太田述正コラム#15192(2025.9.15)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その21)>(2025.12.10公開)
「1206年に南宋が盟約を破棄し、北に向かって大規模な進軍を開始する。
南宋の年号をとって「開禧(かいき)用兵」<(注52)>と呼ばれる。・・・
(注52)「開禧北伐とも。・・・趙汝愚とともに寧宗擁立に尽力した外戚出身の武官の韓侂冑は、趙汝愚を罪に陥れて追放し、続いて趙汝愚派とされた朱熹を中心とする道学を弾圧した(慶元の党禁)。・・・
嘉泰3年(1203年)頃から韓侂冑は慶元の党禁によって傷ついた自らの名誉回復のために、北伐を計画し始めた。
折しも、金が北方においてモンゴルの台頭に動揺しているとの情報が入<ってきた。>・・・
[金は対モンゴル防衛を強化すべく当該地域の軍兵を増強し、且つ侵攻に備えて界壕を築いたが、その為に莫大な費用を費やした。
・・・世宗の時代頃からしばしば氾濫を起こす様になっていた黄河が、1194年、河南省の陽武において大決壊を起こし、天津付近まで進んで海に入るという流れが途絶え、代わりに梁山濼まで進んで其処で南北に別れて海に進むという事態が起こり、かかる事態に際して広範な農地が冠水し、甚大な被害が発生していた。
それ故、被害を受けた莫大な数の農民の救済や治水などに、やはり、巨額の費用を要し、金朝の財政を圧迫し<てい>た。]
嘉泰4年(1204年)に入ると、5月にかつて金との講和に反対して処刑された将軍岳飛に鄂王の称号が贈られ、11月頃から宋金両軍が国境でたびたび小競り合いを行うようになる。・・・
開禧2年(1206年)4月、それまで宋軍の侵入に対して自重を続けていた金の章宗が南宋を討つべしとする詔勅を発し、5月7日には南宋の寧宗も対金戦争の詔勅を公式に発した。
韓侂冑は靖康の変以来の反金感情、そして儒学者の間で根強かった大義名分論からすれば、北伐は当然内外の支持を受けると考えており、先の慶元の党禁で追放された人々の一部(葉適・薛叔似ら)を復職させるなどの工作も行った。ところが、南宋の世論は反金論が強い一方で、それはあくまでも防衛力の強化などの「主守」の立場を支持していた。実際に南宋側からの北伐を支持したのは陸游や辛棄疾などわずかで、多くの文武官が北伐への関与に消極的な立場を採った結果、最前線には少数の北伐支持の文官を配置するなどの苦境に立たされた。また、本格的開戦以前の小競り合いの段階では宋軍優位に進んでいたものの、金側も一旦宋との戦いを決意すると、積極的な攻勢に転じて各地で宋軍を打ち破った。そして最大の痛手は、金領から見て側面に当たる四川を守り、韓侂冑がもっとも戦力として期待していた呉曦が、金と通じて叛乱を起こしたことであった。
こうした状況で、開戦から半年後の開禧2年11月には、南宋と金との間で講和交渉が行われた。・・・
南宋の宮廷内でも韓侂冑の首級なくして講和は成立しがたいという意見が占めていった。
そして開禧3年(1207年)11月3日、[寧宗とその皇后楊氏の承認を得<た>]礼部侍郎史弥遠らによって韓侂冑が暗殺され、・・・韓侂冑らの首級を引き渡したことによって交渉が進展し、嘉定元年(金:泰和8年/1208年)に講和が成立、同年9月22日に南宋は講和を天下に宣した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E7%A6%A7%E7%94%A8%E5%85%B5
https://ameblo.jp/bluedeloi/entry-11401778306.html ([]内)
韓侂冑(かんたくちゅう。1152~1207年)は、「南宋の外戚<で、>・・・韓侂冑は父の蔭位により<科挙を受けずに>出世し<た。>・・・
もっとも、自身の昇進には消極的で、枢密院武官の長である枢密都承旨の地位に長く留まったが、この職は皇帝近侍の地位として、皇帝の意思決定及び命令伝達に深く関与することができた。そのため、韓侂冑は寧宗に対し自分の息のかかった人物を宰相などの要職に推挙して、彼らに自分の意向に沿った政治を行わせることで、官制上の地位を遙かに上回る実質的な権力を握ったのである。この専横に反対の意見を表明し、官を辞した人物に朱熹がいるが、韓侂冑は士大夫間における朱熹の影響力を抑制するため、朱熹の理学を偽学とし、これを禁止した(慶元の党禁)。・・・
開禧元年(1205年)7月、韓侂冑は宰相より地位の高い平章軍国事に任ぜられ、名実ともに南宋の最高権力者となった。
開禧2年(1206年)、寧宗は金討伐の詔勅を下し、開禧北伐<が始まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BE%82%E5%86%91
<結局、>金・南宋間の第四次和議(泰和和議)・・・が締結され<て終わっ>た。・・・
歳幣は銀・絹ともに10万を増額してそれぞれ30万両・30万匹とし、賠償金として銀300万両を献じ、金・南宋両国皇帝の擬制親族関係は叔(父の弟)・姪関係から伯(父の兄)・姪関係へと改められ、淮水の国境線は従来どおりに維持されることとなった。・・・」(177~178)
⇒弱兵化していた金軍がより弱兵化していた南宋軍に勝利したというわけですが、この敗戦の責任をとらせて、最上位の部下の首を文字通り切った寧宗が、自身は一切責任をとらなかったときては、もはや、南宋は国の体を為していなかった言っても過言ではないでしょうね。
なお、韓侂冑が朱熹の理学・・朱子学・・を偽学とした点は間違ってはいません。
但し、偽学であれ、朱子学は、日本においてのみですが、建設的な役割を果たすことになります。
(具体的には、次の東京オフ会「講演」原稿で・・。)(太田)
(続く)