太田述正コラム#15194(2025.9.16)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その22)>(2025.12.11公開)
「チンギス=カンによるモンゴル高原の統合<(注53)>は、中央アジア方面に衝撃を与えた。
(注53)「モンゴル高原<の>・・・この時代の有力部族間の抗争は金と西遼<(カラ=キタイ)>という二大大国の代理戦争という側面を有していた。
・・・1195年・・・、金朝は「金朝派」のタタル部族とともにフルン湖一帯で「西遼派」諸部族を撃破したが、この時金軍を率いていた夾谷清臣は勝手に戦利品分配を行ったタタル部族長のセチュ(斜出)を厳しく叱責し、これに不満を抱いたタタル部は金朝との友好関係を断ち、金朝への侵掠を始めた。そのため、金朝はこの叛乱への対処と新たな協力者の確保を行わなければならなくなった。
このような状況に目をつけたのがモンゴル部キヤト氏の長のテムジン(チンギス・カン)であり、チンギス・カンはこの時点ではモンゴル部全体の統一さえ果たせない弱小勢力ではあったが、窮地にある金朝派につくことで自らの地位を高く売りつけ、金朝との協力関係の構築に成功した。また、モンゴル部の西方のケレイト部君主トオリルは内乱によって一時国を追われた際、西遼を頼ったが助けを得られず、最終的にチンギス・カンの助けを得てケレイト部君主に返り咲くことができていた。このような経緯から西遼に反感を抱いていたトオリルもまたチンギス・カンとともに金朝派に乗り換えることを決意した。
このように、西遼派から新たに金朝派に乗り換えたばかりのモンゴル-ケレイト同盟が・・・1196年に・・・金朝への忠勤をアピールする絶好の機会こそが・・・タタル部<と>の間で<の>・・・勝利に終わった・・・ウルジャ河の戦いであったと言える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E6%B2%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
「この功績によりテムジンには金から「百人長」(ジャウト・クリ・・・)の称号が与えられ、・・・同時にトオリルには「王」(オン)の称号が与えられ、オン・カンと称するようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。・・・
しかし・・・1202・・・年、オン・カンの長男のイルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングン<ら>の讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。
1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、・・・東方の諸部族<が>・・・テムジンの宿敵ジャムカを盟主<とした>・・・反ケレイト・キヤト同盟・・・<も打倒した>。やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3
1209年から11年にかけて、カラ=キタイの統制下にあった東トルキスタンの西ウイグル<(天山ウイグル王国)(前出)>やカルルク<(注54)>が、いずれもカラ=キタイの代官を殺害して、チンギスのもとへ降ってくる。・・・」(184)
(注54)「初めは西突厥の構成種族として現れ、・・・7世紀から12世紀にわたってジュンガル盆地やイリ地方に存在したテュルク系遊牧民。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%82%AF
⇒「注53」に出てくるウルジャ河の戦いに関する「ベン・ハールガ(Serven khaalga)碑文<の>・・・本格的な研究が始まったのは1991年の加藤晋平・白石典之らの現地調査以後のことであった。これ以後、日本人研究者による碑文研究が行われ、一部判読不能な箇所を除いて大部分の文章が解読され・・・白石典之はこの文章に見られる地名の所在地の大部分を明らかにし、そこから想定される金軍の進軍ルートを考察している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E6%B2%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
というのは、心強い限りです。
なお、チンギス・カンは、それこそ、ぶつ切り出たとこ勝負的な生涯を送った、というのが私の見方であるわけです。(コラム#省略)(太田)
(続く)