太田述正コラム#15184(2025.9.11)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その17)>(2025.12.6公開)
「・・・1113年、・・・阿骨打<(注43)>(アクダ)(太祖、1068~1123)が按出虎水完顔部の族長の地位を継承する。・・・
(注43)1068~1123年。皇帝:1115~1123年。「完顔部(満洲のワンギャ部の前身で、慣例としてワンヤンと読む)は、女真人のうち、遼からは間接統治を受ける生女真(せいじょしん)の一部族であり、松花江の支流である按出虎水(アルチュフ川)の流域(現在の黒竜江省ハルビン市)に居住していた。阿骨打(アクダ)の先祖は、完顔部の族長として節度使の称号を遼から与えられ、遼の宗主権下で次第に勢力を拡大した。阿骨打は、完顔部の族長・節度使を務めた父の劾里鉢(ヘリンボ)と、叔父の盈歌(穆宗インコ)、兄の烏雅束(康宗ウヤス)とを補佐したことで完顔部の勢力拡大に功があり、23歳のとき、敦化付近の窩謀罕の討滅戦に参加した。その後も幾多の戦争を経験し、インコの時代の末年には、「訊事号令はアクダから申し上げる」といわれるほどに、完顔部の内政・外交の中心的存在になっていた。兄のウヤスの代に入って、完顔部は生女真をほとんど統一した。1113年、ウヤスが死去したのちは、アクダが首長の地位を継承し、節度使の称号を得ていた。・・・
遼・・・皇帝であった天祚帝は、・・・<支那>風の豪奢な生活を送るようになり、酒食に溺れ、狩猟にうつつをぬかしており、その華美な宮廷生活を支えるための女真人への搾取も強化され、貢納督促にあたる遼の役人の横暴さは女真の人びとを怒らせた>ことから、>・・・アクダはついに・・・ち上がり、1114年に遼に対して挙兵し<た>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%AA%A8%E6%89%93
以前より契丹とのあいだでは、生女真からの亡命者の返還要求と海東青<(注44)>調達をめぐる紛争が生じていた。
(注44)「モンゴル地方で鷹狩りや通信に用いられる隼(はやぶさ)の古称。海東青鶻(こつ)ともいう。・・・「青(せい)」は「青骹(せいこう)」の略で、青い脛の鷹(たか)の意 ) 鷹のこと。また、<支那>で海東と呼ぶ、沿海州から東北部の奥地にかけてすむ鷹。・・・
元朝の軍団の中には鷹狩りを職とするシバウチ(昔宝赤)があり,また鷹房(ようぼう)都総管府という官庁が鷹房戸を監督して優秀な鷹を飼育させた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E6%9D%B1%E9%9D%92-42766
族長継承の翌年、阿骨打は、契丹から節度使を授けられたものの交渉は決裂し、ついに契丹にたいして挙兵したのである。
⇒古松と邦語ウィキペディア執筆者とで、阿骨打の対金蹶起の背景説明が全然異なっていますが、困ったことです。(太田)
阿骨打は・・・騎兵軍団2000騎あまりを率い、・・・契丹<に進撃し、>・・・討伐軍<も>・・・撃退する。
そして1115年、・・・皇帝に即位し、国号を「大金」・・・と定め、内外に契丹からの独立を宣言する。・・・
<そして、更に、>契丹皇帝の天祚帝<(注45)>(てんそてい)・・・みずから<が>・・・率いる・・・数十万もの大軍をおおいに打ち破った。・・・
(注45)1075~1128年。皇帝:1101~1125年。「暗愚な性格で政務を顧みず、諫言した臣下に対しては処罰を以って臨むなど、民心の離反を招いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A5%9A%E5%B8%9D
遼東平定を受けて、契丹は再度大規模な遠征軍を派遣したが、金軍はこれ<も>・・・退け、遼西(遼寧省西部)一帯まで支配下に入れる。」(152~154)
⇒皇帝としての資質においても問題があったとはいえ、それも、その背景には皇帝決定における、騎馬遊牧民的な「民主制」から漢人文明的な「前帝指名制」への「堕落」ということもあるところ、何よりも強調すべきは、騎馬遊牧民が、漢文明化するどころか、遼のように漢文明に恒常的に触れるようになっただけでも、すぐに弱兵化してしまう、ということです。(太田)
(続く)