太田述正コラム#15196(2025.9.17)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その23)>(2025.12.12公開)
「チンギス=カンは、1211年に金への遠征に向かう。<(注55)>・・・
(注55)「1208年、「風流天子」にして恐怖の専制君主であった章宗が41歳の若さで急逝した。猜疑心の強い章宗が心を許したのが叔父にあたる果繩(ガジェン)であった。章宗は、金帝国をまとめるカリスマ性を有していたが、章宗がガジェンを好んだのは、その暗愚さゆえともいわれている。結局、ガジェンが7代衛紹王として即位すると、チンギス・カンは彼に対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
「モンゴル帝国はまず内蒙古にいた契丹系の遊牧軍団を服属させ、金朝の力を大いに削った。攻城戦では西夏遠征の時と同じく主要な都市の攻略には失敗したものの野戦では勝利を重ね、また略奪することを主な目的としたためモンゴル軍は迅速な行動に徹することができ、金朝を相手に・・・勝利を重ねた。
1212年に金朝に対して反乱を起こした契丹人の耶律留哥<(やりつりゅうか)>[・・金朝に属した遼の宗室であり、・・・<後に>東遼政権を樹立した・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B6%E5%BE%8B%E7%95%99%E5%93%A5 ]への援軍として〈千人隊長(ミンガン)の一人<である>・・・ジェベ(注56)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%99 〉が派遣され・・・1213年1月に〔金<の>・・・副都
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E9%99%BD%E5%B8%82 〕遼陽を制圧した。
(注56)「チンギス<の>・・・「四狗」の一人<。>・・・参加した戦争<:>西夏遠征<、>第一次対金戦争<、>モンゴルの西遼征服<、>チンギス・カンの西征<、>モンゴルのホラズム・シャー朝征服<、>モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻<。>参加した戦闘<:>カルカ河畔の戦い」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%99 前掲
また、1213年には将軍の胡沙虎によってクーデターがおこり、衛紹王が殺され胡沙虎自身も殺されたことで金朝は混乱を極め、しだいに金朝の首都の中都(大興府)は孤立していった。そこで中都を包囲したモンゴル軍は金朝に「城下の盟」を求め、金朝もそれに応じたことで、いったんモンゴル軍は内蒙古に退いた。
しかし、モンゴルを避けるため宣宗が南の開封に逃れようとした際に契丹系などの諸族の混成軍が反乱を起こし、モンゴルに援軍を求めたため、モンゴル軍は再び南下して中都を落とし、・・・1215年<に>・・・モンゴルと金朝の戦闘は終了した。
この戦争の結果、金朝は黄河より北のほとんどの領地を捨て、一地方政権に転落した。・・・
<この>一連の戦闘において、誕生したばかりのモンゴル軍は攻城戦をはじめとして様々な経験をつけ、後の征服戦争に役立てられることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E5%AF%BE%E9%87%91%E6%88%A6%E4%BA%89
チンギス=カンの死から2年、カン位は空位となっていたが、1229年のクリルタイで、第三子オゴデイ<(注57)>(太宗、在位1229~41)が即位する。・・・」(185)
(注57)「父帝・チンギス・カンに従ってモンゴル統一や金遠征、大西征に従った。特に大西征においてはホラズム・シャー朝の討伐で戦功を挙げ、その功績によりナイマン部の所領を与えられた(オゴデイ・ウルス)。オゴデイにはジョチとチャガタイという2人の有能な兄がいたが、ジョチは出生疑惑をめぐるチャガダイとの不和から、チャガタイは気性が激しすぎるところからチンギス・カンから後継者として不適格と見なされていた。オゴデイは温厚で、一族の和をよくまとめる人物であったため、父から後継者として指名された。
1227年の父帝・チンギス・カンの崩御後、モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟でチンギス・カンの末子に当たるトルイを後継者に求める声があった。これは、慣習だけではなくトルイ自身が智勇兼備の名将であったうえ、周囲からの人望も厚かったこと、父時代に立てた多数の武勲などが要因であるが、トルイはこれを固辞してあくまで父の指名に従うと表明し、1229年9月13日のクリルタイでオゴデイはチャガタイやトルイの協力のもと、第2代モンゴル皇帝に即位することとなった。この時から「カアン」の称号が用いられることになったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B4%E3%83%87%E3%82%A4
「チンギス・カンが勢力を拡大するとやがて様々な部族から迎えられた数十人の女性が后妃とされてゆくが、ボルテ<(1161?~1230年?)>は正妻、第一后妃としての地位を保って尊重された。チンギス・カンの後継者候補として認められたのはボルテの生んだ4人の男子のみであったことからも、ボルテが他の后妃とは別格の扱いであったことがうかがえる。チンギス・カンが高原を統一してモンゴル帝国を興すと、チンギス・カン直営の宮殿である四大オルドのうちの第一オルド(別名大オルド)の管理権を委ねられ、大オルドに付随する領民を治めてチンギス・カンの盛んな遠征の留守を守った。彼女はチンギス・カンの本営である大オルド Yeke Ordo の首長として『元史』によれば自らを含め7人の皇后(ハトゥン)と1人の妃(エメ)を司った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%86
⇒クリルタイ(Kurultai)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4
https://en.wikipedia.org/wiki/Kurultai
の騎馬遊牧民における一般的起源についてはともかくとして、モンゴルにいおける(チンギス=カンより前の)起源を追究したものをネット上ですぐには発見できなかったのは残念です。(太田)
(続く)