太田述正コラム#15182(2025.9.10)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その16)>(2025.12.5公開)
「・・・7世紀末<、>・・・東北アジアでは北に渤海<(注40)>、南に新羅が対峙する構図となった。・・・
(注40)「<698~926年。>・・・靺鞨族の大祚栄により建国され<た。>・・・
「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。・・・
渤海国の公用語は初め靺鞨語が使用されていた<が、>・・・その後、言語の漢化が進んで次第に漢語が公用語となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)
「大祚栄<(だいそえい。?~719年。在位:698~719年)は、>・・・契丹の反唐活動に乗じて、高句麗遺民と靺鞨族とを統合し、高句麗の故地に渤海を建国した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9A%E6%A0%84
渤海は・・・農業をおもな生業とする南部靺鞨<(注41)と>・・・狩猟をおもな生業と<する>・・・北部靺鞨・・・という異なるタイプの人間集団を支配<し、>・・・農耕民にたいしては唐制に由来する州県制を施行するいっぽうで、狩猟民・・・にたいしては各部族集団のまとまりを維持することを認めていたようである。
(注41)「靺鞨(まっかつ・・・)または靺羯・・・は、<支那>の隋唐時代に満洲・外満洲(沿海州)に存在したツングース系農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もっきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎・挹婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民とともに渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝・満洲民族となり、清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8
この渤海の支配体制は、・・・契丹の遊牧民と定住農耕民に合わせた複合的支配体制のひとつのモデルとなったと考えられ<る。>・・・
「女真」の名称は、原語のジュルチンが訛って音写されたものだが、・・・彼らは靺鞨諸族のうち北部靺鞨の後裔とみられる。
というのも、一方の南部靺鞨は、渤海支配下で高句麗人と融合して渤海人となったと考えられるからである。
なお、北部靺鞨のすべてが女真となったわけではな<い。>・・・
契丹は渤海旧領の統治を放棄したため、東北辺境で直接支配が及んだのは、北流松花江流域までにとどまった。
その東側の東流松花江流域、牡丹江流域から沿海部にかけて散開居住する女真集団は、契丹からの教化が及ばないという意味で「生女真<(注42)>(せいじょしん)」と総称された。・・・
(注42)「黒水靺鞨を起源とする女真は、ツングース本来の漁撈や農耕、養豚、狩猟を生業としていた生女真と、遼にしたがい、その領土内に移されて遼の戸籍につけられていた熟女真に大別された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%9C%9F
のちに金国を興す按出虎水完顔(アルチュカワンヤン)部とは、・・・生女真の一部族集団であった。
この集団は、現在のハルピンの東を北流して松花江に流れ込む按出虎水(<アルチュフ川。>女真語で「金」を意味する。・・・)の河谷平野、なかでも後に上京(じょうけい)・・・が造営されることになる現在の黒龍江省ハルビン郊外の阿城一帯を拠点としていた。・・・
按出虎水完顔部は、契丹との交易で利益をあげるとともに、交流をつうじて契丹の政治文化を吸収して勢力を伸ばし、このあと12世紀初頭に急成長を遂げていくのであった。」(143~144、147、149~150)
⇒「唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国された契丹国(のちの遼)の侵攻を受け渤海は926年に滅亡、契丹は故地に東丹国を設置して支配した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD) 前掲
「さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。
・・・1005年・・・には高麗の咸鏡道に対して東女真が侵攻を開始し、高麗側も警戒を強めていた。また東女真は度々海賊行為を働いていた。また・・・1019年<の>・・・刀伊の入寇の前年<の>1018年には鬱陵島にあった于山国が刀伊の海賊行為が原因で滅亡に追い込まれている。刀伊の日本襲来がおきたのはこのような状況下であった。人を多数さらっていったため、奴隷狩りが主目的であったとも考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87
ということにも触れて欲しかったところです。(太田)
(続く)