太田述正コラム#15178(2025.9.8)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その14)>(2025.12.3公開)
「その後李徳明の子の李元昊<(注34)>(1003~48)が河西回廊へ遠征をおこない、1028年に宿敵の甘州ウイグル王国を滅ぼし・・・さらに4年後には西涼府を征圧する。
(注34)りげんこう。「西夏の初代皇帝。廟号は景宗<。>・・・
顕道元年(1032年)、父の死により西平王の地位を継ぎ、大慶3年(1038年)までにタングートの諸部族を武力によって併合したことを背景に皇帝に即位し、国号を大夏とした。宋からは西夏と呼ばれる。
景宗は興慶府(現在の寧夏回族自治区銀川市)を首都と定め、宋に倣った官位制度の整備・学校の創設による教育の普及・軍備増強など、国家の基盤固めに尽力した。
宋との戦いには何度となく大勝するが、同時に宋との交易を断たれたことで経済的に困窮し、最終的に天授礼法延祚7年(1044年)に「夏は宋に臣従する」「宋から夏に対して絹13万・銀5万・茶2万を歳賜として送る」などの条件で和議を結んだ。しかし、同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋・遼と対等な地位を獲得するに至った。
さらに・・・西夏文字の形成にも尽力して西夏の文化向上にも努めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%85%83%E6%98%8A
河西回廊のほぼ全域を支配下に入れた・・・。・・・
Saya Aikaタングト族の15歳以上の成人男子はすべて兵として挑発され、李元昊時代の全国の総兵力は40万近くに達した。
また、各地の有力部族から精鋭5000人を集め、輪番で皇帝の身辺警護に当たらせる「六班直(ろくはんちょく)」と呼ばれる近衛軍団を創設したが、阿保機がつくった契丹の「皮室軍(ピシル)」とよく似ている。
軍隊を発動するためには皇帝から発給される銀牌<(注35)>(ぎんぱい)が必要で、皇帝が軍隊を統御する集権的な制度が整えられたことが分かる。
(注35)「古来<支那>では、發兵・出使・乗驛などには銀牌を用いている。」
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/bronze-140.html
これも契丹の制度を模倣した可能性が高い。
⇒「注35」を踏まえれば、「これは宋の制度を模倣した可能性が』高い」でしょう。(太田)
<やがて、>北宋の西北国境地帯には西夏の侵入に備えて厖大は軍隊を配備<することとなり>、その数は11世紀半ばごろの最大時には100万を超えた。
北宋の軍隊は募兵制で雇われた傭兵部隊で、その維持には莫大な費用を要し、軍事費は北宋の財政支出の8割を占めるに至ったのである。・・・
西夏と北宋のあいだの戦争の情報を把握した契丹皇帝の興宗夷不菫<(注36)>(こうそういふきん)(在位1031~55)は、1041年冬、北宋の苦境に乗じて、燕京の国境に軍隊を集中させる示威行動をおこなう。・・・
(注36)1016~1055年。「<澶淵の盟を締結した>第6代皇帝聖宗の長男<。>・・・文化面・内政面でも繁栄を遂げた契丹は、全盛期を迎えるに至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%97_(%E9%81%BC)
土地の割譲を認めたくない北宋は、澶淵の盟で定められた歳幣・・・を増額することで妥協する。・・・
誓書を交換して、盟約が再度結ばれたのである。」(122~123、127~128)
⇒100万人もの大軍を擁しながらこの体たらくには言葉を失います。
将兵の募集や教育訓練に加えて装備に不備があると同時に、軍事費を増やす発想がなかった・・緩治の思想を所与のものとしていた・・ことがその背景にあるのでしょう。(太田)
(続く)