太田述正コラム#15176(2025.9.7)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その13)>(2025.12.2公開)

「10世紀の契丹と沙陀系王朝との不安定な関係とは異なり、澶淵の盟以後の契丹・北宋関係は、対等な南北両王朝による100年を超える安定した平和共存体制を確立した点で、・・・画期的な意義を持っていた。・・・
10世紀末から11世紀にかけて、契丹と北宋の狭間から第三極として浮上し、ユーラシア東方に旋風を巻き起こしたのが、タングト<(注30)>という遊牧集団および彼らが建国した西夏<(注31)>である。・・・

(注30)タングート=党項。「タングートの前身は羌である。・・・<同じ>チベット系の吐蕃が勢力を伸ばし、タングートはこれに押される形で東の陝西の北部と甘粛、つまりオルドス地方に遷る。タングートはオルドス地方の長城線付近に散在して住んだが、居住地区の特性に応じて牧畜・狩猟・農耕と形態を変えて生活していた。・・・タングートのうち平夏部・・・の族長は、北魏の時代に拓跋姓を名乗り、更に唐末、黄巣の乱が起きた際に平夏部の首長の拓跋思恭は唐を援助、この功績により、もはや名ばかりとなっていた唐室から国姓の李姓を貰い[夏国公・]定難軍節度使に任ぜられた。拓跋思恭は定難軍節度使として夏州・銀州・綏州・宥州・静州の5州を管轄した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%88
(注31)「宋初、趙匡胤は藩鎮の軍事権の弱体化政策を推進したが、これが夏国公の不満を引き起こした。当初は宋朝に恭順であった平西公であるが、次第に対立の溝を深め、1032年に李徳明(拓跋思恭の弟の拓跋思忠の末裔)の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始している。その後数年の内に宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、チベット・ビルマ語派のタングート語を表記するための独自の文字である西夏文字を制定した。・・・そして1038年10月11日に皇帝を称し、国号を大夏として名実ともに建国するに至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%8F (「注30」内の[]内も)

⇒西夏の人口は240万人前後しかなく(上掲)、遼の人口は1000万人超程度と見込まれる
https://zae06141.client.jp/china_population3.html
のに対し、北宋の人口は、3000万人程度からスタートして最終的には9000万人程度まで増えており、最初からですが、後になればなるほど、容易に、たとえ遼、西夏両国を一度に相手したとしても、鎧袖一触できる軍事力を整備・保持できた筈なのに、それができなかったというのですから、呆れてしまいます。(太田)

澶淵の盟の締結から間もない1006年、李徳明<(注32)>は北宋にたいして兵を用いないことを誓約する「誓表」を北宋の皇帝真宗に提出し、タングト政権と北宋のあいだで和平が成立した。<(注33)>・・・

(注32)981~1032年。夏国王<:>1004~1032年。「西夏王朝の実質的な建国者。・・・西域では吐蕃及び回鶻を攻撃、西涼府・甘州・瓜州・沙州等を支配下に置き、その勢力範囲は玉門関から河西回廊に及んだ。また対外面での安定は国内の農生産を大いに発展させた。
・・・1020年・・・、都城を西平府より懐遠鎮に遷し興州と改名、その後西夏の国都として栄える興慶府(現在の寧夏回族自治区銀川市)の基礎を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%BE%B3%E6%98%8E
(注33)「景徳三年(1006)九月、李徳明は表を奉って帰順し、劉仁勖(りゅうじんきょく)を遣わして誓書を献上した。十月、李徳明に定難節度使を授け、西平王に封じた。
厚く贈り物をし、内地の帰順した者たちと同じく養うこととし、子弟を探して人質にしようとした。李徳明は、先代のときにはなかったこととしてこの待遇を断り、人質も送らず、駱駝を献上して恩を謝すのみであった。これより李徳明は毎年朝貢して絶やすことがなかった。」
https://wikiwiki.jp/csongdynasty/%E5%B7%BB14%E3%80%80%E8%A5%BF%E5%A4%8F%E5%8F%9B%E6%9C%8D%EF%BC%88%E7%B6%99%E9%81%B7%E3%80%80%E5%BE%B3%E6%98%8E%EF%BC%89

以後、李徳明時代のタングト政権は、20年以上にわたって契丹と北宋に両属するかたちとなった。」(113、117)

(続く)