を守る」の意味を、もう少し明確にお教え願えないでしょうか?
 wikipedia(※)によると、文明は地理的境界線に とらわれないもののようですので、「日本国を守る」のと「日本文明を守る」では、 意味が全然違うのだと、おっしゃりたいと思いますが、 具体的な違いを示さないと、分かりにくいと思います。
 例えば、「日本文明を守る」という意味には、過去の日本統治時代に「日本文明」の大きな影響を受け、多少なりともその精神を受け継いでいると考えられる、朝鮮、台湾などの自由民主主義的な体制を支援する、といったことも含まれる、ということを強調すればよろしいでしょうか?
※wikipedia (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E
 「ある学説によれば、文明とは文化的同一性であり、家族・部族・故郷・国家・地域などよりも広く、個人が強く識別するところの最も広範囲なアイデンティティーに相当するという。文明はふつう、宗教や他の信仰体系に結びつけられる。」
<太田>
 私はコラム#2952で、自衛隊が守るのは日本国民の生命財産ではなく、国の主権である、と申し上げました。
 しかし、これは世界のすべての軍隊に共通することです。
 日本の場合、一体国の主権を守ることで、いかなる価値を守ろうとしているのか、が問われるわけです。
 それは、一般論で言えば自由民主主義です。
 これによって、日本が集団的自衛権を行使できるようになった暁における双務化された日米安保条約のゆえんや、将来拡大NATOないしNATOの太平洋版ができた時に日本がこれに加盟するゆえんが説明できるようになります。
 しかし、自衛隊・・そんな時点では「日本軍」という呼称になっているでしょうが・・にとって、日本以外の自由民主主義国より日本の方が守るべき対象として重要であるに決まっています。
 なぜ重要なのかを説明しようとすると、「日本文明」といった概念を持ち出さざるをえなくなる、ということです。
 戦前はこれを、やや狭く「国体」と称した、と考えればいいでしょう。
 この「国体」は、昭和天皇等の認識では、自由民主主義と親和性を有していた、ということを、コラム#2973で申し上げたところです。
 では、その中身は何か。
 典拠抜きで申し訳ないのですが、国体の核心=天皇制=権威と権力の分離、でしょう。これに人民のための政治/行政(聖徳太子の十七条憲法)、人間(じんかん)主義や自然との共生思想、等を加えたものが私の日本文明観です。 
>「日本文明を守る」という意味には、過去の日本統治時代に「日本文明」の大きな影響を受け、多少なりともその精神を受け継いでいると考えられる、朝鮮、台湾などの自由民主主義的な体制を支援する、といったことも含まれる
 これはいいポイントです。言われてみれば、その通りですね。
 自衛隊が守るべき対象は、コアが日本、その回りが韓国と台湾、そして更にその回りが、それ以外の世界の自由民主主義諸国、そして世界の自由民主主義勢力、そして最後に自由民主主義陣営に与する世界の非自由民主主義国ないし勢力、ということになりそうです。 
<MS>
>なぜ重要なのかを説明しようとすると、「日本文明」といった概念を持ち出さざるをえなくなる、ということです。
何にとって重要か、少しはっきりしないのですが、文脈からいって、日本ではなく、世界における「日本文明」の存在価値を考えたときに、その本拠地である「日本を守る」ことが重要だということですね。
>戦前はこれを、やや狭く「国体」と称した、と考えればいいでしょう。この「国体」は、昭和天皇等の認識では、自由民主主義と親和性を有していた、ということを、コラム#2973で申し上げたところです。
昭和天皇のお言葉が典拠の一つということですね。
>では、その中身は何か。典拠抜きで申し訳ないのですが、国体の核心=天皇制=権威と権力の分離、でしょう。これに人民のための政治/行政(聖徳太子の十七条憲法)、人間(じんかん)主義や自然との共生思想、等を加えたものが私の日本文明観です。 
コラム#2973を改めて読んでみて思ったのですが、太田さんの日本文明観は、五カ条の御誓文にぴったり当てはまりますね。
コラム#2973でご紹介の吉田茂の発言、「いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字に現わしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。」
が正しいとすると、日本文明の神髄は五カ条の御誓文に凝縮されているはずです。
実際にみてみると、
まず、「国体の核心=天皇制=権威と権力の分離」に関しては、
第一条「一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」
によって、民主主義を権力の基盤とすることを明示し、
第五条「一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」
によって、繁栄させるべき国家の象徴として天皇に言及しているととらえれば、
「権威と権力の分離」をこの2条がセットになって、あらわしていると考えられます。
「人民のための政治/行政(聖徳太子の十七条憲法)」は、
第三条「一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」によって表現されています。
第四条、
「一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」の「天地ノ公道」は何をさすかというのは、諸説あるようですが、
これを日本列島で独自に育まれた「人間(じんかん)主義や自然との共生思想」ととらえることもできます。
ちなみに、wikipediaによると、
『大久保同様に木戸より保守的と考えられている岩倉具視でさえ他の文書で「天地の公道」という語を万国公法とはおよそ次元の異なる「天然自然の条理というような意味」で用いていることなどが挙げられている。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87
加えて最後に、第二条「一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」に関しては、人民の国としての統合をうたっていると思えば、五カ条の御誓文の内容は太田さんの日本文明観及び国家観に合致するのではないでしょうか?
もし、よろしければ、(今度の収録に間に合うかわかりませんが)太田さんの日本文明観もフリップにぜひさせていただきたいです。