太田述正コラム#15180(2025.9.9)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その15)>(2025.12.4公開)
「・・・11世紀半ばに至り、ユーラシア東方は契丹、北宋、高麗、西夏、チベット(青唐<(注37)>)、西ウイグル<(注38)>などが、ときに紛争がおこることはあったものの、おおむねは安定的に並存するようになった。
(注37)「10~11世紀に青海の西寧 (チベット名ツォンカ) を中心に栄えた小王国。この地方に拠ったチベット人が西夏に対抗して国を統合するため,西チベット (高昌 Shang shung stod) ・・・からこの地に落ち延びていた吐蕃王家の後裔(チデ)(Khri lde (997~1065) )を厮羅(かく) (かくすら。 rGyal sras仏子=菩薩) と呼んで利用したが,やがてかく厮羅みずからがこの国を建てた。・・・吐蕃王国滅亡後に民間に浸透した仏教は,東西通商路の要衝に根を張り,後期吐蕃王国が理想とした仏寺中心の都市を実現した。かく厮羅はこれを擁し,これに拠ったが,その子チャンガ・トゥンチェンが没して (86) まもなく青唐王国は滅亡した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9D%92%E5%94%90%E7%8E%8B%E5%9B%BD-86277
(注38)「9世紀から13世紀にかけて現在の新疆ウイグル自治区に存在した古代ウイグル人の国家。・・・天山ウイグル王国・・・とも称される。・・・
840年、モンゴル高原の回鶻(ウイグル)可汗国が崩壊<した後>、・・・西走した・・・一派<が>・・・866年、・・・天山ウイグルを統一し<たことで成立した。>・・・
そのまま・・・西走<を続け>た一派はのちにカラハン朝<・・更に後にイスラム化・・>を創始することとなる。
初期(9世紀中葉~10世紀)に支配層であるウイグル人の間で信奉されていたのはマニ教であるが、10世紀の終わり頃から次第に仏教が人気を集め、次々と改宗していき、11世紀後半にはマニ教はほぼ消滅してしまう。・・・
<この西ウイグルは、12世紀前半、>西遼(カラ・キタイ)<に東西カラハンともども征服される。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B1%B1%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB%E7%8E%8B%E5%9B%BD
この複数の王朝が並存する「多国体制」(ドイツのアジア史家ヘルベルト=フランケ<(注39)>が首唱)と呼ぶべき状況が、13世紀初頭のモンゴル帝国の台頭までつづくのであった。・・・
(注39)Herbert Franke(1914~2011年)。「女真(金)帝国とモンゴル(元)帝国の歴史に関する著作で知られている。」
https://jmedia.wiki/%25E3%2583%2595%25E3%2583%25A9%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B1%25E3%2580%2581%25E3%2583%258F%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2590%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2588/Herbert_Franke_%28sinologist%29
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ケルン大を経てミュンヘン大教授、等。
https://portal.dnb.de/opac.htm?method=simpleSearch&cqlMode=true&query=idn%3D118534831
既述のとおり、・・・北宋は・・・莫大な軍事費により財政難に陥った。・・・
1067年、北宋で・・・神宗が即位するや、・・・王安石(1021~86)を宰相に抜擢して、「新法」と呼ばれる・・・政府の財政再建を実現したうえで軍事力を増強する富国強兵・・・諸改革を矢継ぎ早に進めていく。・・・
<その上で、ささやかながら、>西夏の打倒を目標に定め<、>・・・1072年、・・・青唐への遠征が実行に移され<、それに>・・・成功し<た。>・・・
なお、北宋にとって青唐のチベット集団は、・・・馬の調達先としても重大な意味を持っていた。・・・
<なお、>青唐の地は、西夏領内の河西回廊を避けて中国本土と中央アジアとを結ぶ長距離交易路の中継点とし<ても重要だった。>・・・
神宗は、つづく1081年、・・・<と、その>翌年に<、>・・・西夏<に>・・・遠征をおこなうが、・・・<どちらも>惨敗する。・・・
神宗が亡くなく<なると、>・・・北宋の政局は、・・・新法党と・・・旧法党のあいだで揺れ動く<が、>・・・その後哲宗が親政をはじめて、神宗の政策の継承を宣言すると、・・・1104年に・・・青唐・・・を滅ぼ<すことにようやく>・・・成功<する。>・・・
このあと・・・徽宗は、さらに積極策を推し進め、・・・金と連携して<契丹から>幽州(燕京)を回復する。
ところが、これが遠因となって、最終的には靖康の変という亡国へとつながっていく。」(130、137~140)
⇒丸橋が西ウイグルまでで列挙を止めているためにカラハン朝が登場しないのですが、この頃、一番重要なのは、「960年<に>・・・イスラム教への集団改宗<を行った>・・・カラハン朝の「アフマド1世<[在位:998~1017年]が>天山ウイグル王国に改宗のための聖戦を数度にわたって実施する<が、失敗した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%B3%E6%9C%9D
https://en.wikipedia.org/wiki/Kara-Khanid_Khanate#CITEREFMoriyasu2004
ことではないでしょうか。
この聖戦が成功しておれば、聖戦は更に東方に向けて行われ、北東アジアの騎馬遊牧民系の人々の全てがイスラム化していた可能性があり、北東アジアのその後の歴史が全く変わってしまっていたかもしれません。(太田)
(続く)