太田述正コラム#15148(2025.8.24)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その44)>(2025.11.18公開)
「そして卑しまれた「荒ぶる武力」は、基層社会から逸脱したアウトローたちの世界のなかで、沈殿しつつもポテンシャルを維持する。
王朝が衰亡局面に入ったとき、「文」なる専制国家は、自ら動乱を収める力をすでに失っている。
制度の外部(底部、暗部)に生息するアウトローたち、もしくは外来の遊牧軍団などが覇権を握り、それらが王朝そのものを一新してしまう易姓革命を繰り返す一方、文官機構の方は王朝交替にかかわらず永続する、という文武関係が長く続いたのである。・・・
地方官として職務に当たる際には、一君万民という「国づくりの論理」を最前線で担う責任者として、各層の「幇の関係」を断ち切る役目を課せられる。
一方、帰郷して地域有力者の立場になれば、家運の維持がむろん最優先事項であって、自ら「幇の関係」を広げ、ときに触法・脱法すれすれの行為に手を染めながら、官僚支配の網の目からなるべく逃れようとする。・・・
したがって、・・・「国づくりの論理」と「人つなぎの論理」の並存は、社会全体の構造であると同時に、士大夫一人一人の胸中にも並び立ち、容易に折り合わないジレンマなのであった。・・・
地域のボス=士大夫たちは、一方では地方官との緊張関係を抱え、他方では家産均分慣行による零細化圧力に怯えながら、家運の維持に手を尽くした。
彼らの切実な思いは、南宋中期の下級地方官だった袁采<(注113)>(えんさい)の著作『袁氏世範<(注114)>(えんしせいはん)』(117<8>)によく現れている。・・・
(注113)?~1195年。現在の浙江省常山県出身。宋孝宗の隆興元年(1163年)に科挙に合格し、登文鼓書院の監、楽清県令、鄭和県令、五縁県県令を歴任。
https://baike.baidu.com/item/%E8%A2%81%E9%87%87/4041544
(注114)「袁采の思想は開放的で、大胆に反伝統主義的ですらあります。彼は、一部の学者のように『四書五経』や孔子・孟子の教えといった倫理原則を押し付けるのではなく、実践的かつ人文主義的な観点から行動原理にアプローチします。例えば、・・・『袁氏世範』<では、>・・・家族は平等であるべきであり、父子、兄弟、男女は皆平等であり、それぞれが独自の個性を保つべきだと説いています。家長でさえ、優れた修行によって権威を確立し、他者を圧倒すべきではなく、子は年長者の権威に服従すべきでは<ないとも>。」
https://baike.baidu.com/item/%E8%A2%81%E6%B0%8F%E4%B8%96%E8%8C%83/1531172 (Google邦訳)
袁采は、家の没落を招く下人として族内の内紛や子弟の放蕩を挙げてこれを戒め、子弟に学問をさせて族内の宥和を図るよう切々と説く。
彼らにとって財産が分散してしまうこと、次世代にしかるべき人を得ないことが、一番の心配の種だったことがうかがわれる。・・・
身内のなかから科挙合格者を輩出し、家産を維持(あわよくば拡張)していくことが、彼らにとって最大の関心事であり、彼らはそのための対策をあれこれと講じるのである。」(171~174)
⇒袁采のものの考え方も、また、漢人文明における社会の在り方も、(長幼の序列等を重視する)儒教とは無縁であったことが、「注114」等から分かりますね。
私が、かねてより、儒教はタテマエでしかなかった、と主張してきたのはそのためです。
にもかかわらず、科挙で儒教の知識が問われた(注115)ところ、科挙の試験内容の改革を誰も主張すらしなかったのはどうしてなのでしょうか?(太田)
(注115)「儒学は科挙に合格するための道具として使われ、『五経正義』を丸暗記すれば合格できる構図が出来上がってしまった。」
https://www.worldhistoryeye.jp/239.html
(続く)